鳥山明は基本的には「他愛のない楽しい物語」の作家だったと思うが、その作品の端々に、ゾクッとするような生きた人間の描写が紛れ込んでおり、長年経ってみてからでじわじわ効いてくるものも多い。
小学生の頃、『Dr.スランプ』の千兵衛プロポーズ回を見た時、ハプニング的な求婚直前のみどり先生のあの表情は、子供心に「あ、変わった!」と思った。
中高生から二十代にかけて『ドラゴンボール』を読んでいた時はもちろんバトルマンガとして楽しんでいたわけだが、思い返してみると作中の人間関係、人間洞察の描写に唸ることが多々ある。
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●『ドラゴンボール』全42巻
マンガ『ドラゴンボール』の主人公は言わずと知れた孫悟空で、日本だけでなく世界中で愛されるスーパーヒーローだ。
誰もがその名をきけば「ああいうやつ」というキャラクター像が浮かぶと思うが、しかし具体的にどんな人格か説明しようとするとけっこう困る。
他のキャラクターや各エピソードを追うことで、悟空とは何者か、何を求めていたのか、輪郭が浮かび上がってくるかもしれない。
まずは若くして結婚した悟空の嫁、チチから語り始めてみよう。
年若い頃はバカだったので、悟飯が生まれて以降のチチを「むかしは可愛かったのに……」などと思っていたが、大人になって読んでみると母親になってからのチチは100パーセント正しい。
悟空はバトルマンガの主人公としては最高のキャラクターだが、「生活のリアル」という面から見れば社会不適応にしかならない。
人格というものは美点と欠点が表裏一体で、悟空の浮世離れ、軽みは、非常事態にあって見る者を安心させ、「きっとこいつならなんとかしてくれるのではないか?」という希望につながる。
実際、作中でも「悟空の不在」は事態の深刻化や救いの無さを招きがちだ。
チチが悟飯を戦いに巻き込むことに一貫して反対していたのは、「おらの悟空さが負けるなんてありっこねえ!」という、一点の曇りもない信頼の裏返しでもあったろう。
バトルマンガの中にごく常識的なものの観方を堅持するキャラクターがいるからこそ、物語に深みが出来るのだ。
亀仙流の体術とか拳法に限って言うと、一番プレーンに継承しているのは、牛魔王の教えを受けたチチではないだろうか。
何しろ天下一武道会の本戦出場者なので、普通の人間レベルでは十分に「武道の達人」である。
後のミスターサタンやビーデルと同等くらいには強くても不思議はない。
誰に対してもきっちり自分の意思を通すチチの強さは亀仙流の修練が基礎になっているはずで、結婚後は悟空のものの考え方にも影響を及ぼしている。
悟空との間に悟飯を産み、物語の行方を大きく変えたことも大きい。
さらに世代が進んで、サイヤ人の血を引く子供たちが増えてきたら、子育て相談の保護者の会なんかができるかもしれない。
チチとブルマが世話役になったりするかもしれない。
大人になって「育てる方」「教える方」になってみると、あらためて色々わかることが多い。
ピッコロが幼児の悟飯の修行をつけた時、最初の半年間荒野に放置したのは、人に何かを指導するシーンとして凄くリアルだ。
まず自力でできるだけやり、自己解決できることはクリアし、自分なりにものが考えられるようになっていないと、何か教えられても身に付かない。
(ただ、いくら強大なパワーを持っているとはいえ、幼児を荒野に放置するのは完全に虐待で、現実ではせめて思春期以降、自分の意志で修練に入った場合のみ許されるのは言うまでもない)
作品初期の亀仙人・武天老師による亀仙流の教えは、何を学ぶ場合でも全く正しい。
「武道は勝つためにはげむのではない。おのれに負けぬためじゃ」
「これまで習得した基本を生かし、自分で考えて自分で拳法を学べ」
「よく動き、よく学び、よく遊び、よく食べて、よく休む。これが亀仙流の修業じゃ」
そもそも悟空の育ての親である初代孫悟飯は、亀仙人の一番弟子だった。
亀仙人に弟子入りする以前から悟空は亀仙流で、無理をしない優しさで育てられたことが、凶暴なサイヤ人の素養を矯めたのだろう。
悟空の人格が不可解な奥行きや二重性を感じさせるようになったのは、兄ラディッツとの闘いで一度死に、ベジータやナッパと闘うために帰還したあたりからだろう。
それまでの戦いからシリアス度が一段上がり、戦闘民族サイヤ人として自覚したことがきっかけで、それまでのように天真爛漫に戦いを楽しむことが困難になったことが原因かもしれない。
フリーザ編でスーパーサイヤ人になって以降は、変身する度に人格が転換する描写が加わる。
地球で育った陽性の人格を共有しつつ、その奥から冷徹な戦闘モードの人格が顕れて重なってくる印象だ。
悟空が繰り返した「限界突破」「瀕死からの超回復」、その果てのスーパー化は、サイヤ人の強靭な肉体あってこそであり、亀仙流の教えとは実は相容れない。
人造人間編で悟飯を指導する責任ある立場になって初めて、悟空は亀仙流の基本に立ち返り、休養と自然体の重要性に気付いている。
少年マンガにおける「超努力による限界突破」は、『巨人の星』『あしたのジョー』を代表とする梶原一騎原作作品あたりから創出されたメソッドだと思うが、悪影響も生みやすい問題はある。
現実世界で非科学的な根性論や、パワハラやブラックな働き方を正当化する下地になりかねないのだ。
売れる要素として作中で活用しつつ、梶原マンガの段階から「それは死につながる道である」ということはしっかり描かれていて、読者はいずれそこに思い至れる構造にはなっている。
鳥山明『ドラゴンボール』も、読み進めるうちに最終的には「超努力による限界突破」の否定に思い至ることができる流れはあると感じる。
かめはめ波と並ぶ悟空の得意技・元気玉は、「みんなの力を結集して強大な敵を倒す」という、世界を救うヒーローに相応しい技だが、悟空はあまり使用に乗り気でない気がする。
無意識の内にセーブがかかるのか、ベジータもフリーザも完全には倒せておらず、決めきれたのは最後の最後、魔人ブウに対してだけだ。
技の構造として「自分一人の力ではない」点に、心の底では納得できていないのかもしれない。
実は悟空は「殺し合い」レベルの戦闘自体に乗り気ではなく、一番心置きなく力を発揮するのは「力の試し合い」レベルだ。
一貫して天下一武道会を愛好し続けたのは、自身のサイヤ人としての素養と、後天的に身に付けた亀仙流の教えがうまく重なる領域だったからだろう。
長期連載で大河ドラマを紡ぐようになった『ドラゴンボール』主要メンバーは、連載後期には親戚づきあいのようになっていく。
悟空の息子の悟飯はそのファミリーの中では「初孫」的な位置にあって、初期メンバーから特別に可愛がられて育っている。
(ついでに言うとヤムチャは、親戚の中で「ふだん何やってるかよくわからないが、顔を見ると気楽になれるおじさん」的な位置)
悟飯は作中で一貫して「特別な子」扱いになっており、素質だけなら誰よりも強いが、本人は全く戦いを望んでいない。
悟飯と『ジョジョの奇妙な冒険』第三部主人公・承太郎は似たところがある。
自ら望んで修業を積むほどの戦闘好きではなく、本来は物静かな学究タイプで、置かれた状況と生来の素質からたまたま「最強」になってしまっただけなので、本人は「強さ」にさほどのこだわりはない。
ピッコロ、悟空、ベジータはそれぞれに「強さ」だけを求めていたが、「素質最強ながら性格適性ゼロ」の悟飯と接してはじめて、戦い以外の価値観を思い知る。
人造人間編では、精神と時の部屋で悟飯が初めてスーパー化したシーンは描かれていない。
最初のスーパー化には「強烈な怒り」が必要なはずだが、悟飯は生まれつきの素質だけでクリアしたのかもしれない。
セル戦で初めて「怒りによる限界突破」を経験し、スーパーサイヤ人を超えたその先に至ったのではないだろうか。
あのシーンは今見ると完全に集団による児童虐待で、寄ってたかって大人しい子供を小突き回して怒らせようとしている。
しかも一番酷い「主犯」が父親の悟空であることに戦慄する。
悟空が息子をちゃんと見れておらず、魔王であったピッコロの方がよほど「親」として悟飯を見ている。
戦闘民族サイヤ人の邪悪さが一番出ていたシーンではないだろうか。
年配になってから再読すると、とくに魔人ブウ編のミスターサタンの一連の描写が良いと感じる。
ミスターサタン的な「ヒーローの戦いに迷い込んだ普通の人」の立ち位置は、当初はクリリンが担当していた。
しかしクリリンは悟空にくらいついていって成長し、強く立派になってしまった。
小狡くて嘘つきでどうやっても立派になりようがないミスターサタンが、立派じゃないそのままで世界を救うための重要パートを担ったのが泣かせる。
作中の描写は無いが、おそらくサタンは苦労人だったのだろう。
どんな時でもしぶとくチャンスをつかんでのし上がるたくましさと、ふとした瞬間に見せる人の好さの二面性が、それを感じさせる。
無邪気な魔人ブウに策略とは言え対話を試み、糞みたいなブウの生い立ちに途中から同情してしまうことで心を通わせ、突然現れた邪悪な人間をとっさの正義感でブウの目の前でぶちのめして見せ、「噓からまこと」で世界を救うきっかけを作っている。
悟空が純粋悪のブウに元気玉を使うクライマックスで、サタンが地球人の意識を「嘘」でまとめ上げるシーンは、「ああ、未熟な地球人には狡く優しい嘘つきこそがヒーローに相応しいのだな」という、サラッと乾いたユーモアがあった。
スーパーヒーローではない一般人でもここ一番で根性出したらミスターサタンにはなれて、悟空に「やるじゃねえか! おめえはホントに世界の救世主かもな!」と言ってもらえるのが素晴らしい。
詐欺的に始まった「サタンコール」を、最後は読者全員心の底から唱和する展開に、涙をおさえきれなくなるのだ。
ドラゴンボールワールドは、本質的にはブルマが創っている。
そもそもドラゴンボール探しの旅の途中でブルマが小さい悟空を拾ったのが物語の発端だ。
天下一武道会バトルの流れに入ってから一旦はブルマの活躍の場が無くなったが、サイヤ人編からナメック星に舞台を移したフリーザ編への移行はブルマが主導しているし、地球帰還後はベジータの子のトランクスを出産することで、また運命の流れを切り替えている。
悟空の心臓病死で行き詰まった本流の世界線から、タイムマシンの開発で新たな世界線を分岐させたのもブルマだ。
元々の世界線「地獄の未来」の悟飯、トランクスは、立派ではあるけれども、本来の生き方が出来なかったせいかあまり幸せそうには見えない。
同じ世界線のブルマは幸せではないかもしれないが、本来の「冒険者」のまま年を重ねていて、本編エピローグ、同年代のセレブなブルマよりずっと若く見える。
人造人間編の最初の方で、ブルマが「戦闘マニアのサイヤ人」を批判する印象的なシーンがある。
ここでは「常識的な地球人」の役割で発言しているが、ブルマはブルマで実は「退屈な日常に耐えきれない冒険マニア」な一面はあり、それが折々で新しい冒険を生み出しているのだ。
マンガ版の終章「十年後の世界」は、多くのキャラが本来の個性のまま成長した姿が見られる。
研究者で優しいパパの悟飯、普通の十代少年の悟天、ちょっと舐めた若造トランクス。
その他のキャラもそれぞれに平和な日常を過ごしている。
ドラゴンボールワールドは原作漫画完結後もまだ公式で新作アニメ等のリリースが続いている。
現役のファンも多いことだろうから、これは個人的な感覚なのだけれども、平和になって戦う理由が無くなった悟飯、悟天、トランクスが降りた時点で、あの世界線は閉じたのだと思う。
武術に限らず、本人が心底好きでやるのが「クリエイト」であって、そうした創造的精神は血筋だけでは伝わらない。
悟空、ベジータがその後も強さを追及するのは良いが、悟飯は元々戦いなど好きではなかったのだから、降ろしてあげるのがむしろ遅すぎたくらいだ。
責任感の強い悟飯が戦いから引退したらしいのは、妻ビーデルと娘パンの存在が大きいのだろう。
悟飯を「戦いの後継者」の重責から解放し、「家庭の幸せ」を選ぶ背中を押してやった時、悟空はようやく本当の父親になれたのだ。
物語の果て、悟空は魔人ブウが転生した少年ウーブに出会う。
二人の組み合わせは、「じっちゃん」初代孫悟飯と、地球に送り込まれたサイヤ人幼児カカロットの関係とシンクロする。
大好きだった命の恩人のじっちゃんを、意識は無かったとはいえ大猿化することで殺してしまった悟空。
贖罪の意識もあったことだろう。
記憶を失った「破壊の申し子」を、亀仙流の老師が再び導く形に帰着することで、原作漫画は円環を完成したのだ。
エピローグに相応しい、地獄の未来のブルマとトランクスが生んだ、優しい夢の世界線だと思う。
(了)