2012年11月03日

絵解き「石山合戦」への長い道

 「そうだ、京都に行こう」
 そんなどこかで聞いたようなフレーズが頭に浮かんだ。
 今日、ぽっかり予定が空いたので、どうしようかと考えていた時のことだ。

 電車内に掲示されていたポスターで、とある展示のことを知っていた。
 龍谷ミュージアム:特別展「“絵解き”ってなぁに?」
 龍谷ミュージアムにはまだ行ったことがなかったのだが、以前から興味深い展示をやっているなと思っていた。
 ただ、私が現在住む地域から京都までは、けっこうビミョーな距離がある。
 旅行と言うほどには離れていないが、ちょっとお出かけと言うには遠い気がして、なかなか実際に出かけるには至らなかった。

 しかし、今回の特別展はテーマが「絵解き」だ。
 日本の中世から近世にかけて、各種曼荼羅の入った厨子を背負い、辻や市でその曼荼羅を広げて功徳を語り、札などを売ったりする「絵解き」と呼ばれる人々がいた。
 彼らは旅芸人であり、遊行乞食でもあった。
 アマチュアながら、現代の絵解きを志す私としては、これは行かねばならない(笑)

 西本願寺から道路をはさんだ向かい側にある龍谷ミュージアムは、こじんまりとしているが良い雰囲気の会場だった。
 中世から近世にかけて「絵解き」に使われた様々な絵図の現物が展示されており、中でも圧巻は一辺約2mの当麻曼荼羅の、黒々と鈍い光沢を放つ版木だった。
 となりには実際に刷りあげたものも展示されており、白描画ながら極楽浄土の在り様を鮮烈に描写してあった。
 館内のシアターでは、「絵解き」を実演してみた映像が流されており、ショップでは解説の充実した図録も販売されていた。これはもちろん買い。

 ついで参りになるが、せっかくだから東西両本願寺も参拝。
 京都に行くと、どうしても「せっかくだから」とあちこち行きたくなるものだが、あまり欲張るとどこも中途半端になってしまうので、ねらいはしぼった方が良い。
 今回は、ミュージアムと両本願寺。

 お西さんでは参拝すると、ちょうど結婚式をやっていたところで、外国人観光客の皆さんが喜んでいた。売店で「御文章」のCD購入し、続いてお東さんへ。
 一応説明しておくと、JR京都駅の真北にあるのが「お東さん」の東本願寺、そこからしばらく西に歩いた所にあるのが「お西さん」の西本願寺だ。
 両本願寺はもちろん元は一つだったのだが、戦国時代の石山合戦をきっかけとして、二つに分かれた。
 数年前から石山合戦にハマっている私は、どうしてもそれに関連した資料を探してしまう。
 石山合戦を考える上では、当時の門主・顕如上人と、その息子・教如上人の関係が重要になってくるのだが、教如上人については東本願寺の方に行かなければ得られるものは少ない。

 大規模な改修工事中の東本願寺を参拝後、売店をのぞくと、私の望みにぴったりの本があった。


●「教如上人と東本願寺創立-本願寺の東西分派」東本願寺 教学研究所編

 石山合戦当時の本願寺の系譜、時代背景、寺内町の状況などについて、極めてわかり易くまとめてある。
 やっぱり、たまには両本願寺に行っとかないとね。

 いつになるかわからないが、自分なりの石山合戦の絵解きを完成させるために、じわじわと1mmずつでも私は這って行かなければならない。



 付記しておくと、お東さんの方は入口付近に、はっきりと「脱原発」を表明した声明文が掲示してあった。
 ことこの点にかんしては、お西さんの動きはやや鈍いと言わざるを得ない……
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2012年12月10日

再掲:放浪者的こころ

 ここしばらく反原発記事をまとめてアップする予定だったのだが、どうしても素通りできない訃報があったので、一回お休み。
 本日、小沢昭一さんがお亡くなりになってしまったという。
 追悼にかえて、過去記事「放浪者的こころ」を、一部加筆修正の上、再掲する。

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 ふとした瞬間に、耳に蘇ってくる「音の記憶」がいくつかある。
 例えば私は夕刻になると、軽快な口笛のメロディが、たまに蘇ってきて耳の奥、頭の中で繰り返される。
 何のメロディだったかなと、記憶を探ってみると、小学生の頃の情景に行き当たる。
 当時私は、週二回剣道の教室に通っていた。当時も今も小柄で、スポーツは全般に不得意だった。短距離走や球技は特に苦手だったのだが、剣道は少しばかり適性があったらしく、同年代の中ではけっこう強い方だった。さほど熱心ではなかったが、高校生頃まで剣道を続けていたおかげで、体力的な貯金が今も残っている気がする。
 小学生の頃通っていた剣道教室は、少し離れた校区の小学校体育館で開かれていた。防具一式を持って歩いて行くには距離があったので、バスか、父親の運転する車で送り迎えをしてもらっていた。
 夕刻、父の車で送ってもらっている時に、カーラジオからよく流れてくる番組があった。
 今でも耳に残っている軽快な口笛のメロディとともに始まるその番組は、「小沢昭一の小沢昭一的こころ」という。
 ある年代以上にとっては説明の要もないほどに有名な長寿人気ラジオ番組なのだが、私の年代以下でこの番組名を知っている人は少ないかもしれない。私も、父親の車に同乗していなければ、知ることはなかっただろう。
 大学生の頃、サークル活動をやっている時になんとなくあのメロディを口笛で吹いていたら、一人だけ反応した後輩がいた。その後輩は、高校生の頃よく通っていた古本屋で番組を聴いていたそうだ。

 ともかく、小沢昭一のことである。
 今この名前を出すと、字面の類似から個性の強い某政治家の顔が浮かんでくるかもしれない。
 小沢昭一と言う人の肩書を一つに定めるのは難しい。一番無難なのは「俳優」ということになるのだろうけど、私はその方面の小沢昭一をほとんど知らない。
 子供の頃に聴いた口笛のメロディに導かれ、歴史・民俗・宗教に関心を持つようになってから再会したのは、日本やアジアの「放浪芸」の研究家としての小沢昭一だった。
 今はもう失われつつある放浪芸の世界は、はるか日本の中世〜古代にまでつながり得る可能性を持つ。文字記録として残りにくい「音」と「声」の豊かな伝承世界だ。
 そうした世界が、たとえば雅楽のように保護された伝統芸能ではなく、地べたを這いずるような俗の極みの領域の中で、連綿と繋がってきたことには、なんとも形容しがたい感情を覚える。

 私は「放浪芸」の記録者としての小沢昭一に再会してまだ日が浅い。
 amazonや図書館の検索サービスでこの名前を調べてみると、けっこうな分量の読みたい本や聴きたい音がヒットしてくる。
 当ブログを介してとりあえず、小沢昭一という人物を知りたい人には、以下の二冊がお勧めだ。


●「文藝別冊 小沢昭一 芸能者的こころ」(KAWADE夢ムック 文藝別冊)
●「日本の放浪芸 オリジナル版」小沢昭一(岩波現代文庫)

 今後も折々、紹介していくことになると思う。


【追記】
 あの口笛のメロディを再現してるのを見つけたのであわせてご紹介。
posted by 九郎 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2013年01月09日

祭礼の夜2

 1月10日は「十日戎」。
 9日の宵宮、10日の本宮、11日の残り福と、三夜続けて神社は賑わう。
 とくにゑべっさんは商売の神様なので、縁起物や各種飲食、玩具、占いの露店が、所狭しと立ち並ぶ。
 今私の住んでいる地域にはけっこう大きな恵比寿神社があって、例年この祭礼は楽しみにしており、何度か記事にしたこともある。

【関連記事】
宵ゑびす
ゑびす縁起物
十日戎
ゑびす大黒
漂着神
お盆2010
祭礼の夜

 縁日を彩る露店、テキ屋稼業の風景がどのようなルーツを持つのかを知るのに、絶好の一冊がある。
 以下、過去記事から加筆の上再録。



●「旅芸人のいた風景―遍歴・流浪・渡世」沖浦和光(文春新書)
 今日、神社仏閣の縁日を彩る露店風景には、今はもうほとんど消滅してしまった中世以来の旅芸人「道々の者」の姿の痕跡が残っている。
 よりふかく遡れば、諸国を遍歴する遊芸者は、芸人であり、職人であり、宗教者であり、薬売りでもあり、様々な要素が混在した実態があった。
 著者はそうした存在・ヤブ医者に「野巫医者」という字をあてて捉え、広範に論じている。


 近代医療が一般に行き渡る以前には、病に苦しむ庶民はただ本人の自然治癒力に任せるか、そうでなければ諸国を遍歴する拝み屋や祈祷師に頼るほか無かった。
 そうした「野巫医者」たちは、何よりもまず患者の心を力付けるために、加持祈祷等の「芸」を執り行うのだが、それだけでは中々病気治しの成果が上がらないことは実体験としてよく知っていたので、同時に整体や漢方薬等の東洋医療の技術もある程度持ち合わせており、医療に縁の無い一般庶民にとっては最後のセーフティーネットでもあったのだ。
 西洋医術が本格的に国内に導入された明治以降も、高額な医療費を個人で払いきれない庶民にとっては、長い間「野巫医者頼み」が続いてきた。
 一応「国民皆保険」が制度化される戦後になって初めて、一般庶民も近代医療の恩恵を受けるようになったのだが、同時に法的な「野巫医者排除」が進行していった。
 薬事法等の各種法令により、身分の定かでない遍歴者が医療行為に類することはできなくなり、必然的に、物売りや芸人に限定された稼業に変容して行ったのだ。
 戦後になってTVが普及すると「芸人」も遍歴する層はほぼ消滅。
 かくて神社仏閣の縁日には、ただ物販部門だけが痕跡として残ることになった。
 その物販部門ですら、テキ屋排除の風潮が進行しつつある。

 縁日の風景を形成する仮設店舗は、混雑する祭礼の安全を確保するセーフティーネットでもある。
 隙間の多い、緩やかな構造の店舗が参道を区切ることによって、人の流れを誘導し、時には増えすぎた人を吸収し、脇に逃がす役割を果たしている。
 クリーンに整理しきらない猥雑さや緩さ、怪しいものをある程度まで許容する包容力は、突発する危機を緩和する作用がある。

 日本経済の低迷が続く昨今、健康保険料を支払えず無保険状態になる層も増加しているという。
 とくに児童の無保険状態は深刻なテーマとして報道でも取り上げられるようになった。
 ところが昔の庶民が頼った「野巫医者」という最後のセーフティーネットは、もう存在しない。
 医者にかからず健康状態を維持するために役立ってきた季節ごとの風習や食べ物の知識も、多くは廃れ、形骸化し、急病の際に対処法を教え、支えてくれる地域共同体も崩れ去った。
 戦後多くの命を救い、健康を守ってきた医療保険制度と法規制が、反転して低所得層を追い詰める時代が到来しつつあるのかもしれない。
 そうした事態を国がなんとかしてくれるのかと言えば、たぶんなんともしてくれない。
 国だけでなく世間の風潮として「保険料払わないのが悪い! 自己責任!」という風に切って捨ててしまいそうな怖さがある。
 そして2011.3.11以降は、国が民の生命をまともに守らない姿勢が、ますます露骨になってきている。

 社会の様々な局面で、曖昧な領域を「合理化」の名の下に削りすぎた弊害が、今あちこちに出てきている気がする。
 個人的な体感では、そうした「世の中を短絡的に清潔にし過ぎる」傾向が急速に進行し始めたのが、90年代後半あたりからではないかという気がしているのである。

 今までにも何度か書いたが、2010年代は90年代に起こったことがさらに規模を拡大して静かに進みつつある予感がしている。
posted by 九郎 at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2013年01月10日

祭礼の夜3

 2013年の十日戎、本ゑびすの夜である。

 ゑびす縁日を楽しみながら、あれこれ考える。
 本日のお題は戦後の神戸とヤクザについて。
 参考書は以下の三冊。


●「神戸今昔散歩」原島広至(中経の文庫)
●「近代ヤクザ肯定論 山口組の90年」宮崎学 (ちくま文庫)
●「実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界」山平重樹(双葉文庫)

 明治期、現在のJR神戸駅付近一帯に「福原」と呼ばれる遊郭があった。
 古来、港街にはそうした「悪所」がつきものだったが、鉄道敷設に伴い移転。
 少し西に行ったところにある湊川のほとりに「新福原」が築かれ、すぐに「新」ははずされて、単に「福原」と呼ばれるようになった。
 まだ田園風景の残る川べりにぽっかりと出現した遊郭は、夜毎異界の輝きを放っていたことだろう。
 現在はもちろん遊郭など存在しないが、新開地東側一帯の福原町は、今でも歓楽街として知られている。
 湊川は度々氾濫を繰り返す暴れ川だった。
 一部天井川だった名残が、今の湊川公園の幹線道路を上からまたぐ特殊な立地に見られる。
 明治後期には大規模な付け替え工事が行われ、西側の長田方向に川筋の迂回する現在の新湊川になった。
 埋め立てられた当初の旧湊川は、両岸の土手が繋がった平地の形だったので単に「土手」と呼ばれていたらしい。
 明治44年には湊川遊園地(現在の湊川公園)が開園。
 大正13年には公園内に神戸タワー開業。
 開業当初の神戸タワーは高さ90メートルで、通天閣をしのぐ東洋一の塔だったという。
 昭和43年に老朽化で解体されるまで、神戸のシンボルの一つだった。
 現在は同じ場所に時計台が立っていて、鐘を鳴らしながら時を刻んでいる。
 新開地には明治40年にいち早く劇場が誕生。以来旧川筋には劇場、芝居小屋、映画館が林立し、福原遊郭とともに一大歓楽街が出現する。
 神戸タワーの足もとに広がる猥雑な空間は、たぶん大阪の新世界と同じ匂いのする場所だったことだろう。
 歓楽街と言うものは、それ単独で存在するわけではない。
 周辺に大量の人口が集中し、行き場を求める欲望の渦がなければ歓楽街は生まれない。
 明治後期の神戸は海外貿易が飛躍的に増加し、造船所などの大規模工場も出現していた。
 労働力の需要はいくらでもあり、周辺の農村や漁村で働き口を見つけられなかった若者たちが「神戸に行けば食える」とばかりに押し寄せてきていた。
 明治後期だけで人口が約二倍に増え、こうした流入人口の多くは日雇いの港湾労働者になり、いくつもの広大なスラム街を形成した。
 膨大な数の荒くれ男達の中から、やがて顔役として頭角をあらわすものが出るのは、ある意味必要不可欠なことだったに違いない。

 明治39年、職を求めて労働者が押し寄せる神戸に、一人の男が現れた。
 妻と幼い子供を連れた25歳の若者の名を山口春吉という。
 春吉は沖仲士と呼ばれる最下級労働者から出発し、徐々に頭角を現した。
 派手な荒事を好む性格ではなかったが、寡黙で篤実、義理堅く、人の嫌がる仕事を率先して行い、周囲から頼られる顔役の一人になった。
 やがて頼ってくる荒くれ男達と、自分の家族の生活を守る必要からヤクザになり、小さな組を構えた。
 これが後の日本最大のヤクザ組織、山口組の始まりである。
 当時の他の多くのヤクザ組織も同様だったが、山口組もその発祥は困窮する下級労働者の互助会としての面が強く、ある意味では「労働組合」でもあったのだ。
 春吉は仕事熱心だったので港湾労働者の統括は徐々に軌道に乗り、事業は拡大していった。
 浪曲と相撲が好きだったので、組の皆の福利厚生の一環として芸能興行も手掛けるようになった。
 下級労働者の統括と芸能興行は、後々まで山口組の「本業」として継続されることになる。
 大正7年に勃発した神戸米騒動では、随所で山口組の面々が活躍していたらしい。湊川公園に集まる民衆を煽り、米屋や大型商店を次々に包囲し、交渉を行った者たちの姿には、ヤクザ者の影がちらついている。
 春吉は自分が性格的にヤクザにさほど向いていないと思っていたらしく、大正14年に長男・登が23歳になると、跡目を譲って事業部門に専念するようになる。
 生活の必要からヤクザになった初代と違い、二代目は少年の頃から勇名を馳せたやんちゃ者だった。
 荒事も辞さない武闘派路線と、初代の堅実な事業路線が結び付き、地元神戸を中心に勢力を拡大していった。
 戦中の昭和初期には二代目・登が早くに亡くなったが跡目がなかなか決まらず、また戦時体制の締め付けもあって、山口組の勢力はギリギリまで縮小された。

 戦争末期の大空襲により、一面焼け野原となった神戸で、山口組三代目を襲名したのが田岡一雄だった。
 戦後、法を守ることと普通に生活することが一致しなくなった闇市の世界では、法外の領域も自在に泳げるヤクザ者が秩序を守る逆転現象が起きる。
 警察権力が崩壊した神戸の街で、その治安を守ったのが山口組だったことは紛れもない事実だ。
 今では想像することすら困難だが、警察側から警護を依頼した記録もはっきり残っている。
 山口組が地元神戸で恐れられながらも、長く庶民社会と共存出来てきたのは、戦後の「頼れる」イメージも一役買っているようだ。
 三代目・田岡一雄は山口組を再建するにあたって、ともかく組やその周辺にいる者たちを「いかに食わせるか」ということに腐心した。
 元々山口組は下級労働者の集まりという性格が強かったので、田岡は組員に食っていけるだけの合法的な職業を持つことを、積極的に勧めた。
 歴代組長が得意とした港湾労働と芸能興行の二部門は、やはり事業の中心に据えられた。
 戦前戦中とは港や興行の在り方が根本的に変わっており、ほとんどゼロからの出発だったが、精力的に事業を拡大していった。
 港湾事業ではしばしば労資間の調停に力を発揮し、労働条件の改善に貢献した。
 興行部門では「神戸芸能社」が設立され、美空ひばりをはじめ錚々たる芸能人を抱えた。
 金払いが良く警備も強力、抱えた芸能人を大切に扱ったので、芸能人側の評判は非常に高かった。
 ただ、こうした合法的事業の伸長も、武闘派部門の「力」の裏付けがあってのことではあった。
 港湾事業と芸能興行という両輪は山口組を広域化させた要因になったが、巨大化することで元々の「地域の顔役」という側面は徐々に薄れていった。
 私は決してヤクザをロマンティックに賛美するつもりはないのだけれども、戦後神戸という混沌に、田岡一雄という個性が居合わせたことは、そこで生きていかざるを得ない庶民にとって幸運なことだったのではないかと思う。

 戦後の混乱期を終え、警察力が強化されてくると、山口組のような巨大な民間の「武力」は、当局のターゲットにされるようになってくる。
 70年代以降、とくに芸能興行部門は警察の圧力で縮小せざるを得なくなり、90年代の暴対法により、さらに非合法の領域へと追いやられて行った。
 95年の阪神大震災時には、炊き出しや救援活動で久々に庶民の喝采を浴びたが、それ以降もヤクザ排除の風潮は警察主導で推し進められ、2011年、芸能人をターゲットにした「見せしめ」により、その路線は総仕上げに入ろうとしている。
 私は特にヤクザと個人的な付き合いも無いし、今後もその予定は無いが、こうしたヤクザ排除の路線が本当に庶民にとって「得」になるのかという点については、疑問を持っている。
 日本の文化は伝統的に、異端を排除せず、適度に受け入れてやり過ごすことで、調和を保つ知恵があった。 当ブログのカテゴリ節分でも度々書いてきたが、あまり潔癖に病原体を排除しようとすると、免疫機能が低下し、逆に病原体側は強力になる。
 それは社会についても同様だと考えている。

 私は自分がダメ人間であるという自覚を持っているが、たとえば明日から「ダメ人間排除条例」が施行されたとしても、急にダメ人間をやめることはできない。
 むしろ排除されたことで更にダメになり、周囲の迷惑度はアップするだろう。
 ダメ人間はそれが笑える範囲であればそっとしておく方がいい。

 ヤクザ特有の論理に「放っておけば悪くなる一方の若い者を、身柄を預かって最低限の仁義を教えてきた」というものがある。
 身勝手な自己正当化ではあるが、それは一面の真実でもあったのだ。
 ヤクザの犯罪行為は厳しく取り締まれば良いが、合法的な事業やヤクザであること自体を排除しようと下手にいじれば、ヤクザも生きるために非合法化の度合いを強めざるを得なくなるだろう。
 現在、ヤクザやその関係者と認定されてしまえば銀行口座も開けなくなっていると聞く。
 これではヤクザ本人だけでなく、家族までわざわざ悪の道へ叩き落としているのと同じである。

 かつてヤクザの組事務所は公然と看板がかけられており、構成員の名前や現況なども全て「公開情報」だった。
 警察は完全にヤクザの動向を把握しており、それは時には癒着と呼ばれる程だった。
 ヤクザとの不透明な関係を解消することは、それ自体は「正しい」としか言い様がないが、対決姿勢を強めることで逆に警察は闇社会の動向を掴みづらくなってしまっている。

 これは本当に社会的コストとして「得」な状態なのだろうか。
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2013年01月11日

祭礼の夜4

 1月11日の残り福で十日戎が終わると、華やいだ年始の雰囲気もほぼ終息する。
 あちこちの屋台でぼちぼちしまい仕度が始まる中、壷焼きを肴に一杯やりながら縁日の風景をながめ、余韻を楽しむ。
 コップ酒をすする目の前を、おっちゃんが腹をさすりながら、
「あ゛〜〜〜、粉モンはもうええわ……」
 と呻きながら通り過ぎていく。
 粉モンというのはお好み焼きやタコ焼きなどの、小麦粉を主成分とする食べ物のこと。

 おっちゃん、なんぼほど食うたんや(笑)

 各地の祭りでヤクザ、テキ屋排除が進行しつつあるが、十日戎はまだ露天が低調になるほどの影響が出ていないように見え、一安心する。
 いや〜、楽しいなあ。

 十分に楽しいゑべっさんの縁日なのだが、ふと物の本で仕入れた知識を思い出す。
 昔の縁日、露天が並ぶ「高市(たかまち)」は、もっと啖呵の声で騒々しい音の風景があったのだろうなと想像する。
 今の露天はせいぜい客を呼び込む掛け声がたまに響くくらいだが、昔は各露天がそれぞれに大道芸のような話芸を持っていて、物見高い客を舌先三寸でけむに巻き、怪しげな商品を捌いていたという。
 現代人がイメージしやすいのは、映画の画面で見る寅さんの啖呵売や、今でも芸能として保存されている「ガマの油売り」だろう。
 テキ屋、香具師の口上については、以前何度か記事にしたことがある。
 
 啖呵の達人
 啖呵の達人2

 今現在、入手しやすい資料としては、以下のCDブックがある。

●「香具師口上集」室町京之介(創拓社出版)

 今はもうほぼ絶滅してしまったテキ屋の音風景は、古くは民間宗教者の祭文語りや説教節、絵解き口上に淵源を持つ。
 今でもわずかに残っている祭文語り等の音源を聴いてみると、非常にリズミカルでほとんどラップのように聴こえるものもあって、面白い。
 そんな「語り」の中の一つに、例えば不動尊祈り経があって、当ブログでも音遊びとして取り上げてみたことがある。

【真言〜不動尊祈り経】(4分20秒/mp3ファイル/8MB)
非常に怪しいです! ヘッドフォン推奨!

 近世ではこうした民間宗教者の「語り」が、一部「大道芸」に姿を変えて、「チョンガレ」「チョボクレ」などと呼ばれながら、滑稽・諧謔と鋭い風刺で庶民の喝采を浴びていた。
 時には放浪する大道芸人のネットワークを巧みに利用し、情報伝達やオルグの手段として一揆のエネルギー源に活用した例もあったようだ。

●『「世直し歌」の力―武左衛門一揆と「ちょんがり」』五藤孝人(現代書館)

 残念ながら現代の神社仏閣の縁日からは、このような刺激的な音風景は姿を消してしまった。

 ただ、今であれば、各地の原発抗議行動のシュプレヒコールやメガホンアピールの中に、そうした「世直し歌」の系譜が続いていると見ることもできる。
 とくに、各地の抗議行動を遍歴しながら、巧みなリズムで盛り上げるパーカッション奏者やラッパーの皆さんに、往時の「道々の者」の姿がダブって見えることがあるのだ。


 そんな酔いにまかせた空想の中、今年の十日戎の祭礼の夜も、賑やかに過ぎ行く。
posted by 九郎 at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする