昔からそれなりの頻度で発生していたのだろうけれども、日本でリアルに「竜巻」というものをイメージできるようになったのは、わりと近年のことではないだろうか。
スマホの普及で誰もが突発する自然現象を撮影できるようになったことは大きい。
竜巻と言えば、すぐに思い出す作品がある。
アメリカ児童文学『オズの魔法使い』のことだ。
この作品は、カンザスの平原で暮らす少女ドロシーが竜巻で家ごと吹き飛ばされ、不思議な世界に迷い込むシーンで幕を開ける。家屋を飛ばすような竜巻が本当にあるのかどうか気になって調べてみると、アメリカではけっこうあるらしい。
この『オズの魔法使い』、個人的にとても思い出深い。
高一の文化祭の時、友人に誘われて放送劇化に参加したことがあるのだ。
当時私は柄にもなく中高一貫の私立受験校に通っており、厳しいスパルタ指導に喘ぐ日々を送っていた。
圧し潰されるような日常から逃避場所は、もっぱら「創作」の世界に求めていた。
80年代半ばはマンガやアニメ等の戦後サブカルチャーが一つのピークを迎えつつあった時代で、その影響をまともに受けた私は中二ぐらいから創作ノートを描きためていた。
高一になる頃には確か二十冊くらい積んでおり、所属たった一人の美術部員だった私は、文化祭に向けて様々なイラストの頼まれ仕事をこなしていたのだ。
件の友人は放送部所属で、同年代の中では少しセンスが先走っている所があった。
たとえば中学の頃、他のみんながまだ少年漫画誌ばかりを読んでいた中、彼は既に大友克洋にハマっていて、第一巻が出たばかりの「AKIRA」を読み耽っていた。
私もかなりの漫画好きを自認していたけれども、大友克洋に手が延びたのは高校生になってから、それも彼の部屋に遊びに行くようになってからのことだった。
今でもその部屋のことをよく覚えている。
実家が遠隔地の彼は、中学の頃は寮に入っていたけれども、高校に上がってからは港町のアパートで独り暮しをしていた。
仲間内ではよく彼の部屋でレコードを聴いたり、漫画や小説を読んだり、ギターを弾いたり、近くの海岸で遊んだりしていた。
彼が冗談めかして「家出するんやったらうちに来いな」と笑っていたのを、昨日のことのように思い出す。
当時、私は彼の影響を強く受けていた。
先に書いた大友克洋もそうだし、平井和正も、アコースティックギターを弾く様々なアーティストを知ったのも、彼の部屋でのことだった。
文化祭で『オズの魔法使い』の放送劇を作り、声優の真似事や、映写するためのイラストを描いたのも彼に誘われてのことで、そういえばあの放送劇がその後も断続的に続くことになる私の演劇への関りのスタート地点になった。
高一のクラスは、成績別編成の最下位だった。
学業不振はもちろんのこと、素行にも少々問題のある生徒が集まりがちで、ある意味「隔離場所」みたいな扱いだった。
教室自体も同学年の他のクラスとは違う階になっており、先生方からは「おまえら他の組に行くな!」と度々注意されていた。
有態に言えば「他の真面目なクラスにアホが伝染ったら困る」くらいには思われていたのだろう。
当時ですら時代錯誤だった体罰上等の厳しい生徒指導にしごかれながら、それでも私たちのクラスのメンバーの多くは、そんな苦境をしぶとく楽しんでいる面もあった。
抑圧の強い分、休み時間や放課後の狂騒は凄まじく、日々繰り広げられるお祭り騒ぎに乗り遅れまいと、欠席する者は少なかった。
時代は全く違うけれども、北杜夫『どくとるマンボウ青春記』に描かれる旧制高校のバンカラ気質とちょっと似ている感じがしたし、ちばてつや『おれは鉄兵』に描かれる東台寺学園戊組の雰囲気とも似ていた。当時のリアルタイム作品で言えば、江川達也『BE FREE!』のさくら組にも似ていた。
そもそもわが母校は、在りし日の学園長先生が自身のルーツである旧制高校の校風を再現しようと創設したもので、そうした意図をある意味最も体現していたのは我らアホクラスだったかもしれない。
成績が振るわない分、文化祭や体育祭では力を発揮するメンバーが揃っていた。
私は「一人美術部」だったし、他にも放送部や新聞部、文芸部にも主力メンバーが多数いて、放送劇『オズの魔法使い』はスタッフ・キャストともに、ほぼ私たちのクラスのメンバーで作り上げられた。
ちなみにこの成績別クラス編成は、私たちの学年で最後になった。
単に私たちより下の学年がみんな優秀だったせいもあろうけれども、もしかしたら学校側が「アホを一か所に集めると、切磋琢磨してより強力なアホ集団になる」という弊害に気づいたのかもしれない。
件の友人は諸事情から高一を最後に学校から去り、地元の高校へと転校していった。
他にも様々な事情で学校を去るメンバーがいて、一年間続いたお祭り騒ぎは終息した。
マンガ『夜の公園で三月』
狂騒の去った後も私自身の高校生活は続く。
高一文化祭での経験があまりに楽しかったので、高二では更にどっぷり『オズの魔法使い』漬けになった。
文化祭では各文化部に教室一つが割り当てられるのだが、「一人美術部」だった私は教室を一人で埋めなければならず、そのネタに『オズの魔法使い』の物語全編をイラストで描き尽くすことを思い立った。
前年の放送劇イラスト制作のために作品を読み込んだことで、実際に描いた分量を超えるイメージが湧いてしまっており、グツグツと出口を求めて煮立っていたのだ。
何よりも、狂乱の高一クラスや、いなくなってしまった友人への様々な感情のケリのつけどころを、なんとなく探していたということもあったと思う。
わが母校では毎年九月始めに文化祭が行われるのだが、私は夏休みの大半を費やしてB4サイズで60枚に及ぶイラストを描き通した。
画材はGペン+水彩絵具。
グロス単位で購入していたGペンを次々に使い潰しながら、取り憑かれたようにカケアミを駆使して無地の漫画原稿用紙に描線を刻み込み続けた。
作品現物はカラーで着色し、簡単なストーリー紹介の詞書とともに割り当ての教室に展示した。
着色前に一旦コピーをとり、モノクロ版60ページのコピー誌も、ごく少部数製作した。
振り返ってみると、この体験もその後の私の同人活動の原点になっていると思う。
全力を尽くしたイラストの原画はもう残っておらず、コピー誌として刊行したものが一部だけ手元にある。
中高生の間に描いたものなど大半は「黒歴史」で、とても表に出せるものではないのだが、恐る恐る見返してみると、この作品に関しては「意外と悪くない」と思えた。
あのころ大好きだった大友克洋、宮崎駿、永野護、天野喜孝などの影響はもちろんある。
またスピルバーグやルーカス、リドリー・スコットはじめ、当時盛り上がっていたSF映画の特殊効果の影響も、もちろんある。
それら80年代サブカルの醸す空気を浴びつつ、遠く及ばないレベルながら、それなりにいい感じでミックスされた絵柄、世界観は作れている。
連作イラストを編集するための注意点やセオリーをまったくわかっておらず、冊子としては読みづらいことこの上ないが、とにかく原作のほぼ全編を自分なりに消化して描き切っているのが良い。
「もしこういう中高生が相談に来たら、教えてあげられることがいっぱいあるなあ……」
今現在の美術講師の意識でふとそんなことを考えた時、私の心の奥底にまだ残存している高校生の頃の自分が、ひどく喜んでいるのに気付いた。
あの頃の「一人美術部」の私は、作品制作上のアドバイスをくれる先輩や指導者に、切実に飢えていたのだ。
もしあの時、適切な指導を受けられていたら、どんな冊子に仕上がっていたか?
そんな仮定で四十年近く前の過去作を再編集してみることにした。
80年代サブカルに浸りきり、絵を描いていた高校生の心象風景の一つとして、記録に残しておきたい。

●絵物語『オズの魔法使い』
原作:Lyman Frank Baum “The Wonderful Wizard of Oz”
1987年作、2024年再編集 pdfファイル
1987ozpdf.pdf1987ozpdf.pdf
再編集にあたり、絵についてはページの進行方向に合わせ、適宜イラストの方向を修正した。
また文章については、当時想定していた世界観を大きく崩さないよう推敲した。
1987年当時、確かコピー誌で10冊程度作ったはずで、文化祭の展示も含めると100人程度は目にしただろうか。
今となっては私以外にこの作品を記憶している人はほとんどいないはずで、この機会にこっそり公開しておこう(笑)
高校生の頃制作した絵物語『オズの魔法使い』の再編集のため、作者・作品についてあらためて調べた。
米児童文学『オズの魔法使い』の初出は1900年、著者ライマン・フランク・ボーム四十代半ばの作品である。イラストレーターW・W・デンスロウとの共作で、元々ビジュアル要素の強い作品だった。
ボームは資産家の長男だったが、演劇活動に傾倒したり事業に失敗したりで職を転々とした。
その後編集の仕事をしながら、家計の足しにと子供向けの作品を執筆しており、『オズの魔法使い』は初期作である。
本作のヒット後、ミュージカル化や続編の執筆等に追われるが、ビジネス的にはトラブル続き。それでも演劇にかける情熱は終生変わらず、財産を注ぎ込み続けた。その結果、作品の権利も手放し、最後は無一文に近かったという。
英語の原作は既にパブリックドメインで、青空文庫等では無料で読むことができ、二次創作も出典を明記すれば自由に描ける。
日本語訳も様々な形で出ているが、現在入手可能な中でのスタンダードは、やはり1974年刊のハヤカワ文庫版になるだろう。今読むと「少々硬い翻訳調」と感じるかもしれないが、アレンジの少ない堅実な訳なので、原作を英文で読むときの参考にもなりそうだ。
私が高校生の頃読みふけったのも、このハヤカワ文庫版だった。
●ハヤカワ文庫『オズの魔法使い』Lyman Frank Baum (原作) 佐藤高子(訳) 新井苑子 (イラスト)
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古い文庫本を引っ張り出して開いてみて、ヒロイン・ドロシーの「ヘンリーとエムの老夫婦に引き取られたみなしご」という境遇に目が留まった。
ほぼ同時代、カナダで執筆された『赤毛のアン』とよく似た「もらわれっ子」の基本設定で、そういえば近代に入ってからの海外児童文学作品でよく使われている気がする。
孤独な性向を持ち、読書を好む子どもたちの心を引き付ける魅力があるのかもしれない。
ドロシーには作者の近親の姿が投影されているという説もある。
作者ボームと妻モードの間の四人の子はいずれも男の子で、モードは姉の娘の「ドロシー」を可愛がっていたが、残念ながら乳児期に死亡。
悲嘆にくれる妻への慰めも込め、『オズの魔法使い』に同じ名の少女を登場させたという。
「あの女の子は自分たちの目の前からはいなくなったが、どこか遠くもらわれた先で元気に成長しており、異世界に飛ばされながらも多くの仲間に助けられ、冒険の末、現世に帰ってくる……」
作者の頭の中にそんなイメージがあったとすると、作品の味わいが更に増すのではないだろうか。
この解釈では「不慮の死を遂げた者の異世界転生譚」という構図になるので、現代のサブカルチャーで好まれるスタイルの元祖と言えるかもしれない。
作者自身による演劇化も含め、『オズの魔法使い』は様々な形で作品展開されてきた。
中でも多くの人の記憶に残るのは1939年制作の映画版だろう。
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とくにジュディ・ガーランド演じるドロシーは素晴らしく、青いギンガムチェックの衣装を身に着けた少女が歌う『Over the Rainbow』のイメージは、今なお色褪せない。
当時の最新技術を存分に叩き込みながらも、技術第一の罠に陥らず、あくまで演出重視で作りこんでいることが、作品を古びさせないのだろう。
モノクロで描かれるカンザスの平凡な日常風景から、ドアを開けるとオールカラーのオズの世界が広がる鮮やかさは、映画史に残るシーンになっている。
映画版の設定やストーリーは、原作からそれなりに改変されている。
一番大きな相違点としては、灰色の現実と虹色の魔法の国を往還したドロシーが、それでも灰色の現実を肯定していくその度合いだ。
映画では帰るべきカンザスの家の現実がより強調され、かなりの尺が割かれている。
この時代にはまだ、子供向けの映画を作るにあたって「子供を幻想の世界で思う存分楽しませたら、きちんと現実の世界に戻してあげなければならない」という、作り手の倫理のようなものがあったのかもしれない。
例えば二十一世紀に入ってからの映画『アバター』では、主人公は「灰色の現実」をあっさり捨て、「夢色の異世界」に転生して帰ってこなくなる。
そしてそのあまりに魅力的な3DCG映像の別世界に耽溺した観客の中には、現実を放棄して映画館に入り浸ってしまう人も出たと報道されていた。
同じ「最先端の映像美」を駆使した作品でも、時代によって作り手の立ち位置が違ってきて見えるのは興味深い。
主演のジュディ・ガーランドについては、彼女が年若い頃から勝ち得た「芸」の世界の名声とは裏腹に、「実」の世界では苦しみに満ちた人生を送ったことが知られている。
それを知った上で映画の中のドロシーを観ると、「虹の向こう」に限りない憧れを持ちながらも「家」の大切さを最後までくり返す姿に、演技の陰影は深くなり、輝きは増してくる。
芸の世界は、しばしばそういう残酷さを表現者に課すのだ。
本作には無数のアレンジ版が存在するが、どのように弄ってもゆるぎない原作としての強さが、『オズの魔法使い』にはある。
私が高校生の頃に描いた絵物語版も、当時のサブカルチャーのビジュアルから受けた強い影響のもと、かなり好き勝手なアレンジがされているが、あくまで「原作の手のひらの上」で遊んでいるだけで、そこから一歩も出ていない気はする。
高二の一夏かけて絵物語を描き尽くし、存分に異世界への逃避を楽しんだ後、私は美術系受験を思い立ち、秋から本格的にデッサン実技の練習を開始した。
それまで独学で創作ノート数十冊を積み上げ、その総仕上げで絵物語を描き切ったことが自信につながっており、遅まきのスタートではあったがなんとか入試に間に合わせることができた。
持てるだけの武器を持ち、平成初期の学生生活へと飛び込んでいったのだ。
教育系美術学科で浅く広く様々な分野を学びつつ、演劇や同人活動も存分に楽しんだ学生生活の後、ふとしたきっかけから私は高一の頃のあの友人と再会した。
現実離れした「虹の彼方」のようなとある海岸のお祭りで、そこからまた不思議な縁で物語は続いていくことになる。
月物語
高校卒業以後のことは、高校生の頃の私にはおよそ想像もつかないことの連続だったけれども、今なら「迷わず行けよ、行けばわかるさ」と言ってあげられるのである。