50年代後半の三期目以降は高度経済成長の波ともかみ合い、石見の公共事業路線は続く。
姫路城の「昭和の大修理」、書写山ロープウェイ開通、そして駅南西の手柄山の開発にも着手する。
手柄山には56年の戦災慰霊塔建立から始まり、球場、厚生会館建設後、66年の姫路大博覧会のメイン会場としている。
文化教育スポーツ等の施設を集め、博覧会後も長らく市民のレクリエーションの場として愛されることになる。
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姫路大博覧会は姫路城の昭和の大修理完成を記念して、手柄山をメイン会場に、姫路城大手前公園の城南会場、名古山会場とともに開催され、戦後地方博覧会の嚆矢となった。
地場産業や明るい未来予測の展示が多かったようだが、とくに城南会場は「防衛館」として自衛隊装備の展示が行われている。
手柄山や名古山にも戦没者慰霊施設があることを考えると、軍都時代の人脈への何かしらの配慮があったのかもしれない。
博覧会メイン会場の手柄山と姫路駅をつないだのが、後に問題になるモノレールだ。
本来は開催に合わせて会場の姫路城、名古山霊園も繋ぎたかったはずだが、結局実現したのは駅から手柄山までだけで、それも開会時には間に合わず、途中からの開通になってしまった。
料金が高めの設定だったことも祟って、博覧会終了後は利用客数が低迷、わずか8年で休止されてしまう。
せめて早急に姫路城まで延伸できていれば、また違った展開が見えただろうけれども、60年代に入って高度経済成長のピークを過ぎると、石見の神通力にも陰りが見え始めていた。
延伸案はいくつかあったようだが、石見の構想では市内を広く周回し、さらに山陰までをつなぐ荒唐無稽な夢も描いていたという。
もう少し現実的な案としては、手柄山から南へ延伸して沿海工業地帯と繋ぎ、北へは姫路城から名古山を通って書写山まで通し、ロープウェイと連絡したかったようだ。
石見は戦後の早い時期に海外視察に行き、ディズニーランドにも足を運び、この体験がその後の施策に影響を与えたという。
名古山や手柄山のテーマパーク的な開発や、博覧会開催、モノレール建設で「子供たちに未来を見せたい」という動機自体には、嘘はなかったはずだ。
2023年08月07日
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