夢を見た。
昔世話になった師匠が亡くなったという。
突然の訃報に困惑する。
まだ話したいことがたくさんあったのに、日々の忙しさに紛れてしまっていた。
最後に会ったのがいつのことかも、はっきり覚えていない。
もうだいぶ前に葬儀も埋葬も済んでしまったという。
このままにしておくことはできない。
僕は一人、師匠の眠る森の中へと急ぐ。
山道を進むと、木立の合間に砂地の広がった空間があり、真ん中に石が一つ置いてある。
僕は石の下を掘る。
砂地なので素手でいくらでも掘れる。
やがて横たわっている師匠が、砂の中から現れてくる。
「おまえが掘り出してくれたのか」
師匠は眠りから覚めたように起き上がる。
「わざわざ掘り出してくれたが、おまえにはもう伝えることは伝えたし、それはわかっているだろう」
少し困った顔で、師匠はそう言う。
僕は黙ってうなずく。
「しかし、こうして最後に話せたのはよかった。ありがとう」
師匠はそう言い残して、森の奥へと旅立っていく。
2015年08月19日
2015年08月20日
カテゴリ「夢」
記憶に残る最も幼い時分から、子供時代、青年時代をへて今日にいたるまで、ずっと「夢」というものに興味を持ってきた。
睡眠時に見るあの夢である。
変わった夢を見ると記録に残してきたし、夢見や眠りの技術について、我流で「修行」を積んでいた時期もあった。
このカテゴリ「夢」では、そうした様々な個人的蓄積について、可能な範囲で紹介してみたいと思う。
ブログ開設からそろそろ十年。
思い入れがあるだけに、簡単には手を出せなかったテーマが、まだいくつか残っている。
スタートだけは切っておきたい。
睡眠時に見るあの夢である。
変わった夢を見ると記録に残してきたし、夢見や眠りの技術について、我流で「修行」を積んでいた時期もあった。
このカテゴリ「夢」では、そうした様々な個人的蓄積について、可能な範囲で紹介してみたいと思う。
ブログ開設からそろそろ十年。
思い入れがあるだけに、簡単には手を出せなかったテーマが、まだいくつか残っている。
スタートだけは切っておきたい。
2015年08月22日
記憶の底1
カテゴリ「夢」を語り始めるにあたって、最初に夢や眠りに関する「記憶の底」の部分を取り上げてみる。
以前記事にした内容とも一部重複するが、私にとって必要なプロセスなのだ。
----------------------------
幼い頃、毎晩寝るのが怖くてしかたがなかった。
顔を横にして枕に耳を埋め、目を閉じると、ザッザッザッという音が規則正しく聞こえてくる。
今から考えると、おそらく耳のあたりの脈拍が、枕のソバガラで増幅された音だったと思う。
しかしそれは、幼児の私にとっては、不可解で無気味きわまりない音に聞こえた。
暗い寝床でその音に耳を澄ませていると、頭の中で奇怪な空想が湧き起こってくる。
薄暗い山道、白い布をかけられた棺桶を担いで進む、数人の黒い影。
棺桶を運ぶその足音が、耳元で響くザッザッザッという音と重なっていつまでも続き、怖くて眠れなくなる。
私はかなり長い間、その奇怪な空想に怯えていた。
枕に耳をつけて眠ると、そのまま自分も棺桶に入れられて山奥に運ばれてしまい、二度と目が覚めなくなるような気がした。
何がきっかけでそんな突飛な空想を始めたのか記憶は定かではないが、「もしかしたら」と思い当たることもある。
空想の中のイメージと直接重なる経験では無いのだが、母方の曾祖母の思い出がそれだ。
私が幼い頃にはまだ曾祖母、ひいおばあちゃんが存命で、祖父宅から斜面を下った家の奥の方の一室で、96才まで寝起きしていた。
私の出生時には「わたしが抱いたら長生きするで」と言って抱っこしてくれたそうだ。
幼児の私が家内を探検し、たまたま奥の部屋に入っていくと、ニィと笑いながら駄菓子をくれたりしたのを覚えている。
やがてひいおばあちゃんの容態が悪くなった。
私は小さかったので病床には連れて行かれなかったが、孫達(つまり私の母や叔父叔母)は、様子を見てきては悲しげに話し合っていた。
「おばあちゃん顔が黄色ぉなって……」
「言葉もファファ何を言うとるかわからんように……」
傍らでそんな会話を聞いている私の頭の中では、好き勝手な空想が繰り広げられている。
想像の中で、ひいおばあちゃんの顔の「黄色」は「金色」に置き換えられ、白い布団の中に金色のひいおばあちゃんが横たわり、だんだん言葉も通じなくなる情景が浮んでくる。
大人達の言う「仏様になる」という言葉は、そういう意味なのかと一人で勝手に納得していた。
当時、私達幼児は仏壇のことを「まんまんちゃん」と呼んでいたのだが、「まんまんちゃん」の金箔や、仏像・仏画の金色から連想したのかもしれない。
そして私の記憶は唐突に葬儀のシーンに切り替わる……
家の周りには大勢の黒い服を着た大人達が集まっている。拡声器で何かガァガァ言っている声が聞こえてくる。
亡くなったひいおばあちゃんの曾孫、私と弟と従兄弟の三人には、それぞれ色紙で飾り付けられたカサ、ミノ、ツエが持たされている。
従兄弟はツエをつきながら、ふざけて老人の真似をしている。私もカサを被って見せながら「ツエの方が面白そうやな」などと考えている……
このあたりになると現実と空想の境目がかなり怪しくなってくる。
何しろ田舎で、わりと近年まで土葬が残っていた土地のことである。
幼児にカサ、ミノ、ツエを持たせるような、何らかの葬送の風習があったのかもしれないが、定かではない。
ただ単に幼児らしい思い込みで、他の行事の記憶が混入していたり、空想や夢を現実の記憶として捉えているだけなのかもしれない。
今からでも親類に確かめてみれば、あるいは真相が判明するのかもしれないが、なんとなく曖昧なままにしておきたい気分がある。
おそらく現実か空想かということよりも「このように記憶している」ということが私にとって重要なのだ。
夢か現かウソかマコトか分からないけれども、このような「記憶の底」を抱えていることが、今の人格の元になっていると感じる。
以前記事にした内容とも一部重複するが、私にとって必要なプロセスなのだ。
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幼い頃、毎晩寝るのが怖くてしかたがなかった。
顔を横にして枕に耳を埋め、目を閉じると、ザッザッザッという音が規則正しく聞こえてくる。
今から考えると、おそらく耳のあたりの脈拍が、枕のソバガラで増幅された音だったと思う。
しかしそれは、幼児の私にとっては、不可解で無気味きわまりない音に聞こえた。
暗い寝床でその音に耳を澄ませていると、頭の中で奇怪な空想が湧き起こってくる。
薄暗い山道、白い布をかけられた棺桶を担いで進む、数人の黒い影。
棺桶を運ぶその足音が、耳元で響くザッザッザッという音と重なっていつまでも続き、怖くて眠れなくなる。
私はかなり長い間、その奇怪な空想に怯えていた。
枕に耳をつけて眠ると、そのまま自分も棺桶に入れられて山奥に運ばれてしまい、二度と目が覚めなくなるような気がした。
何がきっかけでそんな突飛な空想を始めたのか記憶は定かではないが、「もしかしたら」と思い当たることもある。
空想の中のイメージと直接重なる経験では無いのだが、母方の曾祖母の思い出がそれだ。
私が幼い頃にはまだ曾祖母、ひいおばあちゃんが存命で、祖父宅から斜面を下った家の奥の方の一室で、96才まで寝起きしていた。
私の出生時には「わたしが抱いたら長生きするで」と言って抱っこしてくれたそうだ。
幼児の私が家内を探検し、たまたま奥の部屋に入っていくと、ニィと笑いながら駄菓子をくれたりしたのを覚えている。
やがてひいおばあちゃんの容態が悪くなった。
私は小さかったので病床には連れて行かれなかったが、孫達(つまり私の母や叔父叔母)は、様子を見てきては悲しげに話し合っていた。
「おばあちゃん顔が黄色ぉなって……」
「言葉もファファ何を言うとるかわからんように……」
傍らでそんな会話を聞いている私の頭の中では、好き勝手な空想が繰り広げられている。
想像の中で、ひいおばあちゃんの顔の「黄色」は「金色」に置き換えられ、白い布団の中に金色のひいおばあちゃんが横たわり、だんだん言葉も通じなくなる情景が浮んでくる。
大人達の言う「仏様になる」という言葉は、そういう意味なのかと一人で勝手に納得していた。
当時、私達幼児は仏壇のことを「まんまんちゃん」と呼んでいたのだが、「まんまんちゃん」の金箔や、仏像・仏画の金色から連想したのかもしれない。
そして私の記憶は唐突に葬儀のシーンに切り替わる……
家の周りには大勢の黒い服を着た大人達が集まっている。拡声器で何かガァガァ言っている声が聞こえてくる。
亡くなったひいおばあちゃんの曾孫、私と弟と従兄弟の三人には、それぞれ色紙で飾り付けられたカサ、ミノ、ツエが持たされている。
従兄弟はツエをつきながら、ふざけて老人の真似をしている。私もカサを被って見せながら「ツエの方が面白そうやな」などと考えている……
このあたりになると現実と空想の境目がかなり怪しくなってくる。
何しろ田舎で、わりと近年まで土葬が残っていた土地のことである。
幼児にカサ、ミノ、ツエを持たせるような、何らかの葬送の風習があったのかもしれないが、定かではない。
ただ単に幼児らしい思い込みで、他の行事の記憶が混入していたり、空想や夢を現実の記憶として捉えているだけなのかもしれない。
今からでも親類に確かめてみれば、あるいは真相が判明するのかもしれないが、なんとなく曖昧なままにしておきたい気分がある。
おそらく現実か空想かということよりも「このように記憶している」ということが私にとって重要なのだ。
夢か現かウソかマコトか分からないけれども、このような「記憶の底」を抱えていることが、今の人格の元になっていると感じる。
2015年08月23日
記憶の底2
寝る前の空想、妄想は他にもある。
寝床から見上げる天井には、電灯が吊り下げられている。
70年代のことなので、灯籠を模した外枠の中に円型の蛍光灯が二段重ねになっており、夜間はぼんやりオレンジの豆球だけが点されていた。
幼児の私は光の無い円型蛍光灯に重なって、バチバチと細かな火花が弾けているような幻を見ていた。
火花はやがて勢いを失い、豆球のオレンジに集まって、ボタッと落ちてくるだろう。
もし落ちてきたら、もう何もかもお終しまいになってしまうのだ。
私は絶望的な気分になりながら、身動きできずにじっと上を見つめている……
これなども、今から考えると線香花火が燃え尽きる情景あたりから連想していたのではないかとも思うのだが、我がことながらはっきり断言はできない。
記憶の古層は無気味なイメージに満ち満ちている。
もう少し大きくなってからの情景も、記憶に残っている。
幼稚園への通園風景である。
地区の児童を何人か、引率の大人が二人ほどついて、園に送り届けている。
幼児集団の引率は難しい。
一人一人が我侭な王子様、お姫様で、まだ群れの秩序が身に付いていない。
みんなと一緒に歩くというだけのことがけっこう難しかったりするので、しばしば阿鼻叫喚の修羅場になる。
そこで、秘密兵器が登場する。
縄跳びの縄をいくつも編んで、持ち手の部分をたくさん出して作った引率器具だ。
持ち手の部分に幼児を一人ずつつかまらせて、ちょうど「電車ごっこ」のような雰囲気で引っ張って行くわけだ。
うまく子供たちをおだてながら、楽しい雰囲気で騙し騙し園に送り届ける。
こうしてしたためてみると、なんとも珍妙な風景で、どこまで本当にあったことなのかは、私自身にも定かではない。
川沿いの土手を、ロープで繋がりながらみんなと並んで行進した。
土手から見下ろす稲刈りを終えた田んぼには、ビニールシートが風にパタパタなびいていた。
そんな細部の情景まで含めて、夢のように淡く記憶の底に残っている。
それからはるかに時は流れて、私は自分の記憶の中の「電車ごっこ」の通園とよく似た風景を、TV画面の中に発見して「アッ!」と叫ぶことになった。
それは1997年、幼児連続殺傷事件の異様な緊張に包まれた、神戸の街の1コマだった。
近隣の保育園や幼稚園の通園は厳戒態勢となり、引率の保護者の皆さんが、間違いなく全員を送り届けるために、幼児にロープを握らせて行進させている情景がTV画面に映し出されていた。
私の70年代の「記憶の底」が、90年代の無気味な事件とシンクロして蘇ってきたのを覚えている。
そして2010年代の今、同じ記憶がまた浮上してくるきっかけとなる報道があった。
あの事件の元少年が、手記を出版したと言うのだ。
私自身は、件の手記を手に取るつもりも他人に勧めるつもりもない。
様々な議論に加わる意欲も無い。
書きたいならば、世界中から石を投げられる覚悟で実名を出せと思うし、そこまで踏み込めない表現に、読むべき価値があるとは思えない。
ただ、70年代、90年代、2010年代には、世相というか時代の空気のようなものに、何か共通点があるのかもしれないと、あれこれ考え続けている材料にはしている。
幼い頃の「記憶の底」には、どこか怪異なトーンが混入していることが多い。
さきに書いた「電車ごっこ」の通園風景の中、記憶に刻まれた、忘れられない怖い思い出がある。
二、三人の大人に引率された幼児の集団が、川沿いの土手から降りて集落にさしかかる。
幼稚園の近くなので、他の通園グループも集まってきている。
園児の弟か妹だろうか、小さな乳幼児を抱いた母親が行列を見送っている。
抱かれた子供は「おやつのカール」をしゃぶりながら(まだ噛めない)、お兄さんお姉さんたちの通園風景を熱心に眺めている。
幼児の私を含む「電車ごっこ」の列が、その母子の横を通りすぎようとした時、突然悲鳴が上がった。
「ヒキツケ! ヒキツケや! 誰か梅酒持ってきて!」
異様な光景だった。
それまで「おやつのカール」をしゃぶっていた小さな子供が、母親の腕の中でぐったりしている。
母親は必死の形相で叫んでいる。
どうやら子供が「ヒキツケ」を起こしたので、気付けに梅酒を持ってきてくれと叫んでいるらしい。
当時、そのような民間療法があったのだろうか?
幼児の私は恐怖に凍りつき、その光景は記憶の底に焼き付けられる。
その後、母子がどうなったのかは全く記憶に残っていないが、私の中で「おやつのカール」と「梅酒」は、「ヒキツケ」の不吉なイメージと固く結びついた。
その後、小学校の高学年ぐらいになるまで、私は「おやつのカール」を食べることをひそかに恐れていた。
おやつで出されても一人だけ手をつけず、他の子供が美味そうに食べているのを、怖々眺めていた。
カールおじさんの登場するほのぼのとしたあのテレビCMにも、どこか無気味なものを感じていた。
梅酒に対してもあまりよい印象はなく、大人になってからも、自ら進んで飲むことはなかった。
しかし、どうやら自分の忌避衝動の源泉が、幼時の記憶と結びついた「思い込み」にあるらしいことを自覚してからは、特に嫌うこともなくなった。
おやつのカールと梅酒への苦手意識を克服した時、私は大人になったのかもしれない(笑)
寝床から見上げる天井には、電灯が吊り下げられている。
70年代のことなので、灯籠を模した外枠の中に円型の蛍光灯が二段重ねになっており、夜間はぼんやりオレンジの豆球だけが点されていた。
幼児の私は光の無い円型蛍光灯に重なって、バチバチと細かな火花が弾けているような幻を見ていた。
火花はやがて勢いを失い、豆球のオレンジに集まって、ボタッと落ちてくるだろう。
もし落ちてきたら、もう何もかもお終しまいになってしまうのだ。
私は絶望的な気分になりながら、身動きできずにじっと上を見つめている……
これなども、今から考えると線香花火が燃え尽きる情景あたりから連想していたのではないかとも思うのだが、我がことながらはっきり断言はできない。
記憶の古層は無気味なイメージに満ち満ちている。
もう少し大きくなってからの情景も、記憶に残っている。
幼稚園への通園風景である。
地区の児童を何人か、引率の大人が二人ほどついて、園に送り届けている。
幼児集団の引率は難しい。
一人一人が我侭な王子様、お姫様で、まだ群れの秩序が身に付いていない。
みんなと一緒に歩くというだけのことがけっこう難しかったりするので、しばしば阿鼻叫喚の修羅場になる。
そこで、秘密兵器が登場する。
縄跳びの縄をいくつも編んで、持ち手の部分をたくさん出して作った引率器具だ。
持ち手の部分に幼児を一人ずつつかまらせて、ちょうど「電車ごっこ」のような雰囲気で引っ張って行くわけだ。
うまく子供たちをおだてながら、楽しい雰囲気で騙し騙し園に送り届ける。
こうしてしたためてみると、なんとも珍妙な風景で、どこまで本当にあったことなのかは、私自身にも定かではない。
川沿いの土手を、ロープで繋がりながらみんなと並んで行進した。
土手から見下ろす稲刈りを終えた田んぼには、ビニールシートが風にパタパタなびいていた。
そんな細部の情景まで含めて、夢のように淡く記憶の底に残っている。
それからはるかに時は流れて、私は自分の記憶の中の「電車ごっこ」の通園とよく似た風景を、TV画面の中に発見して「アッ!」と叫ぶことになった。
それは1997年、幼児連続殺傷事件の異様な緊張に包まれた、神戸の街の1コマだった。
近隣の保育園や幼稚園の通園は厳戒態勢となり、引率の保護者の皆さんが、間違いなく全員を送り届けるために、幼児にロープを握らせて行進させている情景がTV画面に映し出されていた。
私の70年代の「記憶の底」が、90年代の無気味な事件とシンクロして蘇ってきたのを覚えている。
そして2010年代の今、同じ記憶がまた浮上してくるきっかけとなる報道があった。
あの事件の元少年が、手記を出版したと言うのだ。
私自身は、件の手記を手に取るつもりも他人に勧めるつもりもない。
様々な議論に加わる意欲も無い。
書きたいならば、世界中から石を投げられる覚悟で実名を出せと思うし、そこまで踏み込めない表現に、読むべき価値があるとは思えない。
ただ、70年代、90年代、2010年代には、世相というか時代の空気のようなものに、何か共通点があるのかもしれないと、あれこれ考え続けている材料にはしている。
幼い頃の「記憶の底」には、どこか怪異なトーンが混入していることが多い。
さきに書いた「電車ごっこ」の通園風景の中、記憶に刻まれた、忘れられない怖い思い出がある。
二、三人の大人に引率された幼児の集団が、川沿いの土手から降りて集落にさしかかる。
幼稚園の近くなので、他の通園グループも集まってきている。
園児の弟か妹だろうか、小さな乳幼児を抱いた母親が行列を見送っている。
抱かれた子供は「おやつのカール」をしゃぶりながら(まだ噛めない)、お兄さんお姉さんたちの通園風景を熱心に眺めている。
幼児の私を含む「電車ごっこ」の列が、その母子の横を通りすぎようとした時、突然悲鳴が上がった。
「ヒキツケ! ヒキツケや! 誰か梅酒持ってきて!」
異様な光景だった。
それまで「おやつのカール」をしゃぶっていた小さな子供が、母親の腕の中でぐったりしている。
母親は必死の形相で叫んでいる。
どうやら子供が「ヒキツケ」を起こしたので、気付けに梅酒を持ってきてくれと叫んでいるらしい。
当時、そのような民間療法があったのだろうか?
幼児の私は恐怖に凍りつき、その光景は記憶の底に焼き付けられる。
その後、母子がどうなったのかは全く記憶に残っていないが、私の中で「おやつのカール」と「梅酒」は、「ヒキツケ」の不吉なイメージと固く結びついた。
その後、小学校の高学年ぐらいになるまで、私は「おやつのカール」を食べることをひそかに恐れていた。
おやつで出されても一人だけ手をつけず、他の子供が美味そうに食べているのを、怖々眺めていた。
カールおじさんの登場するほのぼのとしたあのテレビCMにも、どこか無気味なものを感じていた。
梅酒に対してもあまりよい印象はなく、大人になってからも、自ら進んで飲むことはなかった。
しかし、どうやら自分の忌避衝動の源泉が、幼時の記憶と結びついた「思い込み」にあるらしいことを自覚してからは、特に嫌うこともなくなった。
おやつのカールと梅酒への苦手意識を克服した時、私は大人になったのかもしれない(笑)
2015年08月24日
記憶の底3
幼児期を過ぎ、少年期に入った私は、枕に耳をつける恐怖や、蛍光灯を見上げる恐怖を徐々に忘れ、今度は奇妙な空想で入眠するようになった。
夜になって蛍光灯を消し、布団に入り、目を閉じると、そこから毎晩のようにその空想は始まる。
掛け布団と敷布団の間に自分の体が横たわっている。
体と布団の隙間は、頭部から足元へとまるで深い洞窟のように続いている。
枕元に立った「小さな自分」が、自分の頭部をすり抜けて「布団の洞窟」へと分け入る。
小さな自分は、一歩、また一歩と洞窟の中を進んでいく。
奥へ入り込んで行くにつれ、「横たわる自分」は眠りに落ちていき、遂には夢の世界へ入り込んでいく……
迷い込んだ小さな自分が、その先がどうなってしまうのか、いつも見届けることが出来ないままに、私は眠りに落ちていた。
だからだろうか「洞窟」や「トンネル」というイメージは、私の心の奥底ではいつも怖さと憧れが入り混じった特殊なものになった。
大人になった現在の私が、やや閉所恐怖症気味ながら、各地の「胎内潜り」に心惹かれてさまよってしまうのは、どうやらこのような奇妙な影響もあるのかもしれない。
このように、私の遠い記憶の底には、夢とも現実とも判然としない、奇怪なイメージがいくつも残留している。
睡眠時の夢についても、幼児期からずっと興味があり、自分なりにこだわりを持って探究してきた。
ビューティフル・ドリーマーという、まさに夢のように儚く美しい曲がある。
邦題では「夢路より」と訳されたりするが、直訳すれば「美しい夢を見る人」という感じになるのだろう。
作者のフォスターは「アメリカ音楽の父」と呼ばれ、多くの佳曲を残したが、若くして亡くなり、その晩年は恵まれなかった。
ビューティフル・ドリーマーは「遺作」にあたる。
悲惨な境遇が美しく儚い夢を紡ぐというのはよく理解できる気がする。
私の場合、ビューティフル・ドリーマーに歌われるような儚く美しい夢とは縁遠い。
幼い頃から私の見る夢の多くは、怪であり、奇であり、妖であり、「あやしい」という言葉をあてるしかなかった。
決して美しくは無いけれども、私の中の何者かが、そうした「怪しさ」を求め、夢見ることで癒されて来たのだろうと思う。
Beautiful dreamer
ではなく、
Ugly dreamer
いつの頃からか、私は自分をそのように感じてきたのだ。
夜になって蛍光灯を消し、布団に入り、目を閉じると、そこから毎晩のようにその空想は始まる。
掛け布団と敷布団の間に自分の体が横たわっている。
体と布団の隙間は、頭部から足元へとまるで深い洞窟のように続いている。
枕元に立った「小さな自分」が、自分の頭部をすり抜けて「布団の洞窟」へと分け入る。
小さな自分は、一歩、また一歩と洞窟の中を進んでいく。
奥へ入り込んで行くにつれ、「横たわる自分」は眠りに落ちていき、遂には夢の世界へ入り込んでいく……
迷い込んだ小さな自分が、その先がどうなってしまうのか、いつも見届けることが出来ないままに、私は眠りに落ちていた。
だからだろうか「洞窟」や「トンネル」というイメージは、私の心の奥底ではいつも怖さと憧れが入り混じった特殊なものになった。
大人になった現在の私が、やや閉所恐怖症気味ながら、各地の「胎内潜り」に心惹かれてさまよってしまうのは、どうやらこのような奇妙な影響もあるのかもしれない。
このように、私の遠い記憶の底には、夢とも現実とも判然としない、奇怪なイメージがいくつも残留している。
睡眠時の夢についても、幼児期からずっと興味があり、自分なりにこだわりを持って探究してきた。
ビューティフル・ドリーマーという、まさに夢のように儚く美しい曲がある。
邦題では「夢路より」と訳されたりするが、直訳すれば「美しい夢を見る人」という感じになるのだろう。
作者のフォスターは「アメリカ音楽の父」と呼ばれ、多くの佳曲を残したが、若くして亡くなり、その晩年は恵まれなかった。
ビューティフル・ドリーマーは「遺作」にあたる。
悲惨な境遇が美しく儚い夢を紡ぐというのはよく理解できる気がする。
私の場合、ビューティフル・ドリーマーに歌われるような儚く美しい夢とは縁遠い。
幼い頃から私の見る夢の多くは、怪であり、奇であり、妖であり、「あやしい」という言葉をあてるしかなかった。
決して美しくは無いけれども、私の中の何者かが、そうした「怪しさ」を求め、夢見ることで癒されて来たのだろうと思う。
Beautiful dreamer
ではなく、
Ugly dreamer
いつの頃からか、私は自分をそのように感じてきたのだ。