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2023年12月21日

再び父方、姫路のこと1

 ここまで、戦国末期、石山合戦の過程で攻防のあった英賀御坊本徳寺と姫路周辺情報について、現時点での覚書をまとめてきた。

 英賀合戦幻想1〜5

 姫路城を中心とした江戸期の都市計画、海岸線の新田干拓により、今に続く姫路の基盤は築かれた。
 維新後の近代化で「軍都」として発展、第二次大戦で一旦焼け野原になるも、戦後復興を果たした過程についても、以前まとめた。

 戦後姫路小史1〜5

 姫路には私の父方祖父母宅があった。
 ここまでまとめてきた内容ともリンクし、私の幼い頃の原風景の一つでもあるので、こちらも覚書にしておきたい。

 父方祖父は二十世紀初頭、島根の山村に生まれた。
 寺の生まれというわけではなかったが、子供の頃から真宗僧侶になりたかったらしく、若い頃に広島で得度。
 その後姫路に出てきて亀山本徳寺の「役僧」になったと言う。
 初めから姫路を目指していたのかどうか詳しいことはわからないが、出雲は古くから姫路と旧道でつながっており、なんらかの「憧れ」のようなものはあったのかもしれない。
 真宗僧侶として広島から姫路の亀山御坊へという経歴は、ここまで見てきた石山合戦の舞台とも不思議と重なってくる。
 昭和初期当時の軍都姫路は鉄道路線が幾本も乗り入れ、工業化、都市化の勢いは凄まじく、また文化教育への熱も盛んで、若い近代日本の縮図のような勢いがあったことだろう。

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 私の古い記憶にある姫路は、その後戦災と高度成長期を経た70年代頃のイメージだ。

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 祖父の晩年にあたる当時の播州は、規模の小さなローカル線も含めて鉄道路線が張り巡らされており、その中心に姫路があった。
 戦災を挟みつつも、祖父は近現代日本の上り調子を全て目撃していたことになる。

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(続く)
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2023年12月27日

再び父方、姫路のこと2 亀山御坊

 島根出身で子どもの頃から寺のお坊さんに憧れ、若い頃広島で得度、真宗僧侶となった父方祖父は、その後姫路の亀山御坊で「衆徒」「役僧」の一人になったと言う。
 私も幼時から祖父や父に連れられて何度も参拝した。
 立派な門や本堂の大屋根、除夜の鐘でついた鐘楼などが記憶に残っている。

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 この亀山御坊本徳寺が、戦国時代に栄華を誇った英賀御堂の移転したものだ。
 位置関係でいうと以下の図のようになる。

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 元の英賀から東へ水尾川、船場川を越え、姫路の海路の玄関口である飾磨津から少し内陸に入ったところにあるのが亀山の地で、播磨に本願寺の信仰が広まる前は陰陽道と関係が深かったという。
 現在の亀山御坊は西本願寺所属で、東に流れる船場川をさらに姫路城下まで遡ると、東本願寺所属のもう一つの「本徳寺」、船場御坊がある。
 ともに江戸期から播磨一円の門徒の参拝が盛んであった。

 亀山御坊をさらに拡大して絵図にしてみた。

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 亀山御坊には英賀御堂のものがかなり伝わっており、その面影を伝えている箇所も多いだろう。
 本堂や太鼓楼、周囲の築地等は、おそらくかなり近い姿なのではないだろうか。

 西方を拝む配置になっているので東が正面にあたる。
 門を出て東に往時には説教所や門徒の宿泊所があったというが、今はもう無い。
 そのエリアを挟んで飾磨街道/銀の馬車道が南北に通じている。
 絵図の左が南で飾磨港、右が北で姫路城へ至り、戦前までは人や物の動線の中心軸になっていた。
 近代くらいまではまだ参拝者が多く、御坊の背後を走る山陽電鉄はお彼岸などに増便し、人流を捌いたという。
 門前には露店が立ち並び、娯楽の少ない時代にあっては、まさにテーマパークのような雰囲気だったのだろう。

 戦後は法令や組織の改変もあり、徐々に往時の人出は減じていったようだ。
 私の父方祖父母は「間に合った」世代で、御坊の賑わいを通じて縁が繋がり、所帯を持ったと聞く。

 
(続く)
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2023年12月28日

再び父方、姫路のこと3 旧街道

 維新後の近代姫路の陸上交通は、東西の軸の山陽道と、南北の「銀の馬車道」が中心軸になっていた。
 とくに「銀の馬車道」は、姫路のはるか北の生野銀山からスタートし、市川の流れと並行してついたり離れたりしながら南下して姫路城下へ、そこから飾磨街道と合流して姫路の海の玄関口である飾磨港へと至る長大な近代道路だった。
 前回記事で紹介したように、沿道には亀山御坊もあった。
 すぐに播但線も並行して運行するようになるが、その名の通りの荷馬車や、行商の人々の行きかう道で、私の父世代が幼少期を過ごした戦後しばらくまで、その風景は続いていたという。

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 しかし高度成長期を経てモータリゼーションの波が押し寄せると、飾磨街道/銀の馬車道は完全に歴史的役割を終えた。
 昔日の街道風情を伝える町家風の家屋は、城に近づくほど終戦間際の姫路大空襲で焼けてしまっており、残った家屋も徐々に建て替わっていった。
 父方祖父母が生活していた家屋は飾磨街道沿いにあったが、私が子供の頃の70年代にはもう「交通量の少ない二車線舗装道路」になっており、姫路の物流の南北軸の中心は少し西を通る「産業道路」その他に移っていた。

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(続く)
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2023年12月29日

再び父方、姫路のこと4 説教所

 父方祖父母が生活していたのは御坊から街道沿いに少し離れた所にある、説教所とか道場、教会と呼ばれる古い家屋だった。
 お寺ではなかったが小さいながら鐘もあり、近隣門徒が法事や集会をするための公民館的な役割で、祖父母はその管理をやっていたということだろう。
 今はもう現存せず、写真もあまり残っていないのだが、記憶を頼りに再現してみよう。

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 街道沿いの門から入って通路を経ると多人数が集まれる「おみど」があり、その正面の「内陣」にはそれなりに立派な祭壇があった。

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 内陣を抜けると庫裏にあたる居住スペースがあった。
 元々の部屋に加え、父兄弟の成長とともに建て増された部分があった。
 逆方向の居住スペース側からも見てみよう。
 間取りなどはけっこう再現できているはずだが、なにせ子供の頃の記憶なので屋根の構造などは不確かだ。

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 今考えると、客席・舞台・楽屋を備えた小劇場のような構造だ。
 私たち兄弟やいとこ達孫世代は、盆暮れなどに祖父母宅に集まった折にはよくおみどで遊んだりした。
 朝夕の勤行も物珍しく、けっこう楽しんでいた。

 このブログ最初期の記事にも、その様子は記述している。

 記憶の底

 上掲記事の日付は2006年1月。
 十八年、一巡り半で、大きく周回しながら最初のテーマに戻ってきた(笑)
 ブログ開設当初よりもかなり技量は上がり、認識も広まったが、手持ちの写真等で描けるのは、とりあえずここまで。

(続く)
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2023年12月30日

再び父方、姫路のこと5 「近代」の終わり

 戦後の高度成長期以降、姫路でも維新後の「近代」の名残は徐々に姿を消していった。
 姫路の戦後復興はアクの強い土建屋市長の個性によるところが大きい。
 私の幼児期の記憶で印象に残っている姫路の風景も、戦後の都市計画のものだ。

●名古山霊園
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手柄山
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モノレール
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 盆暮れに集まった私たち兄弟やいとこがよく遊びに行った近所の公園も、いかにも70年代的な凝ったコンクリート遊具があって、団塊ジュニアの多数の子供たちでいつもにぎわっていた。

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 二十世紀初頭に生まれ、80年代には亡くなっていた父方祖父は、まさに「近代とともに生きた」ということになる。
 前回記事で紹介の説教所も近世〜近代の在り方で、戦後の世の中の変化、宗門内の変化とともに、祖父の代で役割を終えたということだろう。
 そして時代の流れはとどまらず、私たち孫世代の見てきた高度経済成長以降の姫路の風景も徐々に姿を消し、上書きされつつある。



 以上、今年夏ごろから断続的に、現時点で描ける父方姫路を覚書にしてきた。

英賀合戦幻想1〜5
戦後姫路小史1〜5
再び父方、姫路のこと1〜5

 その過程で中世末期の「石山合戦」についても資料を渉猟し、認識を深めることができた。
 また時機を見て、石山合戦以前の播州についてもまとめてみたいと思う。
posted by 九郎 at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする