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2021年12月30日

物語の終わり、終わらない物語

 本年は90年代以来の日本のサブカルチャーをてきた牽引してきた二大作品が、一応の「終結」を見たことでも記憶に残る。
 アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」と、マンガ「ベルセルク」である。
 両作品ともに、70年代のカルトバイブル的なマンガ「デビルマン」へのリアクションとも言える作品だった。
 マンガ「デビルマン」と70年代の永井豪作品については以下の記事を参照。

 70年代サブカルカイザー・永井豪

【劇場版アニメ「シン・エヴァンゲリオン」】
 アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」は95年のTV放映以来、マンガ版や劇場版、劇場版リメイクを重ね、2021年4月ついに「完全なる完結編」が公開された。
 最初のTV放映当時、私は阪神淡路大震災に被災したり、あと色々あってそれどころではなく(笑)、評判を知ってはいたが、ちゃんと鑑賞はしていなかった。
 その頃の私の「二十代半ば」という年齢が、ぴったりハマるには年を取り過ぎ、一周回ってハマるには若すぎるという、微妙な年代だったせいもあろう。
 一応横目に見てはいるけど、作品そのものよりヒットしている社会現象であるとか、「庵野秀明、心の旅路」を見守る関心だった。
(付記すると現在の「鬼滅」も似た感じで、引用元を知りすぎていて本当にはハマれないけど、観察して楽しんでいる)

 きちんと「作品」として向き合えたのはごく最近で、今年の完結編公開に先立ち、無料配信されていた過去三作を視聴したあたりからだった。
 たいへん面白く、そして色々思うところあり。
 十代の少年少女が登場するリアルロボ作品は、やっぱり彼彼女らの日常描写の尺が不可欠なのだが、劇場版になるとそれが不足しがちで、最初のTVシリーズのバックグラウンドがあってこその劇場版なのだなというのが、まず一つ。
 公開当時色々論争された問題の「Q」は、「そらそうよ、こうなりますわな」と思ってしまった。
 どんな形であれ一回燃え尽きた作品を、長い期間を経て「もう一回」と要請されれば、作り手の心象は否応なく作品に映り込む。
 無理矢理作品に引き戻された主人公の困惑と、もうストレートな続編を作ると嘘っぽくなってしまう作り手の心象が噛み合って、あのような世界観の変更になったのだろう。
 最初のTVシリーズの流れを汲む完結編は、今となってはマンガ版で十分なのではないかと思った。
 最初のTVシリーズの時点からその傾向はありましたが、ストーリーと言うより受け手が色々妄想を膨らませるための世界観を提供する作品で、「Q」はそこに特化しているようにも見えた。

 そして4月、コロナ感染の合間を縫って、完結編である「シン・エヴァンゲリオン」を観た。
 公開時の社会状況も含め、「2021年」に刻まれる作品として、観ておくべきだと思った。
 そもそも「新劇場版」シリーズは、「ストーリーの続き」というより「世界の上書き」という構造を持っているので、これまでのエヴァ未見の人も、たぶん単体でも普通に観られるのではないだろうか。
 実体も心象も含めた「風景」描写が素晴らしい。
 キャリアも実績もある監督が、ここにきて心の恥部をさらけ出すような絵作りをしてきたからこそ、刺さるのだと思う。
 そして、さらけ出すだけでなくきっちり消化・昇華しているのがなお良い。
 そこにたっぷり尺を割き、感情表現をどっぷり込めながら、なおメカもアクションも堪能できる。
 最初のTVシリーズから三十年近く引っ張ったキャラクター間の感情にも、次々に決着が付けられていく。
 本当に良かったのは、最後の戦いに赴く前の、アスカの「好きだったんだと思う」という告白だ。
 その一言が言えなかったり聴けなかったりで何十年も引きずっているかつての少年少女の背負った荷物を、少しだけおろしてくれたのではないだろうか。
 アスカはシンジ不在の間戦い続け、眠るシンジを守り続け、完結編の時点では半ば以上「人間」の範疇から外れてしまっている。
 あの一言は、薄れていく人間としての感情の中でも、後生大事に抱きしめていた最後の一欠片だったのではないだろうか。
 そして物語の核心、ゲンドウとシンジの父子の感情の決着。
 ゲンドウのサングラスが飛んで異形化した目が現れた瞬間、なんとなく「勝負あったな」と感じた。
 ついにサングラスをはずしてシンジと目を合わせることはなく、逃げ切ってしまったのだなと。
 人間を捨てることで父親として息子と直接対決することを避けたからには、それで大きな力を得たとしても息子に勝てるわけがなく、逆に救済されてしまうしかないのだなと。
 映画館で鑑賞しながら、「Q」で開けた感情移入の端緒がどんどん拡大し、完結編の「シン」ではじめてシンクロできたのを感じながら、2時間35分の鑑賞を終えたのだった。

 絵描きとして語るなら、やはりとにかく自分の記憶の底に沁みついた「風景」を描くべきなのだなと思った。
 年月をかけて身に付けた技量の全部を傾け、極私的な風景を描くことができれば、それで自ずと普遍に到達できるのだという思いを新たにした。


【マンガ「ベルセルク」】
 完全決着した「エヴァ」とは違う形の終幕を見たのが、マンガ「ベルセルク」で、作者・三浦建太郎の急逝による絶筆という幕切れだった。
 デビュー当時から注目していた、まだそんな年齢でもないマンガ家の死はショックだったし、「ベルセルク」のストーリー上の未完はたいへん残念だけれども、ガッツとキャスカの心の平安は、大方描ききれていたのではないかと感じた。
 壮大な暗黒神話体系を三十年以上背負い、ここまで描ききったことに、惜しみない賛辞をおくりたい。

 この年末には作者による筆の入ったエピソードが収録された「最終巻」が刊行された。



 私は年齢的にも「作品が形としてきっちり完結する」ことに対する拘りは、もうない。
 これまでにも多くの長編の作者が完結前に亡くなってきたし、こちらが作品の完結前に亡くなるかもしれない可能性も見えてきた。
 だから長期間執筆された作品については、ストーリー上は道半ばであっても、作中で主要キャラクター達の「鎮魂」が成っていれば「納得」できる術が身についてきた。
 私にとっての「ベルセルク」は、既にその領域だったのだ。

 当初のベルセルクは「復讐物語」で、その怨念の源泉であるキャスカの地獄が描かれたのが、前半のクライマックス。
 そこから物語は質的に変化して、壊れたキャスカの魂の救済が大きなテーマになったと読んでいた。
 一度壊れたものは二度と「元通り」にはならない。
 ガッツは長い戦いと旅の果てに、その苦い真実を受け入れ、キャスカの魂は曲がりなりにも帰還していた。
 ここまで描かれただけで、私にとっては素晴らしい物語体験だったと思うのだ。
 作者の胸先三寸で「昔のままのキャスカ」の帰還を描くことも不可能ではなかったはずだがが、ぎりぎりまで掘り下げ、リアルに息づいたキャラクターたちの感情が、そうした「作りごと」「嘘っぽさ」を許さなかったのだろう。
 だからこそ、絶筆になったベルセルクの終盤は、あんなにも苦く、美しいのだ。
 ガッツとキャスカ以外の主要なキャラクターについても、それぞれに「バランスされた状態」にはなっていたのではないかと思う。
 それはむしろ、ここから先を描くのが難しそうに感じるくらいで、作者の急逝に驚きつつも、私はどこか「納得」を感じてしまっていた。


 物語の終わり、終わらない物語、人生の終幕について、あれこれもの想う2021年だった。
posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | | 更新情報をチェックする
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