■仏教と浄土信仰の起源
釈迦はおよそ2500年前の古代インド、実在の可能性の高い人物とされている。
中国の孔子やギリシアのソクラテスと近い年代で、イエス・キリストの活動は500年ほど後になる。
ヒマラヤ山麓の小国の王子として生まれ、29歳で城を捨てて出家し、修業の後35歳で悟りを開いて「仏陀」となる。
在世中は主にインド北部のガンジス川中流域で活動、当時としては超人的な高齢の80歳まで教えを説いたとされる。
釈尊在世中の教えに比較的近いとされる初期仏教は、セイロン島を経由して主に東南アジアへ伝えられた。(南伝仏教)
紀元前後に「大乗仏教」が成立し、インド北西部の文化の影響も受けながら、シルクロード沿いに中国へ。そこで経典が漢訳され、朝鮮半島、日本へも伝えられた。(北伝仏教)
7世紀頃には「密教」が成立。その後13世紀にインド本国で仏教が衰えてからは、チベット、モンゴルへと伝えられた。(チベット仏教)
試みに、この伝来過程を絵図にしてみた。
●仏教文化圏絵図(クリックで画像拡大)

ためしにジョジョで喩えてみると、
修業が必要な初期仏教は第一部〜二部。
中期の大乗仏教がスタンドバトルになった第三部以降。
単体で独自の人気の浄土教が第四部。
真言密教で世界が一巡して第六部完。
本場がチベットに移って第七部以降。
…みたいな感じだろうか?
浄土教と阿弥陀如来の起源については、はっきりわかっていない。
阿弥陀如来を意訳すると「さえぎるもののない光の仏」とか「かぎりない命の仏」ということになる。
根源的な「光」「命」というものに対する崇拝は世界各地に古くからあったはずで、阿弥陀の場合はおそらくインド北西、ガンダーラかその周辺あたりで仏教に取り入れられたのだろうとされている。
浄土教の根本経典「浄土三部経」の中の『仏説無量寿経』には、阿弥陀如来の誕生ストーリーが語られているが、これはもちろん「史実」ではないし、実在の人物としての釈迦が直接説いた教えでもない。
21世紀の今現在「阿弥陀」「浄土」と向き合うなら、こうした事実関係は知りつつ、信仰するにしてもその上でのことになる。
■21世紀の阿弥陀と浄土
そもそも仏教は時代や地域に応じ、さまざまにアレンジされて伝えられてきた。
浄土信仰は釈尊の没後数百年後に成立した、仏教の範疇ではかなり特殊な信仰であるし、インド、中国、日本と伝来して以降も、じわじわと独自アレンジが重ねられてきた。
親鸞を開祖とする浄土真宗内だけでも無数のアレンジが存在し、本願寺教団内では「公式」で一番新しいアレンジが蓮如の言説ということになるのだろう。
近代化以降、史実と虚構、現実と空想の峻別が厳しくなり、阿弥陀如来や浄土に対する信仰も質を変えざるを得なくなった。
私自身も、浄土真宗が成立した中世〜本願寺教団が世に定着した近世の門徒と同じように素朴に「信仰」することは、正直なところ困難だ。
その代わり、戦後サブカルチャーの隆盛期をリアルタイムで育ってきた1970年代生まれなので、フィクションであろうとなかろうと、その物語やキャラクターが魅力的であれば、心の底から楽しみ、「信じる」ことが可能なのはよく知っている。
そしてフィクションはフィクションと認識した上でのそうした読み方であっても、根本経典の浄土三部経や、親鸞・蓮如の言説は十分に魅力的であると思っている。
また、祖父から続く私の家の物語も、阿弥陀如来の物語への感情移入の材料になっているのだ。