2006年10月20日
月のウサギ
(今昔物語天竺篇巻五第十三より略述)
今は昔、天竺のこと。
ウサギとサルとキツネが発心して修行を積んでいた。
前世で罪を犯して地獄に堕ち、それでも残った罪を償うために獣となった三匹。
ある時、神の王である帝釈天が三匹の心を試すために、疲れた老人となって姿を現した。獣たちはこの老人を養うことに決めた。
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2006年11月08日
カテゴリ「中世物語」
このカテゴリでは「今昔物語」などの中世物語を題材に、絵と文章で不思議話をカタります。
【「今昔物語」参考図書】
原典の一つ、「今昔物語」は、入手の容易な多くの版があります。私が実際に目を通したのはその中のごく一部ですが、読み易かったものを紹介しておきましょう。
●「ビギナーズ・クラシックス 今昔物語集」(角川文庫)
文庫サイズで手軽に「今昔物語」に親しむことが出来る一冊。原文とあらすじ、現代語訳、解説の組み合わせやテンポが絶妙で、思わず原文を声に出して読んでみたくなる。実際に声に出してみると原文は意外に音読しやすくて、「今は昔〜」で始まる響きはしばし中世の空気に酔わせてくれる。平安時代に関する図表も豊富で、非常に重宝。
この角川文庫の「ビギナーズ・クラシックス」シリーズは、どれをとってみても入門書として素晴らしい。
●「今昔物語集 1〜」(講談社学術文庫)
原典である「今昔物語」は、天竺・震旦・本朝(インド・中国・日本)の三部で構成されている。一般によく紹介されるのは日本を題材にした「本朝部」なのだが、このシリーズでは天竺部を中心に楽しむことが出来る。
原文・現代語訳・解説も完備で、非常に読み易い。
●「今昔物語集」(角川文庫)
日本を舞台にした「本朝部」は、角川文庫版が求めやすい。世俗部上下巻、仏法部上下巻の計4冊にコンパクトにまとまっている。
現代語訳はついていないが、元々「今昔物語」の文章はさほど難解ではなく、一話ごとの分量も少ない。音読しつつ用語解説を読めば、慣れてくると大意を掴むのに困難ということはない。
(この記事は以前アップしたものを補足・訂正の上、再掲したものです)
【「今昔物語」参考図書】
原典の一つ、「今昔物語」は、入手の容易な多くの版があります。私が実際に目を通したのはその中のごく一部ですが、読み易かったものを紹介しておきましょう。
●「ビギナーズ・クラシックス 今昔物語集」(角川文庫)
文庫サイズで手軽に「今昔物語」に親しむことが出来る一冊。原文とあらすじ、現代語訳、解説の組み合わせやテンポが絶妙で、思わず原文を声に出して読んでみたくなる。実際に声に出してみると原文は意外に音読しやすくて、「今は昔〜」で始まる響きはしばし中世の空気に酔わせてくれる。平安時代に関する図表も豊富で、非常に重宝。
この角川文庫の「ビギナーズ・クラシックス」シリーズは、どれをとってみても入門書として素晴らしい。
●「今昔物語集 1〜」(講談社学術文庫)
原典である「今昔物語」は、天竺・震旦・本朝(インド・中国・日本)の三部で構成されている。一般によく紹介されるのは日本を題材にした「本朝部」なのだが、このシリーズでは天竺部を中心に楽しむことが出来る。
原文・現代語訳・解説も完備で、非常に読み易い。
●「今昔物語集」(角川文庫)
日本を舞台にした「本朝部」は、角川文庫版が求めやすい。世俗部上下巻、仏法部上下巻の計4冊にコンパクトにまとまっている。
現代語訳はついていないが、元々「今昔物語」の文章はさほど難解ではなく、一話ごとの分量も少ない。音読しつつ用語解説を読めば、慣れてくると大意を掴むのに困難ということはない。
(この記事は以前アップしたものを補足・訂正の上、再掲したものです)
2006年11月09日
極楽往生源大夫
【前口上】
あれは確か中学生の頃、授業で使った古文の教材に、奇怪な物語が掲載されていた。
一人の極悪人が突如として発心し、「阿弥陀仏よや、おいおい」と呼ばわりながら、西へ西へとただひたすらに歩き続ける物語。
何故か心に引っかかり、折に触れて何度も何度も反芻するうちに、私の中でその物語は微妙に変形され、読み替えられていった。
絵描きの習性として、物語のイメージは頭の中で徐々に像を結び、出口を求めて衝動は高まってくる。
ある日、ふと「この物語には切り絵が似合うのではないか?」と気付いた。私は一気に8枚の「切り絵風スケッチ」を描き上げ、その後、内容を増幅して実際の切り絵連作に仕上げた。
モチーフになったのは「今昔物語 本朝仏法部巻第十九」収録の、「讃岐国多度の郡の五位、法を聞きて即ち出家せる語」という物語だが、出来上がった切り絵ストーリーは、この原典とは話の筋や趣旨が違ったものになった。
私の頭の中で、長年かけて変形が行われた結果である。
今昔物語を元ネタにした、現代語訳とは違う、私・九郎の好き勝手な与太話として、これからカタッてみたいと思う。
次回更新より『極楽往生源大夫』はじまり、はじまり・・・
あれは確か中学生の頃、授業で使った古文の教材に、奇怪な物語が掲載されていた。
一人の極悪人が突如として発心し、「阿弥陀仏よや、おいおい」と呼ばわりながら、西へ西へとただひたすらに歩き続ける物語。
何故か心に引っかかり、折に触れて何度も何度も反芻するうちに、私の中でその物語は微妙に変形され、読み替えられていった。
絵描きの習性として、物語のイメージは頭の中で徐々に像を結び、出口を求めて衝動は高まってくる。
ある日、ふと「この物語には切り絵が似合うのではないか?」と気付いた。私は一気に8枚の「切り絵風スケッチ」を描き上げ、その後、内容を増幅して実際の切り絵連作に仕上げた。
モチーフになったのは「今昔物語 本朝仏法部巻第十九」収録の、「讃岐国多度の郡の五位、法を聞きて即ち出家せる語」という物語だが、出来上がった切り絵ストーリーは、この原典とは話の筋や趣旨が違ったものになった。
私の頭の中で、長年かけて変形が行われた結果である。
今昔物語を元ネタにした、現代語訳とは違う、私・九郎の好き勝手な与太話として、これからカタッてみたいと思う。
次回更新より『極楽往生源大夫』はじまり、はじまり・・・
2006年11月10日
極楽往生源大夫2
今は昔、讃岐の国(現在の香川県)多度の郡に源大夫という男がいた。この男、きわめて凶暴で、殺生を生業としていた。山野に鳥獣を狩り、河海に魚を捕り、人の首をはね、手足をへし折らない日は無かった。
とくに仏法を嫌っており、僧などはそばにも寄せ付けなかった。このような有様の極悪人だったので、人々は皆恐れて近づかなくなった。
ある日のこと、源大夫は郎党どもの勧めるままに狩りに出かけた。さほど狩りが好きなわけではなかったが、じっとしていると心が苛立って落ち着かず、誰彼構わずぶちのめしたい衝動に駆られた。
郎党どもがそれを恐れて外に連れ出しているのはわかっていたが、どうでも良かった。衝動に任せて殺生をしているときだけは、苛立ちを忘れることができた。
どれだけの生き物を狩り、どれだけの人を傷つけ、首を撥ねてきたか、もはや数え切れなかった。昔はもっと一人切るごとに感じるものがあった気がする。罪業の重みであろうと快楽であろうと、もっと濃厚な手応えを感じていたはずだ。
今はもう、何人切ろうが何も感じない。うるさい蚊を捻り潰すのと大差はない。ただ自分の中の苛立ちをやり過ごすためにだけ、殺生を重ねていた。
(続く)
2006年11月11日
極楽往生源大夫3
その日も源大夫一行は山で多くの鹿を捕った。帰る途中、御堂の前を通りかかった。人々が集まっているのを見て、源大夫は傍らの者に問うた。
「あれは何をするところか?」
「御堂と申し、仏法を広める所にございます」
一人が口ごもりつつ答えた。主人が仏法を毛嫌いしていることは、もちろん知っている。
「ほう。噂には聞いておったが、この目で見るのは初めてだ。面白い。どのようなことをほざくのか、試しに聞いて行ってやろう」
源大夫はそう言って馬から降りた。郎党どもは「なんの気紛れか」と訝ったが、着いて行くしかなかった。
一行が御堂に入ると、一瞬にして場が静まりかえった。源大夫の凶相、殺伐とした荒い物腰は、その悪名を知らぬ者にもすぐに伝わった。恐怖のあまり、そっとその場を去る者までいる。一行が進むにつれて、風になびく草のように人々は道をあける。
源大夫は高座の前に立ちふさがった。
「貴様が仏弟子とか申す者か。さぞや有難き説法が出来るのであろうな。ならばなんぞ我が心になるほどと思えることを申してみよ。もし出来ずば、不都合なことになるぞ」
腰の刀をいじくりながら、じろりと僧を睨みつける。
講師の僧は音に聞こえた極悪人の登場に、内心震え上がった。
これはとても手に負える相手ではない。何を説こうが引きずりおろされ、下手をすれば命も危ないだろう……
それとなく周囲を見回すが、他のどの僧も固まったまま目を背けている。
もはやこれまでかと半ば観念したとき、一人の僧が一歩前へ進み出てきた。
「講師直々のご説法に先立ち、私がこの者のお相手申し上げたく存じます」
(続く)