一番よく読む『正信偈』は、仏説のお経ではなく、歴史の授業でも習う親鸞の主著『教行信証』中の漢詩で、信心のエッセンスがまとめられている。
読み方としては「草譜」「行譜」の二種があり、日常的にはシンプルな「草譜」、法事などでやや丁寧に唱える場合は後半がメロディアスな「行譜」を唱える。
続く念仏和讃は念仏の繰り返しと親鸞作の和讃の組み合わせで、こちらも独特のメロディがある。
唱え方には微妙な地域差や個人差があり、うちの唱え方もCD音源等とは少し違う。
録音再生技術の発達した今ですらけっこう「地域差、個人差」があるのだから、昔はもっとバラエティが豊かだった可能性はある。
うちの読み方は私限りになるかもしれないが、唱えられるうちは唱える。
もう一つよく唱えているのが、蓮如の作と伝えられる『領解文(りょうげもん)』だ。
以下に引用してみる。
「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけそうらえとたのみまうしてそうろう。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定とぞんじ、このうえの称名は、ご恩報謝とぞんじ、よろこびもうしそうろう。この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、ご開山聖人ご出世のご恩、次第相承の善知識のあさからざるご勧化のご恩と、ありがたくぞんじそうろう。このうえはさだめおかせらるる御おきて、一期をかぎり、まもりもうすべくそうろう。」
今回調べてみると、領解文の読み方にもかなり幅があるようだ。
シンプルなお経のように一本調子で読んでいる音源もあるし、朗読や独白のように読んでいるケースもある。
うちでは文体が共通している御文章に近い感じで読まれていた。
2023年には西本願寺から『新しい領解文』というものが発表され、議論になった。
残念ながら父の意見を聞ける状態ではないまま亡くなり、また僧侶でない私がどうこう言える性質のものでも無いので、うちでは従来のまま唱えている。
仏説のお経の中では、日常勤行でよく読むのが『阿弥陀経』だ。
短めなので、熱心な門徒の皆さんには『正信偈』とともに暗唱している人も多い。
私は導師に唱和してとりあえず読める程度だ。
せっかちな性格だった父は読むのがかなり速く、ついていくのが精一杯だったことなど、今は懐かしい。
「こんな速く読むのは父ぐらいだろう」と思っていたら、大阪の北御堂に参拝した時、若いお坊さんがもっと速く読んでいて驚愕したことがある。
お経と言えば「聞いてもわけのわからないもの」の代名詞みたいになっているが、『阿弥陀経』に関して言えば、唱えていると少々内容がわかった気になれる。
漢字の字面のイメージを追っていると、釈尊が祇園精舎で舎利弗を代表とする綺羅星の如き弟子たちに、阿弥陀の浄土の絢爛たる様を詳細に語って聞かせているのが、おおよそは伝わってくるのだ。
僧侶が読むとリズム感があり、その感覚は補強される。
釈尊が語りかける舎利弗は「智慧第一」のシャーリプトラで、十大弟子の中でも天才肌の一番弟子と目され、他のお経でも聞き手としてよく登場する。
ただ、このお経は釈尊が舎利弗に一方的に語って聞かせる形で、問答形式ではない。
内容的にもただただ阿弥陀浄土のイメージの洪水を浴びせる感じで、せっかくの天才肌が聞き手でも、口をはさむ余地はない。
わざわざ「自力」に極めて優れた弟子に、それが全く通用しない説法をぶつけていることには、釈尊の何らかの意図があるのかもしれない。
お経の終盤で釈尊は「シャーリプトラよ、どう思うか?」と問いかけているが、弟子の返答はない。
