夢枕獏のことである。
この作家については、何度も記事にしてきた。
好きな作家であることはもちろんなのだが、それに加えて、絵描きのハシクレとしての私が、なんとか今生のうちに描ききってみたいと想い続けてきた、ある絵とも関わっている。
その絵「外法曼陀羅」製作にむけて、これまでの記事を加筆再掲載しながら、じわじわ進めてみたいと思う。
高校生の頃「キマイラ・シリーズ」を手にとって以来、何年かごとに夢枕獏の作品にハマって読み続けてきた。「新作が出れば必ず買う」というほどの熱烈なファンではないけれども、マイブームがぶりかえす度に長編を読み切ってきたので、結果的には七割以上の作品を読んでいることになり、あらためて確認してみるとけっこう熱心な読者の部類に入りそうだ。
何年も、時には十数年も、何十年もかかる長編を複数抱えた人気作家なので、リアルタイムで作品を追っていると細切れになってしまう。
作品が完結したり、分量が溜まったら一気読みする私ぐらいの付き合いは、ちょうど良い間合いなのかもしれない。
夢枕獏と言えば、一般には「伝奇SF作家」のイメージが強いと思うが、実際には幅広い作風があり、伝奇SFの代名詞である「エロスとバイオレンス」だけで括れる作家ではない。
今昔物語の空気感を現代小説として復活させたような「陰陽師」や「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」、昨今の総合格闘技ムーブメントを生み出す原動力の一つになった「飢狼伝」をはじめとする格闘小説などは、特定のジャンルだけの読者の範囲を超えて、広く読み継がれる作品になっている。
夢枕獏の作品の重要なモチーフの一つに「仏教」がある。今昔物語などの中世説話集がそうであったように、この作家の背後には仏教の須弥山宇宙観が高くそびえている。私にとっての夢枕獏は、SF作家というよりは「仏教作家」だ。
格闘小説に代表されるリアルな現実世界の約束事を守った作品群はもちろんのこと、ファンタジーの要素が強い作品であっても、宇宙観の範囲を逸脱しないように細心の注意を払ってバランスを保ちつつ、物語が紡がれている。
安易に「何でもあり」に流されない作品世界を構築する作家であり、それぞれの物語の中の「理」を決して破綻させない作家であり、自分の中の「作家的良心」を裏切らない、信頼できる物語作者なので、どの本も安心して手に取ることができる。
●「キマイラ・シリーズ」夢枕獏 (ソノラマノベルス)
作家活動の初期から三十年以上書き続けられ、いまだ未完の、ライフワークにして代表作。
現在のライトノベル市場の源流の一つと思われる、往年のソノラマ文庫で刊行が開始され、私も高校生の頃から読み始めて既に○○年。
時代の変化とともにソノラマ文庫が縮小され、現行「キマイラ・シリーズ」は新書版ノベルスとして、既刊2巻分を一冊にして刊行され始めた。
8巻までで既刊分を収録し、9巻からは新刊分に入った。
角川文庫でも平行して刊行が進んでいる。
過去の大陸での長い回想シーンが終り、物語は現代に帰ってきた。
現在11巻「明王変」まで刊行。
物語の描く巨大な円が、どれほどの直径を持っているかという目算は立ってきたようだ。
この作品もまた、他の夢枕作品同様、完全に「何でもあり」のファンタジーにはなってしまわず、作品内の約束事を丁寧に守りつつ、ぎりぎりのリアリティーを保ちながら、人が幻獣と化す「キマイラ化現象」を軸に、仏教や仙道、中国拳法、西洋神秘思想などがちりばめられて、壮大な物語を織り成していく。
物語の始まりは発表媒体に相応しく「学園伝奇ロマン」の体裁を持っていたが、主人公の二人の少年の身体に生じた「キマイラ化現象」の謎はすぐにそんな小さな枠を食い破り、物語は遥か中国、チベットへと拡大していく。現代においてなお「西域幻想」を保っている遥かな中央アジアの地で、戦前の「大谷探検隊」の馳せた夢が、異形の美しい悪夢として読み替えられる。
第6巻には物語の核心に触れると思われる「外法曼陀羅図」が登場する。チベット密教の凄まじい忿怒の仏画を更に凌駕する図像の描写は、おそらくこの作品の中盤のクライマックスと言える部分になるだろう。
読み返していると、最初に読んだ高校生の頃の心情が甦ってくる。あの頃、「外法曼陀羅図」の描写に強烈に惹かれたことが、私の中の「仏の絵を描く動機」の一部に、確かにつながっていると感じるのだ。
この作品、ようやく完結にむけて材料が出揃ってきた感もあるのだが、おそらくまだ、最短でも10年ほどはかかるのではないかと感じる。
作者自身が「生涯小説」と表現するだけに、今後も読み手と書き手の要求するクオリティは巻を追うごとに増大していくことだろう。
私の個人的な感触で言えば「七合目」までは行っているのではないかと思うのだが、こればかりはおそらく作者自身にも「書いてみなければわからない」ということになるだろう。
「○×年に〜〜が起る!」といった類の予言がたいてい外れるように、たとえ作者本人が「あと○○巻で終る!」と表明しても、そんな告知はたいがい外れてしまう。
生きた物語とはそうしたものだ。
物語の完結とは別の関心として、「外法曼陀羅」のことがある。
私がその絵を描くために必要な描写は、既刊分で一応出揃ってきているようでもあるのだ。
そろそろなのか……
2016年04月08日
2016年04月09日
嘘から真へ迫る力業
夢枕獏の作品には、代表作の「キマイラ・シリーズ」をはじめ、仏教をモチーフにしたものが多数ある。
中にはお釈迦様本人を主人公にした作品すらある。
●「涅槃の王1〜4」夢枕獏(祥伝社文庫)
およそ2500年前の印度を舞台に、まだ仏陀として悟りを開く前の沙門シッダールタが、それぞれに異能を持つ一行とともにこの世ならぬ異世界を旅する物語。「不死」というテーマをインド神話の切り口から扱った異世界ファンタジー。
物語終盤には仏陀として覚醒するイベントも用意されている。
登場人物にお釈迦様が出てくるものの、既存のいかなる仏伝とも違う内容。
沙門シッダールタの悟りは菩提樹下の瞑想中ではなく、異世界での命を懸けた冒険の最中にもたらされる。
完全なるフィクションであることが前提の釈迦伝異聞で、こうして歴史的事実からはっきりと切り離すことによって描き出せる「物語の中の真実」というものがあり、この小説にはそうした「夢の中のまこと」「虚構の中のリアル」が確かに存在している。
中でも若き沙門シッダールタの性格設定は、非常に納得できる。
作中のシッダールタは、何よりも知的好奇心の人であり、身分制度や時代とともに変わる善悪などを超えた、不変の真理「天の法」を求める青年として描かれている。
美貌で才能に溢れているが、自分のそうした天分にも拘らず、淡々と法を求めている。
どのような身分の者とも、どのような善人悪人とも、変わることなく対等な「友」として語ることができる。
誰もがそんなシッダールタと語り合ううちに「真理」や「天の法」に関心を持ち、ふと今の自分の持つ全てを投げ捨てて、彼と同じ沙門になってしまおうかと、そんな気分にさせてしまう。
一瞬後にはすぐ我に返り、そんなことが出来るわけがないと思い直すのだが、自分にはなれない「沙門」であるシッダールタのことが好きになってくる。
いまだ「覚者」ではなく、真理について確信を持って語れる「偉大な師」にはなっていないのだが、できればこの沙門の行く末を見届けたいと願うようになる。
シッダールタ本人は自分の人格の中の欠落、本質的な「感情の冷たさ」に気付いており、だからこそ真理を悟って「世界に対してもう少し優しくなりたい」と願っている。
読んでいると、若き日のまだ悟りに至る前のお釈迦様は、まさにこうした青年だったのではないかと思えてくる。
おそらく作者の執筆動機の中に、このような沙門・シッダールタとともに冒険の旅がしてみたいという願いがあったのではないかと感じる。
様々な野望渦巻く三国志ばりの大河ストーリーは、それだけでもボリュームとスケールがあり、シッダールタが登場しなくても十分作品として成立しうる。
端役に至るまで丁寧に、最後の一滴まで絞り出すように描き込まれた登場人物の絡み合いは、凄まじく濃密だ。
アクス王の息子たち、アゴンとウルカーンのかみ合わせはもっと見てみたかった気がするが、そのタイミングの手前で二人が本格的に対峙する動機が解消されてしまったので、これは仕方がない。
完結までに十五年の歳月をかけ、ファンタジーという切り口ながら、仏陀の覚醒を描ききった、作者渾身の大長編である。
中にはお釈迦様本人を主人公にした作品すらある。
●「涅槃の王1〜4」夢枕獏(祥伝社文庫)
およそ2500年前の印度を舞台に、まだ仏陀として悟りを開く前の沙門シッダールタが、それぞれに異能を持つ一行とともにこの世ならぬ異世界を旅する物語。「不死」というテーマをインド神話の切り口から扱った異世界ファンタジー。
物語終盤には仏陀として覚醒するイベントも用意されている。
登場人物にお釈迦様が出てくるものの、既存のいかなる仏伝とも違う内容。
沙門シッダールタの悟りは菩提樹下の瞑想中ではなく、異世界での命を懸けた冒険の最中にもたらされる。
完全なるフィクションであることが前提の釈迦伝異聞で、こうして歴史的事実からはっきりと切り離すことによって描き出せる「物語の中の真実」というものがあり、この小説にはそうした「夢の中のまこと」「虚構の中のリアル」が確かに存在している。
中でも若き沙門シッダールタの性格設定は、非常に納得できる。
作中のシッダールタは、何よりも知的好奇心の人であり、身分制度や時代とともに変わる善悪などを超えた、不変の真理「天の法」を求める青年として描かれている。
美貌で才能に溢れているが、自分のそうした天分にも拘らず、淡々と法を求めている。
どのような身分の者とも、どのような善人悪人とも、変わることなく対等な「友」として語ることができる。
誰もがそんなシッダールタと語り合ううちに「真理」や「天の法」に関心を持ち、ふと今の自分の持つ全てを投げ捨てて、彼と同じ沙門になってしまおうかと、そんな気分にさせてしまう。
一瞬後にはすぐ我に返り、そんなことが出来るわけがないと思い直すのだが、自分にはなれない「沙門」であるシッダールタのことが好きになってくる。
いまだ「覚者」ではなく、真理について確信を持って語れる「偉大な師」にはなっていないのだが、できればこの沙門の行く末を見届けたいと願うようになる。
シッダールタ本人は自分の人格の中の欠落、本質的な「感情の冷たさ」に気付いており、だからこそ真理を悟って「世界に対してもう少し優しくなりたい」と願っている。
読んでいると、若き日のまだ悟りに至る前のお釈迦様は、まさにこうした青年だったのではないかと思えてくる。
おそらく作者の執筆動機の中に、このような沙門・シッダールタとともに冒険の旅がしてみたいという願いがあったのではないかと感じる。
様々な野望渦巻く三国志ばりの大河ストーリーは、それだけでもボリュームとスケールがあり、シッダールタが登場しなくても十分作品として成立しうる。
端役に至るまで丁寧に、最後の一滴まで絞り出すように描き込まれた登場人物の絡み合いは、凄まじく濃密だ。
アクス王の息子たち、アゴンとウルカーンのかみ合わせはもっと見てみたかった気がするが、そのタイミングの手前で二人が本格的に対峙する動機が解消されてしまったので、これは仕方がない。
完結までに十五年の歳月をかけ、ファンタジーという切り口ながら、仏陀の覚醒を描ききった、作者渾身の大長編である。
2016年04月10日
その人に会うための物語
引き続き夢枕獏の作品の中から仏教をモチーフにしたものを紹介。
●「上弦の月を喰べる獅子 上・下」夢枕獏 (ハヤカワ文庫)
先に紹介した「キマイラ」「涅槃の王」は、著者が通常分類される「伝奇SF」のジャンルによく当てはまる作品だったが、夢枕獏の守備範囲は実際にはかなり幅広く、他にも様々な作風がある。
この「上弦の月を喰べる獅子」を名付けるとしたら「仏教SF」になるだろう。「須弥山」を中心とした仏教の世界観を背景に、宇宙の在り方を描いた長編だ。
著者自身を投影したと思われる「螺旋蒐集家」と、著者が敬愛する宮沢賢治を主人公とする特殊な構成で、作品のあらゆる要素が二重螺旋の構造をもって物語の推力となっている。
螺旋蒐集家と、宮沢賢治
物語本文と、各所に配置された架空の「螺旋教典」
夢枕獏の文体と、宮沢賢治の文体
現実世界と、異次元の須弥山
現在と、過去
離れた距離、離れた時間にあった様々な要素が、物語の進行・回転とともに徐々により合わされ、ぎりぎりと巻き込まれたいくつもの時空が、約2500年前の釈迦降誕の一点に収束する。
作中で「螺旋蒐集家」は宮沢賢治と一体化し、異次元の須弥山を登る旅に出ることになるのだが、これは著者にとって相当な覚悟が必要だったのではないかと思う。
著者がどれほどの想いを「一人の修羅」である岩手の孤独な詩人に持っていたかは、作品を読めば一目瞭然だ。物語各所にあらわれる賢治の経歴の詳細な描写や、まるで賢治本人が語っているかのような文体は、賢治を愛して読み込み、考え続けた年月の厚みを感じさせずにはおかない。
強い思い入れの対象を自分と一体化して描くというのは、普通はなかなか出来ない。
思い入れの強さはそのまま自分に対する批評眼の厳しさとなり、おいそれとは手を下せなくなる。
しかもその対象は、多数のコアな読み手を抱えていることが明らかな「宮沢賢治」である。
「夢枕獏」という看板を背負いながらそれをやるということは、下手をすればそれまで築いてきた何もかもを、自らの手で地に堕とす事にもなりかねない。
半端な覚悟でそれを書くことは、夢枕獏の読者も、宮沢賢治の読者も、そして誰よりも著者である夢枕獏自身が、許すことはできなかっただろう。
敢えてそうした危うい領域に踏み込み、十年という歳月をかけてその重圧をくぐり抜け、この作品は完成された。
夢枕獏はその長く厳しい執筆の果てに、どのような世界にたどりつけたのだろうか。
物語の中に、その心情が垣間見えるシーンがある。
死の数日前の夜、小康状態を得た宮沢賢治が、床を出て地元の祭に足を運ぶ。
その祭の喧騒の中、長い旅を続けてきた一人の男が賢治に声をかける。
控えめに交わされる、いくつかの言葉。
言葉の数は少ないが、溢れ出る感情が結晶し、一言一言が余韻を残しながら響き合う。
ほんのしばらくの交錯の後、二人はまた別の道を行く。
そして物語は静かに終幕していく。
賢治との邂逅シーンは、作者自身が長い執筆の果てに自分に許した、贈り物だったのではないかと感じる。
●「上弦の月を喰べる獅子 上・下」夢枕獏 (ハヤカワ文庫)
先に紹介した「キマイラ」「涅槃の王」は、著者が通常分類される「伝奇SF」のジャンルによく当てはまる作品だったが、夢枕獏の守備範囲は実際にはかなり幅広く、他にも様々な作風がある。
この「上弦の月を喰べる獅子」を名付けるとしたら「仏教SF」になるだろう。「須弥山」を中心とした仏教の世界観を背景に、宇宙の在り方を描いた長編だ。
著者自身を投影したと思われる「螺旋蒐集家」と、著者が敬愛する宮沢賢治を主人公とする特殊な構成で、作品のあらゆる要素が二重螺旋の構造をもって物語の推力となっている。
螺旋蒐集家と、宮沢賢治
物語本文と、各所に配置された架空の「螺旋教典」
夢枕獏の文体と、宮沢賢治の文体
現実世界と、異次元の須弥山
現在と、過去
離れた距離、離れた時間にあった様々な要素が、物語の進行・回転とともに徐々により合わされ、ぎりぎりと巻き込まれたいくつもの時空が、約2500年前の釈迦降誕の一点に収束する。
作中で「螺旋蒐集家」は宮沢賢治と一体化し、異次元の須弥山を登る旅に出ることになるのだが、これは著者にとって相当な覚悟が必要だったのではないかと思う。
著者がどれほどの想いを「一人の修羅」である岩手の孤独な詩人に持っていたかは、作品を読めば一目瞭然だ。物語各所にあらわれる賢治の経歴の詳細な描写や、まるで賢治本人が語っているかのような文体は、賢治を愛して読み込み、考え続けた年月の厚みを感じさせずにはおかない。
強い思い入れの対象を自分と一体化して描くというのは、普通はなかなか出来ない。
思い入れの強さはそのまま自分に対する批評眼の厳しさとなり、おいそれとは手を下せなくなる。
しかもその対象は、多数のコアな読み手を抱えていることが明らかな「宮沢賢治」である。
「夢枕獏」という看板を背負いながらそれをやるということは、下手をすればそれまで築いてきた何もかもを、自らの手で地に堕とす事にもなりかねない。
半端な覚悟でそれを書くことは、夢枕獏の読者も、宮沢賢治の読者も、そして誰よりも著者である夢枕獏自身が、許すことはできなかっただろう。
敢えてそうした危うい領域に踏み込み、十年という歳月をかけてその重圧をくぐり抜け、この作品は完成された。
夢枕獏はその長く厳しい執筆の果てに、どのような世界にたどりつけたのだろうか。
物語の中に、その心情が垣間見えるシーンがある。
死の数日前の夜、小康状態を得た宮沢賢治が、床を出て地元の祭に足を運ぶ。
その祭の喧騒の中、長い旅を続けてきた一人の男が賢治に声をかける。
控えめに交わされる、いくつかの言葉。
言葉の数は少ないが、溢れ出る感情が結晶し、一言一言が余韻を残しながら響き合う。
ほんのしばらくの交錯の後、二人はまた別の道を行く。
そして物語は静かに終幕していく。
賢治との邂逅シーンは、作者自身が長い執筆の果てに自分に許した、贈り物だったのではないかと感じる。
2016年04月11日
西域幻想は今も
ここまでで紹介した夢枕獏の三作品「キマイラ・シリーズ」、「涅槃の王」、「上弦の月を喰べる獅子」は、以前は内容的に相互にリンクしている可能性もあると考えていた。
本文中やあとがき等でそのように記述されているわけではないが、仏教の世界観やインド神話、仏陀の悟りを扱った作品という点で共通している。
「キマイラ」と「涅槃の王」は、人が獣に変わる設定、不死の法に関する設定で共通点がうかがわれるし、「涅槃の王」と「上弦〜」は人名で共通するものがあり、舞台設定に須弥山が大きく関係している。
昨年刊行された「キマイラ」の最新巻「明王変」に、まだ悟りに至る前の沙門シッダールタが登場した。
この描写によると、「涅槃の王」との直接的なリンクは無くなったようだが、沙門シッダールタの人物像は、「涅槃の王」に登場したシッダールタと共通して見える。
作者自身が「キマイラ」と同じ世界、同時進行であると明記しているものには、「闇狩り師シリーズ」がある。
作品世界が繋がっているかどうかはさておいても、この三作品には「西域」への憧憬が色濃く描かれている。「西域」という言葉はあまり厳密に定義された言葉ではないが、中国中西部からモンゴル、チベット周辺を含む、中央アジアの辺りと考えれば、大きくは外れないだろう。
玄奘三蔵が長安から天竺へ向けて旅した、その道のりがぐるりと囲む範囲と表現すれば、大雑把にイメージしやすいだろうか。
約2500年前にインドで発祥した仏教は千数百年の時間をかけて進化したが、結局本国のインドには定着しなかった。仏教経典の最終進化段階の後期密教は、巨大な山脈と果てしない平原に囲まれた「西域」にだけ保存される事になった。
日本でも近代になって、そこに残された精神文化の遺産に憧れる人々が出てきた。
東北の農村でいくつもの「西域幻想」を描いた宮沢賢治。
巨大な財力を注ぎ込んで西域に探検隊を派遣し、自らも乗り込んで文化遺産の蒐集を行った浄土真宗の大谷光瑞。
満州から大陸に入り、中央アジアを横断してエルサレムを目指そうと試み、旅の途上で挫折した出口王仁三郎。
日本人としてはじめて単身チベットに入り、多くの文物を日本に持ち帰った河口慧海。
そして、21世紀になった現在でも西域には「あそこにはまだまだ何かがある」と思わせるだけの幻想が残っており、政治的・軍事的にもますます難しい状況になるにつれ、貴重な仏教の遺産が今現在進行形で急速に失われていっているのではないかという喪失感とともに、その幻想は強化されていく。
私はチベットの寺院の壁画で、できることなら一度実見してみたい曼荼羅があるのだが、彼の地までの距離(地理的な距離だけでなく)はあまりに遠く、それは淡い夢でしかない。
夢枕獏はそうした「西域」の地に自ら足を運んでいる。作品制作のための取材が主目的なのであろうが、それ以上に「西域」を自分の目で見、足で踏み、なるべく個人の力で体感してみたいという、やむにやまれぬ衝動が先にあったのだろう。
現実ではない虚構の物語を、何万枚にも及ぶ紙に文字の羅列で描き出していくという行為には、そうしたある意味不条理な衝動がなければ出来ることではない。
自分の中のやむにやまれぬ衝動と、生業を自然な形で結合させているところが、夢枕獏の人間力なのだろう。
●「西蔵回廊―カイラス巡礼」夢枕獏(知恵の森文庫)
●「聖玻璃の山―「般若心経」を旅する」夢枕獏(小学館文庫)
この半年ほど、また「キマイラ」を再読していた。
高校生の頃読み始めて以来、数年に一度、何度目かの再読だ。
その間の人生で私は様々な神仏に関する文書を渉猟し、旧跡を巡ってきたのだが、体験を通過してから「キマイラ」を読み返すたび、作中の表現の素材に思い当たるものが見つかった。
とくにチベット密教に関する部分でいくつもの再発見があった。
一般にも入手しやすいチベット密教関連書籍が増えてきたのは、90年代辺りからだったと記憶している。
とくに2000年以降は、安価で質の良いチベット密教入門書や、現代チベットの情勢を伝える書籍が途切れることなく発行されている。
アジア雑貨ではチベット・タンカが人気だ。
こうした状況が招来された要因の一つに、夢枕獏の作品は数えられるだろう。
何年か前、大阪にある「みんぱく」(国立民族学博物館)で、企画展「チベット ポン教の神がみ」が開催された。
ポン教はチベットの民族宗教が仏教の影響を受けて独自に発展を遂げた宗教で、日本では発行された資料も少なく、なかなか触れる機会がなかった。
展示は期待以上の規模で、多数の美麗な曼荼羅と至近距離で対面することが出来た。
おそらく、この規模でポン教が紹介されるチャンスは、今後もほとんど無いだろう。
ポン教の歴史や教理の解説も豊富なカラー図版が1600円で販売されているのにも感激した。
チベット学僧と我等が夢枕獏による対談もセットされていたが、残念ながらそちらには行けなかった。
展示を見学した興奮冷めやらぬ中、ミュージアムショップに飾られたポン教タンカのうちの一枚に、ふと引き止められた。
結跏趺坐した人体のチャクラにそれぞれ曼荼羅が描かれ、人体の周囲を神々と文字が埋め尽くす特殊な図像で、会場に展示されずにショップの棚の方に並んでいるのが不思議な、素晴らしい一枚だった。
肉筆作品で価格も表示されておらず、ただ「貴重な図像である」旨をポップに記述されていたのみなので、貧乏な私に手出しできるものではなかった。
なぜ気になったのかと言えば、キマイラに描写された「外法絵」と、少し似ていると思える部分があったのだ。
あのチャクラ図、対談のために会場を訪れた夢枕獏が、見逃したはずはないと思っている。
どんな感想を持ったのだろうか?
本文中やあとがき等でそのように記述されているわけではないが、仏教の世界観やインド神話、仏陀の悟りを扱った作品という点で共通している。
「キマイラ」と「涅槃の王」は、人が獣に変わる設定、不死の法に関する設定で共通点がうかがわれるし、「涅槃の王」と「上弦〜」は人名で共通するものがあり、舞台設定に須弥山が大きく関係している。
昨年刊行された「キマイラ」の最新巻「明王変」に、まだ悟りに至る前の沙門シッダールタが登場した。
この描写によると、「涅槃の王」との直接的なリンクは無くなったようだが、沙門シッダールタの人物像は、「涅槃の王」に登場したシッダールタと共通して見える。
作者自身が「キマイラ」と同じ世界、同時進行であると明記しているものには、「闇狩り師シリーズ」がある。
作品世界が繋がっているかどうかはさておいても、この三作品には「西域」への憧憬が色濃く描かれている。「西域」という言葉はあまり厳密に定義された言葉ではないが、中国中西部からモンゴル、チベット周辺を含む、中央アジアの辺りと考えれば、大きくは外れないだろう。
玄奘三蔵が長安から天竺へ向けて旅した、その道のりがぐるりと囲む範囲と表現すれば、大雑把にイメージしやすいだろうか。
約2500年前にインドで発祥した仏教は千数百年の時間をかけて進化したが、結局本国のインドには定着しなかった。仏教経典の最終進化段階の後期密教は、巨大な山脈と果てしない平原に囲まれた「西域」にだけ保存される事になった。
日本でも近代になって、そこに残された精神文化の遺産に憧れる人々が出てきた。
東北の農村でいくつもの「西域幻想」を描いた宮沢賢治。
巨大な財力を注ぎ込んで西域に探検隊を派遣し、自らも乗り込んで文化遺産の蒐集を行った浄土真宗の大谷光瑞。
満州から大陸に入り、中央アジアを横断してエルサレムを目指そうと試み、旅の途上で挫折した出口王仁三郎。
日本人としてはじめて単身チベットに入り、多くの文物を日本に持ち帰った河口慧海。
そして、21世紀になった現在でも西域には「あそこにはまだまだ何かがある」と思わせるだけの幻想が残っており、政治的・軍事的にもますます難しい状況になるにつれ、貴重な仏教の遺産が今現在進行形で急速に失われていっているのではないかという喪失感とともに、その幻想は強化されていく。
私はチベットの寺院の壁画で、できることなら一度実見してみたい曼荼羅があるのだが、彼の地までの距離(地理的な距離だけでなく)はあまりに遠く、それは淡い夢でしかない。
夢枕獏はそうした「西域」の地に自ら足を運んでいる。作品制作のための取材が主目的なのであろうが、それ以上に「西域」を自分の目で見、足で踏み、なるべく個人の力で体感してみたいという、やむにやまれぬ衝動が先にあったのだろう。
現実ではない虚構の物語を、何万枚にも及ぶ紙に文字の羅列で描き出していくという行為には、そうしたある意味不条理な衝動がなければ出来ることではない。
自分の中のやむにやまれぬ衝動と、生業を自然な形で結合させているところが、夢枕獏の人間力なのだろう。
●「西蔵回廊―カイラス巡礼」夢枕獏(知恵の森文庫)
●「聖玻璃の山―「般若心経」を旅する」夢枕獏(小学館文庫)
この半年ほど、また「キマイラ」を再読していた。
高校生の頃読み始めて以来、数年に一度、何度目かの再読だ。
その間の人生で私は様々な神仏に関する文書を渉猟し、旧跡を巡ってきたのだが、体験を通過してから「キマイラ」を読み返すたび、作中の表現の素材に思い当たるものが見つかった。
とくにチベット密教に関する部分でいくつもの再発見があった。
一般にも入手しやすいチベット密教関連書籍が増えてきたのは、90年代辺りからだったと記憶している。
とくに2000年以降は、安価で質の良いチベット密教入門書や、現代チベットの情勢を伝える書籍が途切れることなく発行されている。
アジア雑貨ではチベット・タンカが人気だ。
こうした状況が招来された要因の一つに、夢枕獏の作品は数えられるだろう。
何年か前、大阪にある「みんぱく」(国立民族学博物館)で、企画展「チベット ポン教の神がみ」が開催された。
ポン教はチベットの民族宗教が仏教の影響を受けて独自に発展を遂げた宗教で、日本では発行された資料も少なく、なかなか触れる機会がなかった。
展示は期待以上の規模で、多数の美麗な曼荼羅と至近距離で対面することが出来た。
おそらく、この規模でポン教が紹介されるチャンスは、今後もほとんど無いだろう。
ポン教の歴史や教理の解説も豊富なカラー図版が1600円で販売されているのにも感激した。
チベット学僧と我等が夢枕獏による対談もセットされていたが、残念ながらそちらには行けなかった。
展示を見学した興奮冷めやらぬ中、ミュージアムショップに飾られたポン教タンカのうちの一枚に、ふと引き止められた。
結跏趺坐した人体のチャクラにそれぞれ曼荼羅が描かれ、人体の周囲を神々と文字が埋め尽くす特殊な図像で、会場に展示されずにショップの棚の方に並んでいるのが不思議な、素晴らしい一枚だった。
肉筆作品で価格も表示されておらず、ただ「貴重な図像である」旨をポップに記述されていたのみなので、貧乏な私に手出しできるものではなかった。
なぜ気になったのかと言えば、キマイラに描写された「外法絵」と、少し似ていると思える部分があったのだ。
あのチャクラ図、対談のために会場を訪れた夢枕獏が、見逃したはずはないと思っている。
どんな感想を持ったのだろうか?
2016年04月12日
それぞれの「現役」
私が夢枕獏の作品を読み続けていることには、動機がある。
今までにも何度か記事に書いてきたが、「キマイラ」作中に登場する架空のマンダラ「外法曼陀羅」を、いつか自分なりに描ききってみたいという願望を抱いているのだ。
このカテゴリ夢枕獏を設けたのも、実を申さば「それ」を描くための情報整理を目的としている。
件のマンダラの、詳しい描写の初出は以下の巻になる。
物語の作中時間にして、約二十年前、チベット密教寺院の隠し部屋においての目撃談として語られている。
●「キマイラ6 胎蔵変/金剛変」夢枕獏(ソノラマノベルス)
語っているのは「吐月」という登場人物。
自ら「沙門」と名乗り、正式な仏教僧にはならずに、釈迦と同じように独力で仏陀となることを、本気で志した人物として描かれている。
はっきりとした年齢は記述されていないが、おそらく作中で五十歳前後。今でも悟りを求めて山岳修行を続けている。
物語は「人が獣に変ずる」という主題にそって展開されていくのだが、その核心部分に接近した経験を持つことから、主人公周辺の人物がその体験談を聴きに、大峰山系で修行を続ける吐月に会いに行く。
山中、夜の焚火を囲んで、人が悟るということや、獣に変ずるということについて、静かに語り合われるシーンは印象的だ。
私も以前は、毎年夏から秋にかけて、一週間ほど時間を作って熊野の山々をほっつき歩いていた。
山中や川原で夜を過ごすとき、やはり火を焚いた。
夕刻、人気のない山奥で徐々に暗くなってくるのは、けっこう怖い。
完全に暗くなってしまえばかえって平気になるのだが、夕刻の心細さはまた格別だ。
まだ明るいうちに焚き木と枯れ草を集めておいて、日が落ちてしまう前に焚火をはじめる。
お粥を炊いたり、食べ物を温めたりして食事をとり、あとは眠くなるまでただ火を見つめる。
とりとめもなく、色々ものを考える……
キマイラ作者の夢枕獏は、自身も手練れの登山家で、専門家と言ってもよい。
作中にはよく登山シーンが描かれるし、登山そのものを主題にした作品もある。
だからこの「キマイラ」の、山中の焚火シーンも物凄く雰囲気が出ていて、私も自分の山での経験が蘇ってくる。
ここ数年、まとまった日程で山に行けていないので、読んでいるとなんだかムズムズしてきてしまう。
焚火を囲んだ会話の中で、吐月がふと本音を漏らす。
「何年もなにも、おれは仏になれぬよ。覚ったとすれば、そのくらいのところのようだな」
それに対する昔馴染みの言葉。
「おいおい、何を言うか。我らの中では、ぬしだけが、まだ、現役なのだ。夢を壊さんでくれ」
読んでいて思わず「現役って何!」と呟く(笑)
前後の文脈からすれば、かつて「彼ら」は本気で「悟り」に近づこうとした経験があったということだろうか。または、仏教の言う「悟り」に限らず、それぞれの志す道において、描いた理想に到達することを目指したということか。
同年代の他の仲間はそこからはリタイアし、吐月だけがまだ「おりて」いなかったと言うほどのニュアンスと受け取れる。
野球のようなスポーツならば、「現役引退」というのは具体的に理解できるが、何事かの「道」を求めることにおいて、現役であるかどうかというのは、どういう感覚なのだろうか?
わかるような気もするが、考え始めるとわからなくなってくる。
例えば、自分は?
またいつか、山に入る日が来たら、焚き火を眺めながら考えてみたい。
今までにも何度か記事に書いてきたが、「キマイラ」作中に登場する架空のマンダラ「外法曼陀羅」を、いつか自分なりに描ききってみたいという願望を抱いているのだ。
このカテゴリ夢枕獏を設けたのも、実を申さば「それ」を描くための情報整理を目的としている。
件のマンダラの、詳しい描写の初出は以下の巻になる。
物語の作中時間にして、約二十年前、チベット密教寺院の隠し部屋においての目撃談として語られている。
●「キマイラ6 胎蔵変/金剛変」夢枕獏(ソノラマノベルス)
語っているのは「吐月」という登場人物。
自ら「沙門」と名乗り、正式な仏教僧にはならずに、釈迦と同じように独力で仏陀となることを、本気で志した人物として描かれている。
はっきりとした年齢は記述されていないが、おそらく作中で五十歳前後。今でも悟りを求めて山岳修行を続けている。
物語は「人が獣に変ずる」という主題にそって展開されていくのだが、その核心部分に接近した経験を持つことから、主人公周辺の人物がその体験談を聴きに、大峰山系で修行を続ける吐月に会いに行く。
山中、夜の焚火を囲んで、人が悟るということや、獣に変ずるということについて、静かに語り合われるシーンは印象的だ。
私も以前は、毎年夏から秋にかけて、一週間ほど時間を作って熊野の山々をほっつき歩いていた。
山中や川原で夜を過ごすとき、やはり火を焚いた。
夕刻、人気のない山奥で徐々に暗くなってくるのは、けっこう怖い。
完全に暗くなってしまえばかえって平気になるのだが、夕刻の心細さはまた格別だ。
まだ明るいうちに焚き木と枯れ草を集めておいて、日が落ちてしまう前に焚火をはじめる。
お粥を炊いたり、食べ物を温めたりして食事をとり、あとは眠くなるまでただ火を見つめる。
とりとめもなく、色々ものを考える……
キマイラ作者の夢枕獏は、自身も手練れの登山家で、専門家と言ってもよい。
作中にはよく登山シーンが描かれるし、登山そのものを主題にした作品もある。
だからこの「キマイラ」の、山中の焚火シーンも物凄く雰囲気が出ていて、私も自分の山での経験が蘇ってくる。
ここ数年、まとまった日程で山に行けていないので、読んでいるとなんだかムズムズしてきてしまう。
焚火を囲んだ会話の中で、吐月がふと本音を漏らす。
「何年もなにも、おれは仏になれぬよ。覚ったとすれば、そのくらいのところのようだな」
それに対する昔馴染みの言葉。
「おいおい、何を言うか。我らの中では、ぬしだけが、まだ、現役なのだ。夢を壊さんでくれ」
読んでいて思わず「現役って何!」と呟く(笑)
前後の文脈からすれば、かつて「彼ら」は本気で「悟り」に近づこうとした経験があったということだろうか。または、仏教の言う「悟り」に限らず、それぞれの志す道において、描いた理想に到達することを目指したということか。
同年代の他の仲間はそこからはリタイアし、吐月だけがまだ「おりて」いなかったと言うほどのニュアンスと受け取れる。
野球のようなスポーツならば、「現役引退」というのは具体的に理解できるが、何事かの「道」を求めることにおいて、現役であるかどうかというのは、どういう感覚なのだろうか?
わかるような気もするが、考え始めるとわからなくなってくる。
例えば、自分は?
またいつか、山に入る日が来たら、焚き火を眺めながら考えてみたい。