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2015年12月14日

繰り返す夢1

 奇妙なことだが、私はごく幼少の頃から、夢について誰に教わるともなく、かなり自覚的に探究し、採集してきた。
 夢にまつわる最古層の記憶の一つに、保育園に通園するバスの中の情景がある。
 保護者に連れられて路線バスに乗っているとき、突然「ずっと前にこの場面を見た」と、はっきり感じた。
 当時の私はまだ幼児なので、もちろん「既視感」という語彙は無い。
 幼い私は、その生まれて初めてのデジャヴ体験と同時に、自分が数カ月に一度、いくつかの同じ夢を繰り返し見ていることに気付いた。
 そして序章「記憶の底」で紹介したような入眠時の幻想と相まって、「眠り」や「夢」について、強い興味を抱くようになったのだ。
 以来、ずっと夢についての考察を緩やかに続けている。
 緩やかに、と但し書きをつけているのは、夢について深刻に思いつめたり、何か物凄く価値のある探究をしていると勘違いすることなく、という意味だ。
 読書したり散歩したりという行為と同様、日常的な趣味、楽しみとして、私は夢と関わり続けてきた。
 なんとなく、あまり他人に話すようなことではないとわかっていたので、一人ひっそりと考え続けていた。

 繰り返し見ていた夢の中で、記憶する限り最古のものが、こんな夢だ。

「塊」
 体育館のような板張りの広間。
 屋内は薄暗いが、外の光が差し込んでいて、逆光の中にたくさんの人影が浮かんでいる。
 幼児の私は「ああ、この場面は何度も見た」と思っている。
 周囲の人々は、大人も子供も楽しげに運動したり遊んだりしている。
 私は何か大きな塊を押している。
 運動会の大玉転がしのように、「それ」を一人で転がしている。
 塊は黒くてゴツゴツしており、金属のようだ。
無数にひび割れが走るその塊を転がしながら、私は「それ」が何か非常に危険なものであることを悟る。
 毒物のような、爆発物のようなもので、とにかくこのまま転がし続けると大変なことになってしまうとわかっている。
 周りの人はその危険に全く気付いていない。
 幼児の私は恐ろしさに震えながら、それでも止めることができずに塊を転がし続けている。
 塊はだんだん大きくなってくる。

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 この夢はかなり長期にわたって見ていた。
 数か月に一度ほどの頻度だったが、幼児の頃から小学校高学年くらいまでは見ていたと思う。
 かなりの悪夢なので印象深く、「ああ、またあの夢を見た」と記憶に刻み込まれていた。

 この夢に関連していると思われるのが、小学生の頃に見た夢だ。
 次回の記事で紹介する。
posted by 九郎 at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2015年12月17日

繰り返す夢2

「毒ガス毛布」
 恐ろしいことになった。
 広い道路には人間がばたばたと倒れて死んでいる。
 死体以外に見当たらず、停まっている車の中でも人が死んでいる。
 毒ガスのせいだとわかる。
 このままでは私も危ないが、子供の私は非難所から出てきたばかりなので毛布一枚しか羽織っていない。
 再び毒ガスが出てくれば防ぐ手立てはない。
 不意に、体に巻きつけた毛布から、黄色い気体が噴き出してくる。
 非難所で配給され、安全だとばかり思い込んでいた毛布が、化学反応を起こして毒ガスを噴き出したのだ。
 絶望的な気分で毛布を捨て、その場から逃げる。
 この分では人工合成物は何一つ信用できない。
 しかし合成物はどこにでもあるので、逃げる場所は残されていない。
 無駄だと思いながらも、走るしかない。
 今度こそ死ぬな、と思っている。

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 私が記憶している中でも、一番恐ろしかった悪夢の一つである。
 夜半に目覚めた小学生の私は、それが夢だとわかっていても、恐怖にがたがた震え続けていた。
 当時は70年代の終盤で、小学校の教科書でも公害の惨禍が取り上げられ、子供向けのTV番組では「文明の暴走」をテーマにした作品が毎日のように放映されていた。
 そんな世相が子供の無意識の領域にも反映されていたのかもしれない。

 それから時は流れた90年代、カルト教団の起こした毒ガステロや、化学物質過敏症を扱ったニュースを見るとき、私はいつもこの夢のことを思い出していた。

 2010年代の今もよく思い出す。
posted by 九郎 at 21:13| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2015年12月19日

繰り返す夢3

 繰り返す夢1で紹介した「塊」という夢は、ほぼ同内容を数ヵ月〜数年の間隔で繰り返すというパターンだった。
 私の場合、短期間に同じ夢を見るという経験はほとんどなく、繰り返すにしてもある程度間が置かれていることが多い。

 私は学生時代から断続的に演劇活動をした経験があり、そうした演劇経験者特有の夢というものもある。
 すなわち、「本番が始まるのに準備ができていない夢」だ。
 役者なら台詞がまったく入っていない、作演出なら本がまったくできていないという、アレである。
 私は主に舞台美術担当だったので、本番直前に舞台上に何もない状態の夢を見る。
 これは最悪に近い悪夢で、汗びっしょりになって夜半に目覚めたりするのだが、演劇経験者のほぼ百パーセントが見るありふれた夢でもある。
 私はもう七〜八年演劇から離れているが、それでもまだたまに見る。

 全く同じ内容ではなく、途中経過は様々で、ラストだけ同じ形に落ち着くパターンもある。
 これも以前紹介した「ガム」がその典型で、そこに至る展開は色々あるが、最後は「口の中のガムが膨れ上がって、取っても取ってもキリがなくなる」という形になる。
 この系統の夢のバリエーションとしては、ガムのかわりに小さな釘が口の中で溢れてきたり、歯茎と歯の間から出ている糸を引っ張るといくらでも出てきたり、歯が一本ぐらぐらすると思ったら、そのまま抜けて地滑りのように他の歯も抜けてくるというもの等がある。

 こうした「口」関連の夢は、おそらく夢判断や分析で解釈されやすいものなのだろうけれども、私の興味はそこにはない。
 何冊かそうした夢判断の本を手に取ってみたこともあるが、正直あまり面白く感じなかった。
 私にとっての夢は、たとえそれが悪夢であれ、表現であり、楽しみの一つだ。
 型にはまった解釈で刈り込んでしまうことは、夢というもののもつ、えもいわれぬ不思議さや広がりを、矮小化するような気がするのだ。
posted by 九郎 at 17:41| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2015年12月20日

繰り返す夢4

 繰り返す夢の中には、一種の「続き物」になっているものもある。
 ある程度間隔をおいて見る夢なのだが、基本設定が共通していて、少しずつ事態が進行していっているのがわかる、そんな夢だ。
 私は夢でいくつかの「連載」を持っているとも表現できる。

 例えば一つは、昔住んでいた部屋、あるいは部活の部室を、大家や管理人に隠れて今でも密かに使い続けているという夢だ。
 もうやめにしなければとビクビクしながら、それでも手荷物置き場や休憩所として無断使用を続けている。
 発覚の危険は徐々に増してきている。
 この夢は見る頻度がだんだん少なくなり、フェードアウトしかけながらも細く長く続いてはいる。

 もう一つは、中高生あるいは大学生の頃の情景が元になっており、ある特定の曜日の何時間目かをずっとサボり続けているという夢。
 このままでは単位がとれず、留年してしまうのに、なんとなくズルズルとサボり続けている。
 夢を見るたびに「まずいなあ」と思い、事態は深刻化しているのだが、決定的な結果が出ないままにもう二十年以上断続的に続いている。
 私は私立の中高一貫校出身なので、当時から大学生の頃まで留年の危機を度々繰り返していた。
 もちろんそんな実体験が反映された夢なのだろう。
 夢の中の私は学生なのだが、現在の自分の意識も何割かは混在している。
 だからなんとなく「これは夢だ」ということも分かっているのだが、それでも黒々とした不安感はある。

 ものの本によると、夢の中で「これは夢だ」と分かっている状態を「明晰夢」と呼ぶそうだ。
 私の場合は「明晰」と言えるほどはっきり夢の自覚があることは少ないが、半ば夢の自覚がある場合、色々面白い展開が生まれてくることもある。
posted by 九郎 at 09:57| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2015年12月21日

繰り返す夢5

 このカテゴリで紹介するものは、ウケ狙いで悪夢や怪夢に傾きがちだが、もちろん楽しい夢も見る。
 中でも昔から好きだったのは「空を飛ぶ夢」で、幼児の頃の私はそれを「アトムになる夢」として好んでいた。
 夢の中でアニメの鉄腕アトムのように地面を蹴ってジャンプすると、スーッと上昇し、滑空することができた。
 さほど長く飛行できるわけではなかったが、飛距離と高度のあるジャンプといった感じだった。
紙飛行機のように不時着し、また地面を踏みきると、わりに自由に飛ぶことができた。
 ただ、少しでも「飛べる」ということに疑念が生じると覿面に飛距離は短くなり、そうなると悪循環で、だんだん自信がなくなって最後には全く飛べなくなるパターンが多かった。
 かなり高く飛行している時に、急に怖くなって墜落し、地面に激突したドーンという衝撃とともに目覚めることもあった。

 こうした飛行夢は今でもよく見る。
 長年見ている内に修行が積めてきたようで、飛んでいるときの情景描写はかなり詳細になってきた。
 窓枠や屋上の手すりから踏み切って飛び立つときや、飛んでいるときの風の感触、注意深く電線を避けたり、方向転換の時の体の使い方など、リアルな雰囲気になってきたのだ。
 飛行夢のキャリアは長いので、夢見る間もなんとなく「これは夢だ」と分かっている。
 夢だということをあまり明確に意識しすぎても眠りから覚めてしまうので、なんとなく曖昧な領域に意識をとどめるのが一番楽しめると分かっている。
 いつも上手く行くわけではないが、調子の良いときはその微妙なバランスを維持しながら、ある程度思い通りの展開を楽しむことができる。
 好調の時に一度、どこまで高く飛べるか試してみたことがある。
 どんどん高度を上げると町並みは鳥瞰図から地形図のように変化していき、雲を越え、成層圏(雰囲気としてそのように感じる)あたりまで達する。
 印象的な夢だったので鮮明に覚えているが、ここまでできたのはその一度だけだった。

 繰り返し見る「空を飛ぶ夢」の中で、けっこう自分が「上達」してきていることに気付いてから、私は夢や眠りのコントロールを試みるようになった。
 そうした夢修行については次の機会に譲るとして、次回からまたしばらく怪しい夢の紹介に入りたいと思う。
posted by 九郎 at 07:03| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする