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2016年01月04日

金縛りと幽体離脱

 夢や眠りにまつわる事象の一つとして、または悪夢の一形態として、いわゆる「金縛り」がある。
 夜半に目が覚めてみると、意識はあるのに体が動かず、非常な恐怖感にとらわれるという現象だ。
一般には、そこから心霊現象めいた体験談が始まったりするイメージが強いことだろう。
 私もこうした「金縛り」を、いままでに何度となく経験してきた
 経験してきた感じでいうと、こうした現象も、細部にはかなり個人差があるのだろうなと思っている。

 私の場合、夜半に目が覚めて、意識はあるのに体が自由に動かないという状態から始まるのは一般的なイメージ通りだ。
 体は完全に硬直してしまっているわけではなく、不自由ながらも腕を多少動かしたりすることはできるし、寝返りを打つように姿勢を変えることも、なんとか可能だ。
 特徴的と思われるのは、耳元で電気的なノイズ、または金属を擦り合せているような異音が鳴り続けていることだ。
 子供の頃は、この「金属音」のイメージと、「金縛り」という字面を結び付けて納得していた覚えがある。
 金属音に縛り付けられるから金縛りというのだろうなと、子供なりの関連付けをしていたのだ。
 また、私の記憶する最古の悪夢(「繰り返す夢」の章で紹介)に出てきた、「金属の塊」のイメージとも結びつけて捉えていたはずだ。

 私にとっては頻出のこうした異音が、広く一般に「金縛り」に伴うものであるのかどうかはよくわからない。
posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年01月05日

金縛りと幽体離脱2

 耳元で響く金属音と、身体が重く不自由であることに加え、自分とは違う何者かの気配を感じることもあった。
 自分が陥っている「金縛り」が、その気配の主の仕業ではないかと感じられ、かなり恐ろしい体験だった。
 ただ、それ以上のこと、たとえば幽霊の姿を見たり、声を聞いたりするような、はっきりした「霊現象」までに至らなかったのは、幸運なことだったと思う。

 医学的には色々説明がつき、ことさらに怪奇現象扱いする必要はないのだろう。
 ぶっちゃけ私はオカルト趣味があるけれども、それはあくまで趣味であって、本気で信じているわけではない。
 神仏与太話と銘打ったブログを運営しながら、オカルト趣味があり、しかし本気で信じているわけでもなく、スピリチュアル嫌いと言うと、かなり分裂した分かりづらい立場であると思われるかもしれないが、自分の中ではあまり矛盾はない。

 世に不思議はある。
 一見不思議に見えても、そのほとんどは合理的に説明がつく。
 しかし、合理では割りきれない部分も確かに残る。
 そのグレーゾーンを、性急に結論付けずにちまちま楽しむ。
 虚実の狭間で時に信じ込みそうになったりするのを自ら笑うのが、私のオカルト趣味なのだ。
 プロレスを楽しむのと同じ位相でオカルトを楽しんでいると書けば、私のスタンスを理解してくれる人も多いだろう。

 金縛りや、後に述べる「幽体離脱」についても、そうした「体験」自体は自分のものとして確かにあるので、否定しない。
 それらは基本は合理的な説明がつくものだけれども、実際に体験している最中に、冷静な判断力は持てないないし、何の役にも立たないことが多い。
 
 そこで、趣味としてのオカルトの出番が回ってくるのだ。
posted by 九郎 at 12:34| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年01月06日

金縛りと幽体離脱3

 オカルトに対して本気ではないとはいえ、実際に金縛りなどを体験してみると、やはり恐怖心が先に立つことが多い。
 本能的な恐怖感に対して、科学的、合理的な判断は、それがいくら正しくても急場の役には立たないものだ。
 子供の頃から度々経験してきたこと、さほどはっきりした「幽霊話」のような体験に至らなかったことで、私の場合は長ずるとともに、だんだん「金縛り」には慣れることができた。
 子供の頃はさすがに怖かったけれども、成長とともに、それなりに対処できるようになってきたのだ。

 成人してからは熊野遍路の真似事をするようになり、その過程で見よう見まねで覚えたいくつかの真言や祝詞などで、「金縛り」に対処するようになった。
 金属音とともに何者かの気配を感じた場合、不自由ながら多少は動かせる腕で「九字を切る」という修験者の所作を行ったり、真言や祝詞を口中で唱えることで、恐怖心を払えるようになったのだ。
 それがオカルト的な文脈で言われるような心霊現象であるのかどうかはさておき、そのような「現象」に対処する手段として、伝統的な宗教の所作は確かに役に立った。
 中でも効果があった(と思えた)のは、不動明王の真言だった。
 一応近代的に構築された私の表層意識の薄皮を一枚剥ぐと、その中にはドロドロとした訳の分からない領域があって、半ば夢の世界である金縛りなどに対しては、呪術の力が機能しやすいのだろう。
 また、幼児の頃の原風景として、様々な密教尊を宇宙で活躍するヒーローと同列に眺めていた私にとって、無意識の領域ではいまだにお不動さんは感情移入しやすい強力な守護者であるのかもしれない。

 私に本当の「信仰」と呼べるものがあるのかどうか、正直分からない。
 しかし、神仏や霊の世界には実体がないと一応理解していても、そうした物語に感情移入することで現れる様々な心象は面白いと思うし、探究しがいのあるものだと思っている。

 だからこその神仏与太話「縁日草子」なのだ。
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2016年01月07日

金縛りと幽体離脱4

 金縛りとともによく体験していたものに、自分では「平行移動」と呼んでいた感覚がある。
 眠っていてふと目覚めたとき、眠っていたその姿勢のまま、自分の体がビョーンと滑っていくような感覚に襲われることが、たまにあった。
 滑る方向は様々で、布団から頭の方向に「発射」されるように滑ることもあれば、横滑りになることもある。
 もちろん本当に平行移動しているわけではなく、あくまで「そういう感じがする」と言うだけで、目が覚めてみると普通にその場に寝ていることが多い。
 金縛りと違って恐怖感は薄いのだが、足元の方向に掃除機で吸引されるように滑ることもあり、その場合は何処かに引きずり込まれるような気がして少し怖かった。
 その時は目覚めてみると、必死で布団にしがみついている姿勢のままだった(笑)
 頭の方に「発射」された場合などは、そちらにある自室の壁を突き抜けていくような感覚があり、むしろ面白い体験だった。

 そうした「平行移動」も、場数を踏むとともに「飛距離」が増していった。
 自室の屋外とか、見知った街路あたりまで飛ばされることもあった。
 あくまで感覚の中でのことであって、物理的に体が移動しているわけではない。

 飛距離が長くなるにつれ、どうやら自分が「平行移動」と密かに呼んでいる感覚が、オカルト的な概念では「幽体離脱」と呼ばれているものに似ているらしいことがわかってきた。
 肉体とは別にそれと重なる意識体の存在を想定し、魂とか幽体とか名付けられる意識の部分だけが肉体から離脱する状態を指す。
 よくあるのは、ベッドで眠る自分の姿を少し上方から眺めているというエピソードだ。
 もっと現実世界からの距離が離れると、伝承の中の脱魂や異界探訪説話に近づいていく。

 私の「平行移動」の場合は、大抵は自分でよく行くような場所どまりで、見知らぬ風景まで移動することはなかった。
 出先で何か「証拠」が残せないかと試したこともあったが、当然ながら一度も成功しなかった。
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2016年01月08日

金縛りと幽体離脱5

 こういう類の体験は、あまり人とは話さなかった。
 話しても大丈夫そうな友人をよく見極めて、情報交換を楽しんだ。
 中高生の頃の友人に一人「幽体離脱仲間」がいた。
 当ブログでもよく登場する、例の友人である。
 私の人生の「ちょっとアカン」要素には、結構な割合で彼が関与している(笑)

 彼の場合は、寝ているときに自分の身体が宙に浮いているような感じがするというオーソドックス(?)なタイプだったそうだ。
 蛍光灯が間近に見え、天井が触れそうに感じたという。
 なんとか「証拠」を残そうと、鉛筆を持って寝て、天井に書き込みを残そうとしたりなど、色々試行錯誤したが、結局一度も成功しなかったそうだ。

 金縛りや幽体離脱以外にも、入眠時の不思議な現象は色々あるようだ。
 これはまた別の友人から聞いた話では、床について眠ろうとした時に足元に何か「毛玉」のようなものが触るのを感じたが、確かめるのが怖くて、蹴飛ばしてそのまま眠ったという。
 また別の友人に聞いた話では、夜半に目が覚めて流しの方を見ると、蛇口から何かガムのようなものが吹き出して宙を飛んでいたという。
 これらの体験は、体験した当人にとっては確かに存在し、疑う余地が無いのだが、それを他者に対して「証明」しようとすると、するりと手からすり抜けていく。
 世の不思議は大抵そのような性質を持っている。

 夢もそうだが、眠りにまつわる事柄は、基本的に現実の役には立たない。
 無理に役立たせようとすると、多分精神的におかしくなってくるのではないかと思う。
 頭から否定するのではなく、また安易にオカルトちっくに解釈するのでもなく、ただ不思議体験を楽しむくらいのスタンスが適当ではないだろうか。

 というわけで、当ブログでは「夢」も雑談、与太話の一環として紹介しているのである。
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする