(カテゴリサブカルチャーにおいて、ガンダムについて語り続けている)
1979年放映のTVアニメ「機動戦士ガンダム」は、あくまで「子供向け」という建前を持つ作品だった。
TVアニメは当時すでに歴史を重ねており、子供時代を過ぎても視聴を続けるファン層は存在していたが、まだまだマニアックな部類だった。
なにせ「おたく」というカテゴリーがまだ生まれていなかった時代のことである。
ロボットアニメは玩具メーカーの提供番組であり、「おもちゃを売るための30分コマーシャル」という側面を、子供番組の宿命として持っていた。
そうした制約の中でも、作り手は商業と「ドラマ作り」を両立させようと奮闘し、数々の名作が生まれてきたのだ。
ガンダムが画期的であった点は様々にあるが、子供向けのロボットアニメの中で、局地戦である「battle」にとどまらない、政治・統治を含めた「war」が描かれた点は特筆されてよいと思う。
Battleとwarの違いについては、以前にもいくつかの記事で述べてきた。
battleとwar
漫画「センゴク」シリーズ
ガンダムのストーリーの骨格部分を私なりに要約すると、以下のようになる。
「宇宙移民の一部と地球連邦の間に勃発した独立戦争に巻き込まれた民間人の少年少女達が、緊急避難した連邦側の戦艦で、戦争終結まで従軍を余儀なくされたサバイバル・ストーリー」
作品内の尺は、視聴者である「子供」にも理解されやすいよう、局地戦であるbattle、それもモビルスーツによる白兵戦に多くを割かれている。
しかしそうした局地戦がどのような政治・軍事情勢の中で行われているかという点も、作品の端々で匂わされており、年長の視聴者がそうしたwarの領域を、想像であれこれ埋めるための材料が、各所にちりばめられていた。
宇宙移民の独立運動、カリスマ的なリーダーであるジオン・ズム・ダイクン、カリスマから権力を簒奪した政治家一族のザビ家、ジオンの遺児であるダークヒーロー・シャアの存在など、とくに「敵側」であるジオン公国には「政治劇」の要素がこれでもかとばかりに用意されていて、作品の表面にあまり表れなくても、実はストーリーの流れを裏から決定付けていたのだ。
だからこそ、放映からそろそろ四十年の節目が見えてきた今でも、いい年こいたかつてのガンプラ少年達が、「大人になってわかったこと」を語り続けられる作品になっているのだ。
TVアニメの中では表面上あまり描かれなかった「政治劇としてのガンダム」は、放送終了後発表されたいくつかの作品に、わりと濃密に描かれている。
まず挙げられるのは、放送終了直後に刊行された、富野監督自身の筆による「小説版」だ。
この小説については、いずれ機会をあらためて詳しく紹介したい。
そして近年の作品では、富野、大河原とともにガンダムの立役者である安彦良和によるマンガ作品「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」がある。
2011年に完結した作品だが、この作品のアニメ版(ちょっとややこしい……)が公開されたので、それに合わせて今年コンビニ版でも全編刊行された。
このマンガ版の特色は、原典になったTVアニメ版の空白部分、ジオンの家系とザビ家、ラル家の因縁が、「前日譚」としてがっちりページ数を割いて描かれている点だ。(今現在、順次アニメ化が進行しているのも、この部分である)
単行本では第9巻から6冊分くらいがそれにあたり、きわめて整合性をもちながら読み応えもある政治劇になっている。
この辺りはマンガ家として数々の歴史モノ、政治モノを手掛け、「大枠の決まったストーリーに血を通わせる」ことに熟達した安彦良和の持ち味が、いかんなく発揮されている。
この前日譚が素晴らしいのは、アニメ版と重複する他の部分のストーリー全てを、シャアの視点からもう一度、新鮮な感覚で読み直すことができるという点だ。
この構図は、映画スターウオーズ・シリーズを思い出させる。
新三部作(エピソード1〜3)が描かれることによって、旧三部作(エピソード4〜6)が、ダースベイダーであるアナキンの視点からもう一度新鮮味を持って味わえるという、巧妙にして贅沢なドラマの作り方があった。
おそらく安彦良和は意識的にそのような狙いをもって「前日譚」を挿入したのだろう。
単なる「コミカライズ」に留まらない面白さがこのマンガ版にはあるので、まだ読んでいないかつてのガンダム少年・少女は、今からでも遅くないから是非とも手に取ってみるべきだと思う。
(あれこれ空白部分を想像するのが楽しかった大人のガンダムファンにとっては、かなり強力な「正解」を叩きつけられたようなものになるので賛否があることは、一応付記しておく)
この年末年始のまとめ読みにもお勧めである。

2016年12月23日
2016年12月24日
旧キット 1/144 シャア専用ズゴック
世間はクリスマスイブか。
まあクリスマスカラーの「赤」つながりということで、強引にこの記事(笑)
80年代初頭に少年期を過ごした者の心に刻印されたキーワード。
それは、「シャア専用」!
何らかのアイテムを購入しようとしたとき、いつもよぎるのは「赤いバージョンは無いのか?」という甘美な誘惑。
しかし、実際買うとなるとやはり成人男性の日用品に「赤」の敷居は高く、無難にブラックやシルバー等を選んでしまい、揺れ動く心(笑)
それでもおっさんになってからガンプラ復帰すると、やっぱり作りたくなるのはシャア専用機からだ。
おっさんが日常生活で使うアイテムに「赤」は馴染まなくとも、一人密かに作って楽しむプラモなら、安心してシャア専用に手を伸ばせる。
さっそく基本中の基本、300円のシャアザクは作ってみた。
次にシャア専用機を作るなら、順番から言えばズゴック。
これも昔のプラモが、かわらぬ定価300円で今でも買える。(タイミング次第ではアマゾンのリンクで高値がついている場合もあるが、真に受けないように!)
成型色はシャア専用機の薄い方の色、ピンク一色である。
どうせ全塗装にするなら、造形的には同一で、成型色が暗めのグレーの量産型ズゴックの方が、何かと工作しやすいという考え方もある。
実は私も今回は、量産型を塗り替えてシャア専用にした。
前回制作したシャアザクは、アニメの配色をリスペクトして「薄ピンクと小豆色」を基本に、彩度を落として塗装した。
今回はちょっと趣向を変え、メカニックデザイン担当の大河原邦男が、映画版用に描いたポスターの配色、塗り方を参考にしてみる方針を立てる。
大河原ポスターの中のシャア専用機は、「赤い彗星」の異名通りの「真っ赤」に塗られていたのだ。
アニメの中のシャア専用機がなぜ「赤」ではなく「薄ピンクと小豆色」であるかということは、前回のシャアザクの記事中で少し考察している。
大河原邦男がポスターイラストで「ピンク」を避けた理由も、絵描き目線で見るとなんとなくわかる気がする。
ピンクとか肌色等の薄い褐色は、混色して作ったときの発色や、印刷した時の再現性が、けっこう難しいのだ。
動きの無いポスターでリアルなカッコ良さを出すなら、赤みを強くした方がベターだというのは、順当な判断だと感じる。
で、今回はズゴックを映画版三部作のパートU「哀・戦士編」のポスター風に、筆跡活かしで真っ赤に塗ってみた。
かつてのガンプラ少年ならこの説明で「ああ、あの爪が四本あるズゴックね」と分かってもらえると思うが、よくわからない場合は「ガンダム 哀戦士 ポスター」で画像検索。
例によって旧キット素組み、黒立ち上げのアクリルガッシュ筆塗りである。

こういう冒険、実験ができるのも、300円の旧キットならでは。
爪は三本のままで失礼。
いい感じで茹で上がり、爪あたりが美味そうな感じ。
旧キットは「仰ぎ見るアングル」で大方の造形的な欠点は消えてくれる。

とは言え、このズゴックは当時から出来が良いので有名だった。

可動は時代なりだが、バランスが良いのでこんなポーズも取れた。

何年か前に気の迷いで買ってしまった新キット、HGUCシャア専用ズゴックと並べると、こんな感じ。

はいはい、カッコいい、カッコいい。
新キットがカッコ良くて、よく動いて、素組みで塗装なしでも色分けOKなのは知ってますって!
GMのどてっぱらをぶち抜いたあのポーズもできるし、初期のHGUCだったらさほど値段も高くないし、堅気の衆はまあこっちを買いましょうね。
ちなみに1/144ズゴックは、さらに上位バージョンのRG(リアルグレード)も発売済み。
でもね、私が欲しいのは「素組でカッコいい可動フィギュア」じゃないのです。
遠い遠いあの頃、ズゴックの立体がこの世に存在しない状態から、子供でも買える300円、子供でも作れるシンプルなパーツ割りという制約の中、これだけの造形物が世に送り出されたことに改めて感動したいのです。
だから年若いガンプラファンが、様々に技術が発達し、価格の制約も外れた状態で発売された新キットと比較して、旧キットの欠点を色々あげつらうのを見かけると、本当に腹立ちます。
残念ながらそういうワカゾーには、「物作り」の何たるかがわかる日は来ないでしょう。
ひとつ、またひとつと、おっさんの心のリハビリは続く……

この他のプラモ・フィギュア作例については、以下のまとめ記事を参照!
プラモ・フィギュア作例まとめ
まあクリスマスカラーの「赤」つながりということで、強引にこの記事(笑)
80年代初頭に少年期を過ごした者の心に刻印されたキーワード。
それは、「シャア専用」!
何らかのアイテムを購入しようとしたとき、いつもよぎるのは「赤いバージョンは無いのか?」という甘美な誘惑。
しかし、実際買うとなるとやはり成人男性の日用品に「赤」の敷居は高く、無難にブラックやシルバー等を選んでしまい、揺れ動く心(笑)
それでもおっさんになってからガンプラ復帰すると、やっぱり作りたくなるのはシャア専用機からだ。
おっさんが日常生活で使うアイテムに「赤」は馴染まなくとも、一人密かに作って楽しむプラモなら、安心してシャア専用に手を伸ばせる。
さっそく基本中の基本、300円のシャアザクは作ってみた。
次にシャア専用機を作るなら、順番から言えばズゴック。
これも昔のプラモが、かわらぬ定価300円で今でも買える。(タイミング次第ではアマゾンのリンクで高値がついている場合もあるが、真に受けないように!)
成型色はシャア専用機の薄い方の色、ピンク一色である。
どうせ全塗装にするなら、造形的には同一で、成型色が暗めのグレーの量産型ズゴックの方が、何かと工作しやすいという考え方もある。
実は私も今回は、量産型を塗り替えてシャア専用にした。
前回制作したシャアザクは、アニメの配色をリスペクトして「薄ピンクと小豆色」を基本に、彩度を落として塗装した。
今回はちょっと趣向を変え、メカニックデザイン担当の大河原邦男が、映画版用に描いたポスターの配色、塗り方を参考にしてみる方針を立てる。
大河原ポスターの中のシャア専用機は、「赤い彗星」の異名通りの「真っ赤」に塗られていたのだ。
アニメの中のシャア専用機がなぜ「赤」ではなく「薄ピンクと小豆色」であるかということは、前回のシャアザクの記事中で少し考察している。
大河原邦男がポスターイラストで「ピンク」を避けた理由も、絵描き目線で見るとなんとなくわかる気がする。
ピンクとか肌色等の薄い褐色は、混色して作ったときの発色や、印刷した時の再現性が、けっこう難しいのだ。
動きの無いポスターでリアルなカッコ良さを出すなら、赤みを強くした方がベターだというのは、順当な判断だと感じる。
で、今回はズゴックを映画版三部作のパートU「哀・戦士編」のポスター風に、筆跡活かしで真っ赤に塗ってみた。
かつてのガンプラ少年ならこの説明で「ああ、あの爪が四本あるズゴックね」と分かってもらえると思うが、よくわからない場合は「ガンダム 哀戦士 ポスター」で画像検索。
例によって旧キット素組み、黒立ち上げのアクリルガッシュ筆塗りである。

こういう冒険、実験ができるのも、300円の旧キットならでは。
爪は三本のままで失礼。
いい感じで茹で上がり、爪あたりが美味そうな感じ。
旧キットは「仰ぎ見るアングル」で大方の造形的な欠点は消えてくれる。

とは言え、このズゴックは当時から出来が良いので有名だった。

可動は時代なりだが、バランスが良いのでこんなポーズも取れた。

何年か前に気の迷いで買ってしまった新キット、HGUCシャア専用ズゴックと並べると、こんな感じ。

はいはい、カッコいい、カッコいい。
新キットがカッコ良くて、よく動いて、素組みで塗装なしでも色分けOKなのは知ってますって!
GMのどてっぱらをぶち抜いたあのポーズもできるし、初期のHGUCだったらさほど値段も高くないし、堅気の衆はまあこっちを買いましょうね。
ちなみに1/144ズゴックは、さらに上位バージョンのRG(リアルグレード)も発売済み。
でもね、私が欲しいのは「素組でカッコいい可動フィギュア」じゃないのです。
遠い遠いあの頃、ズゴックの立体がこの世に存在しない状態から、子供でも買える300円、子供でも作れるシンプルなパーツ割りという制約の中、これだけの造形物が世に送り出されたことに改めて感動したいのです。
だから年若いガンプラファンが、様々に技術が発達し、価格の制約も外れた状態で発売された新キットと比較して、旧キットの欠点を色々あげつらうのを見かけると、本当に腹立ちます。
残念ながらそういうワカゾーには、「物作り」の何たるかがわかる日は来ないでしょう。
ひとつ、またひとつと、おっさんの心のリハビリは続く……

この他のプラモ・フィギュア作例については、以下のまとめ記事を参照!
プラモ・フィギュア作例まとめ
2017年01月06日
「スーパーロボット」の誕生
そもそも日本のTVアニメはロボットアニメから始まった。
言わずと知れた「鉄腕アトム」(1963年〜)である。
手塚治虫によって、週一回30分枠のアニメ制作が可能であること、それがどうやらビジネスに結びつくらしいことが実証されたのだが、それは多分に「マンガの神様」の天才と狂気に負うところが大きかった。
手塚治虫は日本のマンガ・アニメの生みの親であると同時に、現在のアニメ制作現場が抱える様々な問題点、劣悪な労働環境も生み出してしまったのだが、それはまた別の話。
作品そのものに含まれる要素で考えるなら、「鉄腕アトム」には後のロボットアニメに継承される根幹部分は全てそろっていた。
等身大ロボット、巨大ロボット・バトル、メディアミックス、キャラクターグッズ展開など、後発のロボットアニメは「アトム」の要素を受け継ぎ、一部抽出したり新たな要素を次々に添付することで発展したと言ってよいだろう。
巨大ロボット・バトルの要素を抽出し、「人間が操る」という要素を加えれば「鉄人28号」になり、「兵器としての操縦型巨大ロボット」の流れができた。
コミュニケーション可能な等身大ロボットの要素は、「人間と機械の融合」という要素を加えた「エイトマン」をはじめ、サイボーグテーマのマンガやアニメ、特撮作品に継承されて行った。
アトム以降のロボットアニメを新次元に進化させた例としては、なんといっても永井豪の「マジンガーZ」(1972年〜)が挙げられる。
時代的にはアニメもマンガも「スポ根モノ」の全盛期で、手塚から始まるSF路線、ロボット路線の人気が低迷していた時期である。
そんな時期に再び子供の興味を巨大ロボットに引き戻したのが、「マジンガーZ」だったのだ。
手塚から石ノ森章太郎、永井豪へと続くラインは、ある意味で日本のSFマンガの直系とも言えるだろう。
先行するロボットモノの要素を継承しながら、「マジンガーZ」から独自に創出された要素も数多い。
何よりもまず、実際に人が乗り込む「搭乗型巨大ロボット」であることが特筆される。
これにより、鉄人28号の遠隔操作型より主人公との一体感が増し、バトル描写に臨場感が生まれたのだ。
人体を十倍に拡大した18m前後の設定、コクピットを兼ねた小型戦闘機との合体、飛行ユニットとの合体も、既に「マジンガーZ」から始まっている。
他にも、
・下手すると悪役に見えてしまいそうな悪魔的なデザイン。
・新素材や新エネルギーによる高性能化の理屈付け。
・続編である「グレートマジンガー」まで含めると、主役機の交代劇。
・同じく永井豪率いるダイナミックプロ原作の「ゲッターロボ」まで含めると、複数のチームマシンによる変形合体。
などなど、後のロボットアニメにも継承される「ウケる」要素が、これでもかというほど「マジンガーZ」をはじめとする一連のダイナミックプロ原案の作品で創出された。
他ならぬ「スーパーロボット」という呼称自体が「Z」の主題歌の歌詞の一節で、勇ましく戦闘的なアニメソングの系譜も同じ主題歌から始まったのだ。
そしてこれらのダイナミックプロによるスーパーロボット作品は、TVアニメ先行の企画であった。
マンガ版は必ずしも「原作」ではなく、アニメ版と並行した別作品という体裁になっている。
こうした構図はほぼ同時期に制作された石ノ森章太郎原作の特撮番組「仮面ライダー」等とも共通している。
(TVアニメと並行したマンガ版が、マンガ家のSF的「暴走」により、制約の多いアニメとはかけ離れた展開を見せることもあり、そちらもかなり興味深いテーマなのだが、今回は省略)
マジンガーZは玩具にも進化をもたらした。
ダイカスト素材を使用した頑丈で重量感のある「超合金」と、軽量で比較的大型のソフトビニール製玩具は、以後のスーパーロボットアニメの定番アイテムになり、おもちゃメーカーが作品を提供するビジネスモデルが確立した。
30分枠の一話完結方式で主役ロボットが活躍する構図は、「ロボットプロレス」と言われながらも多くの作品を生み、私はまさにその全盛期に子供時代を過ごしたのだ。
今から五年前の「マジンガーZ生誕40周年」の時に描いたのが以下の一枚。

記憶と勢いだけで描いたのでさすがに細部は間違っているが、子供の頃の「お絵かき」は、やはり自分の絵柄の基礎になっていると感じる。
TVアニメのアナザーストーリーにあたるマンガ版のマジンガーについては、以下の記事を参照。
空にそびえる鉄の城1
空にそびえる鉄の城2
近年、永井豪自身が過去の有名作の創作秘話を明かすマンガも制作されている。
マジンガーZについては、以下に詳述されている。
●「激マン!マジンガーZ編」永井豪とダイナミックプロ(ニチブンコミックス)
おそらく全五巻。
マンガ内マンガとして、マジンガーZを今の作画密度で描き直したものがかなり挿入されている。
言わずと知れた「鉄腕アトム」(1963年〜)である。
手塚治虫によって、週一回30分枠のアニメ制作が可能であること、それがどうやらビジネスに結びつくらしいことが実証されたのだが、それは多分に「マンガの神様」の天才と狂気に負うところが大きかった。
手塚治虫は日本のマンガ・アニメの生みの親であると同時に、現在のアニメ制作現場が抱える様々な問題点、劣悪な労働環境も生み出してしまったのだが、それはまた別の話。
作品そのものに含まれる要素で考えるなら、「鉄腕アトム」には後のロボットアニメに継承される根幹部分は全てそろっていた。
等身大ロボット、巨大ロボット・バトル、メディアミックス、キャラクターグッズ展開など、後発のロボットアニメは「アトム」の要素を受け継ぎ、一部抽出したり新たな要素を次々に添付することで発展したと言ってよいだろう。
巨大ロボット・バトルの要素を抽出し、「人間が操る」という要素を加えれば「鉄人28号」になり、「兵器としての操縦型巨大ロボット」の流れができた。
コミュニケーション可能な等身大ロボットの要素は、「人間と機械の融合」という要素を加えた「エイトマン」をはじめ、サイボーグテーマのマンガやアニメ、特撮作品に継承されて行った。
アトム以降のロボットアニメを新次元に進化させた例としては、なんといっても永井豪の「マジンガーZ」(1972年〜)が挙げられる。
時代的にはアニメもマンガも「スポ根モノ」の全盛期で、手塚から始まるSF路線、ロボット路線の人気が低迷していた時期である。
そんな時期に再び子供の興味を巨大ロボットに引き戻したのが、「マジンガーZ」だったのだ。
手塚から石ノ森章太郎、永井豪へと続くラインは、ある意味で日本のSFマンガの直系とも言えるだろう。
先行するロボットモノの要素を継承しながら、「マジンガーZ」から独自に創出された要素も数多い。
何よりもまず、実際に人が乗り込む「搭乗型巨大ロボット」であることが特筆される。
これにより、鉄人28号の遠隔操作型より主人公との一体感が増し、バトル描写に臨場感が生まれたのだ。
人体を十倍に拡大した18m前後の設定、コクピットを兼ねた小型戦闘機との合体、飛行ユニットとの合体も、既に「マジンガーZ」から始まっている。
他にも、
・下手すると悪役に見えてしまいそうな悪魔的なデザイン。
・新素材や新エネルギーによる高性能化の理屈付け。
・続編である「グレートマジンガー」まで含めると、主役機の交代劇。
・同じく永井豪率いるダイナミックプロ原作の「ゲッターロボ」まで含めると、複数のチームマシンによる変形合体。
などなど、後のロボットアニメにも継承される「ウケる」要素が、これでもかというほど「マジンガーZ」をはじめとする一連のダイナミックプロ原案の作品で創出された。
他ならぬ「スーパーロボット」という呼称自体が「Z」の主題歌の歌詞の一節で、勇ましく戦闘的なアニメソングの系譜も同じ主題歌から始まったのだ。
そしてこれらのダイナミックプロによるスーパーロボット作品は、TVアニメ先行の企画であった。
マンガ版は必ずしも「原作」ではなく、アニメ版と並行した別作品という体裁になっている。
こうした構図はほぼ同時期に制作された石ノ森章太郎原作の特撮番組「仮面ライダー」等とも共通している。
(TVアニメと並行したマンガ版が、マンガ家のSF的「暴走」により、制約の多いアニメとはかけ離れた展開を見せることもあり、そちらもかなり興味深いテーマなのだが、今回は省略)
マジンガーZは玩具にも進化をもたらした。
ダイカスト素材を使用した頑丈で重量感のある「超合金」と、軽量で比較的大型のソフトビニール製玩具は、以後のスーパーロボットアニメの定番アイテムになり、おもちゃメーカーが作品を提供するビジネスモデルが確立した。
30分枠の一話完結方式で主役ロボットが活躍する構図は、「ロボットプロレス」と言われながらも多くの作品を生み、私はまさにその全盛期に子供時代を過ごしたのだ。
今から五年前の「マジンガーZ生誕40周年」の時に描いたのが以下の一枚。

記憶と勢いだけで描いたのでさすがに細部は間違っているが、子供の頃の「お絵かき」は、やはり自分の絵柄の基礎になっていると感じる。
TVアニメのアナザーストーリーにあたるマンガ版のマジンガーについては、以下の記事を参照。
空にそびえる鉄の城1
空にそびえる鉄の城2
近年、永井豪自身が過去の有名作の創作秘話を明かすマンガも制作されている。
マジンガーZについては、以下に詳述されている。
●「激マン!マジンガーZ編」永井豪とダイナミックプロ(ニチブンコミックス)
おそらく全五巻。
マンガ内マンガとして、マジンガーZを今の作画密度で描き直したものがかなり挿入されている。
2017年01月07日
玩具の進化とリアルな描写の導入
スーパーロボットの生みの親である永井豪とダイナミックプロのデザインは、シンプルで力強く、ちょっと悪魔的な魅力もあり、子供の心を鷲掴みにするものだったけれども、立体物になったときの整合性は、必ずしも考慮されていなかった。
そもそも企画・デザイン段階では「玩具を売って儲けを出す」というビジネスモデルを前提にしていなかったのだから、これは仕方がない面もある。
マンガやアニメのマジンガーZをデザインそのままに立体化しても、「ポーズをつける」という遊び方はほとんど見込めなかった。
出来てもせいぜい腕の前後スイングや、首を左右にふるくらいのもので、実際出来上がった超合金やソフビの玩具も、まさにその程度の関節可動しかなかったのだ。
ましてやゲッターロボの複雑な変形合体などは全く不可能だった。
ビジネスモデルが確立し、玩具の販売がTVアニメ企画の前提になると、実際に立体化された時の整合性や、変形合体が可能なデザインが求められるようになった。
そうしたニーズをデザインに反映させることに成功したのが、後の「ガンダム」のメカニックデザインを担当することになる大河原邦男や、「スタジオぬえ」等のメカニックデザイン専門のスタッフだった。
日本の物作りの伝統は「たかがロボットの玩具」にも十分に発揮され、アニメで見るのと近いレベルの変形合体が、玩具でも再現されるようになった。
ただ、ダイカスト製の「超合金」は、複雑な変形合体を再現したものほど大型化し、高価になりやすく、子供の小遣いでは容易に買えない「高嶺の花」になっていった。
高額化した超合金の廉価版という意味合いで、変形や色分け、耐久性を多少犠牲にしたプラスティック製玩具も発売されるようになり、組み立て式のプラモデルもその中の一つだった。
一話完結の「ロボットプロレス」アニメは、低年齢の子供にも分かりやすい魅力があったが、ある程度の年齢になると視聴者や玩具の消費者としては「卒業」していくのが通例だった。
そうした卒業組を、視聴者として再びTVアニメに呼び戻せるだけのドラマ性、デザイン性を盛り込むことに成功したのがアニメ「宇宙戦艦ヤマト」だった。
ヤマトには「巨大ロボ」こそ登場しなかったが、作中の宇宙戦艦、戦闘機のデザインは、実在の艦船や戦闘機などのメカニックを元にSF的に洗練したもので、目の肥えた年齢層にも十分届いた。
ヤマトのメカニックデザインの主導権が誰にあったかということには諸説あるが、マンガ家の松本零士は生粋のミリタリーマニア、プラモデルマニアであり、スタジオぬえはSF考証や最新技術の反映に長けていた。
共同作業による効果があったということで良いのではないかと思う。
プラモデル化した時の見栄えも良く、後にガンプラを制作することになるバンダイは、ヤマトシリーズの宇宙戦艦や戦闘機等を多数手がけることで、リアルなSFモデルを立体化させる経験値を蓄積させ、市場を開拓していった。
ロボットアニメはロボットアニメで、低年齢層をターゲットに新作が作られ続け、「玩具の30分CM」という制約の枠内ではあるけれども、可能な限りドラマ性を盛り込むことが模索され続けた。
当時のロボットアニメがいかに高度なドラマ性を持ち始めていたかということは、以前に一度記事にした音がある。
フェイクがどうした!
そんな流れの中で異能を発揮していったのが、「勇者ライディーン」「無敵超人ザンボット3」等で活躍した監督・富野喜幸であり、キャラクターデザイン・安彦良和だった。
富野、安彦、そしてメカニックデザインの大河原邦男は、後に「ガンダム」で合流し、ロボットアニメにマジンガーZ以来の二度目の劇的な進化をもたらし、空前のガンプラブームを勃発させることになったのだ。
ただ、ガンダムで起こった劇的進化は、作品を創り上げたスタッフの異能だけではなく、玩具メーカーの技術発展、視聴する側・玩具を消費する側の成熟など、全ての条件がタイミングよく結集した結果であったとも言える。
何かの作品が爆発的にヒットするということには、その作品の質と共に、広く受容される機運のようなものが不可欠なのだ。
70年代のロボットアニメはまさに「スーパーロボット」の時代だった。
そこから80年代の「リアルロボット」へと再度進化する過程は、やはりその中心近くにいたメカニックデザイナー・大河原邦男の軌跡を追うことで理解しやすくなる。
●「メカニックデザイナーの仕事論 ヤッターマン、ガンダムを描いた職人」大河原邦男(光文社新書)
昨年2016年から開催されている大規模な「大河原邦男展」の図録も素晴らしい。
大河原邦男展
現在、九州で開催中の模様。
生頼範義展と言い、今九州がアツいのか……
そもそも企画・デザイン段階では「玩具を売って儲けを出す」というビジネスモデルを前提にしていなかったのだから、これは仕方がない面もある。
マンガやアニメのマジンガーZをデザインそのままに立体化しても、「ポーズをつける」という遊び方はほとんど見込めなかった。
出来てもせいぜい腕の前後スイングや、首を左右にふるくらいのもので、実際出来上がった超合金やソフビの玩具も、まさにその程度の関節可動しかなかったのだ。
ましてやゲッターロボの複雑な変形合体などは全く不可能だった。
ビジネスモデルが確立し、玩具の販売がTVアニメ企画の前提になると、実際に立体化された時の整合性や、変形合体が可能なデザインが求められるようになった。
そうしたニーズをデザインに反映させることに成功したのが、後の「ガンダム」のメカニックデザインを担当することになる大河原邦男や、「スタジオぬえ」等のメカニックデザイン専門のスタッフだった。
日本の物作りの伝統は「たかがロボットの玩具」にも十分に発揮され、アニメで見るのと近いレベルの変形合体が、玩具でも再現されるようになった。
ただ、ダイカスト製の「超合金」は、複雑な変形合体を再現したものほど大型化し、高価になりやすく、子供の小遣いでは容易に買えない「高嶺の花」になっていった。
高額化した超合金の廉価版という意味合いで、変形や色分け、耐久性を多少犠牲にしたプラスティック製玩具も発売されるようになり、組み立て式のプラモデルもその中の一つだった。
一話完結の「ロボットプロレス」アニメは、低年齢の子供にも分かりやすい魅力があったが、ある程度の年齢になると視聴者や玩具の消費者としては「卒業」していくのが通例だった。
そうした卒業組を、視聴者として再びTVアニメに呼び戻せるだけのドラマ性、デザイン性を盛り込むことに成功したのがアニメ「宇宙戦艦ヤマト」だった。
ヤマトには「巨大ロボ」こそ登場しなかったが、作中の宇宙戦艦、戦闘機のデザインは、実在の艦船や戦闘機などのメカニックを元にSF的に洗練したもので、目の肥えた年齢層にも十分届いた。
ヤマトのメカニックデザインの主導権が誰にあったかということには諸説あるが、マンガ家の松本零士は生粋のミリタリーマニア、プラモデルマニアであり、スタジオぬえはSF考証や最新技術の反映に長けていた。
共同作業による効果があったということで良いのではないかと思う。
プラモデル化した時の見栄えも良く、後にガンプラを制作することになるバンダイは、ヤマトシリーズの宇宙戦艦や戦闘機等を多数手がけることで、リアルなSFモデルを立体化させる経験値を蓄積させ、市場を開拓していった。
ロボットアニメはロボットアニメで、低年齢層をターゲットに新作が作られ続け、「玩具の30分CM」という制約の枠内ではあるけれども、可能な限りドラマ性を盛り込むことが模索され続けた。
当時のロボットアニメがいかに高度なドラマ性を持ち始めていたかということは、以前に一度記事にした音がある。
フェイクがどうした!
そんな流れの中で異能を発揮していったのが、「勇者ライディーン」「無敵超人ザンボット3」等で活躍した監督・富野喜幸であり、キャラクターデザイン・安彦良和だった。
富野、安彦、そしてメカニックデザインの大河原邦男は、後に「ガンダム」で合流し、ロボットアニメにマジンガーZ以来の二度目の劇的な進化をもたらし、空前のガンプラブームを勃発させることになったのだ。
ただ、ガンダムで起こった劇的進化は、作品を創り上げたスタッフの異能だけではなく、玩具メーカーの技術発展、視聴する側・玩具を消費する側の成熟など、全ての条件がタイミングよく結集した結果であったとも言える。
何かの作品が爆発的にヒットするということには、その作品の質と共に、広く受容される機運のようなものが不可欠なのだ。
70年代のロボットアニメはまさに「スーパーロボット」の時代だった。
そこから80年代の「リアルロボット」へと再度進化する過程は、やはりその中心近くにいたメカニックデザイナー・大河原邦男の軌跡を追うことで理解しやすくなる。
●「メカニックデザイナーの仕事論 ヤッターマン、ガンダムを描いた職人」大河原邦男(光文社新書)
昨年2016年から開催されている大規模な「大河原邦男展」の図録も素晴らしい。
大河原邦男展
現在、九州で開催中の模様。
生頼範義展と言い、今九州がアツいのか……
2017年01月08日
「リアルロボット」の誕生
ロボットアニメにドラマ性やリアルな描写を持ち込もうとすると、「人型ロボットは、兵器としてリアルであり得るのか」という根本的な問題と直面しなければならなくなる。
マッドサイエンティストじみた博士が、個人レベルの研究所で巨大ロボットを開発し、それが地球の命運を担えるほどの性能を持っているというスーパーロボット的な基本設定は、低年齢向けのロボットプロレス・アニメであればこそ成立する。
ガンダム以前のスーパーロボットは、そこの部分はあまり深く突っ込まないようにして作られてきた。
デザイン的にはヒーローロボとしての見栄え(人間っぽい顔立ちや、赤青黄などの原色を多用した色分け)や、玩具で立体化した時の整合性をクリアーできるよう、かなり厳密に配慮されてきた。
しかしそれは、あくまで「子供に売れる玩具」としてのデザイン・整合性であって、「現実にあり得る兵器」としてのリアルさとはまた別だ。
リアルな兵器として考えるなら、そもそも個人レベルの研究所が開発した少数の機体が、国家レベルの軍事組織を差し置いてwarの趨勢を決定することはあり得ない。
また、地上戦であれば車両、空中戦であれば航空機を上回る運動性能を、「人型ロボット」が持ち得るとは考えにくい。
百歩譲ってロボットの手足の機能にあたる「二足歩行」や「汎用性のあるマニピュレーター」には有用な局面があり得るとしても、「目鼻口のそろった人間っぽい顔立ち」の必要性には理屈付けのしようがない。
色に関しても原色多用に実戦性は見込めない。
「宇宙戦艦ヤマト」の場合は、「戦闘用巨大ロボットを出さない」ということでリアルな描写を担保した面があった。
ヤマトのメカニックデザインは、無重力の宇宙空間の兵器としては、重力のある地球上の艦船や戦闘機の形態を引きずりすぎている感はある。
しかし、だからこそ一般視聴者にも「リアルである」と伝わりやすいし、一応「惑星の重力圏内と宇宙空間の兼用であるから」という理屈付けもできているのだ。
リアルロボット・アニメの始祖である「機動戦士ガンダム」は、「人型の巨大メカが兵器として有用であることの理屈付け」に徹底的にこだわった作品だった。
企画段階では「巨大ロボ」というより、「宇宙空間で生命を維持し、人体の機能を拡張するためのパワードスーツ」という概念から出発しており、実際に作品化された時の「モビルスーツ」という呼称にはその名残がある。
無重力の宇宙空間と、一部重力があるスペースコロニーでの作業、戦闘のためのメカニックであれば、「人型」であることの理屈付けは可能になってくる。
初期の、リアルなパワードスーツ的なデザインの要素は、脇役のガンキャノンの方に残っているように見える。
玩具メーカーの提供を受ける必要性から、徐々にパワードスーツは巨大化し、デザインにも「スーパーロボット」的な要素が盛り込まれるようになったようだ。
人体の10倍にあたる18m前後の身長も、現行の戦闘機等と比較すると違和感のないサイズ設定になっている。(だからこそ後に発売されたガンプラも、模型としての定型を踏襲したスケールでシリーズ化できた)
主役機であるガンダムのデザインは、「メカとしてのリアルさ」と「玩具として売れるスーパーロボット」の要素の、ぎりぎりのせめぎあいの中で産み落とされた。
初期デザインでは目鼻口のついた「顔」があったが、人間的に見えるツインアイだけ残され、口元は排気口のような意匠が付いたマスクで覆われた。
白を基調とした航空機的な色合いながら、一部玩具的に赤青黄を取り入れた形にまとめられた。
コクピット兼脱出ポッドのコアファイターは、当初は「味方側」の三機(ガンダム、ガンキャノン、ガンタンク)の上半身と下半身を、自在に組み替えるための変形合体システムとして発案されたようが、これらの設定は、実際の作品作りにはあまり生かされなかった。
言葉は悪いが「スポンサーから金を引っ張るための方便」という意味合いが強かったのかもしれない。
後に番組がスタートし、視聴率が低迷すると、テコ入れ策としてガンダムのパワーアップパーツとして様々な合体変形パターンが可能な「Gアーマー」も登場するが、相変わらず作品内容とはあまりかみ合っておらず、後に映画化された時には「なかったこと」になっていた。
味方側に比べ、敵側のジオンのモビルスーツザクには、制約の少ない分、存分にミリタリー色が強い、リアルなデザインが採用された。
何よりも特筆すべきは、敵も味方もモビルスーツは現行の戦車や戦闘機と同じような「局地戦の一兵器」に過ぎないという、「強さのバランスのリアルさ」が採用されたことだろう。
以前にも書いたが、「ガンダム」は要約するならば「戦争に巻き込まれた難民の少年少女たちのサバイバルストーリー」であった。
見た目上の敵味方は存在するが、スーパーロボット的な勧善懲悪のシンプルな物語ではない。
表立って描かれることは無かったが、裏のストーリーとして「搾取された宇宙移民の独立運動」とか、「独立戦争に名を借りた軍事独裁体制」などの政治劇の要素が匂わされていて、やろうと思えばいくらでも深読みができる作品だった。
表の主人公であるアムロ・レイたち少年少女たちの多くは、「敵」というよりは巻き込まれた極限状態と戦っているのであり、志願兵ではなかった。
本来兵士向きとは思えない内向的な主人公アムロは、パイロットとしての適性を開花させるほどに、その能力を戦争の道具として利用されていく。
そんな痛ましさを執拗に描くところに、それまでのロボットアニメにないリアルさがあり、次回予告の決め台詞にある通り「キミは生き残れるか?」と、視ている側にも問いかける作品であったのだ。
そうしたリアルさと同時に、それでも「ガンダム」はスーパーロボット的な魅力もあわせ持っていた。
先にも書いた通り、主役機ガンダムはスポンサーの意向を汲んで「人間的な顔立ち、原色多用、合体変形」の要素を残していたし、30分の枠内で必ず一回は敵モビルスーツとのバトルが入っていた。
大河原邦男のデザインはリアルと分かりやすいシンプルを両立させており、安彦良和の作る「絵」はダイナミックな格闘戦の面白さを存分に描き出した。
結果的にはスポンサーの意向という「枷」が、幅広い年齢層に届く作品の形成にプラスの効果をもたらしたということになるだろう。
作り手の高い志と、視聴率や玩具の売り上げ。
ストーリーのリアルと、それに見合うだけのメカニックデザインのリアル、そしてどうしても捨てられない「玩具を売らなければならない」という宿命。
相反する要素がギチギチと作品内でぶつかりながら、何とか危ういバランスを保ちつつ、アニメ制作は続く。
しかし、1979年の初回放映時の結果は、残念ながら「打ち切り」だった。
そこからの再評価、劇場版の大ヒットという奇跡の復活を遂げ、空前のガンプラブームが起こる顛末は、以前記事に書いたことがある。
地方の小学生が体感したガンプラブーム
このように「ガンダム」によってロボットアニメは新次元に突入した。
そして80年代半ば過ぎごろまで、スーパーロボットから一段階進化した「リアルロボット」の時代は続くことになり、関連商品の主流も、超合金等の玩具から、リアルなプラモデルへと移行していったのである。
マッドサイエンティストじみた博士が、個人レベルの研究所で巨大ロボットを開発し、それが地球の命運を担えるほどの性能を持っているというスーパーロボット的な基本設定は、低年齢向けのロボットプロレス・アニメであればこそ成立する。
ガンダム以前のスーパーロボットは、そこの部分はあまり深く突っ込まないようにして作られてきた。
デザイン的にはヒーローロボとしての見栄え(人間っぽい顔立ちや、赤青黄などの原色を多用した色分け)や、玩具で立体化した時の整合性をクリアーできるよう、かなり厳密に配慮されてきた。
しかしそれは、あくまで「子供に売れる玩具」としてのデザイン・整合性であって、「現実にあり得る兵器」としてのリアルさとはまた別だ。
リアルな兵器として考えるなら、そもそも個人レベルの研究所が開発した少数の機体が、国家レベルの軍事組織を差し置いてwarの趨勢を決定することはあり得ない。
また、地上戦であれば車両、空中戦であれば航空機を上回る運動性能を、「人型ロボット」が持ち得るとは考えにくい。
百歩譲ってロボットの手足の機能にあたる「二足歩行」や「汎用性のあるマニピュレーター」には有用な局面があり得るとしても、「目鼻口のそろった人間っぽい顔立ち」の必要性には理屈付けのしようがない。
色に関しても原色多用に実戦性は見込めない。
「宇宙戦艦ヤマト」の場合は、「戦闘用巨大ロボットを出さない」ということでリアルな描写を担保した面があった。
ヤマトのメカニックデザインは、無重力の宇宙空間の兵器としては、重力のある地球上の艦船や戦闘機の形態を引きずりすぎている感はある。
しかし、だからこそ一般視聴者にも「リアルである」と伝わりやすいし、一応「惑星の重力圏内と宇宙空間の兼用であるから」という理屈付けもできているのだ。
リアルロボット・アニメの始祖である「機動戦士ガンダム」は、「人型の巨大メカが兵器として有用であることの理屈付け」に徹底的にこだわった作品だった。
企画段階では「巨大ロボ」というより、「宇宙空間で生命を維持し、人体の機能を拡張するためのパワードスーツ」という概念から出発しており、実際に作品化された時の「モビルスーツ」という呼称にはその名残がある。
無重力の宇宙空間と、一部重力があるスペースコロニーでの作業、戦闘のためのメカニックであれば、「人型」であることの理屈付けは可能になってくる。
初期の、リアルなパワードスーツ的なデザインの要素は、脇役のガンキャノンの方に残っているように見える。
玩具メーカーの提供を受ける必要性から、徐々にパワードスーツは巨大化し、デザインにも「スーパーロボット」的な要素が盛り込まれるようになったようだ。
人体の10倍にあたる18m前後の身長も、現行の戦闘機等と比較すると違和感のないサイズ設定になっている。(だからこそ後に発売されたガンプラも、模型としての定型を踏襲したスケールでシリーズ化できた)
主役機であるガンダムのデザインは、「メカとしてのリアルさ」と「玩具として売れるスーパーロボット」の要素の、ぎりぎりのせめぎあいの中で産み落とされた。
初期デザインでは目鼻口のついた「顔」があったが、人間的に見えるツインアイだけ残され、口元は排気口のような意匠が付いたマスクで覆われた。
白を基調とした航空機的な色合いながら、一部玩具的に赤青黄を取り入れた形にまとめられた。
コクピット兼脱出ポッドのコアファイターは、当初は「味方側」の三機(ガンダム、ガンキャノン、ガンタンク)の上半身と下半身を、自在に組み替えるための変形合体システムとして発案されたようが、これらの設定は、実際の作品作りにはあまり生かされなかった。
言葉は悪いが「スポンサーから金を引っ張るための方便」という意味合いが強かったのかもしれない。
後に番組がスタートし、視聴率が低迷すると、テコ入れ策としてガンダムのパワーアップパーツとして様々な合体変形パターンが可能な「Gアーマー」も登場するが、相変わらず作品内容とはあまりかみ合っておらず、後に映画化された時には「なかったこと」になっていた。
味方側に比べ、敵側のジオンのモビルスーツザクには、制約の少ない分、存分にミリタリー色が強い、リアルなデザインが採用された。
何よりも特筆すべきは、敵も味方もモビルスーツは現行の戦車や戦闘機と同じような「局地戦の一兵器」に過ぎないという、「強さのバランスのリアルさ」が採用されたことだろう。
以前にも書いたが、「ガンダム」は要約するならば「戦争に巻き込まれた難民の少年少女たちのサバイバルストーリー」であった。
見た目上の敵味方は存在するが、スーパーロボット的な勧善懲悪のシンプルな物語ではない。
表立って描かれることは無かったが、裏のストーリーとして「搾取された宇宙移民の独立運動」とか、「独立戦争に名を借りた軍事独裁体制」などの政治劇の要素が匂わされていて、やろうと思えばいくらでも深読みができる作品だった。
表の主人公であるアムロ・レイたち少年少女たちの多くは、「敵」というよりは巻き込まれた極限状態と戦っているのであり、志願兵ではなかった。
本来兵士向きとは思えない内向的な主人公アムロは、パイロットとしての適性を開花させるほどに、その能力を戦争の道具として利用されていく。
そんな痛ましさを執拗に描くところに、それまでのロボットアニメにないリアルさがあり、次回予告の決め台詞にある通り「キミは生き残れるか?」と、視ている側にも問いかける作品であったのだ。
そうしたリアルさと同時に、それでも「ガンダム」はスーパーロボット的な魅力もあわせ持っていた。
先にも書いた通り、主役機ガンダムはスポンサーの意向を汲んで「人間的な顔立ち、原色多用、合体変形」の要素を残していたし、30分の枠内で必ず一回は敵モビルスーツとのバトルが入っていた。
大河原邦男のデザインはリアルと分かりやすいシンプルを両立させており、安彦良和の作る「絵」はダイナミックな格闘戦の面白さを存分に描き出した。
結果的にはスポンサーの意向という「枷」が、幅広い年齢層に届く作品の形成にプラスの効果をもたらしたということになるだろう。
作り手の高い志と、視聴率や玩具の売り上げ。
ストーリーのリアルと、それに見合うだけのメカニックデザインのリアル、そしてどうしても捨てられない「玩具を売らなければならない」という宿命。
相反する要素がギチギチと作品内でぶつかりながら、何とか危ういバランスを保ちつつ、アニメ制作は続く。
しかし、1979年の初回放映時の結果は、残念ながら「打ち切り」だった。
そこからの再評価、劇場版の大ヒットという奇跡の復活を遂げ、空前のガンプラブームが起こる顛末は、以前記事に書いたことがある。
地方の小学生が体感したガンプラブーム
このように「ガンダム」によってロボットアニメは新次元に突入した。
そして80年代半ば過ぎごろまで、スーパーロボットから一段階進化した「リアルロボット」の時代は続くことになり、関連商品の主流も、超合金等の玩具から、リアルなプラモデルへと移行していったのである。