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2023年12月20日

英賀合戦幻想5 英賀寺内町焼失

 続いて戦国末期の姫路周辺をクローズアップして絵図にしてみた。(例によってあくまで叩き台)

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(クリックすると画像拡大)

 現在の姫路城は「姫山城」としてスタートした。
 姫山城の立地は元々東西陸上交通の動脈である山陽道沿いにあり、北へは市川沿いに生野銀山へ、南は飾万津へとつながるルートもあり、また廣峯神社や書写山円教寺等の古くからの寺社とも近い。
 東の市川を渡ると国府山城(甲山城または妻鹿城とも呼ばれる)、黒田官兵衛の主家である小寺家の御着城がある。
 姫山城は小寺家が城代を務めてきたが、戦国末期には御着城の支城として黒田家に任されていた。
 播磨が秀吉の勢力下に入ってから順次拡張整備が進み、今に続く「姫路城」は江戸期に完成した。

 石山合戦以前、姫路近辺で栄えていたのは西の夢前川と水尾川の播磨灘に面した合流点にあたる英賀の地だ。
 播磨国風土記から地名が出ている英賀は、戦国期には三木氏が支配し、英賀神社と本徳寺御堂の寺内町を擁して港湾機能を備えた広大な城砦が築かれていた。
 瀬戸内海西部の毛利水軍との関係も深く、石山合戦後半に毛利勢と大坂本願寺との中継地として数年間攻防が繰り返された過程が「英賀合戦」である。
 天正四〜五年、毛利水軍が本願寺への加勢で英賀に入るところを黒田官兵衛が寡兵をもって退けたとされ、天正八年に大坂本願寺の退去で石山合戦が終結後、羽柴勢に包囲されて英賀城は焼失。
 城内の英賀御堂も焼失するが、後に秀吉の勧めで飾万津からやや北に入った亀山の地に本徳寺は移転している。
 現在の亀山本徳寺にはかなり英賀御堂の物が伝わっており、「一方的に火攻めで滅ぼされた」というよりは、合戦中も何らかの移転交渉は行われており、徐々に文物が運び出されていたということかもしれない。
 本願寺が大坂から退去しただけで済まされず、秀吉によって英賀城の破却まで完遂されたのは、「寺内町」の解体を目的としていたのだろう。
 英賀は武家の支配と本願寺、在来の神社、海運が一体となった典型的な寺内町で、海路によって他の寺内町とネットワークされていたことが強みだった。
 秀吉はそうした要素を巧みに解体し、姫路の都市計画を再編している。
 武家支配の中心は主要な陸路の交差する姫山へ、港湾機能と海運・商工業者は隣接する飾万津へ、播磨の本願寺門徒の中心たる本徳寺は水運とは切り離して亀山へ、さらに後年の海賊停止令で海上交通も完全に支配下に置いたのだ。

 江戸期に入ると姫路沿岸部の遠浅の海は新田開発で埋め立てられ、明治以降は工業用地の埋め立てが進んで海岸線はかなり南に移動した。
 現在の山陽電鉄より南は、元々はほとんど海であったと考えてよいだろう。
 かつて広く開けた播磨灘に面して栄華を極めた英賀城跡は、埋め立て地に深く包み込まれて海から離れ、住宅街で上書きされて、興味を持って探さなければ史跡も目につかない。
 城内の英賀御堂に至っては、近代の広畑地区工業開発時に改修された夢前川の流れに飲まれ、現地に行っても跡形もない。
 かつての面影は、移転した亀山本徳寺にいくらか残されているという。

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 以上、ほんのラフスケッチであるが、現時点で「英賀合戦」について調べ、描いたあれこれを覚書としておきたい。
posted by 九郎 at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする
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