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2015年10月23日

文学フリマ大阪2015

 もう一ヶ月前になってしまったが、文学フリマ大阪に参加してきた件を記事にしておかなければ。

 文学フリマというイベントの詳細は、公式サイト参照。

 一応文章表現がメインの同人誌即売会だが、扱うネタの制限は極めて緩く、出店側が「これが文学だ」と信ずるならば、けっこうなんでもありに近いようだ。
 同人誌即売イベントでは漫画/コミックが主流で、中でもメジャー作品を元ネタにした「二次創作」と呼ばれるジャンルが大半を占めている。
 私なりの理解では、文学フリマはそうした二次創作コミック主流の即売会では埋もれ、こぼれ落ちがちな創作活動を掬い上げる試みの一つではないかと思っている。

 私の同人誌制作歴はかなり長く、もう四半世紀を超えつつあるけれども、いままで「即売会」形式のイベントとは縁がなかった。
 今こうして神仏与太話ブログで書き綴っているような内容を、以前は同人誌中心でやっていたのだが、二次創作コミック主流の即売会には馴染まないだろうなと初めから諦めていたのだ。
 数十部単位でコピー手製本の冊子を作り、関係者に配布したり、厳選したフリマ会場に並べるのが相応だと考え、実際そのようにしてきた。
 ブログを始めてからはこちらがメインになって、紙の本の制作ペースは落ちていた。
 自分の主な興味の対象には、世間的な需要は少ないだろうという自覚があるので、どうしても読者の限定される紙の本より、ワード検索でたどり着いてもらいやすいネットの方に重心が移ってくる。

 しかし同時に、ネットでの表現の限界というものも、感じてはいた。
 炎上避けや、個人特定避け、その他様々な理由で、踏み込んだ内容が書けないケースが意外と多いのだ。
 そうなると、再び紙の本を作ってみたくなってくる。
 今回の文学フリマ大阪開催は、私のそんな気分とタイミングにぴったり合っていたのだ。

 折よく、学生時代に所属していたサークルの後輩の皆さんが、出店するらしい。
 何しろ同人誌即売会は足を運ぶこと自体が初めて。
 勉強のため、便乗して本を置かせてもらうことにした。
 けっこう年齢差があるので、年寄りが邪魔しないよう遠慮しながら……

 紙の本にしたいネタなら色々ある。
 そろそろ10年になろうとするブログの中で、上記のような理由から内容的に「寸止め」になっているものは多いし、いまだに記事としてアップせず温存しているネタは「ネットで広く公開」に馴染まず、どちらかというと紙の本向けであるとも言える。
 あれこれ迷う中から、今回は以下の二冊を制作することにした。

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●「図工室の鉄砲合戦」
 特設ブログ放課後達人倶楽部で公開中の児童文学作品。
 個人的には、久々に「完全燃焼」の感覚が味わえた、現時点の自己ベスト作である。
 角川つばさ文庫の新人賞、二次選考通過作品。
 ブログではカラーイラストを添えて公開中だが、紙の本にするために約40点の線画をモノクロ印刷向けに描き直し、文章にも少々加筆。
 A5サイズ84ページ、コピー印刷手製本。
(ポップによる紹介)
「小学校で銃撃戦?! 地味でイケてないメガネ男子、一世一代の大勝負!!」

●「怪しき夢路 〜UGLY DREAMER〜」
 カテゴリで順次公開中の内容を、先取りして一冊にまとめたもの。
 四半世紀に及ぶ夢記録の中から、厳選した怪夢39点に、奇ッ怪イラスト75点を添付。
 夢だけに、ネット公開せず紙の本限定のネタも多い。
 A5サイズ60ページ、コピー印刷手製本。

 原価割れしないよう、またなるべく釣り銭が煩雑にならないよう、どちらも定価300円に設定。
 とにかく「読んでもらう」のが目的なので、値段は高すぎても安すぎてもいけない。
 儲けは期待しない方が良いけれども、原価割れで「無料配布」に近い状態で受け取ってもらっても、まず読んではもらえない。
 続けることが負担にならないよう、また、自分で作品の価値を卑下しないよう、原価+αくらいの値段設定にはした方が良い。
 少しでも興味をもって立ち止まってもらえたら、とにかく積極的に話す。
 内容はブログでも公開中であることを明らかにし、購入に至らない人にもブログ「縁日草子」や、フリーマーケットでの屋号「縁日屋」の宣伝チラシを一枚でも多く手渡す。

 ……等々、同人誌即売会は未経験ながら、以上のようなフリーマーケットで学んだ心得は、文学フリマ当日も役立ってくれた。

 イベント自体、物凄く楽しかった。
 間借りさせていただいたサークルの後輩の皆さん、参加ブースの中で「これは」と感じた皆さんと交流できたのが何よりも良かったし、本も渡すべき人には渡ったと思う。
 
 次回は是非、フルスペックの縁日屋を出店し、絵解き説教など披露してみたいと思う。
 
posted by 九郎 at 21:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2016年01月09日

祭礼の夜7

 今夜は十日戎の宵宮。
 6年前にたまたまえべっさんの盛んな地域に引っ越してきて以来、毎年この時期の三夜を楽しみにしています。
 参拝したり、そぞろ歩きを楽しんだり、露天で一杯引っかけながら色々妄想したりで、何度も記事を書いてきました。

 祭礼の夜
 祭礼の夜2
 祭礼の夜3
 祭礼の夜4
 祭礼の夜5

 以前描いた十日戎のイラストも、まとめサイトにのせられたりで、けっこう無断転載されてます。
 過去には勝手にバーゲンセールの広告に使われてしまったことも……
 まあ、なんにしろ自分の描いた絵が好評をいただくのはまんざらでもありません。
 ちょっと複雑な気分ですが(苦笑)

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 今夜もぶらりと出掛け、焼酎が置いてある店を見つけたので立ち寄りました。
 今年は全く寒くもないのですが、気分的にお湯割りとつぼ焼きを注文。
 安いお店にありがちな、「サザエではない大きな貝殻」で刻んだ何かの貝の身とチクワを出汁で煮たフェイクつぼ焼きと、薄いお湯割りが出てきたのは御愛敬。
 別にグルメで頼んだわけではなく、縁日の雰囲気を楽しんでいるだけなので、まあこれで十分。

 ちょっと目についたのが「ラストオーダー10時半、11時閉店」の張り紙。
 ん?
 ちょっと早すぎへんか?
 私は比較的新参者ですが、以前はもっと遅くまで盛り上がっていたイメージがあるのです。

 お店の人に聞いてみると、二〜三年ほど前から近隣住民の苦情もあって、深夜営業はご法度になったとのこと。
 警察も増員されて、どの店も11時にはキレイに閉めてしまわなければならないそうです。
 
 ……そうですか。
 つまらんこと言いますねえ。

 そうなんですよ、お客さんにはものすごく不評なんですけどねえ……

 こうして「非の打ち所の無い正論」をたてに、どんどんつまらん世の中になるのでしょうね。
 お上の側から小うるさくくちばし突っ込んでくるというよりは、小市民の側が自ら望んで息苦しい世の中にしていくのがまた情けない。

 仕方がないので早々と帰宅し、ろくに酔いもできずにぐちっぽい記事を書く。
 そんな宵宮です。
posted by 九郎 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2016年01月10日

祭礼の夜8

 今夜は十日戎本宮。
 祭礼の夜にふさわしい、奇想の物語にまつわる本を御紹介。 


●「中世の貧民―説経師と廻国芸人」塩見鮮一郎(文春新書)
 中世の廻国芸人が街角で喜捨を募りながら説いて回った「説教節」。
 その演目の中から「小栗判官」のストーリーを主軸に、「山椒大夫」「しのだ妻」といった代表的な演目を絡めながら、奴隷、病者、芸人など中世の貧困層の生活や感情を概観する一冊。
 内容とタイトルがあまり合っていないような気がする。
 あくまで「小栗」の道行きがメインの旅ガイドのような本で、タイトルほどに固く重い内容ではない。
 文春新書からは同著者で各時代の貧困層の生活を詳述する「〜の貧民」という本が何冊か出ていてシリーズになっているようで、便宜上それに合わせたタイトルになっているのだろう。
 重い内容ではないとうっかり書いてしまったが、扱う対象はどれも現代人の心に突き刺さる。
 試みに本のオビ裏面に並ぶ言葉を引用してみると、以下のようになる。

 ◎蔓延する疫病と頻発する一揆
 ◎遊女と奴隷を確保する人身売買
 ◎生活のために放浪する賤民
 ◎合戦にともなう略奪と暴行
 ◎店を張れず、物を売り歩く行商人
 ◎障害者を使った「人間カカシ」
 ◎ホームレスや病者が流れ着く「こじき町」

 どれもかつての日本では、また世界では当たり前に見られる光景であるけれども、現代ニッポンでは表面上「あってはいけないもの」とされ、多大な手間隙をかけて綺麗に包み隠されている社会の有り様である。
 この上もなく悲惨で重い現実の中、それでもしぶとくしたたかに生き抜いてきた貧民たちの、諦念混じりの軽みがこの本の語り口の中にはあるのだ。

 ほんのひととき太平の夢、清潔で健康的な世にまどろめたこのニッポンも、儚い夢から覚めなければならない刻限が、そろそろ迫る。
 中流社会、皆保険、皆年金、稲作がなんとか支えてきた食料自給、里山、麗しの山河、みな総崩れになる世がやって来る。
 中世物語を再び開き、用意なされよ。
 庶民の感情豊かでしぶとい心性をもう一度。


●「説経小栗判官」近藤ようこ(ちくま文庫)
●「説経 小栗判官」近藤ようこ (ビームコミックス) [Kindle版]
 中世の説教「小栗判官」そのままの語り芸は、現在もう伝承されていない。
 文字化されたものや、やや表現形態の変わったものが伝わっているのみだ。
 魅力的なモチーフであることは変わらないので、現代でも「小栗」に着想を得た数々の「新作」が制作されている。
 その中でも、余計なアレンジのない、無印良品的な佳作が、このマンガ版だと思う。
 線の少ないシンプルな絵柄は、過去に制作されてきた絵巻物や奈良絵本を思わせるし、ストーリー全体を過不足なく網羅してあるのも素晴らしい。
 絵描きのハシクレから見ると、こうした原典に忠実な「我を抑えた表現」は、描き手に物凄い勉強量と実力を要求することが分かるだけに、凄みを感じてしまうのである。


●「説経節―山椒太夫・小栗判官他」(東洋文庫)
 現代語訳されていない古典原文は、普通に楽しみとして鑑賞するには敬遠されがちだが、中世以降の物語の場合、実際読んでみるとさほど難読ではない場合が多い。
 説教節もその例に漏れず、声に出して音読してみると、わりとすんなり意味が入ってくる。
 とくに上で紹介したマンガ版などを先に読んでいれば、なんの困難もなく原文を楽しむことができる。
 中高生の頃の古文漢文学習法で、色々な古典のマンガ版を読んで内容を把握し、世界観や考え方を体得しておくと、細かな文法が苦手でも読解問題は解けるという手法がある。
 この方法は、単にテストで点を取るだけに使うのはもったいない。
 古典原文を「楽しむ」ことにも、十分有効なのだ。
 説教節の文章化された名品の数々を楽しむには、やはり平凡社東洋文庫版がお勧めだ。

 
 烏帽子を被り、顔に墨を塗った美女
 長い髪を振り乱し、裾をからげ
 笹の葉に幣をつけて物狂い

 えいさらえい
 えいさらえい
 
 照手の姫に先導されるのは
 子供に引かれた土車
 一引き引いたは千僧供養
 二引き引いたは万僧供養

 えいさらえい
 えいさらえい

 その土車にのせられるのは
 小栗のなれの果て
 餓鬼阿弥陀仏
 熊野を目指して引かれます

 えいさらえい
 えいさらえい
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2016年09月02日

遊ぶ子供の声きけば

 9月になった。
 月があらたまったからと言って、気候がガラッと変わるわけではない。
 暑さ涼しさが少々行ったり来たりしながら、季節は徐々に移ろう。
 それでもやっぱり、気分的には何かが変わる。
 とくに8月が終わると、「夏休みが終わってしまった」という子供の頃からの刷り込みがあって、もうとっくに大人になっても抜けきらない。
 それなりに夏を楽しんだはずなのに、何かやり残したような、やりたかったことの半分もできなかったような切なさが残る。
 口の中でキャンディーをころがすように、そんな切なさを味わいながら、ぼちぼち秋に向けて着地していく。

 ふと思い出したことがある。
 以前、子供向けに夏休みの絵画、工作の指導をしていたときのこと。
 その教室では、休憩時間に軽くおやつをたべたり、本を読んだり、おりがみや昔遊びのおもちゃを楽しむことになっていた。
 教室に来ていた幼児の中に一人、砂時計が大好きな男の子がいた。
 その日もその子は、ガラスの中を砂がさらさらと落ちるさまを、熱心に眺めていた。
 ときどき「ニヤッ」と笑いながら何かブツブツ言っているのに気づいて、ちょっと聞き耳を立ててみた。
 すると、今にも砂が落ち切りそうなタイミングで「ウケケケケ……」と笑いながら、
「人生おわるで〜」
 とつぶやいていたのだ。

 思わずブッと吹き出してしまった。
 さらに観察してみると、落ち切った砂時計をもう一回ひっくり返して、何度も人生(?)を楽しんでいるようなのだ。
 たまに、砂時計の下の方にあまり砂が落ちていない段階でひっくり返して、
「あ”あ"〜〜〜〜〜!」
 と悲鳴を上げたりしている。
 理不尽な「人生のおわり」に対する心の叫びだろうか?
 しかも自作自演!
 
 幼児はたまにこういう怪しい妄想一人遊びをすることがある。
 自分を振り返ってみても、色々おかしな妄想を抱いていた覚えがある。

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 独特の宇宙観になっていたりする場合もあるので、機会があれば観察したり、子供の話を聞いてみたりするようにしている。

 子供の宇宙

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 幼い子供が無心に遊ぶのを眺めるのは楽しいものだ。
 私が好きな「梁塵秘抄」の一節に、こんな唄がある。

  遊びをせんとや生れけむ
  戯れせんとや生れけん
  遊ぶ子供の声きけば
  我が身さえこそ動がるれ
          (梁塵秘抄より)

 当ブログ「縁日草子」の、実質第一回目の記事にも引用した、思い入れのある唄だ。

 遊ぶ子供の声にそっと耳を傾け、身も心も揺さぶられているのは誰なのか?
 主語は省略されているので、また色々と妄想が広がる。
 その主語の部分を、宇宙大の母の視線で読み替えたようにも見える、不思議な創世神話を紹介したこともある。

 カテゴリ「泥海」

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 夏休みが終わったタイミングで、幼児の「人生砂時計遊び」を思い出したのは、偶然ではないだろう。
 あたふたしているうちに夏休みは終わってしまうし、下手すると人生だってあっと言う間に終わる。
 たぶん夏休みと同じように、やりたいことの半分もできなかった切なさと、まんざら捨てたものでもなかった記憶を愛でながら、終わる。
 人生が夏休みのようなものならば、私の場合、なるべく悔いを少なくする術は、一応知っていることになる。

 ありがたいことだ。

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posted by 九郎 at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2016年09月04日

フェイクがどうした!

 よく読ませていただいているブログで、少しだけ「ガルーダ」が話題に上った。
 遠い記憶がよみがえってくる。

 ああ、ガルーダか……
 あれはショックだったなあ……

 ここでいうガルーダは、インドネシアなどの鳥の神様のことではない。
 70年代テレビアニメ「超電磁ロボ・コンバトラーV」に登場する敵役のことだ。
 今ではこの種のエンタメ作品の定型になった「主人公のカッコいいライバル」の、元祖みたいな登場人物だった。
 最終回近くに、実は自分が、母だと思っていた主人に作られた精巧なアンドロイドで、自分以外にも数々の試作品が存在したことを知る。
 自分が単なる道具に過ぎなかった事実に、強い衝撃を受ける。
 
 ……というような設定内容を、今回記事を書くにあたってネットで確認しつつまとめてみた。
 私がこのアニメを見たのはたぶん再放送で、まだ幼児に近い年齢だったのではないかと思う。
 四十年前の作品だが、だいたい記憶している内容と一致していた。
 己がフェイクであったと知った時のガルーダの絶望。
 幼い視聴者にとっても、それはかなりショッキングなシーンだった。
 ガルーダがその絶望を越えて、戦いの中に存在意義を見出していく心の動きは、「自分」とか「存在」とかに関わる、けっこう哲学的で高度な感情表現ではないだろうか。
 それを幼児に近い年齢の子供に、わりと正確に伝達してしまうのだから、日本のテレビアニメというのはやっぱり大したものだったんだなと思ってしまう。

 この「自分の存在や感情がフェイクだと知った喪失感」というモチーフは、他の作品でも形を変えてよく扱われる。
 実は自分が誰かのクローンであったとか、偽の記憶を刷り込まれていたとか、いつの間にかマインドコントロールを受けていたとか、もっと規模が拡大すると自分の認識しているこの世界そのものがバーチャルなものではないかいうパターンは、とくに思春期あたりに鑑賞すると、一部の少年少女にとっては過剰に「心に突き刺さる」場合がある。
 最近の表現だと「中二病」と言ったりするようだが、絵や文章や音楽など、何かものを作ろうとする中高生には必ず存在する傾向だ。
 うまく表現や仕事、生き方に結び付けて飼いならせれば良いけれども、こじらせると少々厄介な傾向でもある。

 自分の生きるこの世界、そして自分自身が幻ならば、そんなフェイクはもうたくさんだ。
 さっさと滅びてしまえばいい。
 中二病をこじらせるとそんな風に短絡しがちだ。
 終末論などのリセット願望は、そうした短絡と結びつきやすい。

 自分という存在や感情が、実は幻のようなものではないかという感覚は、新しいものではない。
 例えば仏教では昔から繰り返し説かれてきたことだし、かなり物語的な設定もある。
 私たちが住む須弥山世界の上空には魔王がいるという。
 魔王は欲界の衆生が生み出す様々な欲望や快楽を、自分のものとして自在に楽しむことが出来るとされる。(私はドラえもん世代なので、こういう話を聞くと「おすそわけガム標準装備?」とか、ついついアホなことを考えてしまう)
 衆生が快楽に囚われていれば、魔王はそれだけ自分が楽しむことが出来る。
 この世は魔王の娯楽であり、餌場なのだ。
 だから欲界からの脱却を説く仏道修行を敵視して、様々な妨害を行うという。
 お釈迦様の悟りを開く直前、誘惑を仕掛けて退けられたとも伝えられる。
 輪廻転生の中で魂を進化させ、須弥山を垂直方向に上り詰めても、そこに待っているのは快楽の魔王の世界なのだ。
 そんな世界からはもう抜け出せと、仏は説く。
 まだその世界にとどまるならば、衆生済度の菩薩になれと説く。

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 何代か前のスーパー戦隊シリーズに「侍戦隊シンケンジャー」という作品があった。
 ずっと観ていたわけではないが、たまたま最終回近くの二、三話を観ていたら、ちょっと面白い展開があった。
 この作品は戦隊リーダーにあたるレッドが「殿」で、他のメンバーが「家臣」であるという点に特徴があったのだが、ラスト近くになって突然、今まで主人公であった「殿」が、実は影武者であったということが判明する。
 本物の「殿」が最終回も近くなってからいきなり現れ、交代を迫るという、無茶なちゃぶ台返しである。
 同時に、例の「自分という存在がフェイクだったら」という、あのパターンも同時進行ですすむことになるので、どうなることかとハラハラしながら、久々に子供番組に見入ってしまった。
 結局、影武者レッドは「本物」と養子縁組し、晴れて「殿」になるというウルトラCで問題は解決される。
 あまりの展開に、思わず声をあげて笑ってしまった。

 笑いながらも、実はちょっと感動もしていた。
 自分という存在は、その来歴がフェイクであるかどうかに関係なく、役柄を全うできるかどうかにその本質があるのではないか?
 少々難解なテーマを、物凄く端的に、それこそ子供でも理解できる形で示された気がして、「この脚本、只者じゃないな」と思った。
 ガルーダからカウントして30数年、子供向けのエンタメ作品の中で繰り返し語られてきた、やや深刻なモチーフが、ついにこれほど軽やかにクリアーされる時代になったかと、感慨深かったのだ。
 
 こじらせた中二病の治療のカギは、ここらあたりにあるんじゃないか?
 そんなことを考えながら、久々に戦隊モノを最終話まで追ったのだった。
posted by 九郎 at 23:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする