日本の祭、縁日の風景は、聖と俗、正気と狂気、日常と非日常など。相反する要素がバランスをとって共存しているところにそのパワーの源泉がある。
強大な複数のベクトルが危うい均衡を保つ「真釣り合い」が「まつり」の本質だ。
昨今の「市民まつり」には、聖性も狂気も乏しい。突出した非日常がきれいに削除されていて、清潔だがつまらない。日常の買い物と大差がない。法的に怪しいもの、市民社会と異質なものを排除し、身奇麗に行事だけを執り行っても、そこに熱は生まれにくい。
どこやらの裸祭で、警察が猥褻だ何だと横槍を入れたらしい。
厳密に法に照らして取り締まればそうなるのだろう。しかし、人間はそもそも「法を守るために生きている」のではない。猥雑な人間の暮らしを破綻なく守るために法があるのであって、その逆ではありえない。
一見愚かで非合理に見える祭でも、それが存在することによって保たれてきた地域の微妙なバランスと言うものがある。杓子定規に取り締まって見えないバランスを踏みにじる者こそが、真に愚かだ。
●「ヤクザと日本―近代の無頼 」宮崎学(ちくま新書)
この本には、私が懐かしく思う縁日の風景の淵源が、あまさず解説されている。先日紹介した「香具師口上集」とともに、祭の熱はどこから生まれるのか考えさせられる一冊。
2008年02月13日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック