この9月刊行の『妻の座』という作品でイラストを描かせていただく機会があり、壺井栄のことについてあらためて知ろうと思ったのだ。
(カバーをめくった本体表紙イラストを担当)
●『妻の座』壺井栄(けいこう舎)
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本作を一読して、「悲哀」という言葉が浮かんだ。
字面は「かなしい」を重ねてある言葉だが、ニュアンスとしては「軽み」や「滑稽」が含まれると思う。
深刻そのものの内容を、どこかそう感じさせるのが壺井栄の持ち味なのだろう。
身内の実話に取材しているとされ、「相手方」からの反論作品もあるという。
この作品に関しては、相手方にも身内にも、そして自分にも、厳しい視線とともに、情は込められている。
双方の立場に公平に、創作としての昇華に努めていることが感じられる。
主要登場人物の一人は元女性教師で、読んでいてもどかしいほどにコミュニケーションに難あり。
これで長く教職が勤まっていたのが不思議に思える人も多いだろうけれども、教師というのは「鈍重でも不器用でもただひたすら日々のルーティンをこなす」のが、意外と一番重要な仕事なのだ。
教職の対人スキルと、家族に対するコミュニケーションは全く別物と言うこともある。
本来「進歩的」であるはずのプロレタリア文学の人脈が、容姿に恵まれず不器用ではあるが、十分に仕事や家事をこなしてきた女性を、心身ともに追い詰めてしまうどうしようもなさ。
単に「執筆当時の社会の男尊女卑」ではすまされない様々なテーマがぶち込まれ、解きほぐせないままに筆は置かれる。
作品に加え、栗林佐知による「ねつれつ解説 壺井栄をナメるなよ!」が読み応えあり。
壺井栄の経歴や執筆された時代、当事者たちの人間関係についての情報、2020年代に壺井栄を読むことの意義が、タイトル通り熱烈に語られている。
代表作『二十四の瞳』の著者としての知名度こそ高いが、そもそも壺井作品はちゃんと読まれてきたのか?
まさに今、読むべきテーマがここにあるのではないか?
あらためて世に問う一冊である。
今回『妻の座』を読了して、代表作『二十四の瞳』も再読してみる気になった。
数十年前に子供向けの文学全集の類で読んだはずだが、内容はほぼ覚えていなかった。
おぼろげな記憶から、なんとなく『妻の座』と裏表というか、一対のような気がしたのだ。
調べてみると制作年代は割に近い。
実の妹とプロレタリア作家のトラブルがあった1946年(47歳)以降、精神的影響から三年ほど創作が困難になり、ようやくその実体験を『妻の座』として完成させたのが1949年(50歳)。
その後徐々に創作活動に復帰するも、1951年には作家デビューの手引きをしてくれた「半生の友」宮本百合子の死に衝撃を受ける。
敗戦直後からも続いた苦難の日々の果てに、1952年の『二十四の瞳』刊行があったのだ。
さすがの代表作で、読むだけなら青空文庫でも読め、電書はけっこう安い。
書店の棚には角川文庫、岩波文庫、新潮文庫で、それぞれ並んでいた。
今回は新潮文庫版を入手。
●『二十四の瞳』壺井栄(新潮文庫)
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序盤はおぼろげな記憶通り。
瀬戸内海、小豆島の中でも隅っこにあたる岬に赴任する新人女性教師と、担当の子どもたち、地域の人々との交流。
戦前、地方の生活が描き出される。
まだ近代化がさほど及んでいない僻地に、颯爽と自転車と洋服で現れた大石先生の奮闘。
一般にも『二十四の瞳』と言えばこの序盤のイメージが強いはずだが、これはほんの導入部に過ぎず、先生の怪我による休業であっさり終了する。
第五章「花の絵」から物語のトーンはがらりと変わり、徐々に逼迫する時世に、教育者も子どもたちもじわじわと押し流されていく。
真綿で首を絞めるように進行する教育統制の描写は、今読むと「過去のこと」とは思えない。
数年の間を飛ばしつつ物語は進むのだが、その末に大石先生は夫を失い、すっかり軍国少年に育ったわが子と向き合わなければならなくなる。
時を経て岬の学校に帰り、成長したかつての子どもたちとも再会する。
その再会は十分に感動的だけれども、それぞれに年齢を重ね、傷を負ってきたかつての子どもたちは、もうあの頃の子どもたちではない。
あらためて、壺井栄の筆力を堪能した。
文章で情景を構築すると言うより、「実際に見えたものを書いている」という感じで、その映像が読者の方にも流れ込んでくる。
飛び飛びの時制でも章ごとの描写が濃密なので、文庫本一冊が大河ドラマの厚みをもって読める。
読了して、やはり今回最初に読んだ『妻の座』と連続するテーマを感じた。
最後まで読むと記憶の中のイメージと全然違って感じるのは、あるいは『妻の座』を先に読んでいたからかもしれない。
関連作品をもう少し読んでみたくなった。
(続く)
