昨年からぼちぼち幼時に見た父方原風景をスケッチしてきたのだが、関連資料を開くうちに、戦後から私が生まれる70年代までの姫路に俄然興味が出てきた。
絵図やスケッチを試作しつつ、前史としてまとめておきたい。
●昭和初期 軍都姫路絵図(クリックすると画像が拡大)
1868年の明治維新後の姫路城は、天守を含む内曲輪は残されたものの、中曲輪の武家屋敷跡地は陸軍の駐留する軍用地化が進み、南と東に展開する外曲輪の市街地とともに姫路の中心として発展することになった。
1871年、生野鉱山と飾磨港をつなぐ「銀の馬車道」が開通。
北から南へ市街の輪郭をなぞった後、飾磨街道につながって物流を担い、馬車の往来は戦後しばらくまで残っていたという。
1900年代までには山陽鉄道の姫路駅が開設、播但線は飾磨港まで延伸し、後に山陽電鉄も南から乗り入れた。(姫路駅は江戸期の姫路城南正面「飾磨門」、播但線京口駅は東正面「京口門」に近接する)
市街を東西に横切る西国街道筋には金融、娯楽が多く軒を連ねたが、鉄道が開設されたことにより姫路駅と城を南北につなぐ行幸通(みゆきどおり)に繁華街の中心軸は移った。
外曲輪の市街には江戸期からの寺町もまだ各所に残っており、公官庁や多くの学校が集まった。
城の北西には姫路高等学校が出来、エリート候補のバンカラ高校生たちが市中を闊歩した。
外曲輪周辺は宅地化や工業用地化が進んだが、穀倉地帯播磨のこと、市街中心部以外は広大な田園が広がっていた。
富国強兵、殖産興業、そして教育に対する熱、立身出世の夢。
維新後の近代日本の縮図のような、「軍都姫路」の風景だった。
2023年08月01日
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