私の幼児期は姫路モノレールの営業期間とぎりぎり重なっており、実際に見たのかどうか定かではないが、山陽新幹線の高架を潜りながら軌道を進むモノレールの映像記憶が残っている。
普段播州の田園地帯で生活していた私にとって、たまに父方祖父母宅に行く折に姫路市街の風景を見ることは、「都会」とか「未来」を感じる体験だった。
モノレールの軌道は90年代ごろから順次解体されつつ、今もごく一部残存している。
五期にわたって姫路の戦後と高度経済成長期を牽引した岩見は、姫路大博覧会開催を花道に、放漫財政の責任を問われた67年の六期目を目指す選挙に大差で落選。
誰がやっても難渋したであろう戦後の都市計画をともかく遂行し、とりわけ大手前通りを完成させた功績は称賛されるべきだろう。
反面、あまり緻密とは言えない案を強行し、時に市政の私物化ともとられかねない施策も多かった。
原発の誘致などは、「頓挫して良かった愚策」ということになるだろう。
戦後日本の転機となった70年代に入る前に、批判されるべきを批判され、市長としての役割を終えたのだ。
その後の石見は実業家として活動するが、76年に病死。
墓所は自身が開発した名古山霊園にあり、同じく開発を手掛けた手柄山に銅像がある。
山頂の姫路大博覧会で建設した「御伽の国」を模した建物の奥、銅像は意外に飄然とした佇まいで市街を望んでいる。
折しも高度経済成長のマイナス面である大気汚染、河川や瀬戸内海の水質悪化が問題になり始め、70年代に入ってからは製鉄業が低迷、オイルショックが立て続けに経済を揺るがした。
歴史上ながらく播州陸上交通、東西の中心軸だった西国街道は舗装され、国道2号が上書きされていたが、モータリゼーションの大波であっという間に交通量がオーバー。
バイパス道路その他が次々に整備されて行った。
南北で言えば、飾磨街道/銀の馬車道は戦後しばらく経つと役割を終え、西の産業道路と東の駅前大通に幹線が移った。
鉄道では山陽新幹線が開通したが、一方では播州の小規模ローカル線はバタバタと使命を終えていった。
第二次ベビーブームの始まりとともに、戦後日本が曲がり角を迎えていた時期だったのだ。
私の幼児期の原風景にあたる姫路のイメージは、このあたりからスタートしている。
●70年代姫路(クリックすると画像が拡大)
(以上、「戦後姫路小史」了)
2023年08月09日
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