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2025年09月27日

壺井栄と向き合う2

 続いて『二十四の瞳』の直後の作品『岸うつ波』も読んでみたくなった。
 この作品は現在入手困難のようなので、図書館の所蔵の筑摩書房『壺井榮全集第一巻』(昭和四十三年)を借りる。収録作は『妻の座』『岸うつ波』『裲襠(うちかけ)』の三作。
 せっかくなので『裲襠』も読むことに。
 各作品についてメモしておこう。

●『岸うつ波』
 いくつかの解説や年譜で、『妻の座』の続編と紹介されているが、実録風の『妻の座』と比して、こちらはフィクションの割合が多そうだ。
 作家の後妻に入った女性が、身勝手な言い分で離婚を言い渡されるところから始まるので、関連作品ではあろう。
 本作、解説の類では「扱いに困る」という体で紹介されていることが多い。
 確かにモデルの一つになっている「作家」への批判については、作品内に組み込みきれていないアンバランスさは感じる。
 ただ、「小説的な完成度というのは、そんなに重要だろうか?」とも感じた。
 バランスの悪さや未完成な部分があるからこそ、その作品についてあれこれ考える材料になることもあるのではないか?
 現実世界の苦境や悲嘆は、よくできたフィクションのようにはきれいにまとまらないのだ。
 どうしようもない現実を前に、どうしようもなく彷徨う主人公なぎさの姿は、たしかに生きてそこに存在している人間と感じられる。
 彼女の生い立ちや周囲の人々まるごとセットで、リアルに描き出されている。
 先に読んだ『二十四の瞳』にも同様の描写があったが、出征前の兵士に「人的資源の種をまいてこい」と休暇を与える、反吐が出そうな旧日本軍の在り様は、恥ずかしながら今までよく知らなかった。
 もちろん「結婚間もない夫を兵隊にとられ、残された妻が出産する」というケースが多々あったことは認識していたが、「種をまく」ためにむりやりあてがわれる女性の存在を、よくわかっていなかったのだ。
 滅びて当然の国であるが、考えてみると女を道具扱いにするそうした意識は、今も大して変わっていないことに滅入ってしまう。
 私にしても、2020年代の今現在であれば「人的資源の種をまいてこい」という指示の惨さは理解できるが、戦中の世相の真っ只中でその異常性を認識できるかと問われれば、甚だ疑問だ。
 主人公にそれを要求した男性も、元来は純朴な人物に過ぎなかったのだろう。
 今回の一連の壺井作品読書の中で、読みながら一番考え込んでしまった一作かもしれない。
 これは十分成功しているのではないか?

●『裲襠』
 筋立てに直接のつながりは無いが、『妻の座』『岸うつ波』で投げっぱなされたどうしようもない悲嘆が、小豆島の女系五代のファミリーヒストリーを辿ることで鎮魂されるのを感じた。
 大柄な体躯と美貌に恵まれ、前近代の土地柄に「女傑」として鮮烈に登場する初代すず。
 地元で裕福な「小判屋」の虚栄が、タイトルにもなっている豪奢な「裲襠」に象徴されている。
 当時の社会では、女性が自分の生き方をほんの少しでも選び、貫くためには、家と財力を握るしかなかった。
 心の奥底ではもっと自分の心の欲するままに生きたいと願いながらも、まずは家を守ら女傑として振舞わざるを得ないすず。
 直接の娘ではないが、容貌と気性を継承した血縁の二代たつ、血は薄まりながらも三代小梅、四代琴路と、「小判屋」の因縁は続く。
 そして戦後社会に巣立つ五代さやかに至り、大切に継承されてきた裲襠は、物理的な限界を迎えて崩れ落ちる。
 さやかの見せるかろやかさは、「小判屋」の業をリセットするため、あるいは「心のままに生きる」悲願をかなえるために大きく隔世した初代すずの魂の解放か?


 一通り読んでみて、『妻の座』『岸うつ波』『裲襠』の三作をセットで全集第一巻収録作に選んだ編者の慧眼に唸った。
 筋書きが直接つながっているわけではないが、共通する背景で書かれている。
 それは小豆島の歴史を背景とする世界観で、代表作『二十四の瞳』は、そこからのスピンオフと読むこともできる。
 小豆島は壺井栄の故郷であり、そのファミリーヒストリーは当然作品に反映されている。
 今回図書館で同時に借りた文泉堂出版『壺井栄全集12』、鷺只雄による年譜が大変参考になった。
 一族や周辺エピソードまで詳細に紹介してあり、年譜というより「壺井栄略伝」の趣で、読み物として面白かった。

 壺井栄は祖母の影響を強く受けていたという。
 一族の地母神的な存在で、地元の伝承や噂話、子守歌などを好んで孫たちに聞かせ、最も熱心な聴き手が栄だったとされる。
 一族の語り部の役割を継承したのだ。
 自身の境遇についても、少しずつ「読み替え」を行って物語化していた節がある。
 実際は少女期からかなり書物に親しみ、書き物もしていたようだが、「文学少女であった」ということは否定している。
 周りのプロレタリア文学者たちに対する謙遜もあろうけれども、「そんなに甘っちょろい人生は歩んできていない」という自負のようなものも感じられる。
 壺井栄は通常プロレタリア文学とか児童文学でくくられることが多いと思うが、あらためて読んでみると分類はあまり意味がないと思った。
 続けて何作か壺井栄作品を読んでみて、「女性教員」という職業に思い入れが感じられる。
 二十世紀前半の若い一般女性にとって、「手を伸ばせば届く可能性のある知的労働環境」としての教員は、一定の魅力があったのではないだろうか。
 とくに女性の「人間的な生き方」が重要テーマであり、それに「生活のリアリズム」が重しになって、描写に深みをもたせている。
 戦中非合法時代から左翼活動も女性の生き方の解放を願ったもので、そこが踏みにじられるならば「仲間」であろうと喧嘩は買うということだろう。

 壺井栄読書の関連資料として、小豆島の位置関係の頭の整理に『播磨灘絵図』をざっくり描いてみた。
 北にあたる播磨側から播磨灘、太平洋側を見渡している。
 小豆島は香川県に属しているが、瀬戸内の海上交通では播磨灘の西にどっかりと鎮座する要所で、四国と播磨の中継地にもあたる。
 移動の多い『岸うつ波』作中では、海路とともに播磨側の山陽本線を使うシーンが出てくる。

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(クリックで画像拡大)

 壺井栄作中の小豆島を中心とした世界観では、こうした位置関係も大切になってくる。
(続く)
posted by 九郎 at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 教養文庫 | 更新情報をチェックする
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