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2008年06月08日

西村公朝展

 西村公朝さんのことについては、これまでにも何度かふれて来た。
 私は西村公朝さんの著書の大ファンで、一度講演会でお姿を拝見したことがあるだけなのだが、勝手に仏像・仏画の師と仰いでいる。
 最近、師の作品を集めた展示があると知り、観に行ってきた。
 それほど大規模な展示ではなかったけれど、若い頃の習作から晩年の代表作「釈迦十大弟子」まで、さらには木彫や書画、仏像修復に関するメモなどの貴重な作品に、かなり近い距離で接することが出来た。
 師の生前親交のあったという長渕剛さんからも、そっと観葉植物が寄せられており、展覧会としては全体に小規模ながら、親しみの持てる良い雰囲気だった。
 師の作品には様々な作風があるが、私が一番好きなのは荒彫り+淡彩の作品群だ。仏像修復の第一人者として数々の国宝級を手がけ、仏師としても第一人者である師だが、とくに晩年のご自身の作品は、荒削りで可愛らしい作品が多い。木材それぞれの個性を大切にしながら、その場その場の即興性を取り入れ、生き生きとした仏様を刻みだすスタイルは、円空・木喰に比肩しうるのではないだろうか。
 当世第一の技術を持った師が、あえてあのスタイルを採っていることに、とてつもない凄みを感じる。

 創作において先行作品に学び、技術を磨き、手間をかけることはもちろん大切な前提だ。しかし、これは絵描きのはしくれとしての自戒なのだが、一生懸命研究し、練習し、手間をかけて、それで満足しては駄目なのだ。
 大切なのは、そこにある作品が生きているかどうかを、構えずに見定めていくこと。自分が作品に注いだ労力などは、最後はさらりと捨て去らなければならない。

 まあ、「言うは易し」なのだが、西村公朝さんのような人にそれを実践して見せられてしまうと、あらためて背筋がしゃんと伸びてくる。 



●「西村公朝と仏の世界―生まれてよかった」(別冊太陽)
 私が好きな西村公朝さんの「荒彫り+淡彩」の作品を見るならこの一冊。

●「仏の道に救いはあるか―迷僧公朝のひとりごと」西村公朝(新潮社)
 今回の展示にあわせて遺稿から編まれたという一冊。
 一読して、いつもの師の文体とは微妙に異なると感じる。
 他の著書より「スピードが速い」と言おうか。これまでのゆったり細やかな話の進め方ではなく、感じたことを感じたままにポンポンと畳み掛ける文体だ。
 本のタイトル「仏の道に救いはあるか」というのも、ずいぶん刺激的だし、内容的にもやや「意を尽くしていないのではないか」「飛躍しているのではないか」と思う表現が散見される。
 もしかしたら「遺稿」というのは、出版を前提としない個人的な手記のようなものだったのかもしれない。ここから更に表現を練り上げると、いつもの師の著書の雰囲気になるのかもしれない。

 とは言え、この本は非常に面白い。
 荒削りな印象が、西村公朝という稀代の仏師の普段の息遣いを感じさせてくれる。研ぎ澄ませた感性をそのままぶつけられるような感覚は、「歎異抄」にも通じる気がする。
 折に触れ読み替えして、一つ一つの言葉を味わってみたい一冊だ。
posted by 九郎 at 23:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
> 管理人様

> もしかしたら「遺稿」というのは、出版を前提としない個人的な手記のようなものだったのかもしれない。ここから更に表現を練り上げると、いつもの師の著書の雰囲気になるのかもしれない。

なるほど、そんなところはあるでしょうね。拙僧以前、この「遺稿」ということについて調べたことがありまして、例えば哲学者のベルクソンは、自身の遺稿が残ることを拒否し、全て焼き払ったといいます。いわば、死後に自分のイメージなどが変わることを恐れたとも考えられます。一方で、フッサールは、自身の遺稿を残すために、様々な努力をしました。これは、生前に書きためた遺稿に、豊富なイメージがあるので、それを後進に託したと考えられます。

さらに、道元禅師も多くの遺稿があったようですが、それは後に編集されました。しかし、内容は、生前に明確な意思を持って編集された部分と、かなりの齟齬を来たし、正直、道元禅師の思想の全貌について、イメージの難解さを招きました。

ですので、遺稿というのは、扱いが難しいですね・・・

と、本文と余り関係ないコメントをしまして、恐縮でございますm(_ _)m
Posted by tenjin95 at 2008年06月09日 16:59
tenjin95さん、コメントありがとうございます。

たしかに「遺稿」の扱いは要注意ですね。
まず問題となるのはその真贋で、資料の出所が信頼できなければなりません。
贋作でないと確認された上で問題になるのは、「遺稿」として残されたものが、著者本人の中でどの程度の完成度であったかですね。
完成原稿が世に出なかっただけなのか、明らかな未成品であったのかで、内容の受け取り方がまったく違ってきます。

今回取り上げた西村公朝さんの本は、出所は明確なんですけど、文章の雰囲気ががこれまでの著書とは違うことが、後記で触れられていますので、読む方としてはある程度その点に留意しつつ、味わうことが求められると思います。

まずは著者本人の明確な意志で発表された作品に触れ、その上で関係資料として各種「遺稿」の類に触れるのが本筋ですね。
Posted by 九郎 at 2008年06月10日 23:55
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