春先に浄土真宗僧侶だった父が旅立った。
出立の春
葬送、四十九日までの七日ごとの法要、そして百箇日が過ぎるまでの間、経本の類をあらためて開くことの多い日々だった。
真宗の信仰対象の阿弥陀如来については、当ブログ『縁日草子』開設当初からいずれ取り組まなければならないと思ってはいたのだが、大切なテーマだけに中々手を出せなかった。
この度の父のことと、この先何があるか分かったものではない自分の「残り時間」を考えた時、とにかくスタートだけは切っておこうと強く感じた。
まずはブログ内の阿弥陀関連カテゴリ、記事の整理から。
記事:ビル越しの阿弥陀
カテゴリ:蓮如
カテゴリ:石山合戦
カテゴリ:原風景
カテゴリ:須弥山
日本の中世以降の阿弥陀信仰については、折々触れてはきた。
今回のカテゴリ:阿弥陀では、古代インドで成立した原典である浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)の内容について、直接扱っていきたい。
三部経の中でも『無量寿経』は阿弥陀如来のキャラクター設定が詳述されており、真宗の教義で重視されている。
長い御経なので日常勤行されることはないが、葬儀や法事の際には抜粋がお勤めされる。
普段使いの「日常勤行聖典」に収録されているのは『無量寿経』の中に含まれる『讃仏偈』『重誓偈』という偈文の箇所だ。
そういえば亡父は、法蔵菩薩が世自在王仏に「四十八誓願」を立てた後、重ねて誓いの心を詠った『重誓偈』の方をよく読んでいた。
このたび『無量寿経』の現代語訳を少し読み返してみたが、かなり面白く感じた。
二十代の頃、岩波文庫の訳を通読した時は、とにかく概略を知るので精一杯だった。
あれから三十年、あちこち大きく何周も周回して、感じ方も変わっているのだろう。
とくに阿弥陀如来の前身の法蔵菩薩が、六欲天や色究竟天などの王(しばしば魔王的な性質を持つ)を経験した上で成仏したと読める点、ゾクゾクする。
第六天
色究竟天
無量寿経や他の仏典に描かれるような、如来が膨大な数の仏国土を弟子の眼前に出現させて見せたり、膨大な情報量を一気に流し込んだりする描写は、デジタル技術が普及した今だと、一般人でも「わかる」感覚で読めると思う。
昔は抽象化の訓練を積んだ一部僧侶にしか理解できなかった概念が、技術の発達で一般人にもリアリティを感じられる状況を作ってしまったのだ。
カテゴリ:阿弥陀、こんな感じでぼちぼち行きます。
2024年08月03日
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