こうした70年代の現実社会の風景とともに記憶に残っているのが、「心の風景」にあたるものだ。
父方祖父は浄土真宗の僧侶で、代々ではなかったので寺ではなく「説教所」という寺に似た古い家屋で生活していた。
旧街道沿いの正面には、「おみど」と呼ばれる祭壇を備えた広い座敷があり、その奥に普段生活する部屋がいくつかあった。
盆暮れに祖父母宅に行くと、私たち家族は「おみど」に寝起きし、朝夕には「おつとめ」の読経をした。
祖父の死後、僧侶の勤めは父が兼業で継いだ。
私は結局継がなかったけれども、(このブログ読者の皆さんはご存じの通り)仏教などへの関心は持ち続けており、それは幼少期に祖父母宅で過ごした折々の経験が原点になっている。
姫路には播州一円を代表する浄土真宗寺院の「亀山本徳寺」がある。
地元では「御坊さん」と呼ばれて親しまれ、祖父母宅からそう遠くなかったので、私も子供の頃から何度か参拝した。
過去記事で紹介したこともある。
この御坊の歴史は古く、中世まで遡る。
元は戦国時代、現在地のずっと西、夢前川と水尾川の合流地点である英賀(あが)の地にあった。
当時はかなり地形が違っており、大まかにいえば今の山陽電鉄より南はほとんど遠浅の海だったはずだ。
(クリックすると画像が拡大)

江戸期の新田開発、更に近現代の工業用地埋め立てで様変わりし、現在の英賀はかなり奥まって感じるが、戦国時代は河口湿地帯に浮かぶ三角州のような状態だったらしい。
南に広く播磨灘が開けた地形を利用して港と広大な城が築かれ、瀬戸内海の物流の要所として栄えた。
その英賀城西端に本徳寺があり、播磨の本願寺信仰の中心として、また大坂本願寺ネットワークの中継地点として重要であった。
しかし織田信長と大坂本願寺の十年戦争石山合戦の過程で、羽柴秀吉による播磨侵攻の折、地元の織田方協力者である黒田官兵衛の指揮もあって陥落。
その攻防を「英賀合戦」と呼ぶ。
その後、本徳寺は亀山に移され、港の機能と英賀衆の多くは飾磨港へ移動。
やがて本願寺の東西分立の影響下、もう一つの本徳寺が姫路城西に「船場本徳寺」としてスタートすることになる。
英賀合戦は「織田方の播磨侵攻の中の地味な合戦の一つ」というイメージで、知名度のある登場人物が黒田官兵衛くらいしかいないこともあり、フィクションの中でもスルーされるか、地味な扱いになることがほとんどである。
陸上の領地争いの観点ではその通りなのだが、「石山合戦」「海上交通」に注目すると意義は全く変わってくると考える。
この機会に絵図、スケッチもふくめてまとめておきたいと思う。
歴史で上書きされた播磨臨海工業地帯の海岸線を取り払い、広く開けた海の情景とともに英賀合戦の幻想を描いてみたい。
英賀本徳寺、英賀合戦については、亀山本徳寺内のサイトでもわかりやすい解説がある。
pdfファイルが多いが、一通り読むと英賀合戦の輪郭が見えてくると思う。