90年代、五木寛之の著作をむさぼるように読んでいた時期がある。
本をさがして2
五木寛之の蓮如にまつわる一連の著作を読むことで、幼い頃に原風景として接していた仏教や浄土真宗に「再会」した。
以後自分なりに学ぶことになり、その延長線上に2000年代半ばからのこのブログがある。
ブログで記事を書くためにあらためて読み返したりしているうちに、蓮如が教化の対象とし、戦国時代には本願寺の寺内町ネットワークを担った海の民についての関心がでてきた。
カテゴリ「海」参考図書
今回考えてみたい瀬戸内海の本願寺寺内町ネットワーク、英賀合戦については、一般向けに読みやすい本はほとんど見当たらないのだが、上で紹介してきたものの中から、五木寛之と沖浦和光の著作の内容を拾い集めると見えてくるものがある。
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三冊に絞って紹介してみよう。
●『瀬戸内の民俗誌―海民史の深層をたずねて』沖浦和光(岩波新書)
陸上交通機関が発達しきった現代人には理解しづらくなっているが、中世において「水路」は交通・物流の中心だった。
とりわけ関門海峡から紀淡海峡にまで及ぶ「瀬戸内」は、交通の大動脈であった。
海や河川の道を中心に据えてみれば、現在は僻地にしか見えない孤島や浦が、交通の要地として賑わっていた歴史の風景が浮かび上がってくる。
第五章で詳述される、瀬戸内で非常に緊密に交流し合っていた「海賊」「水軍」に関する記述を読んでいると、「石山合戦」への見方も全く違ってくるのだ。
信長が本願寺から簒奪したかったのは単に大坂の地だけではなく、当時物流と情報伝達の最速手段であった瀬戸内の海上交通の支配権だったのだ。
●『辺界の輝き』五木寛之/沖浦和光(ちくま文庫)
こちらも一章を割いて瀬戸内の海民について対談されている。
なぜ「海の民」に本願寺の信仰が広まり、一向一揆、そして石山合戦を戦い抜いた力の源泉になったのかが、語りの中で明らかになってくる。
古来、海山に住む民は殺生を生業とせざるを得ず、仏教の救いの対象外とされてきた。
鎌倉仏教、とりわけ法然、親鸞、一遍の流れが初めて、そうした民も平等に救いの対象であるとした。
中世は経済の発達過程であり、商工業者、芸能者、物流業者が実力をつけつつあった時代でもあり、本願寺を再興した蓮如は積極的にそうした領域に分け入り、教線を伸ばしていき、それが戦国時代の一向一揆の隆盛につながったのだ。
●『百寺巡礼 第六巻 関西』五木寛之(講談社文庫)
戦国末期の播州の動静を考える上で重要地点だったと思われるのが、英賀本徳寺と寺内町を擁する英賀城だ。
中国地方の瀬戸内の海民は、多くが本願寺の信仰を持ち、石山合戦においても積極的に大坂本願寺を支援した。
播州の河口三角州のような地形にあたる英賀の地は、中国地方と大坂本願寺の海の中継地点として機能していたはずだ。
こうした海上交通の要所に本願寺の寺内町が存在し、それぞれ緊密なネットワークを構築していることが、一向一揆の力の源泉だった。
信長は結局本願寺を滅ぼしきれなかったが、ともかく大坂の本山を退去させることには成功した。
これにより、各地の本願寺寺内町ネットワークは中心部分を失った。
信長の高転びによる死後、秀吉は基本的にはその路線を受け継ぎ、寺内町ネットワークの解体を企図した。
英賀の処分でも秀吉は本徳寺自体は滅ぼさず、近隣の「亀山」を寄進して、信仰の場と海上交通の要所を分断した。
こうした経緯について、一章を割いて紹介されている。
石山合戦については、いつか絵解きがやりたくて十年以上前から資料調べをしている。
瀬戸内海の海上ネットワークとのつながりを意識した石山本願寺の絵図を試作したこともある。
試作「大坂本願寺絵図」
(クリックすると画像が拡大)
今回はもう一歩、進めてみたい。
2023年08月16日
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