他の誰向けでもない、私だけの絵の描き方、考え方。
決して一般化できない、妄想絵画論。
続けてみよう。
絵描きの中には、白いキャンバスを目の前にすると自然にビジョンが見えてきて、自分はそれを写すだけというタイプもいるという。
たとえばマンガ家の永井豪はこのタイプで、幻視した映像を元に描いている作品が多数あるそうだ。
幻視の頻度にもよるだろうけれども、このレベルの「才」になると、日常生活に差し障りが出ることもあるだろう。
幻視に呑みこまれ、生きることが難しくなった絵描きのエピソードは数多い。
「才」の大きさは、「差異」の大きさと同じことなのだ。
絵描きは多かれ少なかれ幻視の才を持つが、私のレベルでは日常生活の中で「何かが視える」ということはほとんどない。
生活にとくに変わったことはないけれども、ごく稀にチラッと「何か」が垣間見えるということはある。
日常生活は地味なものなのだが、夢の中ではかなり「視る」方ではないかと思う。
普段は抑えられている幻視が、夢の方で解放されているのかもしれない。
怪しいイメージの訪れが夢に限定されているおかげで、日常生活はまずまず問題なく送れている。
集中して作品制作している時期には、夢の中で続きを描いてヒントを得るということもあり、そんな時期には、ぼんやりと反応が鈍いことが多い自覚というはある。
それでも仕事で支障が出るほどのことはない。
結局、自分の人生においては、この程度の「差異」がほど良かったのだなと、今は納得している。
普通の生活をそれなりに味わえているし、時間は限られるけれども、絵描きも続けていられるのはありがたいことだ。
大きすぎない、このくらいの才だからこそ、できる表現も確かにあるのだ。

2016年10月02日
2016年10月05日
「先生役」なら演じられる
作品制作だけで食っていける身分ではないので、絵画や工作の指導の仕事を受ける。
絵描きは概して人と接するのが苦手で、習うというよりは自分で感覚的に習得した技術がベースになっているものなので、人に教えるのは得手ではない場合が多い。
それでも多くの画家や彫刻家は、食いつなぎ、制作し続けるために教える方の仕事もこなしている。
図工や美術の先生に、けっこう「ほったらかし」の授業をする人がいるのは、そういう理由による。
私はと言えば、意外と教えるのは嫌いではない。
人と接するのはもちろん得意ではないが、誰でもそこそこ楽しめる教材を考案し、筋道立てた構成の授業を成立させるのにはやりがいを感じる。
あくまで「絵描きの中では」という限定はつくが、わりと論理性はある方だと思っている。
ただ、教える方をやり始めた当初は、苦しんだこともあった。
もともと内向的な人間が、仕事で受けたからには「いい先生」になってやろうと気負って、うまくいかなかったことも多々あった。
ある時期から、ふと気づいた。
「あ、そうか。ほんまに『いい先生』にならんでも、『いい先生役』でええんや!」
本当にいい先生になろうとすると、度量とか器とか、けっこう人格が関わってくる。
絵描きは自己本位なものだし、本音を言えば作品以外に何の関心もない。
表現というものは自分の病んだ部分を安易に癒さず、後生大事に抱え込んで突き回して形にしていくようなところがある。
人格的な完成とは程遠いし、あまり悟ってしまうと絵は描けない。
絵描きは病んでいて、偏っていて、人の話など聞かない。
対して「先生」は、精神的に安定しているのが望ましいし、許容範囲は広い方がいいし、様々な意見に耳を傾ける必要がある。
絵描きと先生は、けっこう両立しがたいものなのだ。
しかし美術教室という空間限定なら、なんとかなる。
自分はそれなりの技術を持っていて、人に説明できる論理性も持っている。
良き講師という役割をこなすことは十分できると気づいたのだ。
これは学生時代に演劇をやっていたからこその感じ方かもしれない。
劇団で見てきた役者さんたちの中には、普段は物静かであまり人とは交流しないという人がけっこういた。
役者は意外と内向的なタイプが多いのだ。
人前に立つのが大好きという人ももちろんいるが、出番を待つ舞台ソデで震えているような人もたくさんいた。
そういう役者さんが一旦舞台に立つと、全く別人格を見事に演じてのける。
それが役作りだ。
自分も教室限定で「いい先生」という役作りをすればいい。
そう気づいてから、肩の力が抜けて、色々うまく回るようになった。
「先生という役作り」が、結果として私の中の絵描きの部分を守ることにもなったのだ。
絵描きは概して人と接するのが苦手で、習うというよりは自分で感覚的に習得した技術がベースになっているものなので、人に教えるのは得手ではない場合が多い。
それでも多くの画家や彫刻家は、食いつなぎ、制作し続けるために教える方の仕事もこなしている。
図工や美術の先生に、けっこう「ほったらかし」の授業をする人がいるのは、そういう理由による。
私はと言えば、意外と教えるのは嫌いではない。
人と接するのはもちろん得意ではないが、誰でもそこそこ楽しめる教材を考案し、筋道立てた構成の授業を成立させるのにはやりがいを感じる。
あくまで「絵描きの中では」という限定はつくが、わりと論理性はある方だと思っている。
ただ、教える方をやり始めた当初は、苦しんだこともあった。
もともと内向的な人間が、仕事で受けたからには「いい先生」になってやろうと気負って、うまくいかなかったことも多々あった。
ある時期から、ふと気づいた。
「あ、そうか。ほんまに『いい先生』にならんでも、『いい先生役』でええんや!」
本当にいい先生になろうとすると、度量とか器とか、けっこう人格が関わってくる。
絵描きは自己本位なものだし、本音を言えば作品以外に何の関心もない。
表現というものは自分の病んだ部分を安易に癒さず、後生大事に抱え込んで突き回して形にしていくようなところがある。
人格的な完成とは程遠いし、あまり悟ってしまうと絵は描けない。
絵描きは病んでいて、偏っていて、人の話など聞かない。
対して「先生」は、精神的に安定しているのが望ましいし、許容範囲は広い方がいいし、様々な意見に耳を傾ける必要がある。
絵描きと先生は、けっこう両立しがたいものなのだ。
しかし美術教室という空間限定なら、なんとかなる。
自分はそれなりの技術を持っていて、人に説明できる論理性も持っている。
良き講師という役割をこなすことは十分できると気づいたのだ。
これは学生時代に演劇をやっていたからこその感じ方かもしれない。
劇団で見てきた役者さんたちの中には、普段は物静かであまり人とは交流しないという人がけっこういた。
役者は意外と内向的なタイプが多いのだ。
人前に立つのが大好きという人ももちろんいるが、出番を待つ舞台ソデで震えているような人もたくさんいた。
そういう役者さんが一旦舞台に立つと、全く別人格を見事に演じてのける。
それが役作りだ。
自分も教室限定で「いい先生」という役作りをすればいい。
そう気づいてから、肩の力が抜けて、色々うまく回るようになった。
「先生という役作り」が、結果として私の中の絵描きの部分を守ることにもなったのだ。
2016年10月07日
教わる前から描いているか?
絵を描いたり物を作ったりすることは、それ自体とても楽しいことだ。
指導に当たっては、なるべくストレス少なくその楽しさを味わってもらうために、技術面や設備面でのサポートをすることになる。
一般向けの講座では、普段あまり絵を描いたりしない人や、物作りがちょっと苦手という人も対象になるので、かなり手取り足取り、至れり尽くせりの指導になることもある。
何よりも、失敗のリスクを避けて作品を完成までこぎつけ、成功体験を持ってもらうことが大前提になるのだ。
eテレの各種講座をイメージすると、「一般向けの指導」の在り方がわかりやすいだろう。
ただし、美術系志望者に指導する場合は、少々事情が違ってくる。
楽しみとして絵を描いたり物を作ったりすることは誰にでもできるけれども、それを稼業にしようと志すなら、ある種の選別は必要になってくる。
美術系志望の進路相談を受ける時、私は目の前で何か描かせてみることが多い。
画材やモデルはなんでもいい。
鉛筆一本、紙一枚あれば良く、それで好きなものを好きなように描いてもらう。
見せてもらう時間は数分あれば十分で、必ずしも絵を完成させてもらう必要はない。
本当を言えば、紙の上に線を数本描いてもらった時点で、もうだいたいのことは分かっているが、念のためにしばらくは時間をかける。
目の前で描かせて生徒の何を見ているかというと、「普段から描いているかどうか」だ。
将来的に美術系の職を得ようとするような人間は、習う前から描いていなければいけないというのが、私の持論だ。
描くのはなんでも構わず、写実デッサンでなくても良い。
マンガやイラストが好きなら、そのような絵を自分で毎日描いているか?
ファッションやインテリアなどのデザインが好きなら、日常的に情報に触れ、自分でも描いているか?
物作りが好きなら、自分でイメージスケッチなどをするのは不可欠になるだろう。
ことさらに習う前から自分で情報収集し、自分でも描いてみる。
そういうことが、毎日、一日中でも続けていられるかどうか?
つまるところ美術系の「適性」とは、そういうことだと考えている。
目の前で何か描いてもらうと、その生徒が何らかのジャンルについて関心を持ち、情報に触れ、自分でも描いているかどうかということは、ほとんど瞬間的に判別できる。
中には「君、そもそも絵をほとんど描いたことがないでしょう?」という生徒が、美術系の進路相談に迷い込むこともある。
話を聞いてみると、「勉強もあまりできないし、何となく絵は好きだから」という答えが返ってきたりする。
「なぜ今まで自分で描かなかったのか」と聞くと、不思議そうに「これから習うために相談に来た」と答える。
そういう受け身な姿勢では、美術を稼業として生きていくのは無理だ。
仮に教わって描けるようになったとしても、それですぐ食っていけるわけではないのだ。
それはスタートラインに過ぎず、身に付けた技術や表現を換金するルートを、それぞれが自分一人で切り開き、試行錯誤しなければならない。
自分が表現できる環境を守るために、制作時間だけは確保できる別の職を持つ表現者だってたくさんいるのだ。
描くことや物を作ること自体が好きで、それなしでは生きていけないのでなければ耐えられない。
甘いことを言っても本人のためにならないので、受け身な姿勢が見えた場合は「美術系志望はあきらめて、普通に勉強しなさい」とアドバイスすることにしている。
そう言われてあきらめるなら、そこまでにしておいた方が無難。
カチンときてがむしゃらに描き始めるなら、それはそれで道は開けるだろう。
身近に美術志望の子弟がいるなら、「習う前から自分で描いているかどうか」という点に注意して話をするのが良いだろう。
なんとなく普通に勉強することから逃避したくて、消極的に美術系志望を口にしているようなら、早めにあきらめさせた方がいい。
自分の関心のあるジャンルについて、習う以前に自分で情報収集し、独自に制作した作品やラクガキノートがたくさん積み上げられている状態なら、そのまま見守ってあげても良いと思う。
そういう子がもし受験のために画塾に通いたいと言うなら、経済的に許されるなら背中を押してあげても良いだろう。
真面目に勉強し、堅実な職についても、いつそれが失われるかわからないのが現代ニッポンである。
覚悟のある子には、思うようにさせた方がいい。
そもそも、そういう子は止めても無駄だ(笑)
指導に当たっては、なるべくストレス少なくその楽しさを味わってもらうために、技術面や設備面でのサポートをすることになる。
一般向けの講座では、普段あまり絵を描いたりしない人や、物作りがちょっと苦手という人も対象になるので、かなり手取り足取り、至れり尽くせりの指導になることもある。
何よりも、失敗のリスクを避けて作品を完成までこぎつけ、成功体験を持ってもらうことが大前提になるのだ。
eテレの各種講座をイメージすると、「一般向けの指導」の在り方がわかりやすいだろう。
ただし、美術系志望者に指導する場合は、少々事情が違ってくる。
楽しみとして絵を描いたり物を作ったりすることは誰にでもできるけれども、それを稼業にしようと志すなら、ある種の選別は必要になってくる。
美術系志望の進路相談を受ける時、私は目の前で何か描かせてみることが多い。
画材やモデルはなんでもいい。
鉛筆一本、紙一枚あれば良く、それで好きなものを好きなように描いてもらう。
見せてもらう時間は数分あれば十分で、必ずしも絵を完成させてもらう必要はない。
本当を言えば、紙の上に線を数本描いてもらった時点で、もうだいたいのことは分かっているが、念のためにしばらくは時間をかける。
目の前で描かせて生徒の何を見ているかというと、「普段から描いているかどうか」だ。
将来的に美術系の職を得ようとするような人間は、習う前から描いていなければいけないというのが、私の持論だ。
描くのはなんでも構わず、写実デッサンでなくても良い。
マンガやイラストが好きなら、そのような絵を自分で毎日描いているか?
ファッションやインテリアなどのデザインが好きなら、日常的に情報に触れ、自分でも描いているか?
物作りが好きなら、自分でイメージスケッチなどをするのは不可欠になるだろう。
ことさらに習う前から自分で情報収集し、自分でも描いてみる。
そういうことが、毎日、一日中でも続けていられるかどうか?
つまるところ美術系の「適性」とは、そういうことだと考えている。
目の前で何か描いてもらうと、その生徒が何らかのジャンルについて関心を持ち、情報に触れ、自分でも描いているかどうかということは、ほとんど瞬間的に判別できる。
中には「君、そもそも絵をほとんど描いたことがないでしょう?」という生徒が、美術系の進路相談に迷い込むこともある。
話を聞いてみると、「勉強もあまりできないし、何となく絵は好きだから」という答えが返ってきたりする。
「なぜ今まで自分で描かなかったのか」と聞くと、不思議そうに「これから習うために相談に来た」と答える。
そういう受け身な姿勢では、美術を稼業として生きていくのは無理だ。
仮に教わって描けるようになったとしても、それですぐ食っていけるわけではないのだ。
それはスタートラインに過ぎず、身に付けた技術や表現を換金するルートを、それぞれが自分一人で切り開き、試行錯誤しなければならない。
自分が表現できる環境を守るために、制作時間だけは確保できる別の職を持つ表現者だってたくさんいるのだ。
描くことや物を作ること自体が好きで、それなしでは生きていけないのでなければ耐えられない。
甘いことを言っても本人のためにならないので、受け身な姿勢が見えた場合は「美術系志望はあきらめて、普通に勉強しなさい」とアドバイスすることにしている。
そう言われてあきらめるなら、そこまでにしておいた方が無難。
カチンときてがむしゃらに描き始めるなら、それはそれで道は開けるだろう。
身近に美術志望の子弟がいるなら、「習う前から自分で描いているかどうか」という点に注意して話をするのが良いだろう。
なんとなく普通に勉強することから逃避したくて、消極的に美術系志望を口にしているようなら、早めにあきらめさせた方がいい。
自分の関心のあるジャンルについて、習う以前に自分で情報収集し、独自に制作した作品やラクガキノートがたくさん積み上げられている状態なら、そのまま見守ってあげても良いと思う。
そういう子がもし受験のために画塾に通いたいと言うなら、経済的に許されるなら背中を押してあげても良いだろう。
真面目に勉強し、堅実な職についても、いつそれが失われるかわからないのが現代ニッポンである。
覚悟のある子には、思うようにさせた方がいい。
そもそも、そういう子は止めても無駄だ(笑)
2016年10月09日
「線」と「面」
絵は線から生まれる。
歴史的に見ても最も古い絵は簡単な線で描かれているし、原始的な絵と分かちがたい象形文字も線によって刻まれている。
個人レベルの発達で考えても、乳幼児の絵は線でのなぐりがきに始まり、線で一定領域を囲むことで絵が生まれる。
以後は輪郭線で様々なものを描き分け、着色する場合は線で囲んだ領域内をそれぞれの色に塗り分ける手法がとられるようになる。
線で囲み、塗り分けるという行為は、人間にとってごく自然な表現だ。
人間が自他を区別したり、個別の物をそれぞれに認識する知覚の在り方とも、密接に関連している。
しかし、「写実表現」に踏み込むなら、話は違ってくる。
専門的に写実を習得する場合、まず最初に学ぶのは「ものに輪郭線はない」ということだ。
輪郭線があるかのように認識される箇所には、実際には絵にかくような「実線」は引かれていない。
あるのは隣接する色や面の「境い目」だけだ。
だから写実絵画の基本である鉛筆や木炭によるデッサンでは、輪郭線で囲むのではなく、立体的な面の明暗の差を、様々な階調のグレーで塗り分けることを叩き込まれる。
一見輪郭線っぽく見える境界線は、立体感を追及する中で明暗の差として徐々に探り当てられていく。
領域を「線」で区切るという感覚は一旦解体され、立体的な「面」の集まりで世界を認識し直すことで「絵描きの眼」を練り上げる訓練を積む。
二次元の画面の中に、あたかも三次元空間があるかのような錯覚を起こさせるのが「写実」だ。
この「線」と「面」という感覚の違いは、単に手法やセンスの違いであって、両者に優劣はない。
ごく大雑把に言うと、漫画やイラスト、デザインの分野では「線」で区切るセンス、絵画や彫刻の分野では「面」で構成するセンスが重みを持つと感じる。
絵の中でも、伝統的な日本画の世界は「線」が強く、洋画の写実表現では「面」が強いと思う。
写実的、立体的な「面」のセンスは、どんなジャンルの絵描きでも、基礎体力として持っているに越したことはない。
しかし、この「線」と「面」というセンスの違いは、絵を描く時の手順を全く変えてしまう。
感覚的には、真逆といっても良いほどの違いがあるのだ。
将来的に「線」のセンスが必要とされるジャンルを志すなら、「面」のセンスが強い写実デッサンを学ぶ際には注意が必要だ。
歴史的に見ても最も古い絵は簡単な線で描かれているし、原始的な絵と分かちがたい象形文字も線によって刻まれている。
個人レベルの発達で考えても、乳幼児の絵は線でのなぐりがきに始まり、線で一定領域を囲むことで絵が生まれる。
以後は輪郭線で様々なものを描き分け、着色する場合は線で囲んだ領域内をそれぞれの色に塗り分ける手法がとられるようになる。
線で囲み、塗り分けるという行為は、人間にとってごく自然な表現だ。
人間が自他を区別したり、個別の物をそれぞれに認識する知覚の在り方とも、密接に関連している。
しかし、「写実表現」に踏み込むなら、話は違ってくる。
専門的に写実を習得する場合、まず最初に学ぶのは「ものに輪郭線はない」ということだ。
輪郭線があるかのように認識される箇所には、実際には絵にかくような「実線」は引かれていない。
あるのは隣接する色や面の「境い目」だけだ。
だから写実絵画の基本である鉛筆や木炭によるデッサンでは、輪郭線で囲むのではなく、立体的な面の明暗の差を、様々な階調のグレーで塗り分けることを叩き込まれる。
一見輪郭線っぽく見える境界線は、立体感を追及する中で明暗の差として徐々に探り当てられていく。
領域を「線」で区切るという感覚は一旦解体され、立体的な「面」の集まりで世界を認識し直すことで「絵描きの眼」を練り上げる訓練を積む。
二次元の画面の中に、あたかも三次元空間があるかのような錯覚を起こさせるのが「写実」だ。
この「線」と「面」という感覚の違いは、単に手法やセンスの違いであって、両者に優劣はない。
ごく大雑把に言うと、漫画やイラスト、デザインの分野では「線」で区切るセンス、絵画や彫刻の分野では「面」で構成するセンスが重みを持つと感じる。
絵の中でも、伝統的な日本画の世界は「線」が強く、洋画の写実表現では「面」が強いと思う。
写実的、立体的な「面」のセンスは、どんなジャンルの絵描きでも、基礎体力として持っているに越したことはない。
しかし、この「線」と「面」というセンスの違いは、絵を描く時の手順を全く変えてしまう。
感覚的には、真逆といっても良いほどの違いがあるのだ。
将来的に「線」のセンスが必要とされるジャンルを志すなら、「面」のセンスが強い写実デッサンを学ぶ際には注意が必要だ。
2016年10月15日
写実デッサンは必要か?
日本では美術系志望者の多くがデッサンを学ぶ。
志望が平面であれ立体であれ、一度は鉛筆や木炭による写実表現を習得することが勧められる。
水彩絵具などで軽く着色する場合もあるが基本はモノクロで、色彩構成はまた別に習得することが多い。
写実デッサンで身に付くスキルは、大雑把に言うと二つあるのではないかと思う。
空間認識能力と、絵を「面」で構成する描写力だ。
写実デッサンを学ぶにあたっては、誰もが幼いころから自然にやっている「線で囲んで絵を描く」という意識を、一旦徹底的に解体する。
輪郭線を排除して「面」で物を認識し、画面上で表現することを叩き込まれる。
人間の手と目と頭は密接に関連している。
目と頭をフル回転させて「面」でとらえ、実際に手を動かして「面」で描くことで、空間認識能力が伸びやすいのは確かだ。
空間認識能力は様々な表現の基礎体力になり得るので、そういう意味では誰もが一度は写実デッサンを学ぶ価値はあると言える。
しかしデッサンで得られるもう一つのスキルの「面で構成する描写力」は、全ての美術系志望者にとって、必ずしもプラスに働くとは限らないのではないかと思う。
絵を描く時に「線で描く」のと「面で描く」のとでは、手順や意識、必要とされる手の熟練が全く違うのだ。
正反対と言ってもいい。
例えばわかりやすい例が、マンガの絵だ。
日本のマンガはモノクロのペン画で、基本的に「線」の表現だ。
面構成がしっかりしているか、デッサンが正確であるかどうかということは、マンガの絵の良し悪しとは本質的には関係がない。
一見写実的に見える画風であっても、それはあくまで「マンガの中ではリアルに見える」ということであって、本当の意味での写実ではない。
デッサンが正確であるに越したことはないが、狂いはむしろ絵の個性になり得る。
魅力ある輪郭を、生きた描線で思い切りよくズバッと引くことがマンガの絵の生命力になる。
見た目上の立体感をつけるための影やトーンワークは枝葉の部分に過ぎない。
輪郭線で描き、量産するタイプの表現では、下描きは少ないほど良い。
鉛筆による下描きは、あくまでペンの主線のあたりをとっているのであって、同じ鉛筆を使っていても面構成でデッサンするのとはまた違うのだ。
下描きで一々デッサンなどやっていたら、マンガで要求される絵の枚数をこなすことは物理的に不可能だ。
劇画の巨匠と呼ばれるペン画の達人でも、しばらくペンを持たないと覿面に絵が荒れると言われる。
とにかく日常的にペンを握り続け、下描き無しでも描けるくらいの修練や即興性がないと「線」は生きてこないのだ。
「面」の修練である写実デッサンは、言い換えると「線」を殺す修練にもなる。
思い切りよく輪郭線で画面を切り裂く感性は、面構成の写実デッサンだけやっていると確実に鈍る。
短時間に輪郭線で枚数を描くクロッキーの方が、まだマンガの絵の修練に近い。
マンガの絵は、マンガの絵を描くことで練り上げるのが本筋で、写実デッサンを学ぶにしても「これはまた別物」として区別しておいた方が良い。
マンガ表現でも、空間認識能力はあった方が画面に奥行きが出せ、よりリアルな画面を作ることができる。
空間認識能力を伸ばすにあたって、写実デッサンはかなり有効な修練ではあるけれども、「線」の表現を志すなら、前述したような弊害も覚悟しなければならない。
そして、デッサン以外の空間認識能力の伸ばし方も、実はある。
志望が平面であれ立体であれ、一度は鉛筆や木炭による写実表現を習得することが勧められる。
水彩絵具などで軽く着色する場合もあるが基本はモノクロで、色彩構成はまた別に習得することが多い。
写実デッサンで身に付くスキルは、大雑把に言うと二つあるのではないかと思う。
空間認識能力と、絵を「面」で構成する描写力だ。
写実デッサンを学ぶにあたっては、誰もが幼いころから自然にやっている「線で囲んで絵を描く」という意識を、一旦徹底的に解体する。
輪郭線を排除して「面」で物を認識し、画面上で表現することを叩き込まれる。
人間の手と目と頭は密接に関連している。
目と頭をフル回転させて「面」でとらえ、実際に手を動かして「面」で描くことで、空間認識能力が伸びやすいのは確かだ。
空間認識能力は様々な表現の基礎体力になり得るので、そういう意味では誰もが一度は写実デッサンを学ぶ価値はあると言える。
しかしデッサンで得られるもう一つのスキルの「面で構成する描写力」は、全ての美術系志望者にとって、必ずしもプラスに働くとは限らないのではないかと思う。
絵を描く時に「線で描く」のと「面で描く」のとでは、手順や意識、必要とされる手の熟練が全く違うのだ。
正反対と言ってもいい。
例えばわかりやすい例が、マンガの絵だ。
日本のマンガはモノクロのペン画で、基本的に「線」の表現だ。
面構成がしっかりしているか、デッサンが正確であるかどうかということは、マンガの絵の良し悪しとは本質的には関係がない。
一見写実的に見える画風であっても、それはあくまで「マンガの中ではリアルに見える」ということであって、本当の意味での写実ではない。
デッサンが正確であるに越したことはないが、狂いはむしろ絵の個性になり得る。
魅力ある輪郭を、生きた描線で思い切りよくズバッと引くことがマンガの絵の生命力になる。
見た目上の立体感をつけるための影やトーンワークは枝葉の部分に過ぎない。
輪郭線で描き、量産するタイプの表現では、下描きは少ないほど良い。
鉛筆による下描きは、あくまでペンの主線のあたりをとっているのであって、同じ鉛筆を使っていても面構成でデッサンするのとはまた違うのだ。
下描きで一々デッサンなどやっていたら、マンガで要求される絵の枚数をこなすことは物理的に不可能だ。
劇画の巨匠と呼ばれるペン画の達人でも、しばらくペンを持たないと覿面に絵が荒れると言われる。
とにかく日常的にペンを握り続け、下描き無しでも描けるくらいの修練や即興性がないと「線」は生きてこないのだ。
「面」の修練である写実デッサンは、言い換えると「線」を殺す修練にもなる。
思い切りよく輪郭線で画面を切り裂く感性は、面構成の写実デッサンだけやっていると確実に鈍る。
短時間に輪郭線で枚数を描くクロッキーの方が、まだマンガの絵の修練に近い。
マンガの絵は、マンガの絵を描くことで練り上げるのが本筋で、写実デッサンを学ぶにしても「これはまた別物」として区別しておいた方が良い。
マンガ表現でも、空間認識能力はあった方が画面に奥行きが出せ、よりリアルな画面を作ることができる。
空間認識能力を伸ばすにあたって、写実デッサンはかなり有効な修練ではあるけれども、「線」の表現を志すなら、前述したような弊害も覚悟しなければならない。
そして、デッサン以外の空間認識能力の伸ばし方も、実はある。