終戦の1945年、軍都姫路は二度にわたって激しい空襲を受けた。
一回目は6月22日午前、城東の京口駅あたりを中心に爆撃機50機以上、二回目の7月3日夜間の空襲では、100機を超える爆撃機が2時間にわたって市街全体とその周辺を焼き払った。
姫路城天守は奇跡的に無傷だったが、これは投下された焼夷弾がたまたま不発だったたこと、当時のレーダーの性能では堀に囲まれた天守が「湿地帯」と認識されたらしいためで、「貴重な文化財なので標的にされなかった」ということではなさそうだ
焦熱地獄から一夜明け、立ち尽くす市民の中には、変わらぬ姿の城に勇気づけられる者も多かったという。
二度の空襲の影響で、姫路市街中心部には戦前からの建物はほとんど残っていない。
往時の町屋の風景を求めるなら、姫路駅から南の海側に続く飾磨街道沿いの方が、まだ残っているだろう。
そして空襲から一カ月後には敗戦。
一面焼け野原と化した姫路市街には、生き残った住民や引き上げ者が集まり、バラック小屋を建て、生きるために闇市が開かれた。
戦後の混沌の中で、違法な闇市をアウトローが仕切るのは、庶民が生きるために当然のことだ。
国家と法が国民の生命財産を守る機能、正当性を失った状態では、それは「必要悪」ですらなく、単に「必要」でしかない。
バラックと闇市は復興の過程でいずれ解消されなければならないが、それは強権による排除ではなく、代わりの住まいや収入を保障した上でなければ、スムーズに進むものではない。
敗戦の翌年、戦後初の官選市長としてその任に当たったのが、岩見元秀(いわみ もとひで)だった。
石見は1900年、飾磨郡余部村生まれ。
姫路市街近郊ではあるが、中心からは距離がある。
旧制中学卒業後、代用教員を務めたり、土木工事現場で働いたりした後、26歳で東京に建設業の会社を立ち上げ、ダムや鉄道工事を手掛けたという。
当時としてはそこそこ恵まれた成育歴にも見えるが、「毛並みの良いエリート」とまでは言えない。
何度か満洲での事業に挑戦しているが、既に敗色濃厚な終戦の二年前まで現地で苦闘しているところを見ると、正確な戦況を知りうるような立場には無かったのだろう。
或いは「無理を承知でリスクをとらなければのし上がれない」という思いがあったのかもしれない。
1943年には戦況の逼迫から引き揚げ、以後郷里で会社経営に従事していたという。
明治に生まれて少年期を過ごした播州人が、大正期に土建業で身を立てることを目指し、昭和に入ってからは大陸に夢をかけ、挫折していったん故郷へ……
そんな人物像が浮かんでくる。
行政経験皆無の地元土建屋がなぜ官選市長になれたのかと言えば、軍都の主要な人脈が敗戦を契機に排除され、有能であっても大人しい文官には「闇市の始末」は手に余り、軒並み断られたということだろう。
46才というまだぎりぎり「体を張れる」年齢であったことなど、様々な巡り合わせの中で、岩見元秀というアクの強い個性が闇市姫路で浮上したのだ。
2023年08月03日
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