とくに「銀の馬車道」は、姫路のはるか北の生野銀山からスタートし、市川の流れと並行してついたり離れたりしながら南下して姫路城下へ、そこから飾磨街道と合流して姫路の海の玄関口である飾磨港へと至る長大な近代道路だった。
前回記事で紹介したように、沿道には亀山御坊もあった。
すぐに播但線も並行して運行するようになるが、その名の通りの荷馬車や、行商の人々の行きかう道で、私の父世代が幼少期を過ごした戦後しばらくまで、その風景は続いていたという。
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しかし高度成長期を経てモータリゼーションの波が押し寄せると、飾磨街道/銀の馬車道は完全に歴史的役割を終えた。
昔日の街道風情を伝える町家風の家屋は、城に近づくほど終戦間際の姫路大空襲で焼けてしまっており、残った家屋も徐々に建て替わっていった。
父方祖父母が生活していた家屋は飾磨街道沿いにあったが、私が子供の頃の70年代にはもう「交通量の少ない二車線舗装道路」になっており、姫路の物流の南北軸の中心は少し西を通る「産業道路」その他に移っていた。
(続く)