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2021年12月29日

白土三平「カムイ伝」

 本年後半、劇画の巨匠の訃報が相次いだ。
 10月には白土三平と作画担当の実弟の岡本鉄二、12月には平田弘史が逝去。

 いずれも私の思い入れ深い劇画の巨匠。
 平田弘史については以下の記事を参照していただくとして、

 平田弘史「薩摩義士伝」

 今回は白土三平「カムイ伝」について、過去記事の内容も振り返りながら集成してみたい。
 日本のマンガ、アニメの世界で、リアルな「強さ」「バトル」を前面に押し出し、60年代を牽引した異能の一人が、忍者ブームを巻き起こした白土三平だった。

 白土三平は1932年、東京で画家の父の家に生まれた。
 十代で手塚漫画を知り、成人前には紙芝居の制作を開始している。
 1957年頃から貸本漫画を描き始め、59〜62年には当時としては異例の長編にして初期の代表作「忍者武芸帳」を執筆。
 並行して「サスケ」「シートン動物記」等を執筆し、64年には「ガロ」の創刊と共に代表作「カムイ伝」連載開始。
 他作品のTVアニメ化(68年「サスケ」、69年「忍風カムイ外伝」等)の進行とともに、「カムイ外伝」「ワタリ」と並行して71年の第一部完結までを描き切った。

 児童を含めた男性読者の「強さ」への憧れは、古くから剣豪物語や講談等で消費されてきた。
 白土三平作品の一連の忍者マンガの特徴は、時に残虐ですらある激しい戦闘描写、当時としてはリアルな絵柄、そして「理屈付け」にあった。
 登場する忍者や武芸者は超人的な技や強さを発揮するけれども、そこには必ず(実際に可能であるかどうかはともかく)合理的な解説があり、読者に「現実にあり得る」と納得させるリアリズムがあった。
 強さの描写にリアリズムを追及する以上、あまり空想的なモンスターは登場させられない。
 しょせん個人の「強さ」などたかが知れているという結論に向かわざるを得ず、「本当の強さ」を追求する過程で必然的に「社会と個人」の問題にまで、作品テーマは深化していった。
 その集大成になったのが、70年前後に描かれた「カムイ伝第一部」ということになるだろう。


●「カムイ伝 第一部」
 私にとっては、他のどれよりも本作の印象が強い。
 孤高の抜け忍・カムイの物語としては、アニメ化された「カムイ外伝」の方が、一般の認知度は高いかもしれない。
(実はアニメ「忍風カムイ外伝」の後番組が「サザエさん」だったりする)
 並行して往年の「ガロ」で描かれた本編「カムイ伝 第一部」は、抜け忍・カムイに加えて武士の草加竜之進、農民の正助という三人の主人公が存在した。
 とくに中盤からは正助の比重が増し、ストーリーの本流は壮大な百姓一揆に収斂されていった。
 脇へと一歩引いたカムイの活躍をシンプルに描く場が、スピンアウトして「外伝」になったということだろう。
 子供の頃、既にアニメ化されていたこともあり、この「外伝」の方は私もかなり早い時期から読んでいた覚えがある。
 本編「カムイ伝」に手が伸びたのは思春期に入ってからで、マンガ版「デビルマン」とともに、当時最もハマって読み耽った作品だった。

 主人公を始め、登場するキャラクターたちは、物語の進行と共に多くのものを失っていく。
 失うのは身体の部位であったり、顔であったり、身分であったり、愛する人であったりするのだが、それでも生き残った者はより強く成長していく。
 欠損することでオリジナルを得、失うことで心定まるキャラクター達の生命力に、思春期の私は深く感情移入していた。
 作中の「抜け忍」の孤独や強さに憧れ、感化されたことで、私は中高生の頃の酷い虐待指導をサバイバルできたのだった。

 中二病真っ盛りの読み方にとどまらず、「カムイ伝」は武術や民俗学に関する知識をを一巡した後読むと、更に面白い。
 登場する剣術「無人流」は、作中最強ながら「手段を選ばない魔剣」扱いだったが、描写を見ると「武器術も包含した柔術」と言う感じで、今読むとむしろド真ん中の武術だ。
 極端な遠間か密着でしか戦わず、剣の間合いで戦う他流の技をまとめて無効化するという理屈はかつてのグレイシー柔術の他流試合と同じ構造で、大人になってから読み返すと一々腑におちる。
 農民の生活描写にとどまらない、山民や海民、芸能者等の民俗学的な描写についても、ある程度知識を得てから読み返すとあらためて唸らせられるのである。


 私が思春期に「第一部」を読み耽ってから数年後のタイミングで、「第二部」の連載がビッグコミックで始まった。
 その後90年代を通じて断続的に執筆され、現在は一応「完結」したセットが刊行されている。



 90年代当時の私はこの「第二部」の内容が、正直あまりピンと来なかった。
 壮大なカタルシスのあった「第一部」の印象に引きずられ、いつまでもプロローグが終らずにページだけが重ねられていくような不満を感じていた。
 もちろん、今は全く違った感想を持っている。
 青年から大人に成長した主人公たちは、熱狂や祝祭のカタルシスではなく、淡々と続く日常の中でそれぞれの足場を固めながら、なお「志」を持続させるステージに至っていたのだ。
 年齢を重ねた「かつての青年」が読むべきは、むしろこの「第二部」であろうと、今現在は感じている。


 そして長らくの沈黙の後、2018年4月発売のマンガ雑誌「ビッグコミック」に、白土三平インタビューが掲載された。
 久々の露出、そして久々のカムイのイラストに引きよせられて雑誌を手に取った。
 いまだ描かれぬ「第三部」について、何か情報がないものかと淡い期待をいだいたのだが、主な内容は本人が日々続けているという「狩猟」だった(苦笑)
 インタビューの中で、まだ描かれていない「第三部」についても、最後に質問されていた。
 笑いながら言葉を濁している白土御大だったが、私は「おや?」とかすかな期待を抱いた。
 活きた線で描かれた雀と戯れるカムイのイラストと、第三部についての質問も避けないその姿勢に、「まだ種火が残っているのではないか」と感じたのだ。

 当初の第三部の構想通り「シャクシャインの戦い」を長尺で描くことまでは望まない。
 流れ流れて北の地に至ったカムイが、アイヌの暮らしの中に安息を見出す短編など、叶うことなら読んでみたい……
 そんな空想を楽しんでいたのだが、今となってはそれもかなわなくなった。

 
 閉塞感漂うコロナ禍の世相の中、「一揆」や「抜け忍」について、再び考えることが多くなった今日この頃である。
posted by 九郎 at 23:18| Comment(0) | | 更新情報をチェックする
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