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2021年12月27日

映画「JOKER」

 今年のハロウィンの日、そしてコロナ禍において対応を失敗し続けた自公維が、にもかかわらず大勝した閉塞感漂う衆院選の同日、「京王線無差別刺傷事件」が起こった。
 誘発されるように似た傾向を持つ無差別殺傷事件、あるいは「拡大自殺」と思しき事件が頻発するようになり、この年末に至っている。
 発端となった京王線の事件では容疑者の服装が映画「ジョーカー」のものに似ているとされ、また警察の取り調べに対し、「容疑者がジョーカーへのあこがれを口にしている」との報道があった。
 こうした事態を受け、問題になった作品の地上波テレビ放送が完全にお蔵入りになったという。

 動画配信が既に一般化し、円盤ソフトも溢れかえっている今現在、「地上波で放送しない」ということにどれほどの意味があるか疑問であるし、そもそも件の容疑者が「どのジョーカー」をモデルにしたのか定かではない。
 ジョーカーというキャラクターはアメコミヒーロー「バットマン」の最も有名な悪役であり、登場する作品は数限りない。
 報道で容疑者の服装を見る限り、問題とされた映画「ジョーカー」のものとは異なっているし、最重要な表象である「ピエロのメイク、あるいは仮面」を身に付けていない。
 コスプレから犯行の手口から全部「雑」で、どれか特定のジョーカーの熱烈なファンとも考え難い。
 せいぜいファスト動画ザッピングくらいではないかという印象を持った。

 問題になった映画「ジョーカー」とはいかなる作品か?
 私は二年前の公開当時、映画館に足を運んで鑑賞している。
 以下に映画鑑賞後の呟きを加筆編集して採録してみよう。


●ジョーカー(トッド・フィリップス監督、ホアキン・フェニックス主演)

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 映画「ジョーカー」を観た。
 信頼する目利きの皆さんが「ダークナイト超えたかも!」と評しているのを目にして「マジで?!」と半信半疑だったが、マジだった。
 ビンボー人の私が、映画館で観てパンフまで買うのは、大事件である。

映画「ダークナイト三部作」については、「大人になってからもっともハマった映画」としてレビューしたことがある)

 ダークナイトは「徹底的にリアルにこだわったバットマン」だったが、「ジョーカー」はバットマンの存在以前に時間を戻すことで「リアル」をもう一段徹底させた印象。
 バットマンにリアリティを持たせる場合のネックの一つがウェイン家という「善良な富豪」の存在で、今回の「ジョーカー」はその虚飾を剥ぎとっている。
 ただ、単純に「金持ち=悪」にもなっておらず、あくまで「凡庸な俗物」という描写である。
 バットマンの主人公であるブルース・ウェインの父トーマスは、これまでのバットマンでは「高潔な富豪」として描かれてきた。
 本作「ジョーカー」では俗物扱いであったけれども、その二つは実は矛盾しない。
 幼い頃、父母と死別した孤独なブルースにとって、とりわけ父親は「神格化」されやすかっただろう。
 ウェイン親子というのはかなり「マンガ的」なキャラで、しかも物語の根幹部分の設定なので動かしがたく、バットマンという世界観の中で「リアル」をやろうとするときの、最後のハードルとなる部分。
 それを今回の「ジョーカー」は、「見る者の数だけ真実はある」という視点で乗り越えたのだと思う。
 あくまで「マンガ発祥」という但し書き無しで鑑賞できるリアルのグレードに導いた脚本こそが、最大の功績ではないだろうか。

 今回の「ジョーカー」であるアーサーの出自については、パンフレットに「母親の妄想」という解釈が公式見解であるかの如く記述されているが、作中では「真相は藪の中」と、含みを持たせて描いてある。
 薬物の影響で主人公の事実認識が揺らいだ描写の入った時点で映画の解釈は迷宮化し、ラストもそれを強く印象付けている。
 パンフの解説をそのまま受け入れる必要は全くない。
 薬物の影響でアーサーの現実認識が揺らぎ、妄想との境が崩れた様は、「ダークナイト」でのジョーカーがその場限りの出まかせをもっともらしくしゃべり続けたこととつながる気もする。

 並外れた「大富豪」を生む社会構造は、必ず過酷な「搾取」と膨大な数の「棄民」の存在を前提としている。
 両者はどちらも単独では存在しえない。
 血縁上の親子関係がどうあれ、困窮する主人公アーサーと、そのネガである犯罪者ジョーカーは、ウェイン家の「落とし子」であり、バットマンであるブルースの「魂の兄弟」であることは間違いないのだ。
 貴種流離譚は時代や地域を超えて愛好されるが、映画「ジョーカー」はその暗黒面か?

 ダークナイトのジョーカーを「邪悪のカリスマ」とするなら、今回のジョーカーは悲しいくらいに「邪悪」ではない。
 結果的に「カリスマ的な位地」に祭り上げられるが、「アイドル/偶像」と言った方が良い。
 主人公の連続殺人者に「邪悪」が欠落し、むしろ祭り上げる周囲に邪悪が生じる様は、マンガ「ザ・ワールド・イズ・マイン」を思い出させる。
 今回の作品は「ジョーカー」というキャラクターの誕生を描く「エピソード0」の体裁であるが、ダークナイトのジョーカーと同一人物には見えない。
 しかし今回のあの「弱く哀しきジョーカー」が、あと何度か、更なる絶望=悪のイニシエーションを経たなら、あるいはと思わせる内容だった。

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 元弱視児童たる私は、昨今の日本における「社会的弱者がさらに弱者を殺傷する」タイプの事件を、この上なく嫌悪する。
 であるからこそ、そうした「棄民の犯罪」が発生する構造に切り込んだ作品は、コロナ禍における日本国政府の棄民が現在進行形である中、きちんと鑑賞して評価していかなければならないと思っている。
posted by 九郎 at 09:43| Comment(0) | | 更新情報をチェックする
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