2005年12月30日
縁日の風景
日頃、涼しく静かな神社の参道に、どこからともなく角材・裸電球・プロパンが持ち込まれ、手際良く店が汲み上げられて行く。普段見かけないテキ屋さんたちの、ちょっとアヤシイ面々が、着々と準備を進めていく。
びっくりするぐらい単純な造りだけれども、夜店は十分に頑丈。灯がともり、商品が並ぶと、見た目も鮮やかに縁日の露店が完成する。
赤や黄色や青、緑、原色多用の極彩色。毒々しく派手だけれども、どこか懐かしい色彩。
日が暮れる頃には、神社の景色は一変する。参道を飾る夢のような風景が現れる。わずかな時間で跡形もなく消えてしまう縁日の風景。
ソースと醤油とメリケン粉の焦げる匂いに誘われて、老若男女、おじいちゃんおばあちゃんから犬猫、赤ちゃんまで、それぞれの欲を楽しむために続々と集まってくる。
異性が目当ての若者も、小遣い握った子供達も、学校の先生も、893な人達も、事情があって普段は人前に出られない人達も、どんな人達も縁日の間は雰囲気の中で遊ぶ限りは許される。
社殿からは神楽の音が漏れ聞こえてくる。格子の間からは何事か神事の様子も垣間見える。普段は「隠り身」の祭神さまも、すぐそこまで降りて来て笑っているような気がする。
夜店を冷やかし、せいぜい賽銭箱までしか行かない人達にも、その奥で行われている「なにかありがたいこと」は、ぽろぽろこぼれ落ちて降り注ぐ。
聖から俗まで、御神酒からソースまで、神職からテキ屋さんまで、老人から赤ちゃんまで、鎮守の森の自然から夜店の発泡スチロール容器まで、真剣な祈念から商売っ気まで、高天原から根の国底の国まで、誰も排除せず、誰もが遊べる空間。
異質なものが異質なままで抱擁される『嬉し楽しの世界』。
それが縁日の風景。
遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動がるれ
(梁塵秘抄より)
posted by 九郎 at 15:47| 縁日の風景
|
2006年01月01日
縁日の風景2
やっぱり夜店は神社仏閣の縁日にかぎる。
プロのテキ屋さんが仕切ってる店が一番だ。暖簾や店の作り、啖呵の切り方が縁日の雰囲気を作るのに欠かせないし、タコヤキやタイヤキをはじめ、専門の調理器具で、ある程度修行を積まないと出来ない食べ物が楽しい。
絵具を塗ったみたいな毒々しい色の、甘ったるいだけの駄菓子もたまらない。子供の健康に気を使うお母さんが、眉をしかめながら「今日だけよ」と譲ってあげる所が素晴らしい。
ゲームや玩具や籤引きは、無意味な代物であるほどイイ。縁日のあの照明の中で、あんなに輝いて見えた賞品が、境内を一歩出たとたんに色褪せて、小遣い銭をつぎ込んだことを激しく後悔したのが懐かしい。「カラーひよこ」なんてものもあったっけ・・・
ちょっと怖い感じのお店のお兄ちゃんに、小銭を渡して会話するスリルが本当に楽しい。
最近の「市民まつり」などの夜店は、普通の公園や商店街で、素人さんがおでんやカレーなどの普段の食べ物を出してる場合がある。
それはそれで様々な事情があるのだろうけど、今後もテキ屋さんにはずっと残ってもらいたいし、毒のある猥雑な縁日の風景は、末永く残って欲しいものだ。
posted by 九郎 at 22:38| 縁日の風景
|
2006年01月06日
2006年01月07日
縁日の風景4
このBlog「縁日草子」では、神仏にまつわる様々なモノガタリを、縁日の夜店さながらに猥雑に陳列して行きたい。基本は雑談・与太話。中には眉に唾をつけたくなるようなアヤシイ話題や人物を紹介することもある。あくまで「縁日の夜店」であって、「健康食品売り場」では決して無い。御利用は自己責任で夜露死苦。
ただ、私の中の最低限の良心として、出典・参考文献の類はなるべく明記しておく。各神仏・各宗教についての正確な知識はそちらにあたって頂きたい。
神様仏様をネタにした極私的な妄想を、絵と文章で綴る神仏萌え日記。
「縁日草子」
はじまり、はじまり。
posted by 九郎 at 00:15| 縁日の風景
|
2010年05月27日
フリーマーケットの中世的風景
たまにフリーマーケットに出店している。
売り物は当ブログにアップしているような神仏イラストを、ポストカードやポスターにしたものや、手作りTシャツなどなど。
フリマで売れ筋なのは古着や子供用品リサイクル、フィギュアなどだから、神仏という地味なテーマの私のブースから目立った売り上げが出るわけではない(苦笑)
それでもときにはアジア雑貨を好む層の皆さんが立ち寄って、あれこれ物色してくださったり、描かれている神仏について質問があったりして、出店料+交通費+食費と、さらに小遣い稼ぎくらいにはなり、楽しい時間が過ごせる。
ずっとお客さんがいるわけではないし、怪しげな商品を前にしてじっと座っていると怖いという印象を与えがちで、近づきがたい雰囲気になってくる。
だから客待ちの時間は、適当に絵を描いて過ごすことにしている。
絵を描いていれば道行く人々を睨みつけずに済むし、何をしているのかと興味を持った皆さんが近寄りやすい雰囲気になる。
今回は8号キャンバスに褐色系の色をナイフで塗りたくって下地を作り、その上からポスカ各色でアボリジナルアート風に描いてみた。
昔、TVでオーストラリアの原住民であるアボリジニの人々のアートを紹介していたのを観て以来、ずっと興味を持っていた。
晴れ渡った原野の中、地面の上に直接キャンバスを置き、その傍らにどっしりと座りこんだアボリジニの芸術家。ポタージュスープ状に溶いたアクリル絵の具を空き缶に入れ、木の枝をそれに浸し、褐色の画面に丹念に点描していく様子は、アートというものを物凄く自然に生活の中で実践しているようで感動した。
私が熱心にキャンバスに向かっていると、関心を持った人が一人二人とブースに歩み寄ってくる。そして店頭に置いてあるポストカードのファイルをめくったり、Tシャツを手に取ったり、描いてある神仏について質問してきたり……
フリーマーケットという場は、見知らぬ人々が物の売り買いという一点でつながっている。日常の人間関係や生活感覚から外れた「無縁」の空間だからこそ、浮世離れした神仏絵描きとしての私も、さほどの違和感なくその場にいることができ、私もお客さんもその不思議を楽しむことができる。
これは中世の「市」という場と同質のものだと、ここ一年ほど寺内町の勉強にハマっている私はついつい連想してしまう(笑)
最近、伝統的な地縁血縁の世界から疎外された「無縁社会」の問題が取りざたされるようになってきたが、人生の中で「無縁」という時間を持つことそれ自体は悪いことではない。
問題は互助の「身内の縁」だけが消滅し、それに代わって現れたのが「便利さ・経済性」という名目で、日常の行動も金の流れも常に他者に捕捉されてしまっているという、がんじがらめの息苦しさだけだったということだろう。
フリーマーケットの売り買いは、売る方も買う方も匿名で現金決済が基本だ。その場限りの取引で足もつかず、源泉徴収からも自由だ。(あくまで精神的な自由のオハナシ。念のために書いておくが、別に脱税を勧めているわけではない。フリマでもそれなりに収益が上がるならば、自己責任でちゃんとしましょう!)
何かと息苦しい世の中、「無縁」の世界を楽しむ場があることは、一服の清涼剤になるだろう。
売り物は当ブログにアップしているような神仏イラストを、ポストカードやポスターにしたものや、手作りTシャツなどなど。
フリマで売れ筋なのは古着や子供用品リサイクル、フィギュアなどだから、神仏という地味なテーマの私のブースから目立った売り上げが出るわけではない(苦笑)
それでもときにはアジア雑貨を好む層の皆さんが立ち寄って、あれこれ物色してくださったり、描かれている神仏について質問があったりして、出店料+交通費+食費と、さらに小遣い稼ぎくらいにはなり、楽しい時間が過ごせる。
ずっとお客さんがいるわけではないし、怪しげな商品を前にしてじっと座っていると怖いという印象を与えがちで、近づきがたい雰囲気になってくる。
だから客待ちの時間は、適当に絵を描いて過ごすことにしている。
絵を描いていれば道行く人々を睨みつけずに済むし、何をしているのかと興味を持った皆さんが近寄りやすい雰囲気になる。
今回は8号キャンバスに褐色系の色をナイフで塗りたくって下地を作り、その上からポスカ各色でアボリジナルアート風に描いてみた。
昔、TVでオーストラリアの原住民であるアボリジニの人々のアートを紹介していたのを観て以来、ずっと興味を持っていた。
晴れ渡った原野の中、地面の上に直接キャンバスを置き、その傍らにどっしりと座りこんだアボリジニの芸術家。ポタージュスープ状に溶いたアクリル絵の具を空き缶に入れ、木の枝をそれに浸し、褐色の画面に丹念に点描していく様子は、アートというものを物凄く自然に生活の中で実践しているようで感動した。
私が熱心にキャンバスに向かっていると、関心を持った人が一人二人とブースに歩み寄ってくる。そして店頭に置いてあるポストカードのファイルをめくったり、Tシャツを手に取ったり、描いてある神仏について質問してきたり……
フリーマーケットという場は、見知らぬ人々が物の売り買いという一点でつながっている。日常の人間関係や生活感覚から外れた「無縁」の空間だからこそ、浮世離れした神仏絵描きとしての私も、さほどの違和感なくその場にいることができ、私もお客さんもその不思議を楽しむことができる。
これは中世の「市」という場と同質のものだと、ここ一年ほど寺内町の勉強にハマっている私はついつい連想してしまう(笑)
最近、伝統的な地縁血縁の世界から疎外された「無縁社会」の問題が取りざたされるようになってきたが、人生の中で「無縁」という時間を持つことそれ自体は悪いことではない。
問題は互助の「身内の縁」だけが消滅し、それに代わって現れたのが「便利さ・経済性」という名目で、日常の行動も金の流れも常に他者に捕捉されてしまっているという、がんじがらめの息苦しさだけだったということだろう。
フリーマーケットの売り買いは、売る方も買う方も匿名で現金決済が基本だ。その場限りの取引で足もつかず、源泉徴収からも自由だ。(あくまで精神的な自由のオハナシ。念のために書いておくが、別に脱税を勧めているわけではない。フリマでもそれなりに収益が上がるならば、自己責任でちゃんとしましょう!)
何かと息苦しい世の中、「無縁」の世界を楽しむ場があることは、一服の清涼剤になるだろう。