紀淡海峡の中央に浮かぶ無人島・友ヶ島の、紀伊半島側の対岸・加太に、「雛流し」で知られる淡嶋神社がある。
祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)・大己貴命(おほなむじのみこと)・神功皇后/息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)で、その由来物語は、以下の記事にまとめたことがある。
友ヶ島年代記2 アワシマ
友ヶ島年代記3 神功皇后
友ヶ島年代記6 中世淡嶋願人
南海加太駅から西へ進むと紀淡海峡を望む海岸線に出る。海からの漂着物を迎え入れるように朱の大鳥居があり、淡嶋神社の参道がはじまる。新鮮な海産物のお店も出ている。
参道を抜けると、美しい社殿が目に飛び込んでくる。
何気なく接近すると、ふと胸をつかれる。
境内におびただしい数の人形が並べられているのが見えてくる。
淡嶋神社は「人形供養」で知られるため、全国から人形が持ち寄られてきているのだ。
三月三日の雛祭りの日には、思いのこもった雛人形をあちらの世界に流す「雛流し」の神事が執り行われる。
大切にしていた「人型のモノ」は、ゴミとして捨てるには抵抗がある。それは人として自然な感情だ。
小さなものを愛でる気持ち、感情移入する回路、思い出を大切にしたい心など、人間らしい感情は非合理と不可分だ。
人形は単なるモノでしかないのだから、ゴミとして捨てても何の問題も無いし、何も起こりようがない。
それは大前提だけれども、なんとなく気になり、何らかの手続きをとりたくなる感情は、誰の心にもある。人型のモノを平気で捨てたり破壊できたりするのは、人としてどこか異常だ。
そういった感情を悪用して、例えば「あなたの不幸の原因は人形の祟りである」などと脅迫し、高額な金銭を要求することなどは、もちろんあってはならない。
しかし、常識の範囲内で儀礼を執り行うことは、文化のありようとして意味がある。
境内に無数の人形が並んでいる様は、ちょっと写真撮影のはばかられる雰囲気があるが、撮っても大丈夫そうな微笑ましいエリアもある。
淡嶋神社は、かつて「淡嶋街道」と呼ばれる参詣道で葛城や熊野、高野とも繋がっていたし、友ヶ島とは同じ神話の中で成立している。和歌浦も、共通する風景の中にある。
神社のすぐ近くの小高い山の上には行者堂があって、役行者像が安置されている。
日の落ちる西の方角には、常世の国の入り口をイメージさせる友ヶ島が、ぽっかりと浮かんでいる。
私は紀伊半島に点在する、このような神話の風景がたまらなく好きだ。地元民では無いので大きなことは言えないが、こういう神話の風景を破壊するような開発は、行われないで欲しいと願っている。
2008年03月03日
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