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2006年02月25日

神話のヨミカエ1「天地金乃神」

 時は江戸末期、所は備中国占見(うらみ)村。
 最古の蘇民将来神話が伝えられる備後国の程近く、民間陰陽師が数多く活躍し、金神信仰が深く根ざしたこの地に、一人の農民が暮らしていた。
 農民の名は川手文治郎(かわてぶんじろう)、生真面目で誠実な人柄で家を守り、村の役をこなす模範的な男だった。正規の学問ではなかったが、村の知識人から教えを受け、当時の農民としては相当な合理精神を身につけており、物事の道理を大切にした。また神仏を敬う心も篤く、機会を作っては巡礼の旅に出る一面も合わせ持っていた。当時の地元に根ざした金神信仰にも一方ならぬ敬いの心を持ち、日頃の言動や屋敷の普請にも、神に不敬の無いように常に配慮を怠らなかった。
 ところがそれだけ敬神の念が篤かったにも関わらず、文治郎の身辺には不幸が相次いだ。二十代で養父・義弟・長男、三十代で長女・次男、そして飼い牛、四十二歳の厄年には自らが思い病気に罹ってしまった。文治郎の脳裏には避けようもなく「金神七殺(こんじんななさつ)」という言葉が浮ぶ。遊行する金神の方位を犯した者は当人も含めて七人祟り、足りない場合は隣近所にまで祟りが及ぶという不気味な信仰。それは陰陽道の歴史が生んだ負の遺産、最悪の迷信……

 文治郎の中の敬神の念と、身につけた合理性が激しく拮抗し、揺れ動く。責任感の強い人柄は抱え込んだ矛盾の棚上げを許さず、内へ内へと突き詰められていく。その果てにある世界を、文治郎は「神の言葉」として聴くことになる。
 この大病の際に受けた祈祷で神懸り現象を目にした文次郎は、一応の病気平癒を得た後、独自に金神との対話を進めていくことになる。心を研ぎ澄ませ、自分の内に呼びかけてくる金神の声に耳を傾ける。正体不明の祟り神として恐れられた金神は、意外にも道理の通った慈悲深い言葉を伝えてくる。やがて文治郎は自分に語りかける神の勧めで農事から手を引き、隠居して神の言葉の取次ぎに専念するようになった。金光教開祖、金光大神(こんこうだいじん)としての人生がはじまったのである。
 金光大神に語りかける神は、自らを「天地金乃神」であるとし、大地の神である八百八光の金神と、天の日の神・月の神を合わせた天地の親神であると伝えた。天地の親神は愛の神であり、祟りの神では無い。人間の小賢しい知恵でもって神の不在を狙うような姑息さが、心身の不都合を生み出すと説いた。
 方位や日柄の合理性無き迷信を否定し、男尊女卑を否定した。祭礼に形を求めず、内面の信仰を勧めた。難しい表現はとらず、地元の百姓言葉で、親しく平易に語った。
 金光大神の教えは、当時の迷信にがんじがらめにされた農民達の生活を解放し、無駄を省いて生活の負担を減じ、心の迷妄を解いて、結果として病気平癒の「おかげ」が相次いだ。

 祟り神と恐れられた金神が、自らの言葉によって金神信仰の迷妄を糺す。
 人間の既成概念に塗り固められ、変質し、行き詰まった神話の生命力は、新たにヨミカエルことによってヨミガエル……
posted by 九郎 at 22:47| 節分 | 更新情報をチェックする

2006年02月26日

神話のヨミカエ2「艮の金神」

 時は1836年、世に名高い「天保の大飢饉」の只中、所は霧深い丹波の国、その女は生まれた。時代はあまりに厳しく、「減し子」になるはずであったが、祖母のたっての希望で、なんとか育てられることになった。女は慎ましく誠実な人柄に成長した。貧しいながらも当時の農民女性として必要な様々な技能を身につけ、地元の「三孝女」の一人に数えられるほどであった。幼い頃から何度かの神隠し体験を持ち、予言めいたことを口走り、神仏への敬いの念が篤い一面も持っていた。
 やがて女は親戚筋の出口家に入り、大工の婿を取った。婿の政五郎は善良な性格、名人肌の職人だったが、酒好き遊び好きで生活感覚に乏しかった。よく人に騙され、財産を次々に巻き上げられて、家運は衰退した。
 女はそんな夫に文句の一つも言わず、貧乏子沢山の生活を、健気に切り盛りし続けた。やがて夫は病没し、女はまだ家を送り出せない幼い姉妹を抱えて途方にくれた。明治の開化の世も女の苦境を救う何の役にも立たず、技術の発達は女の最後の収入源であった糸引きの職場すら奪ってしまった。また経済構造の発達は、家の借金体質を生み出す原因ともなっていた。
 57才、いまだ幼い娘達を養うために、女は屑買いで日々をしのぐようになる。女は後に自分の境遇を「地獄の釜のこげおこし」「鉄棒が針になるほどの苦労」と表現した。道理と誠が通らず、嘘と金が支配する世の矛盾。その矛盾をも引き受けようと苦闘する強烈な責任感。とうに限界を超えた肉体の疲労……
 そして明治25年旧正月(古式では節分の日)、女の口に激しい神の言葉が宿った。
 女の名は出口なお
 神の名は「艮の金神(うしとらのこんじん)」

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 「三ぜん世界一度に開く梅の花、艮の金神の世に成りたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。この世は神が構はな行けぬ世であるぞよ。今日は獣類の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの世であるぞよ。世界は獣の世になりてをるぞよ。邪神にばかされて、尻の毛まで抜かれてをりても、まだ眼が覚めん暗がりの世になりてをるぞよ。これでは、世は立ちては行かんから、神が表に現はれて、三千世界の天之岩戸開きを致すぞよ。用意をなされよ。この世は全然、新つに致して了ふぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下泰平に世を治めて、万古末代つづく神国の世に致すぞよ…」

 自分の口からとめどなく溢れ出る、猛々しい神の言葉。慎ましい性格のなおは当惑し、何とか神を鎮め、元の生活に戻ろうとするが、望みはかなわない。警察に引き立てられ、親族に座敷牢に入れられ、様々な辛酸を舐めた後、ようやく神は妥協して、言葉を口で叫ばず筆で記すようになった。
 なおは無筆文盲だったが、神懸りがあれば何故か手は自然に動き、膨大な枚数の「おふでさき」となった。艮の金神の筆先は全てひらがなと漢数字のみであり、句読点もなく、内容も断片的で意味が取りづらかった。筆記者であるなお自身にも明確な意味はわからなかったが、その断片から伺える腐り切った世の矛盾の告発、来るべきユートピア「ミロクの世」のイメージは、なおの心に染み込んでいった。はじめは神に不審の念を抱いていたなおも、神の言葉を記すうちに深く共感し、なんとかこの神を世に出したいと願うようになった。

 筆先で断片的に語られる神話によれば、艮の金神は元は天の大神に命ぜられ、大地を修理固成した地の親神であった。しかしその謹厳な神政は他の多くの神々の不興を買い、隠退させられることになる。「いり豆に花が咲くまで出てくるな」と、この世の艮に封じられた神は、以後世を支配する偽の神々の呪詛されることになる。節句の祭礼は全て、真の善神である艮の金神調伏の呪いなのだ。以後、世は偽りの神々の支配する悪の世に成り果ててしまった……

 これは蘇民将来神話の善悪を全く逆転させるヨミカエで、前回紹介した「天地金乃神」のケースをさらに先鋭化させたものと言える。天地金乃神の取次ぎ金光大神は、農民であったが一応村の共同体の中で確固とした地位を持つ男性だった。金光大神の教えは社会批判には向かわず、自己の内面を重視したものだった。なおに懸かった艮の金神は、自らの目的をはっきりと「世の立替え立直し」であると規定し、激しい社会批判を正面切って叩きつけた。明治の世の恩恵を何一つ受けられず、村落共同体の中ですら見捨てられた女性であるなおの境遇が、この激しい神格と同期したのだろうか。
 社会に対する姿勢に温度差はあるけれども、天地金乃神と艮の金神は、ともに「立て分ける」神であるという点で一致している。強い原理原則で、混濁した要素をすっきりと糺す神である。古い蘇民将来神話においては、巨旦は外来の神を拒絶する潔癖さを持っていた。価値観の善悪は変遷しているが、基本的な神の性格には一貫性があるのかもしれない。

 やがてなおは優れた予言能力と病気治癒力を発揮し、地元綾部で小さな教団が形成された。後の新宗教「大本」の原型になった小集団である。しかし当の艮の金神は、病気直しを主体とするこの小さな教団に満足せず、繰り返し「立替え立直し」を宣言する。なおも含め、当時の信徒達には具体的な「立替え立直し」の方策など判るはずもなく、途方にくれるばかりであった。
 艮の金神は「この神を判けるみたまは東から現れるぞよ」と予告し、なおは「その人」を待ち続けた。そして帰神から七年後、ついに「その人」は現れた。

【図像について】
 今回の図像はもちろん、艮の金神と出口なおを描いたものだ。参考資料としては、次回紹介する出口王仁三郎が描いた「艮の金神」と、明治25年に一番近い年代の出口なおの写真を参照した。
posted by 九郎 at 22:09| 節分 | 更新情報をチェックする

2006年02月28日

神話のヨミカエ3「スサノオ」

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 筆先に曰く、
「綾部の大本には出口なおの大気違いがあらわれて、化かしてご用がいたさしてあるから、見当はとれんなれど、もう一人の大化物をあらわせて、神界のご用をいたさすぞよ。この大化物は東からきておるぞよ。この大化物があらわれてこんと、何もわからんぞよ」

 綾部の東南、亀岡から来たと言うその男は、まったく奇妙な風体をしていた。尻のところで二つに割れたブッサキ羽織、手にはコウモリ傘とバスケット、口にはオハグロまで塗っている。歳は二十八と言うことだったが、茶目っ気のある顔立ちは歳より若く見え、苛烈な人生を送ってきたなおにはまるで子供のように映った。
 男の名は上田喜三郎。後の大本聖師・出口王仁三郎である。
 喜三郎は亀岡の貧農の長男で、過酷な労働の人生を送ってきた苦労人だったのだが、生来の楽天的な性格がそれを感じさせなかった。なおの思い描く助力者のイメージは、経験を積み成熟した男性だったと思われ、この初対面ではピンとこなかったらしい。こんな筆先が残っている。
「お直のそばへは正信の御方が御出で遊ばすから、来た人を粗末なあしらひを致すでないぞよ。不思議な人が見えたれば我を出さぬと、ひそかにお話を聞くがよいぞよ。変な人が見えたらば、低くういくがよいぞよ。我を出したら結構を他から取りに来るぞよ」
 あまり乗り気でないなおをたしなめる艮の金神……

 当時の上田喜三郎は、鎮魂帰神法を身につけて売出し中の若手宗教者であった。天性の驚異的な記憶力と理解力で様々な知識を吸収し、宗教や自然科学、文学等の素養をあわせもった在野の教養人だったが、あれこれと事業に手を出しては失敗する器用貧乏な一面も持っていた。前年地元の高熊山で神示を受けて以来、ようやく思い定めて宗教者としての道を歩み始めたところだった。
 自身の高熊山での体験と、艮の金神の筆先との間に奇妙な符合を認め、喜三郎は綾部の大本に入り、即座に「金明霊学会」を設立し、明治三十三年には筆先の命により、なおの末子・澄と結婚。得意の霊学・鎮魂帰神で教団を席巻した。

 そして明治三十四年、綾部の大本に奇怪な現象が勃発する。突然なおと喜三郎がともに神懸りし、激しい言霊戦を繰り広げだしたのだ。
 なおには艮の金神をはじめ、様々な神霊が、 喜三郎にはスサノオをはじめ、様々な神霊が懸かる。対立する神霊の懸かった二人は互いに雄叫び、四股を踏み、荒立つ。謹厳ななおと柔和な喜三郎、火と水、復古と開明、国粋と国際、縦と緯、変性男子と変性女子、厳の御霊と瑞の御霊、二人の対照的な性質は真っ向からぶつかりあう。
 二大教祖が互いに懸かる神を「悪」と断じ互いに改心を迫り合う、この空前絶後・驚天動地の現象は、後に火と水の戦い、「火水(かみ)の戦い」と称される。

 周囲の役員・信者達は、ただただ恐れうろたえるばかり。およそ人知の及ばぬ奇怪な神々の闘い……

 ここで艮の金神側に対抗する神格として、スサノオが登場していることに注意を払いたい。このカテゴリ「節分」で概観してきたように、スサノオは一般に牛頭天王と同体とされる、巨旦(=艮の金神)を封じた側の神格である。つまり蘇民将来神話において敵対した二つの神格が、神代の時を超えて綾部の大本で現実の肉体を借り、再び対峙したことになる。
 博学な喜三郎は当然このことを承知していたはずである。断片的にではあるが、巨旦、金神、牛頭天王に関する考察をいくつか残していることからも、そのことがうかがえる。

 この「火水の戦い」はその後も長く続いた。その間に喜三郎は筆先の命により「おにさぶろう」と改名し、正式に出口家の家督を継いだ。スサノオの神霊をつけた喜三郎を「おに」と名付け、対立しつつも後を継がせた艮の金神の真意は如何に……
 喜三郎は喜三郎で、「おにさぶろう」にすかさず「王仁三郎」の字を当て、「鬼」のイメージを「外来の学者」のイメージで切り返してみせる。二大教祖の息詰まる丁々発止のやりとり……

 長い戦いの末の大正六年、ついに艮の金神から王仁三郎を認める筆先が下ろされる。これにより王仁三郎は、それまで一字の改変も許されなかった筆先の、取捨選択、編集の権威が与えられた。現在「大本神諭」として読まれているものは、なおの筆先を王仁三郎が編集し、漢字をあて、読み方を確定したものである。
 通常「大本神諭」の筆者は「出口なお」と表記されているが、脚本;艮の金神、主演;出口なお、監督;出口王仁三郎の作品であるとも考えられる。
 原型である筆先は、ひらがなと漢数字のみの表記で、句読点も改行も無い。それに漢字をあて、切ったり繋いだりするという行為は、ほとんど意味そのものの創造に匹敵する。長らく敵対していたなおと王仁三郎に懸かる神々が、互いにそれに合意したというのは非常に興味深い。

 例えば「大本神諭」には、こんな一節があった。
「此世の鬼を往生さして、外国を地震雷火の雨降らして、たやさねば、世界は神国にならんから、昔の大本からの神の仕組が、成就致す時節が廻りて来たから、苦労はあれど、バタバタと埒を付けるぞよ」
 後に「霊界物語」に収録された最終バージョンでは、以下のように読み替えられている。
「此世の鬼を往生さして、邪神を慈神神也慈悲の雨降らして、戒めねば、世界は神国にならんから、昔の大本からの神の仕組が、成就いたす時節が廻りて来たから、苦労はあれど、バタバタと埒を付けるぞよ」
 前者と後者ではほぼ同一内容であるが、危機的終末思想や排外思想の色濃い前者に比べ、後者は巧みにその部分を宣り直し、より普遍的な表現に昇華されている。
 艮の金神の「原理原則を立て分ける」神格と、スサノオの「様々な要素を包み込む」神格が、微妙なバランスで共存しているのがよくわかる。

 天保の大飢饉とともに出生し、誠を貫きながら明治の世の片隅で打ち捨てられた一人の老女。その心の深淵から爆発した激しい神の叫び。地の底から響くようなその叫び声を、醒めた知性と包容力を併せ持ったトリックスターが真っ向から受け止めて、軽やかに普遍の高みへと導く。

 神代の昔から続いた蘇民将来神話の因縁は、それぞれの時代に必要な語り手にヨミカエられ、ついに和合の時を迎えたのだ。

【図像について】
 今回の図像も出口王仁三郎の描いたスサノオの神像を下敷きにした。スサノオと言えば、一般的にはヤマタノオロチ退治の猛々しいイメージが強いが、記紀神話では和歌の元祖でもあり、音楽を愛する芸術の神としても描かれている。王仁三郎の描くスサノオは、童子のような瑞々しい容貌が特徴的だ。
posted by 九郎 at 11:28| 節分 | 更新情報をチェックする

福は内、鬼も内

 2月3日は節分。節分には豆をまき、「鬼は外、福は内」と唱える。
 誰でも子供の頃から知っている年中行事。地方によって多少の違いはあるけれども、基本構造は共通している。
 一部の地方では、「福は内、鬼も内」と唱える場所もある。

 そんな場所の中の一つに、京都府綾部・亀岡に本拠を置く「大本」がある。
 大本は「節分大祭」を特に重要な行事と位置づけ、地元ではCMも出している。煎り豆の代わりに生豆をまき、唱え言葉も違う。
 なぜそうなるのか、ここまで読み進めてきた人には想像できるはずである……
posted by 九郎 at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 節分 | 更新情報をチェックする

2008年02月03日

バグ

 2月3日は節分。
 本来は陰暦でないと意味合いが薄れるが、ともかく節分。
 鬼の来る日。

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 来訪する異形の神を向かえる民俗には、いくつかのバリエーションがある。
 節分の鬼はその代表だし、このカテゴリ節分で扱ってきた蘇民将来説話や、ナマハゲもそうだ。
 私は個人的に、このタイプの民俗は「免疫機能」を象徴していると考えている。異物を完全に排除するのではなく、神事に組み込むことで受け入れ、福を得るという構図だ。

 ところで2007年末から年始にかけて、このタイプの民俗にバグが発生している事例がニュースで流れた。
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posted by 九郎 at 09:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 節分 | 更新情報をチェックする