久々に中島敦『山月記』を読んだ。
この作品は確か中高生の頃の現代文の教科書に載っており、けっこう好きになった生徒が多かった。
「その声は、わが友、李徴子ではないか?」
「臆病な自尊心」
「尊大な羞恥心」
当時の年頃の琴線に触れるフレーズが記憶に残っている。
そう言えば80年代のあの頃、『山月記』を読むときは、脳内で天野喜孝の絵柄と夢枕獏のセリフ回しでイメージしていた。
私より一回り年下の人に「藤田和日郎でイメージしている」と聞き、「ああ、結局同じイメージか」と思ったことがあった。
もっと若い人はどんなビジュアルイメージを想像しているのだろう?
教科書に載っていた『羅生門』も『山月記』も、面白さの基調部分は古典の部分から拝借していて、そこに「近代」のフィルターをかぶせて視点を変えることに創意がある。
若い芥川龍之介や中島敦が古典に材料を求めたのは、今でいうと創作入門としての二次創作に近いものがあるかもしれない。
独自に読み込んだ古典に、日本の近代化ともシンクロする若い自我をぶつけ、創作の第一歩としたのだろう。
『山月記』を書いた時点の中島敦はまだ作家になれていないし、健康不安もあったことは重要だ。
二十歳前ごろから喘息の発作があり、二十代後半には徐々に悪くなっていたようなので、「自分に残された時間」については常に考えていただろう。
アマチュア時代もほとんど他と交流せず一人で執筆していたとのこと。
『山月記』に描かれる「自分の才に対し、信と不信に揺れ動く心情」は、作者自身に重なるものだったのかもしれない。
同時に、創作に興味を持ち始める十代の若者の心情とも、重なりやすい要素なのだろう。
今回は『山月記』を読み返すとともに、元ネタになった中国古典、李景亮『人虎伝』も読んでみている。
いくつか内容に異同があり、中島敦が何をどう変更したかが要チェックだと感じた。
ファンはこちらも必読。
読んでいる途中、SNSで「中島敦読むなら角川文庫がすぐれもの」という情報をいただいた。
角川文庫『李陵・山月記』は中高生の頃に手にとったことがあるはずで、さっそく書店でチェック。
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●『李陵・山月記・弟子・名人伝』中島敦(角川文庫)
表紙カバーは変わっているが、中身は昭和43年刊のものと同じで、元ネタになった中国古典や、解説・年譜も充実している。
教科書で『山月記』を読んだ中高生が最初に手にとる一冊として良い編集だ。
この際それ以外の作品も読んでみた。
●『李陵』
舞台になっているのは「西域」で、シルクロードブームがあった80年代は、この作品の評価が高かったと記憶している。
私の世代だと、この内容は横山光輝の絵柄でイメージされてくる。
中国古典の班固『李陵伝』に、司馬遷『任少卿に報ずる書』の内容を補完して取材している。
主人公・李陵を描くだけでなく、司馬遷についても尺を割いているのは、「逆境と屈辱の中、書き切った先達」について、考えをまとめたかったからだろうか。
●『名人伝』
短命の可能性、「何かを成し遂げる」ことへの困難を感じていたであろう作者は、しかし「成し遂げた者」についても単純な夢を描かない。
長く困難な修行で弓の技を極めた名人の晩年や、『李陵』作中で史記を書き上げた司馬遷の姿を、半ば以上醒めた筆致で描き出している。
●『弟子』
孔子とその弟子・子路の物語。
単なる想像だが、学生時代に『論語』を読んだであろう著者が師と弟子の関係に心惹かれ、学ぶ過程であれこれ思ったことが込められた物語と読んだ。
子路あたりは、青年期に好まれるキャラクターだったのではないだろうか。
●『悟浄出世』
悟浄の「青臭い」思索、周りの妖怪たちの極端に振れたキャラクター等、あるいは旧制高校で中島が体験した風景が反映されている部分もあるかもしれない。
今回文庫本で読み返した中島作品の中では、個人的にかなり良かった。
●『悟浄歎異』
西遊記の悟浄の内面を中島敦が独自に解釈したキャラクターの眼を通した、悟空、三蔵、八戒の人物評。
こちらも著者が旧制中学や高校の時期に考えていたであろう思索の結晶か?
2024年10月26日
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