blog「縁日草子」を開設してから、早いもので十年に近くなってきている。
開設以前から手をつけていたにも関わらず、語れていないテーマがまだいくつか残っている。
年末年始に古くからの友人やかつての師匠、敬愛する作家の訃報あいつぎ、ふと自分の残り時間のことを考えるようになった。
まだ死を思うほどの年齢ではないが、諸行無常の浮き世である。
明日何が起こるか、それは誰にもわからない。
どれほどあるか分からない残り時間と、できればこの世で形にしておきたい仕事の間で、そろそろ優先順位は作っておいた方が良い。
やりたいことはあれこれあるけれども、もしやりとげれば私の求める「完全燃焼」の感覚が得られそうなものの一つに「マンダラ」がある。
大きなサイズのマンダラをまともに描き上げてみたいという欲望は、はるか昔、自覚的に絵を描き始めた中高生の頃から持っていた。
それから今まで、数えきれないほどのスケッチや資料調べを続けてきて、分かったことがある。
自分が求めているのは、密教法具としての曼荼羅を、作法に従って正確に再現することではない。
いくつかの優れた曼荼羅図像から得た感動とインスピレーションを100号程度のキャンバスにぶつけ、自分のマンダラを築きたいのだ。
このカテゴリ「マンダラ」では、最終的に「それ」を描くために今まで蓄積してきたスケッチや資料調べ、考察について、順次記事にしていきたいと思う。
できることなら一枚でも、まともにぶつかって作品化してみたい。
もし望みがかなわなくとも、前のめりで倒れたいのである。
2015年04月19日
2015年04月21日
マイ・フェイバリット・マンダラ1(加筆あり)
このようなブログをやっているからには、仏教美術全般なんでも好きなのだが、いくつかのとくに好きなマンダラがある。
いずれも「このマンダラの感動を自分なりの形で表現したい」という衝動を呼び起こす、刺激に満ちた図像だ。
まず一つめは、京都の東寺所蔵の「伝真言院曼荼羅」と呼ばれる両界曼荼羅のうち、とくに胎蔵界曼荼羅の方。
教科書にも出てくるので、マンダラと言えばこの図像を思い浮かべる人が多いのではないかと思う。
下記の資料の中から、図像の概容がわかる程度に縮小して画像を引用しておこう。
所蔵されている東寺の宝物館で何年かに一度は原本が公開されているようで、私も今までに何度か拝観した。
まさに今現在も公開中(胎蔵界は今週までか?)なので、関心のある人はお勧め。
原本公開期間が過ぎても、原寸大の複写は宝物館に常設されている。
原本はもちろん素晴らしいのだが、製作年代は平安時代。
ものすごく正直に言うと経年変化で絵の具の色それなりにくすみ、剥落している。
公開期間中もガラス越しの鑑賞になる。
貴重な文化遺産なので仕方のないことだが、適切に補正された複写や、各種図版での鑑賞の方が分かりやすい面もあるのだ。
最近はCG技術の発達により、歴史的建造物や古美術作品の、完成当時の色彩を再現する試みが相次いでいる。
この曼荼羅なども、ぜひそうした再現がなされてほしい作品だ。
透過光の大型画面で鮮やかな色彩が再現されたら、この曼荼羅の素晴らしさが一層際立つのではないかと思うのだ。
原本であれ複写であれ、縦183.6cm横164.2cmの図像の正面間近に立ち、視界を曼荼羅世界で埋めてみる経験は、なかなか得難いものがある。
まずは東寺に足を運ぶべしである。
細部を鑑賞するならむしろ図版の方が良い。
●「東寺の曼荼羅図 みほとけの群像」
東寺宝物館から出ている図録で、所蔵の両界曼荼羅緒本や、その他の曼荼羅図が豊富な図版で収録されている。
とくにこの記事でテーマとしている「伝真言院曼荼羅」については、全体像と各部の拡大画像で紹介されているので、まずはこの一冊から求めるのが順当。
上のアマゾンリンクでは高い値段がついているが、東寺に行けば(確か二千数百円程度の)定価で売っているだろうし、関西の大型書店では最近でも取り扱っているのをけっこう見かける。
また、東寺では鮮明な印刷の両界曼荼羅大型ポスターも、高くない値段で売っている。
意外に良いのが以下の一冊。
●「あなただけの般若心経」(小学舘)
本来はタイトル通りの般若心経の解説本なのだが、この記事テーマの伝真言宗院両界曼荼羅の要所各部を、それぞれ1ページ大に拡大して挿画にしてある。
印刷の色味はやや黄色が強く、原本の印象とは少々異なるが、原本の持つ華やかで楽しげな仏菩薩の雰囲気はよく伝わってくるので、補正の方針としては悪くないと思う。
細部を検討したいなら、この本が一番手頃だと思う。
両界曼荼羅図には、サイズ的にもっと大きなものや保存状態の良好なものが各種あるが、とくに胎蔵界曼荼羅は、原典となったこの図像がやはり唯一無比だ。
時代が下った作品は描写は精密になるけれども、その分原典の持つダイナミックな迫力、「宇宙大の祝祭」のイメージは薄れていく。
この原典では、ラフで素朴な筆致で描かれた仏菩薩や尊像、天部の神々や魔物たちが、一堂に会して盛大なパーティーを楽しむように舞い踊っている。
中台八葉院は、まるで電飾が仕込まれているかのように本当に輝いて見える。
中心部の赤ん坊のような大日如来から放射される光が八方に広がって仏菩薩になり、仏の宇宙が拡大し、神々や魔物も含めた全宇宙が生成されていく様が、直感的に伝わってくる。
曼荼羅図像の生命力と言う点では、やはりチベット文化圏が本場なのだが、彼の地で主流の後期密教の曼荼羅はほとんど全てが金剛界の流れを汲んだものだ。
胎蔵界に限って言えば、中期密教を受け継いだ日本の曼荼羅が素晴らしいのである。
いずれも「このマンダラの感動を自分なりの形で表現したい」という衝動を呼び起こす、刺激に満ちた図像だ。
まず一つめは、京都の東寺所蔵の「伝真言院曼荼羅」と呼ばれる両界曼荼羅のうち、とくに胎蔵界曼荼羅の方。
教科書にも出てくるので、マンダラと言えばこの図像を思い浮かべる人が多いのではないかと思う。
下記の資料の中から、図像の概容がわかる程度に縮小して画像を引用しておこう。
所蔵されている東寺の宝物館で何年かに一度は原本が公開されているようで、私も今までに何度か拝観した。
まさに今現在も公開中(胎蔵界は今週までか?)なので、関心のある人はお勧め。
原本公開期間が過ぎても、原寸大の複写は宝物館に常設されている。
原本はもちろん素晴らしいのだが、製作年代は平安時代。
ものすごく正直に言うと経年変化で絵の具の色それなりにくすみ、剥落している。
公開期間中もガラス越しの鑑賞になる。
貴重な文化遺産なので仕方のないことだが、適切に補正された複写や、各種図版での鑑賞の方が分かりやすい面もあるのだ。
最近はCG技術の発達により、歴史的建造物や古美術作品の、完成当時の色彩を再現する試みが相次いでいる。
この曼荼羅なども、ぜひそうした再現がなされてほしい作品だ。
透過光の大型画面で鮮やかな色彩が再現されたら、この曼荼羅の素晴らしさが一層際立つのではないかと思うのだ。
原本であれ複写であれ、縦183.6cm横164.2cmの図像の正面間近に立ち、視界を曼荼羅世界で埋めてみる経験は、なかなか得難いものがある。
まずは東寺に足を運ぶべしである。
細部を鑑賞するならむしろ図版の方が良い。
●「東寺の曼荼羅図 みほとけの群像」
東寺宝物館から出ている図録で、所蔵の両界曼荼羅緒本や、その他の曼荼羅図が豊富な図版で収録されている。
とくにこの記事でテーマとしている「伝真言院曼荼羅」については、全体像と各部の拡大画像で紹介されているので、まずはこの一冊から求めるのが順当。
上のアマゾンリンクでは高い値段がついているが、東寺に行けば(確か二千数百円程度の)定価で売っているだろうし、関西の大型書店では最近でも取り扱っているのをけっこう見かける。
また、東寺では鮮明な印刷の両界曼荼羅大型ポスターも、高くない値段で売っている。
意外に良いのが以下の一冊。
●「あなただけの般若心経」(小学舘)
本来はタイトル通りの般若心経の解説本なのだが、この記事テーマの伝真言宗院両界曼荼羅の要所各部を、それぞれ1ページ大に拡大して挿画にしてある。
印刷の色味はやや黄色が強く、原本の印象とは少々異なるが、原本の持つ華やかで楽しげな仏菩薩の雰囲気はよく伝わってくるので、補正の方針としては悪くないと思う。
細部を検討したいなら、この本が一番手頃だと思う。
両界曼荼羅図には、サイズ的にもっと大きなものや保存状態の良好なものが各種あるが、とくに胎蔵界曼荼羅は、原典となったこの図像がやはり唯一無比だ。
時代が下った作品は描写は精密になるけれども、その分原典の持つダイナミックな迫力、「宇宙大の祝祭」のイメージは薄れていく。
この原典では、ラフで素朴な筆致で描かれた仏菩薩や尊像、天部の神々や魔物たちが、一堂に会して盛大なパーティーを楽しむように舞い踊っている。
中台八葉院は、まるで電飾が仕込まれているかのように本当に輝いて見える。
中心部の赤ん坊のような大日如来から放射される光が八方に広がって仏菩薩になり、仏の宇宙が拡大し、神々や魔物も含めた全宇宙が生成されていく様が、直感的に伝わってくる。
曼荼羅図像の生命力と言う点では、やはりチベット文化圏が本場なのだが、彼の地で主流の後期密教の曼荼羅はほとんど全てが金剛界の流れを汲んだものだ。
胎蔵界に限って言えば、中期密教を受け継いだ日本の曼荼羅が素晴らしいのである。
2015年04月24日
マイ・フェイバリット・マンダラ2
前回の記事でテーマにした胎蔵曼荼羅は、中期密教を代表するもので、大日如来を中心に大乗仏教で親しまれた様々な仏尊やインドの神々を網羅した宇宙観を表現している。
いわばインドで起こった神仏習合図像だ。
中期密教は胎蔵曼荼羅で宇宙サイズにまで大風呂敷を広げた後、新しい秩序を金剛界曼荼羅で打ち立てて、現在のチベット仏教に続く後期密教へと進化していく。
平安時代に中国を経て日本にもたらされたのは中期密教までで、進化の最終段階の後期密教は現在チベット周辺に伝えられている。
金剛界曼荼羅以降になると、通常の大乗仏教とは違う仏尊名が増えてくる。日本では大乗仏教が民衆に親しまれているので、見知った仏様が多い胎蔵曼荼羅の人気が高いようだ。
金剛界曼荼羅、とくに日本の「九会曼荼羅」と呼ばれる形式のものはかなり知的に構成されているので、直感的に伝わってきやすい胎蔵曼荼羅と比べると、鑑賞するにも予備知識が必要だ。
五智如来で表現される「中心と四方」の基本構造で宇宙を隅々まで整然と再構成し、必要な仏尊を新たに創造してあるということを知ると、鑑賞のとっかかりができる。
私は絵描きなので、元来は知的なものの観方より感覚的なものの観方の方が馴染みやすい。
整然とした秩序より、矛盾を飲み込んだ大風呂敷に心ひかれる。
だから伝真言院曼荼羅でも胎蔵界の方に好みが傾き勝ちだったのだが、知識を得てみると、曼荼羅の構造としては金剛界の流れの方が進化していることは理解できた。
そして、一旦知的に完成された冷徹な金剛界曼荼羅に、再び混沌のエネルギーを注ぎ込んだチベット密教の図像に関心が向くようになった。
チベット現地へは行けないので、様々な展示や図版を渉猟するうちに、いくつかの好きな曼荼羅ができた。
日本の曼荼羅の場合と同じく、時代が下って表現様式が完成、固定化される前の、古く素朴な筆致のものがやはり気になった。
中でも惚れ込んだのが、アルチ寺院の壁画に描かれているという謎の金剛界曼荼羅だ。
中心部の五智如来が女性形で描かれている特異な図像である。
チベット密教図像と言えば父母仏の偉容が論じられることが多いが、それともまた違った静かな衝撃を感じる。
上掲の図像は、以下に紹介する書籍の中から、概容がわかる程度に縮小して引用している。
興味のある人は書籍にあたってほしい。
●「ラダック曼荼羅―岩宮武二写真集」 (岩波書店)
●「マンダラ(出現と消滅) ― 西チベット仏教壁画の宇宙」松長有慶 監修、加藤敬 写真(毎日新聞社)
このアルチ寺院の金剛界曼荼羅もまた、いつか取り組んでみたいモチーフである。
できることなら実物の前に立ってみたいが、たぶん今生ではその機会が訪れることは無さそうに思う。
だからこそ自分で大きなサイズのものを描き、視界をその曼荼羅で埋めてみたいのだ。
いわばインドで起こった神仏習合図像だ。
中期密教は胎蔵曼荼羅で宇宙サイズにまで大風呂敷を広げた後、新しい秩序を金剛界曼荼羅で打ち立てて、現在のチベット仏教に続く後期密教へと進化していく。
平安時代に中国を経て日本にもたらされたのは中期密教までで、進化の最終段階の後期密教は現在チベット周辺に伝えられている。
金剛界曼荼羅以降になると、通常の大乗仏教とは違う仏尊名が増えてくる。日本では大乗仏教が民衆に親しまれているので、見知った仏様が多い胎蔵曼荼羅の人気が高いようだ。
金剛界曼荼羅、とくに日本の「九会曼荼羅」と呼ばれる形式のものはかなり知的に構成されているので、直感的に伝わってきやすい胎蔵曼荼羅と比べると、鑑賞するにも予備知識が必要だ。
五智如来で表現される「中心と四方」の基本構造で宇宙を隅々まで整然と再構成し、必要な仏尊を新たに創造してあるということを知ると、鑑賞のとっかかりができる。
私は絵描きなので、元来は知的なものの観方より感覚的なものの観方の方が馴染みやすい。
整然とした秩序より、矛盾を飲み込んだ大風呂敷に心ひかれる。
だから伝真言院曼荼羅でも胎蔵界の方に好みが傾き勝ちだったのだが、知識を得てみると、曼荼羅の構造としては金剛界の流れの方が進化していることは理解できた。
そして、一旦知的に完成された冷徹な金剛界曼荼羅に、再び混沌のエネルギーを注ぎ込んだチベット密教の図像に関心が向くようになった。
チベット現地へは行けないので、様々な展示や図版を渉猟するうちに、いくつかの好きな曼荼羅ができた。
日本の曼荼羅の場合と同じく、時代が下って表現様式が完成、固定化される前の、古く素朴な筆致のものがやはり気になった。
中でも惚れ込んだのが、アルチ寺院の壁画に描かれているという謎の金剛界曼荼羅だ。
中心部の五智如来が女性形で描かれている特異な図像である。
チベット密教図像と言えば父母仏の偉容が論じられることが多いが、それともまた違った静かな衝撃を感じる。
上掲の図像は、以下に紹介する書籍の中から、概容がわかる程度に縮小して引用している。
興味のある人は書籍にあたってほしい。
●「ラダック曼荼羅―岩宮武二写真集」 (岩波書店)
●「マンダラ(出現と消滅) ― 西チベット仏教壁画の宇宙」松長有慶 監修、加藤敬 写真(毎日新聞社)
このアルチ寺院の金剛界曼荼羅もまた、いつか取り組んでみたいモチーフである。
できることなら実物の前に立ってみたいが、たぶん今生ではその機会が訪れることは無さそうに思う。
だからこそ自分で大きなサイズのものを描き、視界をその曼荼羅で埋めてみたいのだ。
2015年04月29日
マイ・フェイバリット・マンダラ3
いつの日かこのマンダラをモチーフに、大きなサイズで描いてみたい。
そんな強い欲をそそられる対象を、これまでに二つ紹介してきた。
三つ目のフェイバリットは、実在のものではない。
ある物語の中だけに存在する、架空のマンダラである。
夢枕貘「キマイラ・シリーズ」の中に登場する「外法曼陀羅」がそれだ。
先に挙げた二つのフェイバリットは、日本の真言密教でも最重要視される金剛胎蔵両界だった。
そんな定番中の定番と並べてエンタメ小説の中の虚構を挙げることには、奇異な印象を持たれるかもしれない。
まあ、バカにされるのも覚悟の上である(笑)
夢枕獏については、これまでにもけっこう記事にしてきた。
夢枕獏1
夢枕獏2
夢枕獏3
夢枕獏の西域幻想
外法曼陀羅
焚火の夜
問題の「外法曼陀羅」については、五つ目の記事ですでに書いたことがある。
キマイラ・シリーズには物語の核心となる一つの絵図が設定されている。「外法絵」とか「外法曼陀羅」と表現されている絵図で、「人が獣になる」ための「外法」が図示されているとされている。その絵図はとあるチベットの密教寺院の隠し部屋に存在し、描いたのはその「外法」を自身で試みた天才絵師であり、他に何枚かその写しが存在するらしいことが、これまでの既刊分の物語の中で判明していた。
その架空の曼陀羅に関する描写が、キマイラという物語の前半のクライマックスになっており、高校生の頃の私は、はじめて読んだその凄まじい描写に衝撃を受け、「いつの日かこの曼陀羅を自分で描いてみたい」と夢想したものだ。
●「キマイラ6 胎蔵変/金剛変」夢枕獏(ソノラマノベルス)
それからはるかに時は流れ、私も「若気の至り」という言葉を正しく理解できる年齢になった(笑)
インド、日本、チベット等の密教図像や、その教義について、高校生の頃より多少は理解できるようになった今となっては、キマイラ作中の「外法曼陀羅」を、文字に書かれた描写そのままに図像で再現することは、ほぼ不可能であることはわかった。
詳しくは書かないけれども、いくつかの点で「これをチベット密教図像の作法に従って描くのは無理」と、判断せざるを得なくなったのだ。
そもそも、作中の文章表現そのものが、明確な図像を想定したものというよりは、「外法曼陀羅」というモチーフの持つ「力」とか「勢い」を描くことを主目的としていると思われ、実際に「描く」ための解説にはなっていないのだ。
巻が進むと、同じ「外法絵」についての描写でも、微妙に違ってきていると思える箇所もある。
その改変部分には、元々の描写より、ややチベット密教図像のセオリーに近づけている印象があった。
著者の中で設定に何らかの変更があったのかもしれないし、あるいは同じ図像ではなく、バージョン違いだという暗示なのかもしれない。
チベット寺院の隠し部屋にこもり、自らの狂気を吐きだすように曼陀羅を描く。
そんな描写をそのまま実行することは、今生の私にはもう不可能なことはよく理解している。
しかし、まだ「自分なりの表現で外法曼陀羅に挑む」ということ自体は諦めていなかったりする。
私はけっこう執念深いのだ(笑)
以前描いたスケッチから、もう一歩進めてみる。
キマイラの作品世界に存在する「外法曼陀羅」の、中尊周辺に描かれた眷属神の一体。
そんなノリで楽しんでいただければ幸いである。
とりあえず、ここまでは来た。
高校生の頃、「この外法曼陀羅を実際描くにはどうしたらいいか?」という問いを抱いて以来、遡って密教図像のことを延々と調べ続け、描き続けてきた。
フィクションから今の私というリアルが生まれた。
何合目かは分からず、生きているうちに頂に達することができるかどうかも定かではないが、それなりの標高には達しつつある気もするのである。
そんな強い欲をそそられる対象を、これまでに二つ紹介してきた。
三つ目のフェイバリットは、実在のものではない。
ある物語の中だけに存在する、架空のマンダラである。
夢枕貘「キマイラ・シリーズ」の中に登場する「外法曼陀羅」がそれだ。
先に挙げた二つのフェイバリットは、日本の真言密教でも最重要視される金剛胎蔵両界だった。
そんな定番中の定番と並べてエンタメ小説の中の虚構を挙げることには、奇異な印象を持たれるかもしれない。
まあ、バカにされるのも覚悟の上である(笑)
夢枕獏については、これまでにもけっこう記事にしてきた。
夢枕獏1
夢枕獏2
夢枕獏3
夢枕獏の西域幻想
外法曼陀羅
焚火の夜
問題の「外法曼陀羅」については、五つ目の記事ですでに書いたことがある。
キマイラ・シリーズには物語の核心となる一つの絵図が設定されている。「外法絵」とか「外法曼陀羅」と表現されている絵図で、「人が獣になる」ための「外法」が図示されているとされている。その絵図はとあるチベットの密教寺院の隠し部屋に存在し、描いたのはその「外法」を自身で試みた天才絵師であり、他に何枚かその写しが存在するらしいことが、これまでの既刊分の物語の中で判明していた。
その架空の曼陀羅に関する描写が、キマイラという物語の前半のクライマックスになっており、高校生の頃の私は、はじめて読んだその凄まじい描写に衝撃を受け、「いつの日かこの曼陀羅を自分で描いてみたい」と夢想したものだ。
●「キマイラ6 胎蔵変/金剛変」夢枕獏(ソノラマノベルス)
それからはるかに時は流れ、私も「若気の至り」という言葉を正しく理解できる年齢になった(笑)
インド、日本、チベット等の密教図像や、その教義について、高校生の頃より多少は理解できるようになった今となっては、キマイラ作中の「外法曼陀羅」を、文字に書かれた描写そのままに図像で再現することは、ほぼ不可能であることはわかった。
詳しくは書かないけれども、いくつかの点で「これをチベット密教図像の作法に従って描くのは無理」と、判断せざるを得なくなったのだ。
そもそも、作中の文章表現そのものが、明確な図像を想定したものというよりは、「外法曼陀羅」というモチーフの持つ「力」とか「勢い」を描くことを主目的としていると思われ、実際に「描く」ための解説にはなっていないのだ。
巻が進むと、同じ「外法絵」についての描写でも、微妙に違ってきていると思える箇所もある。
その改変部分には、元々の描写より、ややチベット密教図像のセオリーに近づけている印象があった。
著者の中で設定に何らかの変更があったのかもしれないし、あるいは同じ図像ではなく、バージョン違いだという暗示なのかもしれない。
チベット寺院の隠し部屋にこもり、自らの狂気を吐きだすように曼陀羅を描く。
そんな描写をそのまま実行することは、今生の私にはもう不可能なことはよく理解している。
しかし、まだ「自分なりの表現で外法曼陀羅に挑む」ということ自体は諦めていなかったりする。
私はけっこう執念深いのだ(笑)
以前描いたスケッチから、もう一歩進めてみる。
キマイラの作品世界に存在する「外法曼陀羅」の、中尊周辺に描かれた眷属神の一体。
そんなノリで楽しんでいただければ幸いである。
とりあえず、ここまでは来た。
高校生の頃、「この外法曼陀羅を実際描くにはどうしたらいいか?」という問いを抱いて以来、遡って密教図像のことを延々と調べ続け、描き続けてきた。
フィクションから今の私というリアルが生まれた。
何合目かは分からず、生きているうちに頂に達することができるかどうかも定かではないが、それなりの標高には達しつつある気もするのである。
2015年05月16日
高野山
今年は高野山開山1200年ということだ。
日本において密教や曼荼羅を語るとき、高野山や弘法大師空海は避けてとおれない。
このカテゴリマンダラでも少し記事にしておこう。
私は二十年ほど前から、熊野や高野山に度々遍路に行っていた。
昔の師匠の手伝いで文化財や古道の調査で行くことも多かった。
師匠は高野山に続く参詣道が現在でも八本確認できることに注目し、胎蔵曼荼羅の中台八葉に見立てていたことを思い出す。
そう言えば「ちょっとお前、その線で絵図描いてみろ」と指示されたこともあったっけ。。。
手持ちの古い原稿の中に、高野山を扱ったものを見つけたので、この機に記事にしておきたい。
十年ほど前の文章だが、考え方は大きくは変わっていないので、なるべくそのまま再録する。
------------------------------------
(クリックすると画像が大きくなります)
弘法大師空海のお山、高野山には何度か登った。南海電鉄には高野線という直通路線があって、大阪難波から一本、思うほど時間もかからず到着できる。私はよく朝一の電車に揺られて高野山へ向かった。各駅停車でうとうとしているうちに終点「極楽橋駅」に着。そこからはケーブル線に乗る。早朝だとさすがに人気は少ない。少数の熱心な参拝者の皆さんに混じって、ちょっと不純な自覚のある私も平行四辺形の車両に乗り込む。
朝靄の木立の中を、コットンコットンと車両は登る。巻き上げられたケーブルが各所の滑車をリリリリ、リリリと鳴らす。仏教では教えを広めることを「法輪を転ずる」と表現することもあるが、ふとそんな言葉を思い起こさせる情景だ。……とかこじつけてみたりする。
ケーブルを降りたら、そこはもう高野山の只中だ。放し飼いの犬がうろうろ歩きながら私を迎えてくれる。なんとなく賢そうに見えるのは絶対気のせいだ(笑)
そこからバスに乗れば山上の「宗教都市」はもうすぐだ。大阪からゆっくり見積もっても二時間半。新幹線の東京〜大阪間とさほど変わらない。これを遠いと見るか近いと見るかは意見が分かれるだろうけれども、私自身は「めちゃめちゃ近いやん!」と思う。
古の高野山は都から遠く離れた深い深い山の中だった。今でこそ鉄道や車道が整い、日帰りの参拝者、観光客は数知れず、山上は小都市の趣だが、平安時代から明治まで、ここには坊さんと坊さんの生活を支える少数の人々しか住んでいなかった。
参拝者も険しい山道を歩いて来られる者に限られ、しかも明治までは女人禁制! 女性は結界内には立ち入れず、参上をぐるりと囲む「女人道」から遠く聖地を望むしかなかった。もちろん現在は女性参拝者も数多く、男女の別なく普通に居住もしている。
山頂は小さな盆地になっていて、真ん中にメインストリートとなる車道が一本。その両側に教科書でも有名な伽藍、各種店舗、住宅などが並んでいる。売店は朝早くから開いていて、仏具や遍路用品、おみやげ物が各種取り揃えてある。私の愛用の金剛杖もここで買った。
高野山の見所は数多いけれども、私にとってはなんと言っても「奥の院」こそが核心部分と感じられる。奥の院はお大師さま空海の眠る御廟を頂点に、数十万基と言われる墓や供養塔が立ち並ぶ一大墓所だ。歴史上のビッグネームをはじめ、空海の名を慕う様々な人々が眠っている。「あ、この人も。うわっ、こんな人も。え? こんな人まで!」見入っているときりがなく、それだけで日が暮れてしまうことだろう。
中には変わった供養塔の類いもかなりある。福助さまが座っているのや、金属製のロケット型、「しろあり やすらかにねむれ」とか、落書きだらけの「楽書塚」などその他にも多数。石造りの名刺入れが設置してあるものもある。一瞬、周囲の雰囲気もあって「妖怪ポストみたいなもんか?」と妄想してしまうが、すぐに違うと分かる。
ぶっちゃけかなり「変」だと思うのだが、奥の院の深い森に包まれてみると、どれもしっくり馴染んで見えてくるから不思議だ。
私は子供の頃から墓場が好きで、ちょっと悪いなと思いながらもよく遊びにいっていたのだが、奥の院はそうした子供の頃のドキドキ感が甦ってくる「スーパー墓場」だ。
いつまでも歩き回っていたい気分を抑えつつ、さらに奥へ奥へと足を運ぶ。奥の院のそのまた一番奥の「御廟」には、弘法大師が眠っているという。文字通り「眠っている」だけで、今も生きていると伝承されている。実際、お給仕係のお坊さんもいて、毎日食事を運んでいるという。中がどうなっているのか、本当のところは誰も口にしてはいけないとか。
ここは「開かずの箱」なのだ。
箱には鍵がかかっている。中身は誰も見たことがないが、秘宝が入っていると伝えられている。開けてはいけないことが想像をかきたてる。本当は空箱かもしれない。しかし「あるかもしれない」という可能性が、箱の扱いを変える。丁寧に安置され、祀られた長い年月が、箱の重みを限りなく増していく。お大師さまはそういう「開かずの箱」の仕掛けを、意識的に作ったのではないだろうか。
未来仏、弥勒菩薩が下生する五十六億七千万年後に再び目覚めるという予言。人間にとっては永遠に等しい年月を設定することで、空海は高野山を永遠に生かし切ったのではないだろうか。
頭でっかちな現代人の私は、空海の存命をなかなかそのまま信じることはできず、そんなふうに「合理的に」解釈したくなりがちだ。
しかしお山に登り、奥の院の御廟の前に立つと、その扉の向こうにやっぱり弘法大師の息づかいを感じてしまうような、不思議な感覚にとらわれる。
高野山はそんな所だ。
日本において密教や曼荼羅を語るとき、高野山や弘法大師空海は避けてとおれない。
このカテゴリマンダラでも少し記事にしておこう。
私は二十年ほど前から、熊野や高野山に度々遍路に行っていた。
昔の師匠の手伝いで文化財や古道の調査で行くことも多かった。
師匠は高野山に続く参詣道が現在でも八本確認できることに注目し、胎蔵曼荼羅の中台八葉に見立てていたことを思い出す。
そう言えば「ちょっとお前、その線で絵図描いてみろ」と指示されたこともあったっけ。。。
手持ちの古い原稿の中に、高野山を扱ったものを見つけたので、この機に記事にしておきたい。
十年ほど前の文章だが、考え方は大きくは変わっていないので、なるべくそのまま再録する。
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(クリックすると画像が大きくなります)
弘法大師空海のお山、高野山には何度か登った。南海電鉄には高野線という直通路線があって、大阪難波から一本、思うほど時間もかからず到着できる。私はよく朝一の電車に揺られて高野山へ向かった。各駅停車でうとうとしているうちに終点「極楽橋駅」に着。そこからはケーブル線に乗る。早朝だとさすがに人気は少ない。少数の熱心な参拝者の皆さんに混じって、ちょっと不純な自覚のある私も平行四辺形の車両に乗り込む。
朝靄の木立の中を、コットンコットンと車両は登る。巻き上げられたケーブルが各所の滑車をリリリリ、リリリと鳴らす。仏教では教えを広めることを「法輪を転ずる」と表現することもあるが、ふとそんな言葉を思い起こさせる情景だ。……とかこじつけてみたりする。
ケーブルを降りたら、そこはもう高野山の只中だ。放し飼いの犬がうろうろ歩きながら私を迎えてくれる。なんとなく賢そうに見えるのは絶対気のせいだ(笑)
そこからバスに乗れば山上の「宗教都市」はもうすぐだ。大阪からゆっくり見積もっても二時間半。新幹線の東京〜大阪間とさほど変わらない。これを遠いと見るか近いと見るかは意見が分かれるだろうけれども、私自身は「めちゃめちゃ近いやん!」と思う。
古の高野山は都から遠く離れた深い深い山の中だった。今でこそ鉄道や車道が整い、日帰りの参拝者、観光客は数知れず、山上は小都市の趣だが、平安時代から明治まで、ここには坊さんと坊さんの生活を支える少数の人々しか住んでいなかった。
参拝者も険しい山道を歩いて来られる者に限られ、しかも明治までは女人禁制! 女性は結界内には立ち入れず、参上をぐるりと囲む「女人道」から遠く聖地を望むしかなかった。もちろん現在は女性参拝者も数多く、男女の別なく普通に居住もしている。
山頂は小さな盆地になっていて、真ん中にメインストリートとなる車道が一本。その両側に教科書でも有名な伽藍、各種店舗、住宅などが並んでいる。売店は朝早くから開いていて、仏具や遍路用品、おみやげ物が各種取り揃えてある。私の愛用の金剛杖もここで買った。
高野山の見所は数多いけれども、私にとってはなんと言っても「奥の院」こそが核心部分と感じられる。奥の院はお大師さま空海の眠る御廟を頂点に、数十万基と言われる墓や供養塔が立ち並ぶ一大墓所だ。歴史上のビッグネームをはじめ、空海の名を慕う様々な人々が眠っている。「あ、この人も。うわっ、こんな人も。え? こんな人まで!」見入っているときりがなく、それだけで日が暮れてしまうことだろう。
中には変わった供養塔の類いもかなりある。福助さまが座っているのや、金属製のロケット型、「しろあり やすらかにねむれ」とか、落書きだらけの「楽書塚」などその他にも多数。石造りの名刺入れが設置してあるものもある。一瞬、周囲の雰囲気もあって「妖怪ポストみたいなもんか?」と妄想してしまうが、すぐに違うと分かる。
ぶっちゃけかなり「変」だと思うのだが、奥の院の深い森に包まれてみると、どれもしっくり馴染んで見えてくるから不思議だ。
私は子供の頃から墓場が好きで、ちょっと悪いなと思いながらもよく遊びにいっていたのだが、奥の院はそうした子供の頃のドキドキ感が甦ってくる「スーパー墓場」だ。
いつまでも歩き回っていたい気分を抑えつつ、さらに奥へ奥へと足を運ぶ。奥の院のそのまた一番奥の「御廟」には、弘法大師が眠っているという。文字通り「眠っている」だけで、今も生きていると伝承されている。実際、お給仕係のお坊さんもいて、毎日食事を運んでいるという。中がどうなっているのか、本当のところは誰も口にしてはいけないとか。
ここは「開かずの箱」なのだ。
箱には鍵がかかっている。中身は誰も見たことがないが、秘宝が入っていると伝えられている。開けてはいけないことが想像をかきたてる。本当は空箱かもしれない。しかし「あるかもしれない」という可能性が、箱の扱いを変える。丁寧に安置され、祀られた長い年月が、箱の重みを限りなく増していく。お大師さまはそういう「開かずの箱」の仕掛けを、意識的に作ったのではないだろうか。
未来仏、弥勒菩薩が下生する五十六億七千万年後に再び目覚めるという予言。人間にとっては永遠に等しい年月を設定することで、空海は高野山を永遠に生かし切ったのではないだろうか。
頭でっかちな現代人の私は、空海の存命をなかなかそのまま信じることはできず、そんなふうに「合理的に」解釈したくなりがちだ。
しかしお山に登り、奥の院の御廟の前に立つと、その扉の向こうにやっぱり弘法大師の息づかいを感じてしまうような、不思議な感覚にとらわれる。
高野山はそんな所だ。