2016年12月17日

キマイラ「外法曼陀羅」を描く

 この一年、時間を見つけてはある絵を描き続けてきた。
 当ブログでも何度か記事にして生きた、一種のマンダラ図である。
 マンダラといっても実在の密教図像ではなく、夢枕獏「キマイラ・シリーズ」に登場する「外法曼陀羅」とか「外法絵」と呼ばれる架空のマンダラ絵図で、「人が獣になるための外法」が図示されているとされている。
 その絵図はとあるチベットの密教寺院の隠し部屋に存在し、描いたのはその「外法」を自身で試みた天才絵師であり、他に何枚かその写しが存在するらしいことが、これまでの物語の中で判明していた。
 その架空の曼陀羅に関する描写が、キマイラという物語の前半のクライマックスになっており、年若い頃の私は、はじめて読んだその凄まじい描写に衝撃を受け、「いつの日かこの曼陀羅を自分で描いてみたい」と夢想したものだ。
 それからはるかに時は流れ、私も「若気の至り」という言葉を正しく理解できる年齢になった(笑)
 インド、日本、チベット等の密教図像や、その教義について、あの頃より多少は理解できるようになった今となっては、キマイラ作中の「外法曼陀羅」を、文字に書かれた描写そのままに図像で再現することは、ほぼ不可能であることはわかった。
 詳しくは書かないけれども、いくつかの点で「これをチベット密教図像風に描くのは無理」と、判断せざるを得なくなったのだ。
 そもそも、作中の文章表現そのものが、明確な図像を想定したものというよりは、「外法曼陀羅」というモチーフの持つ「力」とか「勢い」を描くことを主目的としていると思われ、実際に「描く」ための解説にはなっていないのだ。
 チベット寺院の隠し部屋にこもり、自らの狂気を吐きだすように曼陀羅を描くということを、そのまま実行することは、今生の私にはもう不可能なことはよく理解している。しかし、まだ「自分なりの表現で外法曼陀羅に挑む」ということ自体は諦めていなかった。
 私はけっこう執念深いのだ(笑)
 密教図像としてではなく、そのイメージを自分なりの「絵画」とか「イラスト」としてなら描けるのではないかと考えたのが、今からもう7〜8年前になるだろうか。
 それから折に触れ、いくつかのスケッチを重ねてきた。
 これまでアップしてきたのは以下のようなもの。

gm01.jpg


mandala03.jpg


 そして今年の初めから、思い切って100号キャンバスにアクリル絵の具で、自分なりの「外法曼荼羅」描き始めてしまった。
 年齢的なものを考えると、こういう「厨二病の極」みたいな作品を描くには、そろそろリミットを迎えつつある。
 これ以上年くってしまうと、技術は向上できても描けなくなるであろうタイプの作品というのが、確実にあるのだ。
 それから約一年、断続的に描き続けたのだが、まだまだ未完成。
 ただ、ネットに上げる小サイズの画像で見る限り、今後ここから大きく印象は変わらないであろうという程度までは進捗した。
 部分的にアップしてみよう。

geho-01.jpg


 100号以上の大きな画面になると、表現の本番はここからだ。
 大きな構図はこれで良しとして、細部に「魂」を込めるための描写が、いよいよ始まることになる。
 やっぱり三年ぐらいはかかるかもしれない(笑)
 私の中に「若気の至り」が残存しているうちに、なんとか……

 このカテゴリ夢枕獏は、実はこのマンダラを描くための資料整理の必要から設けた。
 ぼちぼちお付き合いください。
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 夢枕獏 | 更新情報をチェックする

2016年12月18日

俗悪の極み:夢枕獏「魔獣狩り」のこと

 作家には、その後の作風の萌芽がすべてそろったような初期作がある。
 よく「処女作には全てがある」と言われるが、実際はどれが「全ての詰まった初期作」にあたるかは、作家がそれなりのキャリアを積んでから振り返ってみないと分からないものだ。
 作家が人生で初めて書いた文字通りの処女作がそれにあたる場合もあれば、商業デビュー作である場合もあり、初ヒット作がそれにあたる場合もある。
 夢枕獏のケースでは、この「魔獣狩り三部作」がそれにあたるのではないだろうか。

 この作品の発表当時、夢枕獏は33歳。
 そして執筆開始当時ということであればさらに数年遡るので、デビューは果たしていたが、まだ作家として食っていけるかどうかは不透明な時期だったはずである。
 夢枕獏は、この作品によって既存のSF伝奇小説を一段階進化させた。
 進化の方向は、露悪的に表現するならば「俗悪に徹する」ことだ。
 通俗小説の素材としてウケるもの、暴力もセックスもSFも格闘技も淫祠邪教も全て大盤振る舞いに叩き込み、グツグツと溶鉱炉で煮立て、したたるエキスをインクとしてペンを暴走させた、そんな作品だ。
 いまでこそそうした要素を盛り込んだ作品は珍しくもなんともないのだが、この小説が発表されたのは約30年前、1984年である。
 当時を知る人なら、夢枕獏と菊池秀行が両輪のように「その道」を開拓していく様を、鮮烈に憶えているのではないかと思う。
 パイオニア作品の持つパワーというのは時代を経ても錆びないもので、この「魔獣狩り」もまた、版を重ね、リニューアルを重ねながら読まれ続けている。

 本作は、モチーフの一つである「密教」というものを、極めて通俗的な形で表現したもので、「俗悪に徹する」こうした執筆姿勢は、密教というモチーフを表現するのに、一面ではこれほどふさわしいものはないともいえる。
 密教、とくにインド後期密教は、経典の中でも図像の中でも、それまでの仏教が扱わなかった俗であり悪である要素を、大胆に導入している。
 それは性であり、死であり、呪であり、快楽であり、いずれも人間の欲望に根差した要素である。
 これらは欲望と直結するがゆえにエンターテインメントとは切っても切れぬ要素でもある。
 密教というものの構成要素には、この「エンターテインメント」的な側面が不可分に組み込まれているのではないだろうか。

 俗悪に徹し、面白いということ、ウケるということに特化した上で、なお作家としての良心と純情を捨てずに長い物語を描き切る。
 そうしてことが可能であるということを、夢枕獏はこの作品で自身に対して証明し、プロでやっていくための手ごたえをつかんだのではないかと思う。
 後に「新・魔獣狩りシリーズ」という長い続編も書かれており、それも大変面白いのだが、初期三部作はこれはこれとして、付け足すものは何もないと感じられるほどに完結している。
 そして、この「魔獣狩り三部作」の設定やキャラクターの構成要素は、シャッフルされ、形を変え、よりリアルな形で「キマイラ・シリーズ」にたくさん導入されている。
 だから私が執念深く追及している外法曼陀羅を描くにあたっても、外せない作品なのだ。

 今読むなら、三部作を合本の形に編集した以下のものが手に取りやすいだろう。


●「魔獣狩り」夢枕獏(ノン・ノベル)
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2016年12月19日

それぞれの未踏峰:夢枕獏「神々の山嶺」のこと

 今年映画化された作品。
 映画タイトルに合わせて「エヴェレスト」と改題された文庫本を書店で見かけたという人も多いだろう。
 ジャンルは「山岳小説」である。
 私も本格的な登山というほどではないが、熊野遍路等の機会に多少は山に登る。
 好きな作家であり、興味のあるジャンルなので、いずれ読もうと思って、十年くらい前に文庫本は手に入れていた。
 読めばとんでもなく面白いことは分かっていたが、何せ極厚上下巻、原稿用紙で約千七百枚の作品である。
 どうせなら良いタイミングで作品に没入して一気読みしたいと思うと、中々手を出せないでいた。
 映画化の報があり、グズグズしていると見たくないタイミングでネタバレ情報に接してしまう危険が出たので、今年に入ってからようやく追い立てられるように読んだ。

 この作品は「山岳小説」としては直球ど真ん中、世界最高峰エヴェレスト登頂をテーマにしている。
 それも生身の人間としては最も過酷な「南西壁冬季無酸素単独登頂」という条件を設定している。
 実際に生きた人間の可能性の限界ぎりぎりのルールであり、これより半歩でも踏み越えると小説の「リアル」は崩れてしまう。
 夢枕獏は、こうした「作品内のリアル」を創り出すための条件設定の達人である。
 リアルを志向しないファンタジー作品であっても、「作品内のリアル、整合性」を構築するために、常に細心の注意を払っているように見える。
 どうせ小説なんだからというような妥協は一切ないという信頼感があり、だからこそどの作品も安心して手に取ることができるのだ。

 主人公は、考えうる限り最も高く過酷な登頂を目指す男、羽生丈二である。
 その「世界最高峰の物語」まで、あらゆる読者、とくに普段山に関心を持たない読者までも引っ張り上げるために、序盤から作者の手練は存分に発揮される。
 物語の視点はまず羽生本人ではなく、彼を追う山岳写真家を通して描き起こされる。
 体力的に超人ではない、しかし山の素人でもない「記録者」が、エヴェレスト登頂にまつわる、あるミステリーに巻き込まれることから、物語は始まるのだ。
 導入部分はミステリーであり、アクションである。
 そこに、ある程度の年齢の男性なら誰もが向き合う「志」と「現実」のギャップの物語が重ねられる。
 様々な欲や夢を諦め、あるいは諦めきれない男の苦しみ、切なさが綴られる過程で、満を持して「諦めなかった男」羽生丈二が登場するのだ。
 地上で最も過酷な登山を目指す男というのは、それ自体が登頂困難な「山嶺」だ。
 読者が初めから感情移入するのは難しい人物であり、モチーフである。
 その高みまで広く一般の読者を引きずり上げるため、作品序盤には幾重にも網が張り巡らされている。
 そして一度引きずりあげられた読者は、物語後半にはただただ「最高峰に登る」という、他のすべてを振り捨てたシンプルなモチーフに没入できる至福の読書体験を持つことになる。
 そしてその物語の果てには、読者にはそれぞれが取り組むべき未踏峰があるはずだという問いかけが、余韻となって残されるのである。

 得意とするSF伝奇の要素を排除した、作者渾身の堂々たる「山岳小説」だと思う。
 今年ようやく初めて読んだけれども、今後もまた折に触れ、再読することになるだろう。


●「神々の山嶺 上下」夢枕獏 (集英社文庫)

 同作品が映画化に合わせて改題され、合本になったもの。

●「エヴェレスト 神々の山嶺」夢枕獏(角川文庫)
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2016年12月20日

馴染みの庭先:夢枕獏「陰陽師シリーズ」のこと

 何度も映画やドラマ化、マンガ化された、夢枕獏作品の中でも特に人気の高いシリーズ。
 今昔物語や日本霊異記といった中世説話や、謡曲、講談などに表現される、安倍晴明はじめ陰陽師の世界観を、短編連作の形で現代にリファインしている。
 大方三十年近く前に開始され、現代日本のエンタメにおける陰陽師ジャンルの嚆矢になったシリーズでもある。
 いくつかの長編や絵物語形式を挟みながら、今も淡々と執筆、刊行が続いている。

 基本的な筋立ては先行する説話等に想を得た「再話」が多いのだが、元になった物語から何を読み取り、現代においてどのように語りなおすかというところにこそ、作者のオリジナルは色濃くあらわれる。
 例えば妖怪マンガの大家・水木しげるの作中の妖怪デザインの多くは、先行する図像からの引用であるのだが、ペンによる細密描写と、とぼけたキャラクターの画風がブレンドされることにより、同じ引用元でも他の誰が描いたのとも違う、独自の世界が創出されている。
 それと同様の化学変化が、夢枕獏の「陰陽師シリーズ」にも起こっているのである。

 夢枕獏の描く晴明像、陰陽師像があまりに魅力的であったため、以後の創作物に登場する晴明や陰陽師のイメージはその影響を受け、ほとんど一色に塗りつぶされてしまった感すらある。
 フィクションの世界ではそうした「塗りつぶし」が度々起こるものだし、エンタメとして楽しむ分にはとくに問題はない。
 ただ、ちょっと注意したいのは、基本的に「陰陽師」というのは歴史的存在であるということだ。
 類する占いや祈祷などの呪的行為を行う者は、平安時代当時から数限りなく存在したが、朝廷に正式に仕える「陰陽師」は限られており、その他はまた別の名で呼ばれていた。
 正規の役職の無くなった現在、「陰陽師」は基本的には存在しえない。
 ごく少数、民間に陰陽道的な技能を伝承する地域や家系は現存するかもしれないが、その場合は「陰陽師」という名は使用されないのだ。
 だから、現代において「陰陽師」という呼称とともに安倍姓を名乗ったり、「いかにも」という装束でTV等に登場したり、現代の創作物のイメージ通りに呪術パフォーマンスを行う者には、眉に唾をつけておいた方が良い。

 話を夢枕獏の作品に戻そう。
 主人公である陰陽師・安倍晴明とともに物語に欠かせないのが、武士であり、琵琶や竜笛の名手である源博雅というキャラクターだ。
 晴明自身は謎めいた「孤高の人」なので、純朴にして「普通の人」の視点を持つ博雅との対話形式が物語の基本に置かれている。
 博雅は博雅で非凡な能力を持っているのだが、「陰陽師」や「呪」といった不可思議の領域については、あくまで読者一般が持つであろう素朴な疑問も口にし、リアクションをとってくれる。
 実は平安という時代背景そのものが、現代人にとっては異界そのものであり、その平安の闇を濃縮したような陰陽師という存在を受け入れるためには、わかりやすい聞き手がどうしても必要なのだ。
 何よりも、作者自身が晴明と博雅のやり取りを楽しみながら執筆しているのが感じられる。

 物語はほぼ毎回、晴明と博雅が、晴明の屋敷の濡れ縁でぽつりぽつりと会話するシーンから始まる。
 庭先の四季の移ろいを眺め、酒を酌み交わしながらの会話である。
 その会話の中に、都の噂話があったり、昔語りがあったり、訪問者があったりという一石が投じられ、水面の波紋のごとく物語が広がっていく。
 すぐに消える小さな波紋であることもあるし、思わぬ大きな広がりを見せる波紋もある。
 波紋は放っておいてもいずれ消え、収まるところに収まるのだが、「ほどよいところ」に収めるために別の小石を投じたり、風を吹かせたりする必要が生じる場合もある。
 晴明はそうした波紋の微調整役であり、解説者でもあるのだ。
 博雅は良き聞き手であり、時にはより良き落としどころを作るための触媒の役割を果たすこともある。

 作者も書いている通り、物語はマンネリズムであって、たとえば「サザエさん」の世界のように時間の流れが固定されているようにも見えるのだが、それでも微妙に変化はしている。
 レギュラーと言えるのは毎回登場の晴明と博雅、それに芦屋道満、蝉丸、露子、賀茂保憲あたり。
 そこに歴代の短編登場人物が使い捨てにされることなく再登場したり、近況が語られたりする。
 人間だけでなく、鬼や式神や器物等も、物語の中で等しく大切に年を重ねられている。
 常に登場しているのは晴明と博雅だが、他のキャラクター達もそれぞれに生活を続けていることが、折々に匂わされている。

「そう言えば、晴明と博雅は最近どうしているかな?」
 
 何年かに一度ふと思い出して書店に行くと、何冊か新刊が出ていて、馴染みの庭先で再会できる。
 そんな刊行ペースが、作品世界の雰囲気とよく合っていて、本当に心地良いのである。


●「陰陽師」夢枕獏(文春文庫)
 以下、続刊多数。

【付記】
 陰陽道という世界認識のスタイルについては、当ブログでも様々に語ってきた。
 興味のある人は以下を参照。
 カテゴリ:金烏玉兎
 カテゴリ:節分
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2016年12月21日

夢枕獏は「その覚悟」を決めている

 夢枕獏は、プロレスや格闘技について、かなり踏み込んだ意見を発信し続けてきた作家である。
 作品を描く上でのメインテーマとして「強さ」を選び、追及してきたと言っても過言ではないだろう。
 一口に「強さ」と言っても様々な広がりが考えられるテーマだが、夢枕獏の場合はごく単純に「実際立ち会って一番強いのは誰か」という、ごくシンプルな強さのことである。
 知力、精神力、財力、権力等を含めた強さも視野には入っているけれども、メインテーマは「実際戦った強さ」にこだわり続けている。

 何らかのジャンルについて作家が物を書く場合、そのスタンスは大きく二つに分かれる。
 自分でも体験してみるか、実体験にはこだわらずあくまで観て聴いて調査することに専念するかだ。
 創作において、どちらの姿勢が「上」ということはない。
 実体験は、あるに越したことはないが、必要不可欠というわけでもない。
 体験しなければ書けない文章もあれば、体験にこだわらず調べつくし考えつくすことでしか書けない文章もある。
 実体験に縛られることで、想像の翼が広がらなくなることだってあるのだ。
 夢枕獏の場合、登山についてはかなり専門的な実体験があるが、格闘技に関しては具体的に何らかの流派を学んだということはないはずである。
 基本的には「観るだけ」の立場であるにもかかわらず、夢枕獏は作家としてのキャリアのほとんど全期間、創作やエッセイで「強さ」について語り続けてきた。
 現実のプロレス/格闘技の動向について、フィクションではなく語った作品には、たとえば以下のようなものがある。


●「格闘漂流・猛き風に告げよ―私説UWF伝」
●「群狼の旗」

 ときにレスラーや格闘家の代弁者として「やる方」の人間からも敬意を払われながら、ときには反発され、ギクシャクし、奇妙な「謝罪文」を書いたりしながらも、決して語ることをやめなかった。
 殺人的なスケジュールの合間を縫ってプロレスや格闘技の試合に足を運び、その結果体を壊して入院してしまったことすらあるという。
 格闘技を「観る方」としてはこれ以上ないほど「実体験」として観続けてきたのだ。
 とくに80年代後半から90年代にかけては、夢枕獏の文章と、現実世界の格闘技の動向がある意味「共振」するように進化し、「総合格闘技」とか「最強トーナメント」という夢想が次々に実体化して行った時代であるとも言えるのだ。
 その過剰な思い入れ、費やした時間と金と情熱を盾に(というわけでもないのだろうけれども)、夢枕獏は作品として存分に書き、エッセイの類では傍観者の立場から一歩も二歩も踏み込み続けてきた。

 実際に格闘技を「やる方」からは、「観るだけの人間が好き勝手な想像で語るな」という反発は当然あり得る。
 しかし、いくら実際「やる方」のものの見方や感じ方は尊重されるべきだとは言え、プロとして興業の場に出てきたからには、金を払い、時間を割いて観に来た客に様々に語られることは、覚悟しなければならない。
 公開される試合に出るということは「表現」の場に立つということだ。
 ひとたび表現の場に立った者は、受け手の自由な感想に晒されるのは当然なのだ。
 観た者、とくに身銭を切った者には、その思いのたけを表現する権利がある。
 だから夢枕獏が、格闘技に対して注ぎ込んだ情熱の対価として、思うがままに語り続けることは、それはそれで正しいのだ。

 さらに踏み込めば、夢枕獏は自分の作品について、過剰な思い入れを持つファンの好き勝手な「語り」も、覚悟しているということになるだろう。
 作中描写、とくに戦いの場面の描写でも繰り返し、「他人に何かするときは、自分が同じことをされてもかまわないという覚悟のもとにやるべきだ」という意味のことが書かれている。
 
 だから私も、夢枕獏については「その覚悟」を決めつつ語り、また描くのである。

posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 夢枕獏 | 更新情報をチェックする