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2018年07月22日

「抜け忍」は死なず

 もうかなり前のことになってしまったが、4月発売のマンガ雑誌「ビッグコミック」に、白土三平インタビューが掲載されていた。
 久々の露出、そして久々のカムイのイラストに引きよせられて雑誌を手に取った。
 いまだ描かれぬ「第三部」について、何か情報がないものかと淡い期待をいだいたのだが、主な内容は「狩猟」だった(苦笑)

 白土三平は言わずと知れた忍者マンガの巨匠であり、「サスケ」「忍者武芸帳」等の代表作を持つ。
 私にとっては、他のどの作品よりも「カムイ伝第一部」の作者だった。
 孤高の抜け忍・カムイの物語としては、アニメ化された「カムイ外伝」の方が、一般の認知度は高いかもしれない。
(実はアニメ「忍風カムイ外伝」の後番組が「サザエさん」だったりする!)
 並行して往年の「ガロ」で描かれた本編「カムイ伝 第一部」は、抜け忍・カムイに加えて武士の草加竜之進、農民の正助という三人の主人公が存在した。
 とくに中盤からは正助の比重が増し、ストーリーの本流は壮大な百姓一揆に収斂されていった。
 脇へと一歩引いたカムイの活躍をシンプルに描く場が、スピンアウトして「外伝」になったということだろう。
 子供の頃、既にアニメ化されていたこともあり、この「外伝」の方は私もかなり早い時期から読んでいた覚えがある。
 本編「カムイ伝」に手が伸びたのは思春期に入ってからで、マンガ版「デビルマン」とともに、当時最もハマって読み耽った作品だった。


●「カムイ伝 第一部」

 主人公を始め、登場するキャラクターたちは、物語の進行と共に多くのものを失っていく。
 失うのは身体の部位であったり、顔であったり、身分であったり、愛する人であったりするのだが、それでも生き残った者はより強く成長していく。
 欠損することでオリジナルを得、失うことで心定まるキャラクター達の生命力に、思春期の私は深く感情移入していたのだ。
 私が「第一部」を読み耽ってから数年後のタイミングで、「第二部」の連載がビッグコミックで始まった。
 その後90年代を通じて断続的に執筆され、現在は一応「完結」したセットが刊行されている。



 90年代当時の私はこの「第二部」の内容が、正直あまりピンと来なかった。
 壮大なカタルシスのあった「第一部」の印象に引きずられ、いつまでもプロローグが終らずにページだけが重ねられていくような不満を感じていた。
 もちろん、今は全く違った感想を持っている。
 青年から大人に成長した主人公たちは、熱狂や祝祭のカタルシスではなく、淡々と続く日常の中でそれぞれの足場を固めながら、なお「志」を持続させるステージに至っていたのだ。
 年齢を重ねた「かつての青年」が読むべきは、むしろこの「第二部」であろうと、今現在は感じている。

 冒頭で紹介した雑誌インタビューの中で、まだ描かれていない「第三部」についても、最後に質問されていた。
 笑いながら言葉を濁している白土御大だったが、私は「おや?」とかすかな期待を抱いた。
 活きた線で描かれた、雀と戯れるカムイのイラストと、第三部についての質問も避けないその姿勢に、「まだ種火が残っているのではないか」と感じたのだ。
 待ってみてもいいかもしれない。

 当初の第三部の構想通り「シャクシャインの戦い」を長尺で描くことまでは望まない。
 流れ流れて北の地に至ったカムイが、アイヌの暮らしの中に安息を見出す短編など、叶うことなら読んでみたい……



 そう言えばしばらく前、サブカル作品のジャンル分けに、「抜け忍モノ」という切り取り方があることを知った。
 主人公が、母体になった組織の「裏切者」であるという構造を持つ種類の物語を指す言葉である。
 それこそ「カムイ外伝」が元祖に近いのだろうけれども、マンガを始めとするサブカルの世界では、定番中の定番設定と言って良い。
 ヒーローが持つ特殊能力の理屈付けとして、実は戦うべき「悪役組織」の一員であったという基本設定は、まことに使い勝手が良いのだ。
 この「抜け忍モノ」という言葉を聞いた瞬間、個人的に「ああ、そういうことだったのか!」と頭が物凄く整理される感覚があった。
 思えば私の成育歴は「抜け忍モノ」と共にあり、それぞれの発達段階で感情移入し、影響を受けてきたのだ。
 そのことについて、しばらく語ってみたいと思う。

 次回記事より「抜け忍サブカルチャー」の章、はじまり、はじまり。
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2018年07月23日

抜け忍サブカルチャー1:原風景

 私が子供の頃の記憶として明確に覚えているのは、70年代後半からのことになる。
 当時の子供向けサブカルチャーには、まだ「忍者モノ」の影響が残っていた。
 白土三平のマンガが主導した忍者ブームは60年代がリアルタイムだったはずだが、「サスケ」「カムイ外伝」等の作品はマンガもアニメも根強い人気で、私たち70年代の子供もまだまだ忍者ごっこに興じていた。
 昔はTVアニメの再放送が今よりずっと頻繁で、ヒット作はほとんど毎年のように放映されていたと記憶している。
 書店のマンガ単行本の点数も今よりずっと少なく、回転が緩やかだったので、60年代作品は70年代に入ってもまだまだ「現役」だったのだ。
 そう言えば、私の小さい頃の大人になったらなりたいものは「忍者」だったっけ(笑)
 小学校高学年になって「今はもう忍者はあまりいない」と理解し、自分の運動神経の無さを思い知ってからは、「刀鍛冶」に進路変更した。
 それはそれで黒歴史を築いたことは、以前記事にしたことがある。

 天下一のペーパーナイフ
 ナイフみたいにとがっては

 その頃の私の眼に、「大人っぽくてカッコいい」と思える再放送TVアニメがいくつかあった。
 ジャケットが緑の「ルパン三世」第一作や、「忍風カムイ外伝」が、その代表だった。

●TVアニメ「忍風カムイ外伝」(69放映)
●マンガ「カムイ外伝」白土三平(65〜67週刊少年サンデー連載)

 抜け忍カムイの背負う孤独の影は、子供心に強く印象に残った。
 BGMや劇中歌も本当に素晴らしくて、カムイの憂いのこもった眼差しは、荒涼とした背景画のイメージと共に、今でも記憶に刻まれている。

 70年代に入って、再放送人気は高かったものの、リアルタイム作品としての「忍者モノ」は下火になった。
 以前紹介した「サルでもかけるまんが教室」(竹熊健太郎/相原コージ)には、「忍者モノ」は「空手モノ(身体能力)」と「エスパーもの(超常能力)」に分岐したという主旨の解説がある。
 確かに70年以降の、とくに子供向けのサブカルチャー作品は、SFものとスポ根ものに数多くのヒット作が生まれている。
 白土三平が切り開いた「抜け忍モノ」のストーリーの構図は、SF作品へとより多く引き継がれていったようだ。

 そうした作品の嚆矢にして代表は、石森章太郎原作のTV特撮「仮面ライダー」シリーズになるだろう。
 主人公の「仮面ライダー」は、元来は悪の組織「ショッカー」に拉致された被害者である。
 改造手術で昆虫の能力を仕込まれた怪人「バッタ男」であり、洗脳される直前に脱走してショッカーの仇敵となる。
 まさに「抜け忍」である。

●TV特撮「仮面ライダー」シリーズ(71〜75、79〜81放映)

 小さい頃の私は、このTVシリーズを繰り返される再放送で楽しんでいたのだが、正直作品の「世界観」までは理解できていなかった。
 TV画面からの刺激に対する反応ではなく、物語としての「仮面ライダー」の面白さを理解したのは、低年齢向けに描かれた「コミカライズ版」を読んでからだった。
 仮面ライダーはTV番組とほぼ同時に「原作者」石森章太郎によるマンガ版(厳密に言うと「原作」ではない)も執筆された。
 話がややこしいのだが、この石森版とは別にTV版の仮面ライダーを下敷きにしたコミカライズ版も、いくつか存在した。
 私が好きだった山田ゴロ版は、71年のライダー第一作から75年のストロンガーで一旦シリーズが終了した後の78年から執筆された作品である。
 そもそもは79年から再開される新しい仮面ライダー(スカイライダー)へとつなげるための「露払い」的な雑誌連載として企画されたようだ。


●TV版コミカライズ「仮面ライダー」山田ゴロ(78〜82テレビランド連載)
 仮面ライダー1号、2号、V3、ライダーマン、X、アマゾン、ストロンガーまでの流れを、独自のエピソードも交えながらダイジェストで要領よく描き、続くスカイライダー、スーパー1の世界観に巧みに接続させている。
 それぞれのライダーに充てられた尺は短いが、TV版の設定を踏襲しながら、石森版に描かれる「改造人間の悲しみ」というテーマもきちんと盛り込み、かつ低年齢層に無理なく読みこなせる描写になっている。
 これはまさに「離れ業」である。
 とくにライダーマンについては、あらゆるバージョンの中で、この山田ゴロ版の内容が最も充実しているのではないだろうか。
 ストロンガー編で7人ライダーが初めて集結し、最後の決戦に臨む際の盛り上がりは、私を含めた当時の子供たちの間で語り草になっている。

 関連記事:ビデオ普及以前のコミカライズ

 山田ゴロ版も低年齢向けマンガとしてはかなりショッキングな描写が含まれていたが、それでもTV版ライダーシリーズの「枠」は守ってあった。
 ところがTV版の初代ライダーとほぼ同時期に執筆された石森マンガ版は(私は山田ゴロ版より後に読んだのだが)子供心に「これは別物!」という印象を強く持った。


●「仮面ライダー」全三巻(71年、週刊ぼくらマガジン/週刊少年マガジン連載)
 まず絵柄がちょっと怖かった。
 当時の石森マンガの中ではかなり描き込まれた描線で、画面が暗く、恐怖マンガのようなダークな雰囲気が漂っていた。
 内容も「仮面ライダー」という素材を使いながらも、シリアスな文明批評SFとして真正面から描かれており、なんとなく「大人向け?」と思ったのを覚えている。

 関連記事:暴走する石森DNA

 同時期の「抜け忍モノ」の構図を持つサブカル作品で好きだったのが、「デビルマン」だった。

●TVアニメ「デビルマン(72〜73放映)」

 後に私はこのTVアニメ版に導かれるように、「人生最大の衝撃作」としてのマンガ版「デビルマン」と出会うことになるのだが、それは中学生になってからのことだった。

 ごく小さい頃から、私は孤独の影のある主人公が好きだった。
 そうした主人公の性格は「抜け忍モノ」の設定と相性が良く、自然とそうした作品に心惹かれるようになったのかもしれない。
 そしてより根本的には、私が弱視児童であったことが影響していると思う。
 小さい頃から眼鏡をかけていた私は、いつもどこか周囲と一定の距離を感じていて、「通りすがりの絵描き」という立ち位置が習い性になっていた。

 最初の修行1
 最初の修行2
 最初の修行3
 最初の修行4

 そんな気分が「抜け忍」にどこか通底するものを感じていたのだろう。
 そして今にして思うと私は、思春期や成人後も、無意識のうちに同じような構図を持つ作品を求めているようなところがあった。
(続く)

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2018年07月24日

抜け忍サブカルチャー2:中二病期

 思い返すと夢の中の出来事のような「子供時代」を過ぎ、ある程度現在の自分と連続性の感じられる思春期に入った頃、私は衝撃的な「抜け忍モノ」と出会ってしまった。



●マンガ版「デビルマン」永井豪(72〜73週刊少年マガジン連載)

 読んだ年齢、作品内容、全てが噛み合って、生涯最もハマった作品になった。
 この作品については、これまでにも度々記事にしてきた。

 70年代永井豪の「魔神懸かり」

 過去作ではなく、リアルタイムの連載作品としては、「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズを生み出す直前の荒木飛呂彦の短期連載が物凄く面白かった。


●「バオー来訪者」荒木飛呂彦(84〜85週刊少年ジャンプ連載)
 軍事秘密組織の人体実験から脱出した少年少女の逃避行を描く、「抜け忍モノ」の王道を行くような設定。
 80年代的なバイオテクノロジー描写と、おそらく古代呪法「蟲毒」を接ぎ木したショッキングなバイオレンス描写の秀作である。

 80年代後半には「抜け忍モノ」をSFとして再生させた中興の祖、仮面ライダーシリーズも復活した。

●TV特撮「仮面ライダーBLACK〜RX」(87〜89放映)

 平成直前、昭和ライダーの集大成にして原点回帰、シリアスでよくできた作品だったと思うが、放映当時の私は、年齢的に「子供向け」からは少し距離を置きたい段階に入ってしまっていた。
 この前年の86年、「機動戦士ガンダムダブルゼータ」でリアルロボットアニメからも「途中下車」しており、そろそろ「大人向け」の小説やマンガ、映画に関心が移りつつあったのだ。
 とくに続編RXの「より低年齢向け」の路線変更を機に、ライダーシリーズからは完全に卒業した。
 ブラックについて言えば、例によって「暴走」した石森マンガ版の方がより印象に残っている。


●「仮面ライダーBlack」石森章太郎(87〜88週刊少年サンデー連載)

 より歯ごたえのある作品を求める内に、子供の頃から好きだった元祖抜け忍カムイの「本編」の方に手が伸びた。


●「カムイ伝 第一部」白土三平(64〜71月刊漫画ガロ連載)

 中高生当時、ちょうど私は超スパルタ受験校に通っていた。

 青春ハルマゲドン4
 青春ハルマゲドン5
 青春ハルマゲドン6

 当時ですら異様な戦前回帰教育、時代錯誤のキツい体罰に日々晒されており、作中の被支配階級の民衆や、逃亡者となったカムイに、あらためて深く感情移入していた。
 同時期、リアルタイムで「カムイ外伝」の続きが連載されていた。
 絵柄も内容も完全に「大人向け」になっており、私は本編「第一部」の後日譚として、あるいはいずれ開始されるであろう「第二部」への序章として、本編に続けて読み耽った。

●「カムイ外伝 第二部」白土三平(82〜87ビッグコミック連載)



 80年代半ばには、永井豪「デビルマン」と並ぶ、もう一つの衝撃があった。
 SF作家・平井和正の作品との出会いである。
 平井作品には私好みの「孤高のヒーロー」が多数登場するが、「抜け忍モノ」の系譜に連なる作品としては、「死霊狩り(ゾンビ―ハンター)」がある。


●小説「死霊狩り(全三巻)」平井和正(72〜78)
 地球外生命体の侵略を受けた人類が、優れた身体能力と闘争心を持つ若者の中から、狂気のサバイバル試練で「不死身の怪物」と言えるメンバーを選抜し、戦いに赴かせるバイオレンス・ストーリー。
 主人公の元レーサー・田村俊夫が最後に「抜ける」のは、何からか。
 70年代の平井和正は、マンガ原作で磨き上げたエンターテインメント性と、生来の情念滾る作風がバランスよく噛み合った傑作を連発している。
 80年代以降は「エンタメの定型」を崩す方向に進化して読者を選ぶようになり、実は私はそちらの方向性も熱愛しているのだが、少なくとも70年代半ばまでの平井作品は万人に全力でお勧めできるのである。
 とくに本作は「未完の帝王」と呼ばれた作者の、当時としては珍しい「完結長編作品」であった。
 全三巻でコンパクトにまとまっているので、今まさに孤独な青春を送っている若者にはぜひ手に取ってほしい。
 つい先ごろ、ハヤカワ文庫から全三巻を一冊にまとめたものが復刊されたので、今なら非常に手に取りやすい。

 この作品、小説の初出は72年だが、60年代末には先行して桑田二郎作画「デスハンター」として、ほぼ同内容のマンガ版が制作されていた。
 マンガ版の原作がそもそも小説形態で書かれており、マンガ完結後に加筆と構成変更を経て完成したのが小説版と言うことのようだ。
 個人的に、「8マン」から始まる平井/桑田コンビのマンガ作品としては、この「デスハンター」が最高傑作ではないかと思っている。
 写実の要素を盛り込んで研ぎ澄まされた描線が、この時期の平井和正の世界観と完全にシンクロしているのだ。


●マンガ「デスハンター」平井和正/桑田二郎(69週刊ぼくらマガジン連載)


 中学生の頃の「デビルマン」ショックを通過した80年代後半の高校生時代、私が最も読み耽ったのが平井和正とカムイ伝だった。
 平井和正は当時よく遊んでいた友人の本棚で知った。
 厳しい生徒指導と進級基準で、その友人も含めた同級生が次々と学校を去る中、私は教育系の美術志望に切り替えた。

 このスパルタ地獄から必ず生還してやろう。
 それにはとにかく「力」が必要だ。
 そう考えて、ひたすら技術を磨いた。

 デッサンと見取り稽古

 なんとか卒業までサバイバルし、受験も乗り切った時には、冗談ではなく「ああ、俺はついに抜けたのか」と解放感を味わった。
 それからずっと、今に至るも「抜け忍気分」は続いている。
(続く)

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2018年07月27日

抜け忍サブカルチャー3:学生時代から成人後

 90年代以降、学生時代から成人後にかけては、「抜け忍モノ」の構造を持つハリウッド映画に心惹かれることが多かった。
 映画については、ヒット作以外に渉猟して観るほどのファンではない。
 CMなどで目に付く作品の中から好みのものを拾っていくうちに、後から振り返ってみると「抜け忍モノ」が多くなっていたということだと思う。

 ちょうど成人したくらいのタイミングで観て印象に残ったのが、「ブレードランナー」だった。


●映画「ブレードランナー」リドリー・スコット監督(82公開)
 労働用に生産された人造人間「レプリカント」の逃亡者チームと、それを追う捜査員「ブレードランナー」の攻防を描く作品。
 82年初公開時からカルト的な人気を誇っていたが、当時の私はまだ子供で、この大人びた作品は興味の対象外だった。
 その後の中高生の頃、同じリドリー・スコット監督の「エイリアン」には強烈な印象を受けていたが、「ブレードランナー」の方は「噂で聞いている」という程度だった。
 確実に印象に残っているのは、92年の「ディレクターズ・カット版」で、こちらは何度も繰り返しビデオで観た。
 年齢的に、私はその頃ようやく「ブレードランナー」鑑賞の「適齢期」になっていたのだろう。
 自分の人格とか記憶と言ったものが、さほど確固としたものではなく、もしかしたらフェイクかもしれない――
 ふとそんな感覚を抱き、そうした疑念をテーマにした作品にどっぷりハマるには、それぞれが相応の発達段階になっていることが前提になる。
 そうしたタイプの作品については、以前にも一度記事で触れたことがある。

 フェイクがどうした!

 この「ブレードランナー」は、初公開時興行的にはふるわなかったものの、80年代における「その種の作品」の本家本元みたいなカルト映画だった。
 作中の設定年代に、そろそろ現実が追い付こうとしているが、それでも時代を超えて古びない映像と、観る者の想像に任せる「余白部分」の多さが、繰り返しの鑑賞を可能にしているのだと思う。
 沈鬱と優しさ、感傷。
 映像が極めて重要な作品ではあるけれども、それに留まらない多様な「読み方」ができる、陳腐な表現になるが、やはり「文学的」という他ない映画なのだ。
 主人公のデッカードがレプリカントであるかどうかについては、劇中では明確にされておらず、ファンの間でも様々な受け止め方があるが、監督の意識の中でははっきりと答えがあるようだ。
 敵役のレプリカントチームのまとう悲劇的な雰囲気は間違いなく「抜け忍モノ」である。
 また、デッカードの出自や恋人レプリカントのレイチェルと逃亡するラストシーンを考えると、「抜け忍」のイメージはかなり重層的になってくる。

 そして、三十年以上の時を経て昨年公開の「ブレードランナー2049」は、作中でも三十年が経過した正統な続編にあたる。
 監督が交代したと言うことで、ちょっと不安を抱いていたけれども、全くの杞憂だった。
 単独でも楽しめるし、観ることがそのまま第一作の観方を豊かに掘り下げることになる、そんな上質の続編である。


●映画「ブレードランナー2049」ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督(17公開)

     *    *     *

 ハリウッド映画のヒットのパターンの一つに、西欧文化圏の若者が他民族社会に「進駐」したものの、その世界に魅了され、配偶者を得ることで「裏切者」になるというものがある。
 私が今すぐに思いつくのは以下の三作。


●映画「ダンス・ウイズ・ウルブズ」ケビン・コスナー監督(90公開)
●映画「ラストサムライ」エドワード・ズウィック監督(03公開)
●映画「アバター」ジェームズ・キャメロン監督(09公開)

 制作年も監督も主演も異なるが、物語の構造はほぼ同一で、にも関わらず吸い寄せられるように観て、同じように面白かった。
 主人公の若者は、西欧文明由来の戦闘力を持ちながらも、滅びゆく民族文化を守るための戦士となる。
 この構図は、今から考えると「抜け忍モノ」そのものだったのだ。
 ここに挙げた三作は、一応リアルを志向した作品から完全なファンタジーまで、フィクションの度合いに濃淡がある。
 しかし、いずれも滅びゆく豊かな世界への郷愁が描かれ、対照的に近代文明の本質的な暴力性が描かれることは共通している。
 主人公が「抜ける」対象が、「悪の組織」ではなく、今現在自分が属している文明社会そのものであるという点が、この種の物語では特筆される。
 しかし考えてみれば前回記事で挙げた「デビルマン」「死霊狩り」等でも、主人公は最終的に人間社会自体の暴力性に気付き、そこから「抜ける」構図を持っていた。
 70年代日本サブカルの先見性も、同時に確認しておきたい。

     *     *     *
 
 そして、この十年ほどの間で一番ハマった「抜け忍モノ」ハリウッド映画といえば、やはりこちらになる。


●映画「バットマン ダークナイト三部作」クリストファー・ノーラン監督(05、08、12公開)
1「バットマン ビギンズ」
2「ダークナイト」
3「ダークナイト ライジング」

 実写版のアメコミヒーロー映画には多数のシリーズがある。
 私はその全てをチェックするほどのファンではないが、それでも好きなシリーズはある。
 サム・ライミ監督の「スパイダーマン三部作」や、とりわけこの「ダークナイト三部作」シリーズは大好きだった。

 アメコミヒーローを扱ったシリーズではあるけれども、対象年齢はかなり高めに設定されているようだ。
 たとえば先に挙げたサム・ライミ版「スパイダーマン」シリーズなら、親子連れでも十分に楽しめるだろうし、デートで観に行くのも十分ありだろう。
 しかしこの「ダークナイト」シリーズは、そうした「楽しい」鑑賞には全く向いていない。
 いかにもマンガ的な「バットマン」という素材を、手抜き無しで徹底的に「リアルなバイオレンスアクション」として成立させることを志向しており、ロマンスやセクシー要素すら排除されている。
――腕は超一流だが極めて愛想の悪い料理人
 そんな趣のあるシリーズで、いい年のおっさんが十分にハマれる内容なのだ。
 個人的に一つだけ難点を挙げると、それはやはりハリウッド映画にありがちな「ヘンテコ東洋」の描写になるだろう。
 第一作「ビギンズ」と第三作の完結編「ダークナイトライジング」は、そのヘンテコ東洋が物語の基本構造に組み込まれてしまっているので、そこでぎりぎり興が削がれてしまうところがある。
 ただ、第二作「ダークナイト」について言えば、ヘンテコ東洋の設定から一応切り離されており、シリーズ中でも突出した完成度になっている。
 中でも宿敵ジョーカー役のヒース・レジャーのブチ切れた狂気の演技は素晴らしい。
 映画の中のカリスマ的な悪役と言えば、すぐに「羊たちの沈黙」シリーズのレクター博士が思い出される。
 この作品のジョーカーはそれに迫る水準に達していると思うのだが、残念ながらヒース・レジャーは映画の完成を待たず、急死。
 この第二作単独でも鑑賞可能なので、未見の人はぜひ。 



 ダークナイト三部作の主人公ブルース・ウェインは、大富豪の一人息子。
 幼い頃に両親を犯罪者に殺され、「悪を倒し、恐怖に打ち勝つ力」を求めて放浪する。
 やがて狂信的なカルト集団と出会い、厳しい戦闘訓練を経た後、決裂。
 抜け忍として故郷に帰還し、財力に物を言わせた装備でゴッサム・シティ―に巣食う「悪」と戦う、「バットマン」に変身する。
 しかし、超法規で闘うバットマンは決して「正義」ではあり得ない。
 毒を持って毒を制する「闇の騎士」でしかなく、そのことを自分でも承知している。
 悪と戦うが、最終的には悪と戦う自分が消滅することを望んでいるのだ。
 シリーズを通じて常に圧倒的な敵役に翻弄され、防戦一方で、気持ちよくは勝利できない。
 戦闘力を高め、「悪」を退けようともがけばもがくほど、より強力な「悪」を呼び込んでしまう。
 幾多の戦いで満身創痍となり、幼馴染のヒロインは救えず、恋も実らない。
 とてつもなく苦い、挫折と絶望の物語である。
 第三作のラストで、富豪一族として代々守ってきた都市が再建され、後継者を得たことを確認した主人公は、「闇の騎士」であることからようやく解放される。
 遠く離れた地で、長い戦いの中で得たささやかな安息が描かれ、長尺のシリーズは幕を閉じる。
 バイオレンスアクションの大作であるけれども、大人が、一人静かに味わうための映画だと思う。

     *     *      *

 思い返してみると、成人後の私が何とか食い扶持をひねり出してこれたのは、中高生の頃に必死で身に付けた写実デッサンの技術とともに、皮肉なことに超スパルタ受験校で身に付けた受験勉強の技術のおかげであった。
 美術系の仕事と共に、家庭教師や塾講師などの受験指導ができる大小二本差しだったことが、私をサバイバルさせてくれた(苦笑)
 高校卒業後、学生時代から成人後も、私はずっと変わらず「抜け忍」であったのだ。
(続く)
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2018年07月30日

抜け忍サブカルチャー4:何から抜けて、何処へ行く?

 ハリウッド映画ヒット作から、再び日本国内のマンガ作品に視点を戻してみよう。

 これはマンガというジャンルに限定されないが、60〜70年代サブカルを存分に享受してきた世代が80〜90年代以降「作り手」に育ち、新たな感性を加えてリバイバルする流れが出てきた。
 この章で扱ってきた「抜け忍モノ」についても、一〜二回目の記事で紹介した作品の影響下で、多くの優れた作品が制作された。
 いくつか、当時の私がとくに好きだった作品を紹介してみよう。


●「ムジナ」相原コージ(93〜97週刊ヤングサンデー連載)
 90年代初頭、竹熊健太郎とのコンビで「サルでも描けるまんが教室」を描き上げた直後の連載作品である。
 相原にとっても竹熊にとっても、執筆時の年齢、作品の質ともに「サルまん」が「完全燃焼」の作品だったであろうことは想像に難くない。
 内容的にも「まんがを描くこと」自体をテーマにしたメタフィクションであり、時として創作者に勃発する「脳内ハルマゲドン」とでも呼ぶべき、あやうい作品だったはずだ。(改めて考えてみれば連載内連載「とんち番長」は、まさに「抜け忍モノ」そのものだった)
 その「サルまん」後、おそらくペンペン草も生えない荒涼とした心象風景の中、相原が選んだテーマは、子供の頃から大好きだったという「忍者マンガ」だった。
 全てを出し尽くした後は、一度「原点」に立ち返ることが必要だったのかもしれない。
(同時期、「サルまん」コンビの竹熊健太郎は、「私とハルマゲドン」という、これも自身の原点を振り返る本を執筆している)
 白土三平タッチの筆致に実験的なギャグを週替わりで加味しながら、「サルまん」でバラバラに分解された「創作の破片」を、一つ二つと拾い集めるように連載は進む。
 しかし、コツコツとページを重ねて世界観を構築しても、そこに現れるのは、どこにも逃げ場のない閉塞した忍者社会だ。
 相原流のギャグに彩られてはいるものの、主人公の忍者少年ムジナは肉親を失い、友を失い、何重にも張り巡らされた謀略と裏切りに翻弄され、ストーリーは限りなく鬱展開にはまり込んでいく。
 そんな先の見えないサバイバルを経て、ムジナは最後に持てる全ての技を駆使し、がんじがらめの忍者の世界を食い破る戦いに挑む。
 それまで一貫して受け身の戦いであったムジナが、並みいる強力な敵を食い破る。
 隠された能力を全開にして食い破る。
 ただ生き残るためだけに必死だった自分の生き方をも、食い破る。
 父に与えられた「愛する者を作るな」という生き方は、これまでムジナを生き残らせてきたが、ムジナをがんじがらめに縛る「呪い」でもあった。
 その呪いを、同じ父に与えられた「技」で、愛する少女を守るために、食い破る。
 そうした主人公の姿に、作者相原コージの感情移入がダブって見えてくる。
 スタート地点のやや斜に構えたギャグの枠を食い破り、あの相原が、真正面から壮絶なバトルを描き切る。
 連載を追いながら、その様を目のあたりにした私は、戦慄を覚えていた。
 そして凄惨な戦いの果てに、ムジナは満身創痍になりながらも生き残り、守るべき少女と共に、完全に「抜け切った」のだ。
 直球ど真ん中のカタルシスと感動が、そこには確かにあった。

*     *     *

 もう一つ、同時期の作品の中から。


●「覚悟のススメ」山口貴由(94〜96週刊少年チャンピオン連載)
 舞台は核戦争と環境汚染に荒廃した近未来。
 主人公・葉隠覚悟は、旧日本軍で編み出された「零式防衛術」と、秘密兵器「強化外骨格・零」を伝承する少年。
 第二次大戦中、凄惨な人体実験を繰り返し、強化外骨格の技術を作り上げた悪魔的軍人・葉隠四郎を曾祖父に持つ。
 祖先の罪と「力」を背負いながら、力なきもののために専守防衛の戦いを続ける正統派抜け忍ヒーローである。
 対する「悪のヒーロー」は、覚悟の実の兄・散(はらら)。
 最強の強化外骨格「霞」に宿る、人体実験で惨殺された母子の怨念に導かれ、人間であることを捨てる。
 そして地球を汚染し、他生物を殺し続ける人類を抹殺する「星義」を掲げ、現人鬼(あらひとおに)となる。
 熱血少年とクールな美少年、努力型と天才型、直線的な力と曲線的な技、兄に憧れる弟と弟に立ちはだかる兄など、少年マンガ的な主人公とライバルの対比を贅沢にフル装備しながら、人類とその他の生物の存在意義を賭けた壮大な兄弟喧嘩が描かれている。
 70〜80年代の抜け忍ヒーロー像を自在に引用、再構成しながら、90年代的な世紀末感覚、メカデザイン、エログロ描写を加え、さらに旧日本軍的アナクロセンスをトッピングした、ある意味「集大成」のような作品である。
 この作品で特筆すべきは、宿命の兄弟喧嘩の「その先」まで描かれていることだ。
 葉隠兄弟は戦いの果てに和解し、手を携えて、その「力」にして「呪い」である強化外骨格の開発者、葉隠四郎を倒す。
 その後、怨霊から解放された兄・散は、本来の力を取り戻して地球再生の旅に出、弟・覚悟はあくまで力無きものを守るための戦いを継続する。
 週刊連載マンガでここまで描き切り、また余計な引き延ばしに手を出さなかったのは、「美事」という他ないのである。

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 私は幼い頃から「抜け忍モノ」サブカルチャーに心惹かれ、成育の各過程でそれぞれに多大な影響を受けた作品に出会ってきた。
 発端は、自分と周囲の子供たちの間に距離を感じていた原風景と、孤独なストーリー展開が同期したことだったのではないかと思う。
 超スパルタ受験校で過ごした中高生の頃も、抜け忍ヒーローの姿に勇気づけられ、キツい生徒指導に耐えながらひたすら「技」を磨き、無事卒業できた時には「ついに抜けた!」と思った。
 学生時代から成人後、「抜け忍」となった後も、その時の「技」でなんとか凌いできた。

 抜け忍の物語、そしてその物語に心惹かれる心情というのは、どこか「呪い」の要素があると感じられる。
 作中の抜け忍は、多くの場合、逃れられない宿命の中で、暴力的な「悪の力」を心身に刻印される。
 そして自分の意志でその「悪の集団」から抜け、孤独な戦いの生き方を選ぶことになる。
 60〜70年代の「抜け忍モノ」では、そうした戦いの呪縛の構図が十分に解除されないまま、物語が終息するケースが多かったのではないかと思う。

 呪いはいずれ解かれなければならない。

 90年代以降の「抜け忍モノ」は、そうした先行する物語の「語り残し」に対し、影響を受けた表現者たちが自分なりに回答する試みだったのではないだろうか。
 先に紹介した「ムジナ」「覚悟のススメ」は、その好例であると感じる。
 ムジナは、忍者であることからも抜け切って、伴侶を得たカムイである。
 覚悟は、美樹を守りきり、闘いの果てに了と和解し、ともに理不尽な父神を倒したデビルマンである。
 そして前回記事で紹介した映画「ダークナイトトリロジー」は、「呪い」に捕らわれた抜け忍が、最後に抜け忍であることからも抜け、幼い頃受けた「呪い」を自ら解除する物語であった。

 呪いに巻き込まれたままではいけない。
 守るべきものを持ち、呪いの力をもって呪いを断ち切れ。

 サブカルチャー作品とは言え、そこに込められた寓意は大きいと思うのだ。

 本章一回目で紹介した「カムイ伝第二部」でも、第一部の一揆で壮大に挫折したカムイ、正助、竜之進の三人は、様々な道のりの末、再会する。
 カタルシスの中でなく、当たり前の日常の中で、なおしぶとく志を持続し、次代に伝える姿が、そこにある。
 それぞれに呪縛が解かれ、さばさばとした表情が、今読み返すとなんとも味わい深い。

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 最後にもう一つ、作品紹介をしておきたい。


●「仮面ライダーSPIRITS」石ノ森章太郎/村枝賢一(01〜09月刊マガジンZ連載)
 いわゆる「昭和ライダー」の続編として描かれた作品。
 本章二回目の記事で紹介した山田ゴロ版の続編として読むことも可能だと思う。
 全ての戦いが終わり、ライダー達が姿を消した世界。
 第一作に登場したFBI捜査官・滝和也は、ライダーの後を引き継いで、一人のただの人間として孤独な戦いを続けていた。
 ある時、過去の亡霊のような「怪人」集団の引き起こす事件と遭遇する。
 巻き込まれた子供たちを救おうと「仮面ライダー」に成り代わって奮戦するが、空手とバイクの達人である滝の力も、人間の範疇を超えた敵には通用しない。
 絶体絶命の危機。
 そこに、風のようにかつての友、本郷猛が現れる。
「スマンな滝、遅くなった」
 本物の仮面ライダーに、変身。
「敵は多いな、滝」
 仮面ライダー1号がつぶやく。
「いや、大したことはないか
 今夜はお前と俺で、ダブルライダーだからな」

 この第一話、このシーンを読んだ時、私は既にいいおっさんになっていたのだが、不覚にも涙ぐんでしまったことを覚えている。
 あれは、本当にいいシーンだった。

――「仮面ライダーSPIRITS」は、第一話が飛びぬけて良かった。

 こんな感想が目に入ると作者は不本意かもしれないが、作品の最後の一筆は読者が加えるもの。
 年食った「大きなお友達」が過剰反応するマンガを描く方が悪いのだ(笑)

 
 このエピソードを読んでから数年後、熊野遍路の途中でふと思いついた。

(ああ、あれは同行二人の物語だったんだな……)

 遍路でよく使われる言葉に「同行二人」というものがある。
 これは「どうぎょうににん」と読み、金剛杖にも書かれている。
「遍路の道行きは、御大師様と二人連れ」
 そんな意味がある。
 弘法大師空海と二人連れということは、実際歩むのは自分ただ一人ということだ。
 歩むも止まるも野垂れ死ぬも、たった一人。
 一人の覚悟が決まってはじめて、「同行二人」は成立する。

 心の仮面ライダー、心のカムイと、同行二人。
 馬齢を重ねつつ、ぼちぼちその程度の覚悟は定まったと思うのだ。

(「抜け忍サブカルチャー」の章、了)
posted by 九郎 at 18:05| Comment(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする