託賀の郡。右託賀と名づくる所以は昔大人在りて常に勾り行きき。南海より北海に到り東より巡り行きし時、この土に到り来て云ひしく「他し土は卑かければ常に勾り伏して行きしに、この土は高ければ申びて行く。高き哉」といひき。故れ託賀の郡と曰ふ。その踰みし迹の処数々沼と成れり。
意訳してみると以下のようになる。(大きくは間違っていないはず)
むかし並外れて大きな人がいて、常にかがんで進んでいた。
南海から北海にいたり、東から巡って来た時に、この土地に着いて言った。
「他の土地は低いのでかがまり伏して来たが、この土地は高いのでのびて行ける。高いなあ」
だから多可郡と言われる。
ふみあとはたくさんの沼に成った。
足跡が沼に成るくらいだから「大人(おおひと)」はそうとうな「巨人」なのだろう。
海を渡って南から北へ、そして東から播磨に来て、現在の多可町に至ったということは、神戸大阪方面から印南野を通り、加古川を遡上して小野、西脇を通過したルートだろうか?
多可郡の「高ければ」に対して、それまで通ってきた土地は「卑(みじ)かければ」と表現されている所に、単に「低い」という以外のニュアンスがありそうだ。
太古の昔のことであれば、海岸線は今よりずっと北にあり、加古川流域はまだ固まりきらない湿地帯だったかもしれない。
このあっさり短い記述を「播磨国の修理固成神話」と読む人もおり、そうなると「大人」のイメージもかなり雄大なものになる。
くらげなすただよえる湿地帯を神話的な巨人が歩き回る。
あちこちに穿たれた巨大な足跡には水分が流れ込み、その周囲は乾いて固まる。
巨人の旅によってつくり固め成されたエリアが、広大な播州平野となる……
三十年ぐらい前、はじめてこの箇所を読んだ時、低い土地でかがみ、高い土地で背筋が伸びるのは「逆じゃね?」と思った。
空の高さが同じなら、高い土地の方が窮屈になりそうに思ったのだ。
巨人なりの感性なのかなとか、独特のノリの「巨人ギャグ?」などと妄想したりした。
合理的な解釈では、「湿地帯で転ばないよう腰をひいておそるおそる進んでいく様子」とされている。
上流に至って土地がしっかりすると、足元の心配なく気持ちよく堂々と歩けるようになったということだ。
登山などをしている時に思ったこともある。
普段平地で暮らしていると、空の高さを感じにくい。
しかし高低差があり、見晴らしがよいところを移動していると、平地と空の間に、どこまでも空間が広がっているのを体感できる。
我らが「大人」は、山間部に入ってそれと同じように感じたのではないか?
播州平野はだだっ広い平地が広がるばかりで、せいぜいなだらかな丘陵や、さほど深い森にはならない低い岩山がぼこぼこと点在する程度。
今ではそれなりに市街化の進んだ地域もあるが、昔から田んぼが多く、そのわりに雨が少ないので溜池や用水路が数多い。
風土記のあっけらかんとした「巨人伝説」は、そんな風景に相応しく、地元の人間には自然に受け入れやすいのである。
ずっと前から知っていた逸話だが、最近ふと気になって読み返し、スケッチも描いてみた。
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