間が空いたが、信長と本願寺の十年戦争「石山合戦」における、播磨の局地戦「英賀合戦」についての覚書の続き。
今回は石山合戦を通した年表を一度まとめておく。
【石山合戦関連年表】(あくまで仮のもの。随時訂正)
■開戦まで
1534(天文三年)
信長、尾張国勝幡城で織田信秀の嫡男として生まれる。
1543(天文十二年)
顕如、摂津国石山本願寺の第10世住職、証如の子として生まれる。
1554(天文二十三年)
顕如12歳、父の死により第11世住職に。
1557(弘治三年)
顕如15歳、近江国の六角定頼の養女になっていた如春尼と結婚。
1558(永禄元年)
本願寺教如誕生。父・顕如16歳、母・如春尼15歳。
1560(永禄三年)
織田信長27歳、桶狭間の戦いで今川義元を破る。
1564(永禄七年)
教如7歳、弟・顕尊誕生。
1565(永禄八年)
中国の雄・毛利元就が、嫡孫で13歳の輝元に家督を譲る。
吉川元春、小早川隆景の両川が補佐。
1567(永禄十年)
朝倉義景と和議。教如10歳、義景の娘と婚約。
黒田官兵衛22歳、家督を継ぎ姫路城城代に。
1568(永禄十一年)
信長35歳、15代将軍足利義昭を擁して上洛、本願寺と堺に矢銭を課す。
■石山合戦
1570(永禄十三年/元亀元年)
信長、越前朝倉攻めを開始。
近江浅井、朝倉方につく。
木下藤吉郎34歳、金ケ崎退き口で殿の功を上げる。
信長、姉川の戦いで朝倉浅井を退け、琵琶湖東岸を抑える。
信長、野田城・福島城の戦いで三好三人衆と交戦。
その最中、全国の一向一揆蜂起で、石山合戦始まる。
顕如28歳、信長37歳。
第一次伊勢長島攻めで、一向一揆勢、織田信興を逆に自害に追い込む。
教如13歳、得度。
1571(元亀二年)
信長、比叡山焼き討ち。
毛利元就、75歳で病没。
1572(元亀三年)
武田信玄の斡旋により、本願寺と信長、一旦和睦。
藤吉郎36歳、羽柴氏に改名。
1573(元亀四年/天正元年)
武田信玄、急死。朝倉義景、浅井長政、自害。
第一次信長包囲網、瓦解。
信長40歳、足利義昭を畿内から追放、室町幕府滅亡。
信長、第二次伊勢長島攻めをするも、攻略できず。
官兵衛28歳、信長に謁見。
1574(天正二年)
伊勢長島一向一揆、壊滅。信長による大量虐殺。
1575(天正三年)
信長42歳、長篠の戦で武田勝頼を破る。
大阪攻め。
越前一向一揆、壊滅。
本願寺と信長、講和の誓紙を交わす。
1576(天正四年)
信長、安土城に入る。
本願寺、天王寺砦の戦いで敗北、織田軍に包囲される。
足利義昭、毛利を頼って鞆城に入る。
毛利傘下の村上水軍、第一次木津川の戦いに大勝し、本願寺に兵糧を搬入。
1577(天正五年)
官兵衛32歳、英賀合戦で功を上げ、国府山城を居城に。
信長44歳、ほぼ全軍を率いて第一次雑賀攻め。
鈴木孫一(おそらく50歳前後)、寡兵をもって織田軍を退ける。
教如20歳、弟・准如誕生。
1578(天正六年)
上杉謙信、急死。
毛利水軍、第二次木津川の戦いで織田水軍に敗れ、本願寺孤立。
播磨の筆頭格・別所長治、織田に叛旗。三木合戦開始。
官兵衛33歳、秀吉に兵糧攻めを提案。
荒木村重44歳、有岡城で謀反。官兵衛が説得に向かうが、逆に幽閉される。
1579(天正七年)
信長、有岡城陥落、官兵衛救出される。
1580(天正八年)
三木合戦終結で、織田方の事実上の播磨制圧。
秀吉の侵攻により、英賀城焼失。
顕如38歳、信長と講和。大坂を退去し、紀州鷺森へ。
これにより、石山合戦終結。
教如23歳、講和を不服とし、本願寺に籠城(大坂拘様)。
顕如、教如を義絶。
教如、4ヶ月後には退去。同日、失火により本願寺焼失。
教如は当初雑賀に匿われるが、以後一時消息不明。
石山合戦終結後も、本願寺方勢力、瀬戸内の水軍についての始末は続く。
■戦後
1581(天正九年)
官兵衛36歳、第二次鳥取攻めにおいて「鳥取渇え殺し」で攻略。
1582(天正十年)
秀吉46歳、高松城水攻め。官兵衛37歳の提案。
本能寺の変により、信長49歳急死。
秀吉、中国大返しの後、山崎の戦で明智光秀を破る。
顕如、教如26歳と和解が成立。
1583(天正十一年)
秀吉47歳、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。
大阪城の建設に着手。
1584(天正十二年)
秀吉48歳、小牧・長久手の戦に出陣。
1585(天正十三年)
秀吉49歳、第二次雑賀攻めで紀伊平定。
官兵衛40歳を軍監に、長宗我部元親の諸城を破り、四国平定。
関白の座に就く。
顕如43歳、秀吉の薦めで大坂天満に本願寺を遷す。
1586(天正十四年)
秀吉50歳、正親町天皇から豊臣姓を賜り、太政大臣に就任。
1587(天正十五年)
秀吉51歳、北野天満宮で大規模な茶会を開催。
豊臣家の本邸となる聚楽第を構える。
1588(天正十六年)
秀吉52歳、刀狩令及び海賊停止令を発布、施行する。
1590(天正十八年)
秀吉54歳、小田原攻め。
1591(天正十九年)
秀吉55歳、奥州平定。
甥の秀次を養子に迎え、関白職を譲る。自身は太閤となる。
朝鮮出兵に先立ち、肥前国・唐津に名護屋城の築城を始める。
顕如49歳、京都七条に本願寺を遷し、教団を本格再興。
1592(天正二十年/文禄元年)
秀吉56歳、文禄の役で朝鮮に出兵。
顕如50歳、死去。
1593(文禄二年)
秀吉57歳、側室・淀殿が後の秀頼を出産。
1597(慶長二年)
秀吉61歳、慶長の役で再度朝鮮に出兵する。
1598(慶長三年)
秀吉62歳、醍醐の花見の後、病により死去。
1600(慶長五年)
関ヶ原の戦いで、天下の趨勢は徳川氏に。
石山合戦後半、瀬戸内海を中心とした西日本も絵図にしてみた。
まだざっとスケッチ程度で、旧道も盛り込めるとかなりわかりやすくなると思うが、今はこれでいっぱいいっぱい(笑)
信長は安土城で琵琶湖と淀川を封鎖し、本願寺の北陸との連携も断っている。
後半戦は雑賀衆と毛利水軍頼みになった本願寺の情勢が見えてくると思う。
(クリックで画像拡大)
2023年12月04日
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