2018年12月23日

ジオン系MS「モノアイレール」についての覚書

 1979年放映のTVアニメ「機動戦士ガンダム」は、ロボットアニメに多くの革新をもたらしました。
 デザインの上では、主役メカのガンダムと同等かそれ以上に、敵役の量産機「ザク」の功績が大きく、作品の「リアル」な側面を担っていました。
 ザクで創出された意匠は数多いですが、とりわけ印象深かったのが「モノアイ(単眼)」です。
 モノアイが優れている点は、非人間的なメカニックでありながら、レールに沿って頭部をグルッと周回することで「表情」が出せることです。
 ガスマスクを被ったようなおよそ人間離れしたデザインで無表情なザクに、巧みに「演技」をさせてしまうのです。
 真っ暗なレールの中から「ビーン」とピンクのモノアイが点灯し、左右に動いてザク同士アイコンタクトするあのゾクゾク感は、時代を経ても色褪せません。

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 ザク以降のジオン軍MSでも、モノアイの演出上の面白さは有効に活用されてきました。
 ドムが登場した時の「おお! 上下にも動くんかい!」という驚きも忘れられません。

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 水陸両用MSになると、さらにモノアイは進化します。
 実質「頭部」が無くなり、胴体に直接レールが敷かれることで可動範囲が飛躍的に広まり、ピンクのモノアイが自由自在に動きはじめます。

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 その究極がゾック!
 しかも、「見た目より性能高いアピール」で、物凄く素早くモノアイを動かしてみたものの、一撃でやられるオチ付き!
 ある意味あれも衝撃でした(笑)

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 ただ、ファーストガンダムのジオン系MSの中で、終盤登場のゲルググ(実質富野デザイン)だけはちょっと変わっていて、モノアイレールの可動幅が小さく、ファースト以降の続編に登場したジオン系MSに近い雰囲気です。

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 ここは子供の頃から気になって、「後頭部のトサカがセンサーになってて、視野の狭さを補ってる?」などと妄想してました。
 しかしジオン最終MS ジオングになると、モノアイレールの可動が最大限に復活します。
 ピンクのモノアイが登頂部を通ってグリグリ動き回る演出が、異形を際立たせて記憶に残っています。

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 こうして振り返ると、ジオン系モノアイデザインの面白さは、レール上の可動込みのものだったのかなと思います。
 ガンダム第一作以降のジオン系MSの新規デザインで、うまく継承しきれていないなと感じる点が、このモノアイレールで、「単眼」という点だけはクリアされていますが、レールに沿ってグルっと可動するイメージが薄くなっています。
 続編「Ζガンダム」に初期から登場したリックディアスのモノアイが、その典型であるように感じます。
 単眼がレール上を周回するのではなく、設置位置はそのままで角度を変えて視認方向を変える感じのものが多い印象です。
 一見レールに似たスリットがデザインされている場合でも、可動範囲はきわめて狭く、印象に残るシーンが少なくなっています。
 ゼータ以降のMSデザインの骨格を作ったのは永野護で、リックディアスも永野護の手によります。
 そう言えば永野護は好きなファーストガンダムのMSとして、ゲルググを挙げていたことがありました。
 MSデザインを大河原邦男一代限りにせず、他のデザイナーにバトンリレーさせた永野護の功績は大ですが、残念ながら「モノアイレール」にはあまり関心がなかったのかもしれません。(ハンブラビという異様な「例外」もあるので話はまたややこしくなるのですがw)
 一応補足しておくと、私はファースト原理主義者ではありませんし、中高生の頃はむしろ永野信者でした。
 ゼータの永野原案MSは、今から見るとどれも実にMSらしいMSで、好きなのばかりです。
 あくまで「モノアイレール」についての感想です。

 リックディアス的なモノアイ解釈は、小顔で洗練されたカッコよさは出ます。
 続編「逆シャア」のサザビーや、近年作「UC」のシナンジュはそのデザイン的な精華でしょう。
 ただ、ファーストのジオン系MSの、なんともいえぬ異形、なんともいえぬ武骨なイメージは薄れたのではないかと思います。
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2018年12月26日

小田雅弘「ガンダムデイズ」

 今年10月、私たちガンプラブーム世代のかつての「神」小田雅弘の「ガンダムデイズ」が刊行された。


●「ガンダムデイズ 」小田雅弘(トイズプレス)

 読んでいるとあの頃の記憶が次々によみがえってきたので、覚書として書き留めておきたいと思う。

 80年代初頭、大学生だった小田雅弘はじめとするモデラー集団「ストリームベース」は、当時のプラモ少年にとって、ガンプラブームを牽引するカリスマ集団だった。
 私たち小学生の間でも「ストリームベースの小田さん」と言えば、「世界一ザクを作るのが上手い人」だったのだ。
 とくにキットの胴体肩部分を「ハの字」にカットし、下から見上げた形にパースをつける加工法は衝撃で、日本中のガンプラファンが真似したのではないかと思う。
 同じ頃の私はと言えば本当に子供だったので、ガンプラ制作と言っても成型色以外をはみ出さずに塗ることで精いっぱい。
 ザクの肩のハの字切りは、果たせぬ夢だった。
 それからはるかに時は流れ、数年前にガンプラ復帰してから早々にハの字切りリベンジは果たした!

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 夢を果たしてみれば、土偶だなんだと言われる旧キットの、なんと愛しいことか。
 今風のカッコよさとは全然違うけど、意外と大河原設定画に忠実だし、足首無可動でもつま先形状のおかげで「一歩踏み出し」が決まるのだ!

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 小田さんと言えばなんと言ってもザクなのだが、それに匹敵する衝撃だったのが「HOW TO BUILD GUNDAM2」のジオング。
 今回の「ガンダムデイズ」によると、あのダークでメカニックな作例は、実はかなり突貫工事で、天井に張り付けた設定画を就寝前に夜ごと眺めながら制作されたとのこと。
 去年私が旧キットのジオング作った時も、やっぱり小田さんの伝説の作例が頭にあった。
 技術的に難しいことはできないのでとりあえず素組してみると、形状自体は全然悪くなかった。
 今でもジオングの改造素体としては安くて良いものではないかと思う。
 せめて塗りは頑張ろうと思い、小田さんのダークな色遣いや、大河原御大のポスターカラーイラストの筆遣いを参考に塗った。
 金属シャフトで可動が限られてるけど、見る角度によっては十分カッコよく、自己満足にふけることができた。

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 本を読んでいてちょっと衝撃だったのが、MSV第一弾の旧キット1/144 06Rのこと。
 最初期ガンプラで、子供心に色々不満があった旧キットのノーマルザクに比べ、小田さんの作例を模したと思しき06R は、箱絵も含めて本当にカッコよく見えて熱狂した。
 私たちガンプラ少年は、「これ、小田さんのザクや!」と感動したものだったが、ご本人はあのキットも箱絵も不本意で、結局一度も作らなかったそうだ。
 小田さんの「ザク愛」を、逆に強く感じるエピソードであった。

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 MSVシリーズで第二次ガンプラブームになり、小田さんご自身はジオン系にしか関心がなかったようだが、当時のメイン顧客はやはり小学生。
 膨大な数の小学生ファンのもたらす売り上げが、年齢層の高いジオン好きのマニア層の趣味を買い支えるという構図が既にあった。
 そして当時の私を含む小学生は、なんだかんだ言ってやっぱりガンダムを欲しがった。
 そこで「プラモ狂四郎」のパーフェクトガンダムと、小田さん、大河原御大の合作で出来たのが、MSVシリーズの「主役機」フルアーマーガンダムである。

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 年長ファンのザク愛と年少ファンのガンダム愛、その両輪が生んだあの奇跡については、今年先行して刊行された「MSVジェネレーション」(あさのまさひこ)関連記事で存分に語ったことがある。

 分岐点1983 その4


●「MSVジェネレーション ぼくたちのぼくたちによるぼくたちのための『ガンプラ革命』」あさのまさひこ(太田出版)

 今年はあれから35年のメモリアル。
 当時を振り返る書籍がいくつも刊行される年になった。

●「MSV THE FIRST」 (双葉社MOOK)
 83〜84年当時のMSVやMSXにまつわる設定画やパッケージアートを、大きいサイズのカラーでほぼ網羅してある。
 印刷物からのスキャンデータらしく、色味の精度はやや低いが、これだけの図版が一冊で揃うのは貴重。
 当時の関連年表や、関係者へのインタビューも豊富。

●「GUNDAM CENTURY RENEWAL VERSION―宇宙翔ける戦士達」(樹想社)
 ガンダム世界のSF考証の原点となった伝説の特集本。
 2000年に一度復刻されるも、長らく古書価格が高騰し、入手困難だった。
 しかしつい先ごろ樹想社の通販で、定価の半額の2000円+送料で通販が開始。
 何らかの事情あってのことかもしれないが、ここは「買って応援」の場面ではないだろうか。


 今年はtwitterで多くの凄腕モデラーの皆さんとも出会い、サブカルチャーについて様々に考えることのできた一年になった。
posted by 九郎 at 18:16| Comment(2) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2019年01月26日

大人目線でΖガンダム その1

 ものすごく遅ればせながら、「機動戦士ゼータガンダム」劇場版三部作を、DVDで通して観た。


●「機動戦士Zガンダム 劇場版三部作」

 元になったTV版を本放送で観たのが中学生の頃。
 以後まとまった形で視聴したことはなかったので、ちゃんと大人になってから「ゼータ」を視たのは初めてかもしれない。
 いい年こいて中二病をまだ引きずってたりするアホなおっさんなのだが、さすがにリアル中学生の頃よりは色々物事が分かるようになっていて、ストーリーやキャラクターについて「ああ、そういうことだったのか」とあらためて理解が追い付いたことも多かった。

 一番印象に残ったのは、シャアのダメダメさ(笑)
 これ、シャアの朴念仁が原因で、色々事態が悪化してたんですね。。。
 子どもの頃はそんなん全然わからんかった!

 劇場版ゼータ三部作は、1年分のTV シリーズを約五時間にダイジェストし、追加シーンとあわせて「新訳」したもの。
 TV版の尺の三分の二以上は採用されなかったことになるので、当然あれこれ収録されなかったシーンに気付く。
 中には「なぜこのシーンが入ってない?」と疑問の沸くTV 版の重要シーンも、いくつかある。

 たとえばTV版の冒頭、主人公カミーユが、名前の響きから女と勘違いしたジェリドに、いきなり殴り掛かるシーンがカットされている。
 このシーンはカミーユのややエキセントリックな性格設定が一発で伝わるとともに、物語最終盤まで続くジェリドとの因縁の発端で、普通ならカットするなど考えられないはずなのだが、バッサリ削られている。
 この時点で、カミーユの印象がかなり変わってくる。
 神経質な美少年のイメージが大幅に緩和されてくるのだ。
 TV版の膨大な情報量から切り離し、劇場版三部作だけでゼータを鑑賞すると、カミーユは随分「しっかりした子」に見えてくる。
 TV 版後半のロザミィとの悲劇的な関わりはまるごとカットされ、カツの「兄貴分」としてなにかと面倒見ているシーンが多く採用されており、「こんなに頑張っていたのか!」と強く印象付けられる。
 家族関係や自分の容姿に複雑な思いを抱きながら、だからこそ問題を抱えた少年少女のために敵味方を問わずあちこち奔走する、健気な姿が浮かび上がってくる。
 この構成ではTV 版のあの悲劇的なラストとは繋がらなくなるのは当然で、劇場版最大の「新訳」ポイント、TV版とは一見正反対のラストの方が、自然に感じられる。
 賛否のあるラストの改変も、わりと素直に「カミーユとファ、よかったなあ」と思えてくるのだ。

 しかーし!

 こちとら古参の富野ファン、すぐに黒い妄想がむくむくと頭をもたげてくる(苦笑)
 ラストのカミーユ、俺らの知るあのカミーユにしては、いくらなんでもまっすぐ過ぎないか?
 あれは一見ハッピーエンドに見えるけれども、カミーユの「変調」の表現という見方もできるのではないか?

 ……思い過ごしであってほしい。

     *     *     *

 劇場版ゼータは、他にも興味深い「新訳ポイント」があった。
 エマとヘンケンの関係もその一つ。
 昔TVで視ていた時の記憶では、確かヘンケンはエマにアプローチするものの、実らぬ恋のまま二人とも散ったという受け止め方をしていた。
 しかし劇場版を見返すと、追加されたカフェのシーンでエマの「女房気どり」みたいな微笑ましい描写があり、「あれ、いつの間に!」と少し救われた気分になった。

 追加シーンと自分自身の加齢により、昔は全然わからなかったレコアの寝返りも、少し理解できた気がする。
 あれは要するに、アーガマの少年少女に対して「勝手におまえらのおかんにすな!」という苛立ちもあったのではないか、とか。
 シャアまで煮えきらず女扱いされていないとなると、愛想をつかすのも仕方がないか、とか。
 他人に決して心を開かないシャアに、それでもゼータの時点で最も接近したのがレコアで、だからこそシャアの「見掛け倒し」に気付いてしまったのだろう。
 カミーユやファ、エマといった若いクルーに対しては、「姉貴分」として寝返った後でも身を案じてはいて、だからといって自分の意志を曲げると言うことはないのがレコアという人だった。
 ナチュラルに「おふくろさん」の役割を引き受けた例としてファーストのミライがいるが、それはあくまでそれぞれのキャラクターの違いで、「良い悪い」ではない。
 ただ、ミライの立ち位置は続編の中では空席のままになった感があり、ファーストとそれ以後の、それが一番大きな違いかもしれないとは思った。

 TV 版の最重要シーンでカットされているのは他にもあるが、中でも「シャアのダカール演説」が採用されなかったのは意外だった。
 ジオン・ダイクンの遺児が初めて表舞台に立った瞬間であり、宇宙世紀の歴史教科書があるとしたら必ず載りそうな出来事が、あっさりカット。
 これなども、「普通に考えれば」あり得ない編集である。
 劇場版の限られた尺の中で、カミーユとシャアはかなりクローズアップされている印象なのだが、そのベクトルは正反対。
 カミーユについては名誉回復、シャアは「見かけ倒しの朴念仁」の強調がされているようにも見える。
 そしてこの「新訳」は、続く物語の「逆襲のシャア」への、非常に巧みな橋渡しに見えてくるのだ。
(続く)
posted by 九郎 at 23:53| Comment(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2019年01月27日

大人目線でΖガンダム その2

 劇場版「Ζ」三部作は、膨大な情報量のTVシリーズを大幅にダイジェストし、追加シーンを加えることによって「新訳」したもの。
 カミーユとクワトロ大尉(シャア)の動向を軸に編集されていると見て間違いない。
 舞台になった「グリプス戦役」におけるカミーユの活躍は鮮烈に描き出されているが、シャアが結局何をしたかったのかというと、謎が残る。
 シャアの行動原理についてあらためて考えるため、一年戦争やそれ以前の時点に遡ってみよう。

 シャアは幼い頃から、周囲の大人に特殊な思想を刷り込まれた「カルトの子」だった。
 ジオンのカリスマ的指導者の長子として生まれ、父が暗殺された後は、権力争いに敗れた大人たちの一方的な情報で復讐心を植え付けられた。
 シャアの女性に対する煮え切らなさを、その生い立ち、特に母親の悲惨な死に結びつけたのは、安彦オリジンが最初だったと記憶している。
 安彦オリジンの功績は多岐に渡る。
 ジオン・ダイクンの幻想を剥ぎ、少々神懸りな「只の人」であったとしたところは、世に及ぼす影響力を自覚した、ちゃんとした大人の仕事だった。
 大人の女性に対しては朴念仁で一貫して見えるシャアが、年若い少女に対しては心を許すことについては、昔からあれこれ取沙汰されている(笑)
 一つの解釈として、本当は自分がしっかり守るべきだった妹アルテイシアを、一人残してしまったことに対する罪悪感、代償行為であったのかもしれない。
 誰に対しても心を開けない、常に緊張を強いられる人間関係の中、「年若い少女」は唯一の憩える領域だったのだろう。
 ただ、当然ながら少女はいつまでも少女のままではない。

 シャアの(とくに成熟した)女性に対する朴念仁ぶりは、幼い頃から美少年だったであろうことも関係しているかもしれない。
 プライドが高いタイプだと、煩わしさから逃れるために、女性に対して鈍感なのが習い性になったりする。
 このあたり、小説「幻魔大戦」の東丈と似ている感じもする。

 ファーストガンダムはカルトの子・シャアが、段階的に洗脳状態を食い破って行く物語と読むこともできる。
 ザビ家打倒を目的にジオン軍に潜入したシャアは、ターゲットに接近するほど、「敵を人間的には認めてしまう」という葛藤を抱える。
 ザビ家の面々は、付き合ってみればそれぞれに魅力的な個性を持っていたことだろう。
 友でもあったガルマを殺した時の心の痛みと後悔で、シャアは初めて「自分の親を殺したザビ」と「それ以外のザビ」の区別がついたのではないだろうか。
 ドズルやキシリアに対しても、ある種の敬意や情はあったはずだが、この二人はあくまで「討つべきザビ」だった。

 キシリアは、非常に限定的なものではあるけれども、シャアに対して母性を感じていた気配がある。
 アニメでは終盤のほんの短い会話の中で「キャスバル坊や」と口にし、富野監督による小説版では、幼いキャスバルとアルテイシアに対して「こんな子たちだったら自分も持ってみたい」という回想があった。

 ザビ家は「家風」である権力志向により、内輪で殺しあって、結局キシリアが生き残る。
 そのキシリアが最後にシャアに撃たれたのは、はっきり「油断」だった。
 実の兄ギレンを「意外と兄上も甘いようで」の一言で切り捨てたキシリアが、バズーカを担いだシャアを遠目に認めてすぐに回避行動をとらなかったのは、普通では考えられない失態である。
 想定できる原因はそんなに多くないはずで、キシリアがシャアに対して抱く母性の片鱗が、一瞬の判断を甘くしてしまったということだろう。

 キシリアを討った時点で、シャアの「カルトの子」として洗脳状態は一応解除される。
 それはドラゴンと化した太母を退治し、子が自立する構図ともシンクロして見える。
 ザビ家打倒という具体的で全力を尽くせる目的を失ったシャアには、「ジオン・ダイクンの理想」という空疎だけが残る。

 ガンダムの物語はやはり、一年戦争の終結で一旦は完全に終わっている。
 アムロは元々積極的に物語を引っ張るタイプではなく、「降りかかる火の粉は払う」だけの、リアクション型の主人公だった。
 実質物語を牽引していた陰の主役・シャアも、これ以上闘う理由を喪失している。
 一年戦争終結後のアムロとシャアをリアルに描くなら、「それぞれの自分探し」から始める以外にはありえないのだ。
 実際「Ζ」での二人には、本格的な活躍前にグズグズともたついたまま、放映期間が過ぎてしまった感があった。
 当時はなんとなくそれが不満だったが、今考えると「無理もない」と納得できる。

 ファーストであれだけの密度の人物描写をやってしまった以上、続編で相応の動機付けもないままにシャアやアムロをドタバタ動かしてしまうことなど、できようはずもなかったのだ。
(続く)

posted by 九郎 at 22:08| Comment(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2019年01月31日

大人目線でΖガンダム その3

 ファーストとゼータの間の空白期間、シャアはジオン残党の籠るアクシズで、天才少女ハマーンと出会っている。
 ララアの場合と同じく、大切に育てたであろうことは想像に難くない。
 ハマーンの少女時代の姿も回想されているが、髪質からか、ちょっとシャアの妹のセイラに似た髪形になっているのが、なんとも言えず「ザワザワ」して感じられる。
 成長後のハマーンが髪形を変えていないことがまた「ザワザワ」する。
 シャアがアクシズを抜けて地球圏に戻った理由は色々断片的に語られているけれども、一番大きかったのは、「予想外に強力に成長したハマーンから逃げた」かもしれない。

 ジオン残党にしてみれば、シャアに期待したのは「先頭に立ってジオン・ダイクンの理想を継ぐこと」だっただろう。
 しかし当人にとってみれば、

「(´・ω・`)知らんがな」

 としか言いようがなかったはずだ。

「だってそれ、中身なんにもないやん。それに俺、兵隊の訓練しかしてへんし……」

 自身の洗脳は解けても、周りのジオン残党はカルト状態。
 可愛がっていたハマーンは少女じゃなくなり、やりたくもないカリスマ的リーダー像を押し付けてくる。
 居心地が悪くなったシャアは、色々もっともらしい理屈をつけてアクシズから脱出、「正体を隠した士官」という慣れ親しんだ身分へと逃避したのではないだろうか。

 クワトロ大尉に変身したシャアは、MSパイロットという自分の得意分野で活躍の場が得られる。
 かつての「ザビ家打倒」のような明確な目的はないままだが、それなりに充実した日々だったことだろう。
 ジオンの遺児キャスバルであることを本気で隠していた一年戦争時と違い、クワトロ時代のシャアはむしろ「シャアだと気付いて欲しいオーラ」出しまくりにも見える。
 そもそも隠す気なら、赤いMSに乗ったりしないだろう(苦笑)
 昔、既に大御所だったキヨシローがたまに変装して路上ライブをやっていて、あんまり客が集まらない業を煮やしてヒット曲演ったりするという逸話があった。
 ゼータのクワトロ仮面はそのレベルに見える。
 ちょっと謎めいた人物像でふんわり正体を隠し、たった一つだけ身に付いた自前の技能であるMSパイロットでそれなりの活躍が出来て、シャアはその激動の人生の中で例外的な安息の日々を送っていたのではないだろうか。

 周囲にしてみれば、「どうやらシャアっぽい」人物が連邦に潜入して、表面上何事もないかの如く振舞っているのを見れば「何を意図しているのか?」「何か大きなことをやろうとしているのではないか?」と過剰に想像を巡らしてしまう。
 それは私たちTV放映当時のファンも同様だった。
 しかし今振り返ってみるとよくわかるのだが、この時点でのシャアは、実は本当に何も考えていなかったのだ!
「思わせぶりにグラサンかけて、なんもないんかい!」
 いち早く、もっとも正確にクワトロの「見掛け倒し」を見抜いたのが、レコアだったのだろう。

 しかしそんなシャアのモラトリアムの日々も、長くは続かない。
 頼みにしていた自分のMS操縦技術に疑念が生じる事態が続発してくる。
 ゼータの物語も終盤に入った頃、勝負所でメガバズーカランチャーを外してしまったあたりから、シャアのアイデンティティは大きく揺らいでいたのではないか。
 赤い彗星時代の自分なら、決して外さなかったはずの場面である。
 自分が衰えたとは思いたくない。
 しかし事実として、高性能MSを駆る強敵は際限なく現れ、MS戦でかつてのような圧倒的優位は示せなくなってきている。
 かつてのライバル、アムロに苦戦するならともかく、他の人間たちに苦戦する日がこようとは、夢にも思わなかったのではないだろうか。
 何かが狂い始めている焦燥を、シャアは感じ始めていたはずだ。

 ティターンズという連邦内のカルト集団と対峙する流れの中、やがてシャアは、ハマーンとも再会することになる。
 アクシズのジオン残党を率いて再会したハマーンは、当初はシャアを抱き込む気満々だったようだ。
 成長した自分が微妙に距離を置かれていることにはもちろん気付いているので、シャアの保護欲をそそるNEW少女・ミネバも同行させている所がちょっと怖い。
 シャアにとってミネバは、保護欲と同時に贖罪の意識もかき立てる存在で、加えて自分と同じく周囲の大人に利用される「カルトの子」でもあった。
 一目見た瞬間からシャアはミネバの境遇に同情し、気にかけ始める。
 ここまではハマーンの計算通り。
 シャアはけっこうチョロいのだ。
 ハマーン側に感情移入してみると、ありえないほどの譲歩でシャアを呼び戻そうとしているのがわかる。

――さあこれでフラフラするのはやめて自分に協力してくれ。
――なんなら今からでも指導者に。

 ところが朴念仁シャアは、そんなハマーンの全力の譲歩を無視し、幼いミネバの担ぎ出しを逆に非難し始める。

 ハマーン「はあ(# ゚Д゚)?!」

 結局シャアとハマーンは決裂、MSで直接対決する羽目に。
 ハマーンが駆るキュベレイは、小型化され、サイコミュによるオールレンジ攻撃と格闘戦を同時に可能にした、おそらく最強クラスのMSだった。
 ゼータの時点ではかすり傷一つ負わず、TV版の次シリーズであるダブルゼータのラスト時点でも、戦闘力ではっきりと敗北した訳ではないほどの高性能機だった。
 かつての「エルメスのララァ」の完成形と戦うことになったのは、シャアにとっては悪夢だったことだろう。
 ハマーンの猛攻に、さすがのシャアも防戦一方。
 もちろんシャアの駈るMS「百式」の機体性能の圧倒的不利もあるが、それ以前にモチベーションに差がありすぎた。
 自分探し君と、カルト的信念に支えられた天才では、土台勝負にならないのだ。
 加えて、ハマーンはシャアの朴念仁にキレていた。

「まだだ! まだ終わらんよ!」

 キュベレイにズタボロにされたシャアの、歴史的「捨て台詞」である。
 まさかあの赤い彗星が、池乃めだか師匠の「よっしゃ、今日はこれぐらいにしといたるわ!」みたいなセリフを口にする日が来るとは……
 マンガ「刃牙」で花山薫にボコボコにされた愚地克己が、半泣きで「死ぬか」とつぶやいた様とも似ている。

 ハマーンとの戦いに完敗したシャアは、その後、劇場版「逆襲のシャア」まで姿をくらます。
 意地悪な見方をするなら、ハマーンがいる間は表に出られなかったのではないか。
 「優秀なMS パイロット」という一点を拠り所に自分探しをしていたシャアにとって、この敗北はとてつもなく大きかったのではないだろうか。
 加えて、もう一人の強敵シロッコには女を寝取られ、そのシロッコに対しても自分でケジメを付けられないままに、若造扱いしていたカミーユに決着をつけられてしまう。
 プライドの高い人間にとって、この無様な敗北は自我が崩壊していても不思議ではないのだ。

*     *     *

 ゼータ以降の潜伏から逆襲に至るまでのシャアの心情は謎に包まれている。
 シャアはどのように自分を再建したのか。
 いずれまた「逆襲のシャア」をじっくり観賞した折に、あれこれ想像してみたいと思う。
(「大人目線でΖガンダム」の章、了)
posted by 九郎 at 00:27| Comment(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする