一介の絵描きであるので、専門に学んだわけでもない歴史については適切な人物に感情移入し、その人物の視点から流れを理解することを、ほとんど唯一の手法としている。
戦国播磨の場合なら、フィクションも含めて参照し、想像の中である程度人物像を結べそうなのは黒田官兵衛くらいしか見当たらない。
以下、基本的な史実をおさえながら、官兵衛を通した当時の播磨の情勢を追ってみよう。
前回記事の内容とも多く重なるが、播磨の情勢を加筆してまとめてみたい。(例によって随時加筆訂正)
【黒田官兵衛と播磨】
1546(天文十五年)
御着城城主小寺政職(まさもと)の家老、黒田職隆(もとたか)の嫡男として出生。
1565(永禄八年)
中国の雄・毛利元就が、嫡孫の輝元に家督を譲る。
吉川元春、小早川隆景の両川が補佐。
1567(永禄十年)
官兵衛22歳で家督を継ぎ姫路城城代に。
志方城城主櫛橋氏の娘・光姫を正室に迎え、翌年嫡男(後の黒田長政)出生。
黒田家は官兵衛の父の代から御着城城主小寺家の家老。
主家の小寺は播磨で有力な赤松氏の分家で、代々その重臣を務めてきた。
黒田家はそのまた家老ということで、流浪の境遇であった官兵衛の祖父の代からすれば立身していたが、才気ある若者にとっては、必ずしも心のままに活躍できる身分ではなかったかもしれない。
1568(永禄十一年)
織田信長、15代将軍足利義昭を擁して上洛。
本願寺、堺に矢銭を課す。
この時期、織田と毛利は播磨等を挟んで領国を接していなかったこともあり、一応協力関係にあった。
同時期の播磨勢も大方は織田に与している。
1570(永禄十三年/元亀元年)
木下藤吉郎34歳、金ケ崎退き口で殿の功を上げる。
信長、姉川の戦いで朝倉浅井を退け、琵琶湖東岸を抑える。
石山合戦始まる。
1571(元亀二年)
信長、比叡山焼き討ち。
毛利元就、病没。
1572(元亀三年)
武田信玄の斡旋により、本願寺と信長、一旦和睦。
藤吉郎36歳、羽柴秀吉に改名。
1573(元亀四年/天正元年)
武田信玄、急死。朝倉義景、浅井長政、自害。
信長、足利義昭を畿内から追放、室町幕府滅亡。
この時期、28歳の官兵衛は信長に謁見。
生まれ育った播磨と違い、実力次第で身を立てられる織田家中を目の当たりにしている。
1574(天正二年)
伊勢長島一向一揆、壊滅。
1575(天正三年)
信長、長篠の戦で武田勝頼を破る。
越前一向一揆、壊滅。
1576(天正四年)
信長、安土城に入る。
足利義昭、毛利を頼って鞆城に入る。
上杉謙信、本願寺と和睦して反織田に。
毛利傘下の村上水軍、第一次木津川の戦いに大勝し、本願寺に兵糧を搬入。
織田と毛利の対立が決定的となる。
瀬戸内の制海権を失った織田方は陸路で対抗せざるをえなくなり、播磨掌握の重要度は増す。
この時期も播磨の多数派は織田方についているが、毛利方との関係を重視する勢力もあり、内部では割れ始める。
この頃まで織田方の播磨侵攻は荒木村重が担当していたが、羽柴秀吉が代わるようになる。
官兵衛は秀吉の播磨での相談役を務め、竹中半兵衛とも交流することで才を磨く。
羽柴は織田家臣団の中でもとくに実力主義が徹底していたであろうし、また苦労人で話の分かる秀吉とは馬が合い、自分の力を天下に試す夢が描けたということかもしれない。
1577(天正五年)
官兵衛32歳、毛利方についた播磨勢が英賀城に毛利水軍を引き入れようとする動きを、寡兵をもって退けることに成功。(英賀合戦)
信長のもとへ嫡男を人質として送り、信頼を得ることに努め、国府山城(こうやまじょう)を修復、居城とする。
信長、ほぼ全軍を率いて紀州に向かい、第一次雑賀攻め。(播磨勢は信長方について出兵)
鈴木孫一、寡兵をもって織田軍を退ける。
1578(天正六年)
上杉謙信、急死。
毛利水軍、第二次木津川の戦いで織田水軍に敗れ、瀬戸内東部の制海権を失う。
本願寺孤立。
播磨の筆頭格・別所長治、織田に叛旗。(三木合戦開始)
荒木村重44歳、有岡城で信長に謀反。
官兵衛が説得に向かうが、逆に幽閉される。
籠城が長期化した三木合戦の期間中、本願寺は度々紀州雑賀衆に援軍を出すよう要請している。
雑賀衆も一応兵を出してはいるものの、それまでの華々しい活躍からすれば「申し訳程度」にとどまる。
信長による雑賀攻めで疲弊していたこともあろうし、雑賀攻め当時は織田方で出兵していた播磨勢に対し、含むところがあったのかもしれない。
1579(天正七年)
竹中半兵衛、病没。
有岡城陥落。
官兵衛救出されるも、しばらく静養。
1580(天正八年)
秀吉の「干し殺し」により、三木合戦終結。
織田方の事実上の播磨制圧により、本願寺は信長と講和。
顕如は大坂を退去し、紀州鷺森へ。
石山合戦終結後も局地戦は続く中、秀吉の侵攻により、英賀城焼失。
官兵衛35歳、秀吉より姫路城の普請を命じられる。
信長から篠ノ丸城を与えられ、居城として修理。
羽柴勢に協力した播磨での攻城戦および築城の経験が、城普請や城攻めの名手としての黒田官兵衛を育て、以後秀吉の軍師として重用される。
秀吉の播磨平定後の官兵衛の後半生は以下の通り。
1581(天正九年)
官兵衛36歳、鳥取城を兵糧攻めで攻略。
1582(天正十年)
官兵衛37歳、備中高松城で水攻めを提案し成功させる。
本能寺の変により、信長急死。
秀吉、中国大返しの後、山崎の戦いで明智光秀を破る。
1583(天正十一年)
官兵衛38歳、大坂城の普請奉行となる。
キリスト教の洗礼を受ける。
1585(天正十三年)
官兵衛40歳、秀吉の四国攻めで長宗我部元親の諸城を落とす。
1586〜87(天正十四〜十五年)
官兵衛41〜42歳、九州攻めで島津氏の諸城を落とす。
1588〜89(天正十六〜十七年)
官兵衛43〜44歳、中津城、高松城、広島城築城。
家督を嫡男長政に譲る。
1590(天正18年)
官兵衛45歳、小田原城を無血開城させる。
1592(天正二十年/文禄元年)
官兵衛47歳、秀吉の二度の朝鮮出兵の築城総奉行となり、拠点の名護屋城築城。
1593(文禄二年)
官兵衛48歳、出家して如水を名乗る。
1598(慶長三年)
秀吉62歳、醍醐の花見の後、病により死去。
1600(慶長五年)
55歳、関ヶ原の戦いのどさくさに九州で天下を窺うも、情勢を見て矛を収める。
1604(慶長九年)
59歳、伏見で死去。
フィクションの中の黒田官兵衛については、過去記事で司馬遼太郎『播磨灘物語』を紹介したことがある。
●『播磨灘物語 全四巻』司馬遼太郎(講談社文庫)
マンガ作品では平田弘史『黒田三十六計』が、独自のこだわりで調べ上げ、超絶画力で描き上げた戦国絵巻として飛び抜けている。
黒田・三十六計 コミック 1-8巻セット (SPコミックス) - 平田 弘史
関連して、戦国時代の播州を絵図にまとめてみた。
(クリックすると拡大)
これもあくまで叩き台。
直すべきところはいくらでもあろうけれども、ひとまず上げておく。
2023年12月14日
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