「金烏玉兎」の第一巻序が、風土記などに伝えられる蘇民将来神話を発展させた「牛頭天王縁起」になっている。以下にその概略を紹介してみよう。
【牛頭天王(ごずてんのう)】
天界で神々の王・帝釈天に仕え、宇宙の三界を自在に活動する「天刑星(てんぎょうしょう)」という神があった。天刑星は天竺マガダ国の、王舎城という仏縁ある場所の大王として転生した。
この大王の名を商貴帝(しょうきてい)と言う。優れた政治を行い、領民に愛され、周囲に名をとどろかせたが、一つ問題があった。大王は異形の者だったのである。
頭には尖った二本の角が生え、黄牛のような形相で、見た目はまるで人々を害する夜叉さながらであった。よって「牛頭天王」と名乗った。
善政を称え敬う領民達は、牛頭天王がその容貌のために后がなく、子孫にこの素晴らしい治世が伝えられないことを嘆いていた。そんなある日、天界の帝釈天からの使者が到着した。
使者の伝えるところでは、このマガダ国からはるか南にある竜宮に、牛頭天王の后に相応しい姫がいると言う。その名は頗梨采女(はりさいじょ)。輝く紫磨黄金の肌、仏菩薩のような高貴の相、彼女こそが牛頭天王の后になるべき女性であると……
【図像について】
今回描いた牛頭天王の姿は、現存する各図像を参考に組み立ててみた。牛頭天王の図像には各種のバリエーションがある。三面のもの、四臂のもの、密教の明王に似た姿のもの、日本の神代風のものetc……
しかし各図像の多くは、頭上に牛頭を頂いている点で共通しており、今回はそれを軸にデザインしてみた。
どれか特定の図像を元にはしていないので、資料的な価値は無いと思われます(笑)
2006年02月12日
牛頭天王縁起2
【巨旦大王】
使者の知らせに喜んだ牛頭天王は、三日間かけて心身の穢れを祓い、眷属とともに馬車で南海、八万里の彼方の竜宮へと出発した。三万里ほど進んだ一行は休息のために一夜の宿を求めた。
そこは夜叉国。鬼の王、巨旦大王(こたんだいおう)の支配する魑魅魍魎の国だった。巨旦大王は牛頭天王を激しく罵倒し、追い返してしまう。 疲労困憊した一行は、さらに千里進んだところで巨旦大王の奴隷の女と出会う。女は牛頭天王に「蘇民将来という老翁の元を訪れるように」と伝えた。この貧しいが慈悲深い老翁は、天王一行を快く迎えた。不思議なことにそのあばら家に大勢の眷属は残らず入ることができ、瓢の中のわずかな粟は残らず一行にいきわたった。こうして牛頭天王はようやく休息することができた。
天王は喜んで老翁に千金を与え、竜女を求める旅の目的を語った。まだまだ長い旅の行く末を案じた老翁は、一瞬にして数万里を走る宝船を天王に貸し与えた。天王は喜び勇んで出発し、たちまち竜宮城に到着した。
【図像について】
後に詳しく述べるが、巨旦大王は牛頭天王に滅ぼされ、最強の祟り神「艮の金神(うしとらのこんじん)」となる。
今回の「巨旦大王」の図は、高御位神宮所蔵「鬼門大金神」図を参照した。「金神」の図像としては関連書籍等でよく紹介されているもので、異様な迫力のある図像だ。構図もそのままに踏襲しているので「見たことがある」と感じた人もいると思う。
私は神仏の絵を描くために様々な資料にあたっているうち、この元図像にも出典が存在することに最近気付いた。密教の資料である「仁王経法本尊像」を採録した図版の中に、「鬼門大金神」とほとんど同じ姿の仏尊を発見したのだ。
神仏の姿は伝統的な図像を引用し、受け継いで行くことでその呪力をも継承する。私もそうした神仏絵師達の末席に連なってみたいと思っている。
【追記】
この図像について新たに気付いたことを、以下の記事にメモ。
「東寺密教図像の世界」展
使者の知らせに喜んだ牛頭天王は、三日間かけて心身の穢れを祓い、眷属とともに馬車で南海、八万里の彼方の竜宮へと出発した。三万里ほど進んだ一行は休息のために一夜の宿を求めた。
そこは夜叉国。鬼の王、巨旦大王(こたんだいおう)の支配する魑魅魍魎の国だった。巨旦大王は牛頭天王を激しく罵倒し、追い返してしまう。 疲労困憊した一行は、さらに千里進んだところで巨旦大王の奴隷の女と出会う。女は牛頭天王に「蘇民将来という老翁の元を訪れるように」と伝えた。この貧しいが慈悲深い老翁は、天王一行を快く迎えた。不思議なことにそのあばら家に大勢の眷属は残らず入ることができ、瓢の中のわずかな粟は残らず一行にいきわたった。こうして牛頭天王はようやく休息することができた。
天王は喜んで老翁に千金を与え、竜女を求める旅の目的を語った。まだまだ長い旅の行く末を案じた老翁は、一瞬にして数万里を走る宝船を天王に貸し与えた。天王は喜び勇んで出発し、たちまち竜宮城に到着した。
【図像について】
後に詳しく述べるが、巨旦大王は牛頭天王に滅ぼされ、最強の祟り神「艮の金神(うしとらのこんじん)」となる。
今回の「巨旦大王」の図は、高御位神宮所蔵「鬼門大金神」図を参照した。「金神」の図像としては関連書籍等でよく紹介されているもので、異様な迫力のある図像だ。構図もそのままに踏襲しているので「見たことがある」と感じた人もいると思う。
私は神仏の絵を描くために様々な資料にあたっているうち、この元図像にも出典が存在することに最近気付いた。密教の資料である「仁王経法本尊像」を採録した図版の中に、「鬼門大金神」とほとんど同じ姿の仏尊を発見したのだ。
神仏の姿は伝統的な図像を引用し、受け継いで行くことでその呪力をも継承する。私もそうした神仏絵師達の末席に連なってみたいと思っている。
【追記】
この図像について新たに気付いたことを、以下の記事にメモ。
「東寺密教図像の世界」展
posted by 九郎 at 21:39| 節分
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2006年02月20日
牛頭天王縁起3
【頗梨采女と八王子】
竜宮に到着した牛頭天王一行は、竜王の歓迎を受けた。不老門から長生殿に入り、ついに理想の后、頗梨采女(はりさいじょ)と対面し、結ばれた。天王と后は一時も離れることなく睦み合い、やがて二十一年の時が流れた。二人の間には八人の王子が生まれていた。
ある日、牛頭天王は八王子を呼び寄せ、このように宣言した。
「自分は天竺の王である。后を求めて南海に来る途中、魑魅魍魎の国の大王に辱めを受けた。当時は心身の穢れを祓った身であったので戦いは避けたが、今こそ鬼王の国を破壊し尽くそうと思う」
牛頭天王と八王子が数百数千の眷属を率い、軍備を整え出陣した頃、遠くはなれた巨旦大王の顔に不吉な相が現れた。奇異の念を抱いた大王が占いを命じてみると、「二十一年前の因縁による国の滅亡の前兆」と出た。大王は千人の僧侶を集めて泰山府君の法を行じさせ、城を鉄の防備でかため、牛頭天王の襲来に備えさせた。
【図像について】
今回の図像は「歳徳神(としとくじん)と八将軍」を参考にしている。牛頭天王を祀る神社などで御守りなどに広範に使われている図像で、頗梨采女と同体とされる歳徳神を中心に、その子供である八将軍が取り囲んでいる。歳徳神は大きなお腹をかかえ、如意宝珠を持ち、椅子に腰掛けた豊満な美女として描かれている。
牛頭天王がスサノオと習合したことから、頗梨采女=歳徳神はクシナダヒメであるとも伝えられている。
竜宮に到着した牛頭天王一行は、竜王の歓迎を受けた。不老門から長生殿に入り、ついに理想の后、頗梨采女(はりさいじょ)と対面し、結ばれた。天王と后は一時も離れることなく睦み合い、やがて二十一年の時が流れた。二人の間には八人の王子が生まれていた。
ある日、牛頭天王は八王子を呼び寄せ、このように宣言した。
「自分は天竺の王である。后を求めて南海に来る途中、魑魅魍魎の国の大王に辱めを受けた。当時は心身の穢れを祓った身であったので戦いは避けたが、今こそ鬼王の国を破壊し尽くそうと思う」
牛頭天王と八王子が数百数千の眷属を率い、軍備を整え出陣した頃、遠くはなれた巨旦大王の顔に不吉な相が現れた。奇異の念を抱いた大王が占いを命じてみると、「二十一年前の因縁による国の滅亡の前兆」と出た。大王は千人の僧侶を集めて泰山府君の法を行じさせ、城を鉄の防備でかため、牛頭天王の襲来に備えさせた。
【図像について】
今回の図像は「歳徳神(としとくじん)と八将軍」を参考にしている。牛頭天王を祀る神社などで御守りなどに広範に使われている図像で、頗梨采女と同体とされる歳徳神を中心に、その子供である八将軍が取り囲んでいる。歳徳神は大きなお腹をかかえ、如意宝珠を持ち、椅子に腰掛けた豊満な美女として描かれている。
牛頭天王がスサノオと習合したことから、頗梨采女=歳徳神はクシナダヒメであるとも伝えられている。
posted by 九郎 at 22:56| 節分
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2006年02月23日
牛頭天王縁起4
【巨旦の墓標】
鉄壁の防備を固めた巨旦大王の居城を前に、牛頭天王は内心舌を巻いた。何とか攻略の糸口見つけるために偵察を送ってみると、果たして法力僧の一人が居眠りをして行を怠っていることがわかった。そのため頑丈な防備の中でただ一点、開け放した窓があるということだ。
牛頭天王は空から居城に攻め入り、巨旦大王とその眷属を滅ぼし尽くしてしまった。その際、かつて蘇民将来を紹介してくれた奴隷女だけは救おうと、邪気を避ける札を作って指先ではじくと、たちまち札は女のもとに到着して命を守った。
牛頭天王は巨旦大王の死骸を五つに切り刻み、五節句に配して巨旦調伏の祭礼とした。そして天竺に帰る途中、蘇民将来の家に立ち寄ってみると、貧しかった蘇民将来は数々の宮殿を持つ長者になっており、牛頭天王と八王子は熱烈な歓迎を受けた。喜んだ牛頭天王は、蘇民将来に巨旦の夜叉国を与え、子孫の守護を約束した。
「遠い未来、衆生は煩悩に耽って天地のバランスを崩し、心身は腐れ果てるであろう。私と八王子とその眷属は、その末法の世に疫病神として現れる。もし恐ろしい病から逃れたいと望むなら『蘇民将来の子孫なり』と名乗り、五節句の祭礼を執り行うが良い」
このような予言をのこし、牛頭天王は立ち去ったのである。
(『牛頭天王縁起』概略、了)
【巨旦調伏の祭礼】
牛頭天王の語る五節句の意義は以下のようになる。
・一月一日----紅白の鏡餅(巨旦の骨肉)
・三月三日----蓬の草餅(巨旦の皮膚)
・五月五日----菖蒲のちまき(巨旦の髭と髪)
・七月七日----小麦の素麺(巨旦の筋)
・九月九日----黄菊の酒(巨旦の血)
さらに付け加えて、以下のようにその意義を説く。
・蹴鞠(巨旦の頭)
・弓矢の的(巨旦の目)
・門松(巨旦の墓標)
つまり私たちが日常何気なく眺めている日本の祭礼の多くが、巨旦調伏のための儀式なのだ。
鉄壁の防備を固めた巨旦大王の居城を前に、牛頭天王は内心舌を巻いた。何とか攻略の糸口見つけるために偵察を送ってみると、果たして法力僧の一人が居眠りをして行を怠っていることがわかった。そのため頑丈な防備の中でただ一点、開け放した窓があるということだ。
牛頭天王は空から居城に攻め入り、巨旦大王とその眷属を滅ぼし尽くしてしまった。その際、かつて蘇民将来を紹介してくれた奴隷女だけは救おうと、邪気を避ける札を作って指先ではじくと、たちまち札は女のもとに到着して命を守った。
牛頭天王は巨旦大王の死骸を五つに切り刻み、五節句に配して巨旦調伏の祭礼とした。そして天竺に帰る途中、蘇民将来の家に立ち寄ってみると、貧しかった蘇民将来は数々の宮殿を持つ長者になっており、牛頭天王と八王子は熱烈な歓迎を受けた。喜んだ牛頭天王は、蘇民将来に巨旦の夜叉国を与え、子孫の守護を約束した。
「遠い未来、衆生は煩悩に耽って天地のバランスを崩し、心身は腐れ果てるであろう。私と八王子とその眷属は、その末法の世に疫病神として現れる。もし恐ろしい病から逃れたいと望むなら『蘇民将来の子孫なり』と名乗り、五節句の祭礼を執り行うが良い」
このような予言をのこし、牛頭天王は立ち去ったのである。
(『牛頭天王縁起』概略、了)
【巨旦調伏の祭礼】
牛頭天王の語る五節句の意義は以下のようになる。
・一月一日----紅白の鏡餅(巨旦の骨肉)
・三月三日----蓬の草餅(巨旦の皮膚)
・五月五日----菖蒲のちまき(巨旦の髭と髪)
・七月七日----小麦の素麺(巨旦の筋)
・九月九日----黄菊の酒(巨旦の血)
さらに付け加えて、以下のようにその意義を説く。
・蹴鞠(巨旦の頭)
・弓矢の的(巨旦の目)
・門松(巨旦の墓標)
つまり私たちが日常何気なく眺めている日本の祭礼の多くが、巨旦調伏のための儀式なのだ。
posted by 九郎 at 19:33| 節分
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2006年02月24日
金神
【巨旦の精魂】
「金烏玉兎」では、滅ぼされた巨旦大王と眷属の精魂が「金神(こんじん)」となって人間世界を遊行し、衆生を殺戮すると伝える。中でも巨旦大王は鬼門(北東)から来る最強の祟り神「艮の金神(うしとらのこんじん)」として忌み嫌われるようになった。
中世から近世にかけて民間陰陽師たちは「金烏玉兎」を種本とし、「牛頭天王縁起」をはじめとする陰陽道の物語の流布につとめた。そうした民間陰陽師たちの活躍もあって、金神への恐怖は民衆の意識の中に深く根を下ろしていくようになる。
【陰陽道】
陰陽道は中国の陰陽五行思想を基礎とし、仏教の説や日本の神道を取り込んで成立している。もともとは社会の発展にともない、天文や建築などの必要から生まれた学問であって、合理性が求められるものだった。
例えば鬼門(北東)と裏鬼門(南西)の方向に対する建築上の禁忌は今でも根強く、単なる迷信であるとの批判もある。しかし日本の風土では、北東は最も日照時間が短く湿気のこもりやすい方角であり、南西は西日の強烈な方角であった。上下水道の無い時代の木造建築では、そうした方角に建築上の配慮をすることは、建物の耐久性や住人の健康を考えれば、むしろ当然のことであった。
節句の祭礼を執り行うことは、季節感を意識して生活や食べ物にメリハリをつけ、健康を維持するために役立っただろう。
また、日本においてより正確な西洋の暦法にいち早く注目したのは陰陽師であったと言われている。
【迷信の跋扈】
陰陽道は時代とともに様々な思想を貪欲に吸収し、より強力な呪力を獲得していった。それは「蘇民将来神話」において、外来の神を積極的に受け入れ、免疫力を獲得した構図とも共通している。
融通無碍に様々な要素を吸収していくことが陰陽道の力の源泉であったが、時代の流れとともにそうした在り方の弊害も現れてくる。禁忌は無限に増殖し、無意味で煩瑣な迷信が人々の心を縛り、生活を縛り、健康を害する迷信に堕して行く。
「生活上の知恵」という本来の意味から遊離した儀礼は、それ自身が人々を苦しめるものに変質する。「金神」はそうした矛盾から生じる災厄の捌け口として、全ての罪を被せられ、ますます忌み嫌われて行った。
【図像について】
今回の図像は暦などによく使われている金神の図を下敷きにした。双竜にまたがる鬼のような不気味な姿に見覚えのある人もいると思う。
「金烏玉兎」では、滅ぼされた巨旦大王と眷属の精魂が「金神(こんじん)」となって人間世界を遊行し、衆生を殺戮すると伝える。中でも巨旦大王は鬼門(北東)から来る最強の祟り神「艮の金神(うしとらのこんじん)」として忌み嫌われるようになった。
中世から近世にかけて民間陰陽師たちは「金烏玉兎」を種本とし、「牛頭天王縁起」をはじめとする陰陽道の物語の流布につとめた。そうした民間陰陽師たちの活躍もあって、金神への恐怖は民衆の意識の中に深く根を下ろしていくようになる。
【陰陽道】
陰陽道は中国の陰陽五行思想を基礎とし、仏教の説や日本の神道を取り込んで成立している。もともとは社会の発展にともない、天文や建築などの必要から生まれた学問であって、合理性が求められるものだった。
例えば鬼門(北東)と裏鬼門(南西)の方向に対する建築上の禁忌は今でも根強く、単なる迷信であるとの批判もある。しかし日本の風土では、北東は最も日照時間が短く湿気のこもりやすい方角であり、南西は西日の強烈な方角であった。上下水道の無い時代の木造建築では、そうした方角に建築上の配慮をすることは、建物の耐久性や住人の健康を考えれば、むしろ当然のことであった。
節句の祭礼を執り行うことは、季節感を意識して生活や食べ物にメリハリをつけ、健康を維持するために役立っただろう。
また、日本においてより正確な西洋の暦法にいち早く注目したのは陰陽師であったと言われている。
【迷信の跋扈】
陰陽道は時代とともに様々な思想を貪欲に吸収し、より強力な呪力を獲得していった。それは「蘇民将来神話」において、外来の神を積極的に受け入れ、免疫力を獲得した構図とも共通している。
融通無碍に様々な要素を吸収していくことが陰陽道の力の源泉であったが、時代の流れとともにそうした在り方の弊害も現れてくる。禁忌は無限に増殖し、無意味で煩瑣な迷信が人々の心を縛り、生活を縛り、健康を害する迷信に堕して行く。
「生活上の知恵」という本来の意味から遊離した儀礼は、それ自身が人々を苦しめるものに変質する。「金神」はそうした矛盾から生じる災厄の捌け口として、全ての罪を被せられ、ますます忌み嫌われて行った。
【図像について】
今回の図像は暦などによく使われている金神の図を下敷きにした。双竜にまたがる鬼のような不気味な姿に見覚えのある人もいると思う。
posted by 九郎 at 21:18| 節分
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