私も幼時から祖父や父に連れられて何度も参拝した。
立派な門や本堂の大屋根、除夜の鐘でついた鐘楼などが記憶に残っている。
この亀山御坊本徳寺が、戦国時代に栄華を誇った英賀御堂の移転したものだ。
位置関係でいうと以下の図のようになる。
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元の英賀から東へ水尾川、船場川を越え、姫路の海路の玄関口である飾磨津から少し内陸に入ったところにあるのが亀山の地で、播磨に本願寺の信仰が広まる前は陰陽道と関係が深かったという。
現在の亀山御坊は西本願寺所属で、東に流れる船場川をさらに姫路城下まで遡ると、東本願寺所属のもう一つの「本徳寺」、船場御坊がある。
ともに江戸期から播磨一円の門徒の参拝が盛んであった。
亀山御坊をさらに拡大して絵図にしてみた。
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亀山御坊には英賀御堂のものがかなり伝わっており、その面影を伝えている箇所も多いだろう。
本堂や太鼓楼、周囲の築地等は、おそらくかなり近い姿なのではないだろうか。
西方を拝む配置になっているので東が正面にあたる。
門を出て東に往時には説教所や門徒の宿泊所があったというが、今はもう無い。
そのエリアを挟んで飾磨街道/銀の馬車道が南北に通じている。
絵図の左が南で飾磨港、右が北で姫路城へ至り、戦前までは人や物の動線の中心軸になっていた。
近代くらいまではまだ参拝者が多く、御坊の背後を走る山陽電鉄はお彼岸などに増便し、人流を捌いたという。
門前には露店が立ち並び、娯楽の少ない時代にあっては、まさにテーマパークのような雰囲気だったのだろう。
戦後は法令や組織の改変もあり、徐々に往時の人出は減じていったようだ。
私の父方祖父母は「間に合った」世代で、御坊の賑わいを通じて縁が繋がり、所帯を持ったと聞く。
(続く)