孤高を保ち、独自の存在感を示しながらも、毀誉褒貶が激しい。
読む者、聴く者の感情を激しく揺さぶる能力を持つ。
受け手の首根っこを引っ掴み、ともかく最後まで話を聴かせてしまう力量を持つ。
ジャンルを問わず、そんなタイプの語り手がいる。
私はけっこうそういう癖のあるタイプが好きなので、そうした表現者と出会う度、そのほぼ全作品を手にとって贅沢な時間を過ごしてきた。
基本的に私の蔵書は「浅く広く」なのだが、その中に同じ作者の本ばかり詰まった段ボール箱のエリアが、いくつか存在する。
その一つに「広瀬隆ボックス」がある。
二十年ほど前から、全作品ではないが、広瀬隆の本は七割以上読んできていると思う。
チェルノブイリ原発の爆発事故以降に盛り上がった前回の反原発の波の中、広瀬隆は一方の旗手として広く読まれてきた。
そうした本の中に、有名な「東京に原発を!」や「危険な話」があり、私も確かこの二冊あたりから広瀬隆にハマっていった記憶がある。
どちらも福島の原発事故を受けて、現在も入手可能のようだ。
試みに手元の本を読み返してみると、今開いても内容はほとんど古くなっていない。二十年以上前の時点で指摘されていた数々の問題点がそのまま、今回のフクシマの破局へと繋がったことが再認識できる。
広瀬隆は技術職上がりのノンフィクション作家である。
今も昔も原子力の専門研究者ではないが、その分、専門バカにならずに広範な資料を集積し、現状から将来の危機を予測するシミュレーション能力に優れている。
そしてその予測結果を、素人に非常に分かり易く、感情を揺さぶる文体で表現することに異能を発揮する。
この「感情を揺さぶる」という部分が、賛否の分かれるところではある。
誤解を恐れずに言えば、「あまりに話が面白すぎる」のだ。
その異能は、80年代当時から原発推進派のヒステリックな反撃を誘発してきた。
曰く「センセーショナルに確率の低い危機を煽りたてている」、曰く「専門家でもないのに何の資格があってデマを流すのか」、挙句の果てには人格攻撃に発展し、「陰謀論者」などという根拠の無いレッテル貼りで封殺しようとする……
そして本来は同じ陣営に属するはずの反原発派からも、批判にさらされることになる。
「冷静な議論を阻害している」「データに不正確な点がある」「自然エネルギーを軽視している」等々。
しかし、下で紹介する講演動画を見れば誰もが感じられると思うが、広瀬隆本人にはことさら受けを狙ったり、過激な表現で物事を大袈裟に見せかけたりしようとする意思はないだろう。話の分かり易さ、面白さは「天然モノ」なのではないだろうか。
本の中で取り扱っている資料の見方に一部不正確な点があるのはよく指摘される。私も何度か確認したが、それで全体の論旨が破綻する程のものは無かったと理解している。
それよりも、細かな点をいくつか指摘することで、広瀬隆の論旨を全否定したがるヒステリックな批判者の心理に興味が湧いてくる。
80年代以来、3.11以降も、広瀬隆の主張はほとんど変わっておらず、そのことが「卓越した先見性」として再評価されることになった。
今のような非常時には、こういう「異能の人」の言葉にもっと耳を傾けるべきだ。
本当は普段から異能の人の意見はちゃんと聴き、最悪の想定をしておかなければならないのだけれど。
広瀬隆が今現在、繰り返し声を大にして伝えようとしている主張を私なりにまとめてみる。
●福島を中心とした汚染地域の子供たちを、一刻も早く国の責任において疎開させるべし。
●全原発を即時停止し、燃料棒を抜き取るべし。
●放射性物質は、一か所に大量にまとめてはならない。
●全原発を即時停止しても電力が不足することは無い。
●太陽光、風力よりも、ガスを中心にした火力や燃料電池をまずは推進すべし。
その主張の当否については、それぞれ直接に広瀬隆の言葉にあたってみてほしい。
まずはネットで短時間に読めるインタビュー記事。
広瀬隆特別インタビュー「浜岡原発全面停止」以降の課題
もう少し時間があるならば、一時間40分ほどの講演動画。
名うての原発推進派・鳩山由紀夫が出席しているのが謎である。「最後に会った人の意見が由紀夫の今の意見」という世評が真実味を帯びる(苦笑)
ちなみにこの勉強会の後、鳩山由紀夫は「地下式原子力発電所政策推進議員連盟」などと言うアホ丸出しの代物に名を連ねている。
2~3時間とれるならば、新書版を読んでみよう。
以前から何度か紹介してきた預言の書、「原子炉時限爆弾」の内容が、実際の事故を受けて読みやすくまとめられている。
●「FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン」 (朝日新書)
2011年07月25日
2011年07月26日
本を買って原発を止めよう
繰り返しになるが、私はここ二十年来、強硬な反原発の意見を持ってきた。
しかしその考えは、とくに2000年代に入ってから全く時流に合わなくなってきて、「CO2による地球温暖化説」などと言う単なる仮説の一つが独り歩きし、それが原発推進の理由づけに利用され、あろうことかそうした虚構が「地球環境の保全」の美名のもと蔓延する様を目の当たりにして、ほとんど諦めの境地に達していた。
90年代頃にはそれでも人に聴かれれば反原発の主張をしていたが、ここ十年ほどは自分で書籍を集めてそれを一人で読むこと以外は何もしていなかった。
と言うのも、広瀬隆をはじめとする反原発の論者の意見に基本的には同意し、国や電力会社の悪辣な原子力政策に反発しながらも、どこかで「まあ、そうは言ってもカタストロフは起こらんように、なんとか辻褄合わせとるんやろ」と、正直たかをくくっていた面もあった。
原発から発生する放射性廃棄物
十万人以上にのぼる被曝労働者
金で貴重な国土と人の心を買い占める悪徳
ありとあらゆる「毒」で国を汚染しながらも、破局は避けるだけの狡猾さは保持しているはずだと思っていた。
あるいは、そう思いたかった。
大間違いだった。
信じ難いことだが、国も電力会社も、実は「何も考えていなかった」というのが、正解だったのだ。
3.11以降、私も考えを改めなければならなかった。
これまで数十冊の本を読み、それぞれの著者の血を吐くような告発を目にしながら、たかをくくって積極的に発言してこなかったことを恥じた。
幸いにして今の私は、ささやかながら個人運営としてはそれなりの閲覧者数をもつブログを持っている。
元来は政治的な主張をする場ではないのだが、こと原発に関してだけは、その禁を解かせていただくことにしたのだ。
とは言え、一介の素人たる私にできることは限られている。
まずはこれまで読んできた書籍の中から、3.11以降の今こそ読まれべきだと思われるものを紹介してみる。
福島の事故を受けて復刊しているものもあるが、埋もれてしまっている名著も多い。
私自身が読んできた中で、何よりも「読んで面白い」本を紹介してみたい。
ここで「面白い」という言葉を使うことに違和感を持つ人もいるかもしれないが、反原発はこれからもずっと長いスパンで考えなければならない。
80年代の反原発運動の盛り上がりは十年と続かなかった。
一時はコーナーも出来ていた書籍群も、90年代半ばには、書店の本棚からほぼ姿を消してしまった。
そのような書店における敗北を、今回はなんとしても回避しなければならない。
実際に自分で読んでみて読みごたえと面白さを感じた本をブログで紹介し、それが本の売り上げに結び付き、反原発が商売として成立し、その状態が息長く保持され続ける。
そういう状況を作るためのほんの一助として、ブックレビューを綴ってみる。
●「原発の闇を暴く」広瀬隆 明石昇二郎(集英社新書)
強力タッグである。反原発の古つわもの・広瀬隆と、「責任者出てこい!」という切り口で痛快なルポを連発してきた明石昇二郎が、福島原発の事故を受けて責任者どもを刑事告発するに至る筋道を語り尽くす最新刊。
対談形式なので非常に読みやすいが、読者は皆この本で告発される「事実」の数々に、ハラワタが煮えくりかえる思いをし、何度もページを閉じて一息つきたくなることだろう。
著者二人の対談が、以下のサイトで読める。
【対談】広瀬隆×明石昇二郎「原発事故がヒドくなったのはコイツのせいだ」
90年代の「週刊プレイボーイ」は非常に社会派の一面を持っていた。(今でもその片鱗は残っているが、過去を知る者にとってはヌルすぎる)
グラビアと漫画、非常にくだらない(注:褒め言葉である)娯楽記事の中に、一号に数本は「社会派」記事が掲載されており、そのカオス具合いが面白く、勢いがあった。
そうした「社会派」記事の中に、私が大好きで掲載を心待ちにしていたシリーズがあった。
明石昇二郎の「責任者、出て来い!」である。
中でも「原発銀座」と呼ばれる敦賀の地で、悪性リンパ腫が多発しているのではないかと言う噂の真相をたしかめるために現地に乗り込む企画には、毎回興奮させられた。
雑誌の発売が待ち遠しくて、明け方のコンビニに走ったりしたものだ。
あの「週プレ」の取材班が、往年の「電波少年」のアポ無し収録のような体裁をとりながら、「責任者」どもを追い詰めて行く様子にはぞくぞくする様な痛快さがあり、それと同時に「事実」に対する怒りが込み上げてきたものだ。
明石昇二郎はその後も、雑誌を変えながらも体当たりの取材を元にした記事を書きつづけた。
そうした記事の多くが、書籍として刊行され、現在でも入手が可能であることは非常に価値がある。
●「敦賀湾原発銀座[悪性リンパ腫]多発地帯の恐怖」明石昇二郎(技術と人間)
●「責任者、出て来い!」明石昇二郎(毎日新聞社)
●「原発崩壊 増補版-想定されていた福島原発事故」明石昇二郎(金曜日)
著者が体当たりで取材対象に直接ぶつかって行く姿勢に、元気をもらえる本達だ。
この「本を買って原発を止めよう」シリーズ、反原発書評は、今後も断続的に続けて行く。
しかしその考えは、とくに2000年代に入ってから全く時流に合わなくなってきて、「CO2による地球温暖化説」などと言う単なる仮説の一つが独り歩きし、それが原発推進の理由づけに利用され、あろうことかそうした虚構が「地球環境の保全」の美名のもと蔓延する様を目の当たりにして、ほとんど諦めの境地に達していた。
90年代頃にはそれでも人に聴かれれば反原発の主張をしていたが、ここ十年ほどは自分で書籍を集めてそれを一人で読むこと以外は何もしていなかった。
と言うのも、広瀬隆をはじめとする反原発の論者の意見に基本的には同意し、国や電力会社の悪辣な原子力政策に反発しながらも、どこかで「まあ、そうは言ってもカタストロフは起こらんように、なんとか辻褄合わせとるんやろ」と、正直たかをくくっていた面もあった。
原発から発生する放射性廃棄物
十万人以上にのぼる被曝労働者
金で貴重な国土と人の心を買い占める悪徳
ありとあらゆる「毒」で国を汚染しながらも、破局は避けるだけの狡猾さは保持しているはずだと思っていた。
あるいは、そう思いたかった。
大間違いだった。
信じ難いことだが、国も電力会社も、実は「何も考えていなかった」というのが、正解だったのだ。
3.11以降、私も考えを改めなければならなかった。
これまで数十冊の本を読み、それぞれの著者の血を吐くような告発を目にしながら、たかをくくって積極的に発言してこなかったことを恥じた。
幸いにして今の私は、ささやかながら個人運営としてはそれなりの閲覧者数をもつブログを持っている。
元来は政治的な主張をする場ではないのだが、こと原発に関してだけは、その禁を解かせていただくことにしたのだ。
とは言え、一介の素人たる私にできることは限られている。
まずはこれまで読んできた書籍の中から、3.11以降の今こそ読まれべきだと思われるものを紹介してみる。
福島の事故を受けて復刊しているものもあるが、埋もれてしまっている名著も多い。
私自身が読んできた中で、何よりも「読んで面白い」本を紹介してみたい。
ここで「面白い」という言葉を使うことに違和感を持つ人もいるかもしれないが、反原発はこれからもずっと長いスパンで考えなければならない。
80年代の反原発運動の盛り上がりは十年と続かなかった。
一時はコーナーも出来ていた書籍群も、90年代半ばには、書店の本棚からほぼ姿を消してしまった。
そのような書店における敗北を、今回はなんとしても回避しなければならない。
実際に自分で読んでみて読みごたえと面白さを感じた本をブログで紹介し、それが本の売り上げに結び付き、反原発が商売として成立し、その状態が息長く保持され続ける。
そういう状況を作るためのほんの一助として、ブックレビューを綴ってみる。
●「原発の闇を暴く」広瀬隆 明石昇二郎(集英社新書)
強力タッグである。反原発の古つわもの・広瀬隆と、「責任者出てこい!」という切り口で痛快なルポを連発してきた明石昇二郎が、福島原発の事故を受けて責任者どもを刑事告発するに至る筋道を語り尽くす最新刊。
対談形式なので非常に読みやすいが、読者は皆この本で告発される「事実」の数々に、ハラワタが煮えくりかえる思いをし、何度もページを閉じて一息つきたくなることだろう。
著者二人の対談が、以下のサイトで読める。
【対談】広瀬隆×明石昇二郎「原発事故がヒドくなったのはコイツのせいだ」
90年代の「週刊プレイボーイ」は非常に社会派の一面を持っていた。(今でもその片鱗は残っているが、過去を知る者にとってはヌルすぎる)
グラビアと漫画、非常にくだらない(注:褒め言葉である)娯楽記事の中に、一号に数本は「社会派」記事が掲載されており、そのカオス具合いが面白く、勢いがあった。
そうした「社会派」記事の中に、私が大好きで掲載を心待ちにしていたシリーズがあった。
明石昇二郎の「責任者、出て来い!」である。
中でも「原発銀座」と呼ばれる敦賀の地で、悪性リンパ腫が多発しているのではないかと言う噂の真相をたしかめるために現地に乗り込む企画には、毎回興奮させられた。
雑誌の発売が待ち遠しくて、明け方のコンビニに走ったりしたものだ。
あの「週プレ」の取材班が、往年の「電波少年」のアポ無し収録のような体裁をとりながら、「責任者」どもを追い詰めて行く様子にはぞくぞくする様な痛快さがあり、それと同時に「事実」に対する怒りが込み上げてきたものだ。
明石昇二郎はその後も、雑誌を変えながらも体当たりの取材を元にした記事を書きつづけた。
そうした記事の多くが、書籍として刊行され、現在でも入手が可能であることは非常に価値がある。
●「敦賀湾原発銀座[悪性リンパ腫]多発地帯の恐怖」明石昇二郎(技術と人間)
●「責任者、出て来い!」明石昇二郎(毎日新聞社)
●「原発崩壊 増補版-想定されていた福島原発事故」明石昇二郎(金曜日)
著者が体当たりで取材対象に直接ぶつかって行く姿勢に、元気をもらえる本達だ。
この「本を買って原発を止めよう」シリーズ、反原発書評は、今後も断続的に続けて行く。
2011年07月27日
すみかは地獄
報道で大きく扱われなくなり、なんとなく終息した雰囲気に持っていきたい何者かがいるのではないかと勘繰りたくなるが、今現在、福島第一原発からは放射能漏れっぱなしの状態である。
どこかに「穴」が開いているらしいことは分かっているのだが、それがどこなのか確かめる術は無い。
初期段階に起こったような爆発的な放出は一応止まっているものの、中身をたしかめられないので今後のことは誰にも確定的なことは言えない。
中身が分からないのでとにかく水を注入して冷やし続けているが、それは放射能に汚染された物質の量を、薄めて増やしていることともイコールだ。
放出された放射能は、自然現象や物流によってじわじわ広がって行く。
広がって行くことによって希釈される場合もあるが、生物濃縮や、風、雨水の流れによってピンポイントで濃度が上がる場合もある。
今後日本人は、本来原発内に閉じ込めておかれるべきだった放射能と、つき合いながら生きて行くしかなくなった。
地獄の釜が開きっぱなしの狭い国土は、否応なく「ぬるま湯地獄」と化していく。
今フタが開いているのは一か所だけだが、そのフタが開いた原因は「千年に一度の大津波」などではなく、「震度6の普通地震」で開いてしまったことが既に判明している。
震度6の普通地震は、地震国では普通にどこでも起こるので、日本国中に散らばった地獄の釜の、今は一応閉まっているフタ(隙間くらいは開いているかもしれないが)は、いつ外れてしまうか分からない。
日本の国土には、主に西から東に向かう風が吹いている。
福島では「不幸中のほんのひとかけらの幸い」として本州の東端のフタが開いてしまい、放出された放射能の大半は太平洋側に流れて行ったが、西日本のどこかでフタが開いてしまえば、今回とはレベルの違う地獄濃度が人口集中地域を襲う。
一見穏当に見える「段階的脱原発」ではなく「即時停止」が是非必要なのはそのせいだ。
私自身は今のところ大きく生活様式を変える必要は無いと判断しているが、それは住んでいる地域・年齢・性別によって様々に変わるので、各自が自衛しなければならない。
日本国は既に放射能汚染から国民を守ることを放棄していると思われるので、東日本の皆さん、とくに子供を持つご両親は、自力で情報を収集しなければならない。
ただ、必要以上に不安を感じて無理な生活様式を強行しようとすると、そのことの方が放射能の害そのものより肉体と精神を疲弊させてしまうことは十分にあり得る。
腹立たしいことではあるが、日本はすでに「ぬるま湯地獄」になってしまって、私たちは通常この国で暮らし続けざるを得ないのだから、「無理のない程度に気をつけて、少しでも生活圏から地獄を遠ざける」という対応策をとるしかない。
あまり生真面目に悩むのではなく「笑って暮らせる程度の努力」を生活の中で心がけることが、一般庶民にできる唯一の対応策だと思う。
無理なく楽しく暮らしながら、こうした状況を自分たちに強いている国と電力会社に対する怒りを末永く持続させ、諦めることなく原発の息の根を止めなければならない。
3.11以降の反原発は、楽しいものでなければならない。
無理のないものでなければならない。
決して忘れず、諦めないものでなければならない。
ファッションでかまわない。
商売でかまわない。
冗談交じりでかまわない。
一枚岩でなくともかまわない。
ただ一点「原発NO」で一致していればいい。
当たり前の生活スタイルとして放射能に対する知識を得て、原発にNOと言わなければならない。
節電は大切だが、それは「原発がとまると電気が無くなるぞ」という恫喝に屈するのではなく、日本人の美徳「もったいない精神」で行われなければならない。
現時点で、原発抜きでも電力は足りている。
酷暑のさなか、体調を崩してまでエアコンを止める必要はない。
武田邦彦という人がいる。
元は国の原子力推進政策の現場にあった人だが、原発の耐震基準に疑問を持ち、やや距離を置くようになったという。
3.11以降は完全に「反原発」それも「即時停止」に転向し、少しでも放射線被曝を避けるための方法を、毎日自分のブログで公開するようになった。
その記事は極めて平易な言葉で綴られており、また極めて具体的かつ無理のない方法が提示されているので非常に参考になる。
自分の半生を費やしてきた原子力が、福島で破局的な事故を起こしてしまったことに、深い罪悪感を持っているらしく、国と東電の虚偽と無責任で塗り固めた事故対応を告発する筆致には鬼気迫るものがある。
とにかく、気になる見出しからまずはご一読!
武田邦彦(中部大学)
ブログの記事をまとめた新書も刊行されている。
●「放射能と生きる」武田邦彦 (幻冬舎新書)
この人もまた、毀誉褒貶の激しい「異能の語り部」である。
地獄で笑って暮らすために、無理のない理論武装を!
どこかに「穴」が開いているらしいことは分かっているのだが、それがどこなのか確かめる術は無い。
初期段階に起こったような爆発的な放出は一応止まっているものの、中身をたしかめられないので今後のことは誰にも確定的なことは言えない。
中身が分からないのでとにかく水を注入して冷やし続けているが、それは放射能に汚染された物質の量を、薄めて増やしていることともイコールだ。
放出された放射能は、自然現象や物流によってじわじわ広がって行く。
広がって行くことによって希釈される場合もあるが、生物濃縮や、風、雨水の流れによってピンポイントで濃度が上がる場合もある。
今後日本人は、本来原発内に閉じ込めておかれるべきだった放射能と、つき合いながら生きて行くしかなくなった。
地獄の釜が開きっぱなしの狭い国土は、否応なく「ぬるま湯地獄」と化していく。
今フタが開いているのは一か所だけだが、そのフタが開いた原因は「千年に一度の大津波」などではなく、「震度6の普通地震」で開いてしまったことが既に判明している。
震度6の普通地震は、地震国では普通にどこでも起こるので、日本国中に散らばった地獄の釜の、今は一応閉まっているフタ(隙間くらいは開いているかもしれないが)は、いつ外れてしまうか分からない。
日本の国土には、主に西から東に向かう風が吹いている。
福島では「不幸中のほんのひとかけらの幸い」として本州の東端のフタが開いてしまい、放出された放射能の大半は太平洋側に流れて行ったが、西日本のどこかでフタが開いてしまえば、今回とはレベルの違う地獄濃度が人口集中地域を襲う。
一見穏当に見える「段階的脱原発」ではなく「即時停止」が是非必要なのはそのせいだ。
私自身は今のところ大きく生活様式を変える必要は無いと判断しているが、それは住んでいる地域・年齢・性別によって様々に変わるので、各自が自衛しなければならない。
日本国は既に放射能汚染から国民を守ることを放棄していると思われるので、東日本の皆さん、とくに子供を持つご両親は、自力で情報を収集しなければならない。
ただ、必要以上に不安を感じて無理な生活様式を強行しようとすると、そのことの方が放射能の害そのものより肉体と精神を疲弊させてしまうことは十分にあり得る。
腹立たしいことではあるが、日本はすでに「ぬるま湯地獄」になってしまって、私たちは通常この国で暮らし続けざるを得ないのだから、「無理のない程度に気をつけて、少しでも生活圏から地獄を遠ざける」という対応策をとるしかない。
あまり生真面目に悩むのではなく「笑って暮らせる程度の努力」を生活の中で心がけることが、一般庶民にできる唯一の対応策だと思う。
無理なく楽しく暮らしながら、こうした状況を自分たちに強いている国と電力会社に対する怒りを末永く持続させ、諦めることなく原発の息の根を止めなければならない。
3.11以降の反原発は、楽しいものでなければならない。
無理のないものでなければならない。
決して忘れず、諦めないものでなければならない。
ファッションでかまわない。
商売でかまわない。
冗談交じりでかまわない。
一枚岩でなくともかまわない。
ただ一点「原発NO」で一致していればいい。
当たり前の生活スタイルとして放射能に対する知識を得て、原発にNOと言わなければならない。
節電は大切だが、それは「原発がとまると電気が無くなるぞ」という恫喝に屈するのではなく、日本人の美徳「もったいない精神」で行われなければならない。
現時点で、原発抜きでも電力は足りている。
酷暑のさなか、体調を崩してまでエアコンを止める必要はない。
武田邦彦という人がいる。
元は国の原子力推進政策の現場にあった人だが、原発の耐震基準に疑問を持ち、やや距離を置くようになったという。
3.11以降は完全に「反原発」それも「即時停止」に転向し、少しでも放射線被曝を避けるための方法を、毎日自分のブログで公開するようになった。
その記事は極めて平易な言葉で綴られており、また極めて具体的かつ無理のない方法が提示されているので非常に参考になる。
自分の半生を費やしてきた原子力が、福島で破局的な事故を起こしてしまったことに、深い罪悪感を持っているらしく、国と東電の虚偽と無責任で塗り固めた事故対応を告発する筆致には鬼気迫るものがある。
とにかく、気になる見出しからまずはご一読!
武田邦彦(中部大学)
ブログの記事をまとめた新書も刊行されている。
●「放射能と生きる」武田邦彦 (幻冬舎新書)
この人もまた、毀誉褒貶の激しい「異能の語り部」である。
地獄で笑って暮らすために、無理のない理論武装を!
2011年07月30日
海辺に住むという人生
日本は世界でもまれにみる地震国だ。
四つのプレートの力が拮抗する地点に出来た細長い「でっぱり」に過ぎず、その狭い国土の中には中央構造線をはじめ、無数の活断層が毛細血管のように走りまわっている。
地震の活動期に入ったとも言われるこの列島に、時限爆弾のような原発が多数セットされている。中にはわざわざ危険で脆弱な地点を選んで造ったような原発、核関連施設も多い。
人間のサイズから見ていくら安定した地盤に見えても、沖縄や小笠原諸島、北方領土、そして地中や近海の海溝まで含めたスケールで俯瞰してみれば、それがいかに危険で愚かな行為か、感覚として分かりやすい。
世界地図上から見た場合、海外からの日本に対する視線、印象も、こうした危険極まりないものになることは想像に難くない。
こうした列島の地質的構造から、今後いくらでも巨大地震、それに伴う巨大津波は襲ってくると予想される。
地球の間借り人である人間は自然災害自体を避けることはできないが、知恵を使ってなるべく被害を少なくすることはできる。
とくにこの日本のような自然災害頻発列島にすむ人間は、もっともっと謙虚にならなければならない。
この国土に商業ベースで原発を建てるという選択は、やはりあり得ない。
東日本大震災も、原発震災になってしまわなければ、復興はもっと進めやすかったに違いない。
今回の大震災ではなんといっても巨大な濁流が街を飲み込んでいく大津波が恐怖を呼んだ。
私は専門家ではないが、津波については少々書いておけることがある。
阪神大震災以降、各自治体は巨大地震に対する備えに、ようやく重い腰を上げようとしてきた。
沖合で巨大地震が起こると想定される沿海部では、津波対策の避難計画や、訓練が行われるようになってきていると思う。
避難計画が作成されること自体は大変けっこうなことで、何もされないよりははるかにマシなのだが、あまり過信してはいけないと思う。
各自治体によって計画の立て方は様々だろうが、自治体(とその発注を受けたコンサルタント会社)が作成できるのは、あくまで「その町の現状の中で、可能な範囲の避難計画」に過ぎない。
あまり想定を厳しくして巨大津波の可能性を含めると、「そもそもその町に住んでいる限りは助からない」という身も蓋もない結論になってしまう。
避難計画の前提になる想定が「考え得る最悪」ではなく「現状のままで避難計画が策定できる範囲内」に落としこまれるという、ある意味で逆転した傾向は、けっこうあると思う。
たとえば目立った高台のない海辺の漁港などでは、津波の想定を高くても6メートルぐらいで手を打っておかないと、実質的に避難場所は無くなってしまうだろう。
自治体側ばかりではなく、住民側にも「ことを荒立てるような被害想定」を忌避する傾向はあると思うが、まあ、心情的には理解できる。
ともかく、そのように想定された津波の高さから、地図上の標高データで足し算引き算をしながら水没する地域が予測され、PCで水位別に色分けされた画像が作成されて、配布されたりもする。
しかし現実の津波は「ひたひたと風呂桶の水のように増えてくる」わけではなく、「沖から濁流となって押し寄せてくる」ので、単純に色分けして塗られた被害予測地図のようにはならない箇所も多いだろう。
河口や水路など、水を呼び込む箇所には水量が集中する。
とくに湾のような地形になっている所は、奥にいくほど大量に押し寄せた津波の水量が「すぼまる」ことによって水位は上がっていくので、要注意だ。
同じ標高でも平坦に舗装された幅の広い道路などは、宅地よりも水流が集中しやすく、流れが速くなるだろう。
海辺には地図データにあらわれていない水路や暗渠がいくらでもあるから、ふだん地面に見えている思わぬ箇所から大量の泥水が噴出してくることも考えられる。
また、今回の東日本大震災と、それに伴う津波で、かなり正しい認識が広がったことと思うが、ぜひとも憶えておかなければならないことがある。それは、
「津波は高さに関係なく、どれも危険だ」
ということだ。
たとえ数十センチであっても、決して侮ってはいけない。
津波は「波」ではなく「濁流」なのだ。
川遊びの体験があれば、いくら浅い川でも急流が危険であることは理解できるだろう。
単なる「急流」でも危険なのだが、津波の時には様々な「物」が濁った水に混じって押し流されてくる。
水深に関係なく、とにかく「水に追いつかれたらおしまい」というぐらいに認識しておいた方が良い。
更に、津波が襲ってくるのは、そこで巨大な震災が起こった直後である可能性も考えておかなければならない。
私は阪神大震災の被災者なのだが、いったん巨大地震が起こってしまうと、街の様相は一変する。
家からは瓦が、ビルからはガラスが降り注ぎ、古い木造家屋やブロック塀は次々に倒れてしまう。細い路地はほとんど通行不可能になるだろうし、幹線道路も行き場を失った車で一杯になってしまうだろう。
津波の襲来前には、そうした道路事情の中を、一刻を争いながら高台を目指さなければならないので、避難訓練の時のように簡単にはいかないはずだ。
ふだんから自分の家の周囲を注意して観察してみよう。
海辺に暮らしている場合は、強い地震があった時、津波警報が出たときには、間髪おかずに逃げなければならない。
目指すのは、可能であればできるだけ標高の高い場所。
そうでなければ鉄筋コンクリートの建物。
とくに公共施設はそれなりに堅牢に造られている場合が多い。
一階約3メートルと考えて、3階建てなら9メートル、5階建てなら15メートル。それに建っている場所の標高がプラスされるので、通常想定される10メートル以内の津波なら、十分に避難目標として使える。
海辺に住むということは素晴らしい。
日常の風景の中に海があり、潮風を受け、釣りができ、行きかう船を眺めること自体が、幸せなことだ。
しかしそこには常に、地震や津波、台風の危険も潜んでいる。
素晴らしさと危険を、自分の人生観として両方とも覚悟しておかなければならない時期に来ていると思う。
あと、原発は論外。
四つのプレートの力が拮抗する地点に出来た細長い「でっぱり」に過ぎず、その狭い国土の中には中央構造線をはじめ、無数の活断層が毛細血管のように走りまわっている。
地震の活動期に入ったとも言われるこの列島に、時限爆弾のような原発が多数セットされている。中にはわざわざ危険で脆弱な地点を選んで造ったような原発、核関連施設も多い。
人間のサイズから見ていくら安定した地盤に見えても、沖縄や小笠原諸島、北方領土、そして地中や近海の海溝まで含めたスケールで俯瞰してみれば、それがいかに危険で愚かな行為か、感覚として分かりやすい。
世界地図上から見た場合、海外からの日本に対する視線、印象も、こうした危険極まりないものになることは想像に難くない。
こうした列島の地質的構造から、今後いくらでも巨大地震、それに伴う巨大津波は襲ってくると予想される。
地球の間借り人である人間は自然災害自体を避けることはできないが、知恵を使ってなるべく被害を少なくすることはできる。
とくにこの日本のような自然災害頻発列島にすむ人間は、もっともっと謙虚にならなければならない。
この国土に商業ベースで原発を建てるという選択は、やはりあり得ない。
東日本大震災も、原発震災になってしまわなければ、復興はもっと進めやすかったに違いない。
今回の大震災ではなんといっても巨大な濁流が街を飲み込んでいく大津波が恐怖を呼んだ。
私は専門家ではないが、津波については少々書いておけることがある。
阪神大震災以降、各自治体は巨大地震に対する備えに、ようやく重い腰を上げようとしてきた。
沖合で巨大地震が起こると想定される沿海部では、津波対策の避難計画や、訓練が行われるようになってきていると思う。
避難計画が作成されること自体は大変けっこうなことで、何もされないよりははるかにマシなのだが、あまり過信してはいけないと思う。
各自治体によって計画の立て方は様々だろうが、自治体(とその発注を受けたコンサルタント会社)が作成できるのは、あくまで「その町の現状の中で、可能な範囲の避難計画」に過ぎない。
あまり想定を厳しくして巨大津波の可能性を含めると、「そもそもその町に住んでいる限りは助からない」という身も蓋もない結論になってしまう。
避難計画の前提になる想定が「考え得る最悪」ではなく「現状のままで避難計画が策定できる範囲内」に落としこまれるという、ある意味で逆転した傾向は、けっこうあると思う。
たとえば目立った高台のない海辺の漁港などでは、津波の想定を高くても6メートルぐらいで手を打っておかないと、実質的に避難場所は無くなってしまうだろう。
自治体側ばかりではなく、住民側にも「ことを荒立てるような被害想定」を忌避する傾向はあると思うが、まあ、心情的には理解できる。
ともかく、そのように想定された津波の高さから、地図上の標高データで足し算引き算をしながら水没する地域が予測され、PCで水位別に色分けされた画像が作成されて、配布されたりもする。
しかし現実の津波は「ひたひたと風呂桶の水のように増えてくる」わけではなく、「沖から濁流となって押し寄せてくる」ので、単純に色分けして塗られた被害予測地図のようにはならない箇所も多いだろう。
河口や水路など、水を呼び込む箇所には水量が集中する。
とくに湾のような地形になっている所は、奥にいくほど大量に押し寄せた津波の水量が「すぼまる」ことによって水位は上がっていくので、要注意だ。
同じ標高でも平坦に舗装された幅の広い道路などは、宅地よりも水流が集中しやすく、流れが速くなるだろう。
海辺には地図データにあらわれていない水路や暗渠がいくらでもあるから、ふだん地面に見えている思わぬ箇所から大量の泥水が噴出してくることも考えられる。
また、今回の東日本大震災と、それに伴う津波で、かなり正しい認識が広がったことと思うが、ぜひとも憶えておかなければならないことがある。それは、
「津波は高さに関係なく、どれも危険だ」
ということだ。
たとえ数十センチであっても、決して侮ってはいけない。
津波は「波」ではなく「濁流」なのだ。
川遊びの体験があれば、いくら浅い川でも急流が危険であることは理解できるだろう。
単なる「急流」でも危険なのだが、津波の時には様々な「物」が濁った水に混じって押し流されてくる。
水深に関係なく、とにかく「水に追いつかれたらおしまい」というぐらいに認識しておいた方が良い。
更に、津波が襲ってくるのは、そこで巨大な震災が起こった直後である可能性も考えておかなければならない。
私は阪神大震災の被災者なのだが、いったん巨大地震が起こってしまうと、街の様相は一変する。
家からは瓦が、ビルからはガラスが降り注ぎ、古い木造家屋やブロック塀は次々に倒れてしまう。細い路地はほとんど通行不可能になるだろうし、幹線道路も行き場を失った車で一杯になってしまうだろう。
津波の襲来前には、そうした道路事情の中を、一刻を争いながら高台を目指さなければならないので、避難訓練の時のように簡単にはいかないはずだ。
ふだんから自分の家の周囲を注意して観察してみよう。
海辺に暮らしている場合は、強い地震があった時、津波警報が出たときには、間髪おかずに逃げなければならない。
目指すのは、可能であればできるだけ標高の高い場所。
そうでなければ鉄筋コンクリートの建物。
とくに公共施設はそれなりに堅牢に造られている場合が多い。
一階約3メートルと考えて、3階建てなら9メートル、5階建てなら15メートル。それに建っている場所の標高がプラスされるので、通常想定される10メートル以内の津波なら、十分に避難目標として使える。
海辺に住むということは素晴らしい。
日常の風景の中に海があり、潮風を受け、釣りができ、行きかう船を眺めること自体が、幸せなことだ。
しかしそこには常に、地震や津波、台風の危険も潜んでいる。
素晴らしさと危険を、自分の人生観として両方とも覚悟しておかなければならない時期に来ていると思う。
あと、原発は論外。
2011年08月18日
誰か一人が完璧である必要は無い
書店の原発関連の棚は今のところ維持されている。
徐々に、福島の事故や原発全般に関する書籍より、放射能関連のものが増えてきている印象を受ける。
事故そのものよりも、音無く姿無く日常生活を侵しつつある放射能の問題に、関心が移ってきているようだ。
書店の本棚の一角に原発関連のコーナーが維持されるのは良いことだが、出版点数が増えてくると、どれを手に取ればよいのか迷うケースも出てくるだろう。
私も何度か知人に質問を受けた。
自分のような強硬な反原発の主張を持つ人間はさておき、一般にはあまり不安ばかりを煽らず、危機認識もきちんと併せ持ちながら、日常生活の具体的な注意点が平易に表現されているものを勧めるべきだろう。
最近出たものの中では下記の本が、最初に手にとる一冊としては良いと思った。
●「あなたの家族を守るための放射能の教科書」岩見吉朗,シュガー佐藤(週刊朝日MOOK)
QandA方式で原発や放射能に関する様々な疑問が平易に解説され、間に挿入されるマンガ部分では「都内で出産を控えた母親」の視線から原発事故とその対応を描いている。
どちらのパートでも日常生活の中でいかに被曝量を減らすか、再び大きな原発事故が起こった場合どのような行動をとればよいかなど、懇切丁寧に取り上げられていている。
漫画パート担当のシュガー佐藤は、こうした本であれば適材適所で良い仕事をしており、各所に武田邦彦のインタビューやコラムも入っている。
私は「一般人が日常生活で可能な放射能対策」に関しては、現状では武田邦彦のブログの内容を確認するのがベターだと判断している。
とくに、放射能対策は、同じく大気中の微粒子が引き起こす花粉症への対処と似ているとする解説は非常に分かりやすく、卓見だと思っている。
しかしながら、ネット上を中心に武田邦彦の言説に対する批判は多い。
私自身も「日常生活で可能な放射能対策」以外のブログ記事には、疑問を感じる点、はっきり考え方が違うと感じる点があるのは確かだ。
だからと言って、納得できる部分の価値まで切り捨ててしまうことはない。
それはそれ、これはこれだ。
3.11以降の、日本は「放射能のぬるま湯地獄」になってしまった。
にもかかわらず、本来なら率先して対策を講じる義務のあるはずの国や電力会社の動きは鈍い。
単に動きが鈍いというよりは、はっきり責任を放棄していると言ってよいと思う。
公的機関があてにならないこうした状況下では、能力のある個人の意見を注視する必要がある。
それも誰か一人を熱狂的に祭り上げるのではなく、様々な意見をよく見聞きし、自分自身で判断しながら取捨選択していく必要がある。
もはや放射能と無縁の生活には戻れないので、自分の人生観を確認しながら日々選択を繰り返すしかなくなったのだ。
徐々に、福島の事故や原発全般に関する書籍より、放射能関連のものが増えてきている印象を受ける。
事故そのものよりも、音無く姿無く日常生活を侵しつつある放射能の問題に、関心が移ってきているようだ。
書店の本棚の一角に原発関連のコーナーが維持されるのは良いことだが、出版点数が増えてくると、どれを手に取ればよいのか迷うケースも出てくるだろう。
私も何度か知人に質問を受けた。
自分のような強硬な反原発の主張を持つ人間はさておき、一般にはあまり不安ばかりを煽らず、危機認識もきちんと併せ持ちながら、日常生活の具体的な注意点が平易に表現されているものを勧めるべきだろう。
最近出たものの中では下記の本が、最初に手にとる一冊としては良いと思った。
●「あなたの家族を守るための放射能の教科書」岩見吉朗,シュガー佐藤(週刊朝日MOOK)
QandA方式で原発や放射能に関する様々な疑問が平易に解説され、間に挿入されるマンガ部分では「都内で出産を控えた母親」の視線から原発事故とその対応を描いている。
どちらのパートでも日常生活の中でいかに被曝量を減らすか、再び大きな原発事故が起こった場合どのような行動をとればよいかなど、懇切丁寧に取り上げられていている。
漫画パート担当のシュガー佐藤は、こうした本であれば適材適所で良い仕事をしており、各所に武田邦彦のインタビューやコラムも入っている。
私は「一般人が日常生活で可能な放射能対策」に関しては、現状では武田邦彦のブログの内容を確認するのがベターだと判断している。
とくに、放射能対策は、同じく大気中の微粒子が引き起こす花粉症への対処と似ているとする解説は非常に分かりやすく、卓見だと思っている。
しかしながら、ネット上を中心に武田邦彦の言説に対する批判は多い。
私自身も「日常生活で可能な放射能対策」以外のブログ記事には、疑問を感じる点、はっきり考え方が違うと感じる点があるのは確かだ。
だからと言って、納得できる部分の価値まで切り捨ててしまうことはない。
それはそれ、これはこれだ。
3.11以降の、日本は「放射能のぬるま湯地獄」になってしまった。
にもかかわらず、本来なら率先して対策を講じる義務のあるはずの国や電力会社の動きは鈍い。
単に動きが鈍いというよりは、はっきり責任を放棄していると言ってよいと思う。
公的機関があてにならないこうした状況下では、能力のある個人の意見を注視する必要がある。
それも誰か一人を熱狂的に祭り上げるのではなく、様々な意見をよく見聞きし、自分自身で判断しながら取捨選択していく必要がある。
もはや放射能と無縁の生活には戻れないので、自分の人生観を確認しながら日々選択を繰り返すしかなくなったのだ。