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2017年02月26日

子供と大人、物語と現実、リアリティとリアル

 子供時代に感じる、特有のリアリティというものがある。
 たとえば体重測定の場面。
 体重計にそっと乗れば軽くなりそうな気がするし、一度測定結果が出た後でも体重計に乗ったまま「フンッ!」と気合いを入れれば少し体重が重くなりそうな気がする。
 もちろん、物理的には間違っている。
 体重計にそっと乗ろうが気合いを入れようが、その動作によって多少計測針やデジタル数値が揺らぐだけで、結局体重の数値は変わらない。
 教育により、頭では物理法則に則った「リアル」を納得できるようになってくるのだが、「気合いによる体重の増減」というような原始的、感覚的な「リアリティ」は、大人になっても心の奥底では残り続ける。
 体重計にそっと乗りたくなる気分は、永久不滅だ(笑)

 マンガなどのサブカルチャーの世界では、このような「感覚的なリアリティ」は、表現手法として多用される。
 原始的であるがゆえに、受け手の感情を激しく揺さぶる効果があるのだ。
 わかりやすい例では、マンガ「ドラゴンボール」の世界における「気」の描写がある。
 精神エネルギーである「気」によって、登場人物の強さは増減し、時には肉体の体積まで変化する。
 登場人物の感情によっても「気」は増減するので、作劇上のアイテムとしては非常に有効だ。
 マンガ「ドラゴンボール」作中で最も盛り上がったのは、やはり「フリーザ編」で主人公・悟空がはじめて「超サイヤ人」に変身した瞬間だったのではないだろうか。
 作中では「スカウター」という装置により、各登場人物の「戦闘力」は数値化されていて、基本的にはその数値に準じた勝敗がつく。
 最強の敵フーリザに対して、悟空は様々な試練や修行を克服することで戦闘力の数値を上げ、対抗していくのだが、その戦闘力の突然変異ともいうべきフリーザにはどうしても及ばない。
 どのような試練、どのような修行でも勝てなかった悟空が「伝説の戦士、超サイヤ人」に変貌したのは、目の前で親友を殺されたことが引き金となった「感情の爆発」だった。
 主人公が戦士として覚醒する瞬間を感情の爆発と同期させ、戦闘力という冷厳な「数値」を瞬間的に無効化することで、凄まじいカタルシスが生まれたのだ。
 
 あらゆる苦難に堪えてきた主人公が、最後の最後に素の感情を開放するパターンは、古来、通俗的な物語の定番である。
 そこに「気」という、感情に同期し、物理法則にまで干渉する精神エネルギーの設定を盛ったことで、「ドラゴンボール」は少年漫画の新しい古典として不朽の作品になったのだと思う。
 登場人物の捨て身の覚悟や精神力が、瞬間的に「常識」を突き破るパターンは、「ドラゴンボール」以前から繰り返し少年マンガで試行されてきた。
 古典中の古典たる「あしたのジョー」からして、技術に優るライバルに精神力で立ち向かうパターンの連続で、結局最後はそれが原因で「真っ白に燃え尽きる」ことになった。

 私の年代だと、子供時代にリアルタイムの雑誌連載で「感動に打ち震えた」経験は、たとえば「キン肉マン」のワンシーンになる。
 マンガ「キン肉マン」の世界では、それぞれの超人の強さは「超人強度」という単位で数値化されている。(「強さの数値化」という手法は、もしかしたらこの「キン肉マン」が最初だったかもしれない)
 それまで超人強度では最高の「100万パワー」を誇っていたウオーズマンが、「1000万パワー」というあり得ない数値の強敵バッファローマンと対戦したエピソードが、強く記憶に残っているのだ。
 通常の戦い方では到底かなわないと覚悟したウオーズマンは、決死の覚悟で最後の技を繰り出すことになる。
 主武器であるベアークローを両手使いの2倍とし、通常の2倍、3倍のジャンプや回転により、100万×2×2×3=1200万パワーの「光の矢」と化して、捨て身の攻撃を仕掛けたのだ。
 その技は残念ながら寸前でかわされてしまうのだが、瞬間的に超人強度で凌駕することで、バッファローマンの主武器の角は、一本だけ砕かれることになった。
 連載当時私は理科好きだったので、「これはちょっとおかしいんとちゃうか?」という疑問が頭をよぎらないでもなかった。
 しかしそんな「賢しさ」を突き抜けて、やっぱり感動せざるを得ない「物語の力」があったのだ。

 こうした「物理法則を凌駕する精神力」の描写は、もちろん物語の中だけで通用するものだ。
 あくまで物語内での「リアリティ」であって、現実世界に通用する「リアル」ではあり得ない。
 どのように計っても体重は変わらないし、精神論で圧倒的な物量差は克服できないし、ましてや「神風」など吹くはずもない。
 様々な学習や経験により、物語と現実、リアリティとリアルの峻別はしなければならない。
 しかし、その上で、それでも一周回って物語を心から楽しめる。
 それが大人の嗜みであろうと、今は考えている。
posted by 九郎 at 16:28| Comment(0) | TrackBack(1) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2017年02月27日

戦争ごっこと反戦平和

 子供、とくに男の子は「戦争ごっこ」が大好きだ。
 この記事の中では「戦争ごっこ」をかなり広い意味でとらえ、「闘争」の要素が含まれる遊び全般というほどの意味にしておこう。
 その分類で行くと、男の子の遊びは九割がた以上「戦争ごっこ」であるということになるだろう。
 サブカルチャーの分野でも、男の子向けはほとんどが「バトルもの」で占められているが、子供の素朴な欲求に合わせきることが求められる分野である以上、これは仕方のないことだろう。
 テレビ番組やマンガ、ゲームなどのサブカルチャーは、「心の駄菓子」だ。
 駄菓子ばかりではいけないが、子供がこの娑婆世界を強く生き抜くためには、大人の推奨しがちな「清潔なもの、優良なもの」ばかりでもいけない。
 多少の「俗悪」は必要なのだ。
 わがニッポンの子供向けサブカルチャーの作り手は、玩具メーカーの先兵という一面を持ちながらも、同時に子供たちの心に夢と希望の種を植える理想主義も、決して捨てはしない。
 これは戦後の子供向けサブカルの始祖である手塚治虫から、脈々と受け継がれる作り手の良心であり、その一点において保護者は信頼しても良いと思う。

 男の子は動物的本能として、どうしようもなく闘争心を持っている。
 表面上どんなに大人しく見えようと、心の奥底には攻撃性が標準装備されているものだ。
 それは「あってはならないもの」として封印できるものではない。
 自分の中の闘争心や攻撃性を、どうしようもなく在るものとしてまずは認め、それを飼いならさなければならない。
 暴発させるのではなく、友人関係が破綻しない範囲での闘争心の制御は、主に遊び、「戦争ごっこ」の中で培われる。
 遊びの際のモラルの在り方を示すのが、男の子向けサブカルチャーの役割なのだ。

 戦いは、なるべく避けるべきである。
 戦いは、誰かを守るためのものである。
 戦いにおいても、恥ずべき振る舞いはある。
 そして戦いは、最終的には平和を守るためのものである。

 以上のような基本パターンを身につけるには、物語の中で繰り返し味わい、遊びの中で体験するのが一番だ。
 昨今の私から見ればやや潔癖に過ぎる風潮の中では、公教育で「喧嘩をするな」と教えることはできても、「喧嘩のやり方」を教えるのは不可能だ。
 清く正しい建前から外れた領域は、保護者がサブカルチャーもうまく活用しながら教えていく他ない。

 とは言え、バトルもののサブカルチャーが、子供の心のモラル育成において万能であるというわけではもちろんない。
 テレビを見ていればOK、マンガを読んでいればOK、ゲームをやっていればOKなどという、単純な話ではない。
 バトルのパターンを浴びるほど体験することで攻撃性が助長されることもある。
 とくにゲームなどで「人の姿に見えるキャラクター」を、反射神経で殴打したり銃撃しまくるような表現をとるものには注意が必要だ。
 人は攻撃性を本能として持っているが、同時に人の姿を持つものにたいして攻撃を抑制する本能も持っている。
 上記のような表現をとるゲームは、その抑制側の本能を解除してしまうケースがあるのだ。
 戦いをシミュレートしたいなら、武道や格闘技などで、生身の人間を相手に、自分でも実際に痛みを味わいながら体験する方が、まだましだ。

 戦争ごっこも、バトルもののサブカルチャーも、武道や格闘技も、男の子の攻撃性を馴致するのに、決して万能ではないが、有効なツールではある。
 世のお母さん方は男の子の「戦い好き」にほとほと呆れ、眉をひそめているだろうけれども、日本のサブカルチャーのビッグネームの中には、筋金入りのミリタリーマニアがけっこう多く存在する。
 アニメの世界では、たとえばジブリの宮崎駿やガンダムの富野由悠季がそうであるが、彼らはかなり古典的な反戦主義者でもある。
 戦争ごっこと反戦平和は、男の子の中で共存し得るのだ。
 単純に禁止するのではなく、放置するのでもなく、注意深く見守ってあげてほしい。
posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2017年03月04日

極私的80年代リアルロボットアニメ年表

 このカテゴリサブカルチャーで主に扱っている「80年代リアルロボットアニメ」について、関連事項を年表形式にまとめておこう。
 タイトルに「極私的」としてあるのは、あくまで「当時の私の視界に入っていた範囲」という意味である。
 見る人によっては、抜けている作品や関連事項もいっぱいあると感じると思うが、ともかく当ブログで記事を綴っていく上での覚書にしておきたい。

 まずは1980年に至るまでの「SF表現」を含むアニメや、その周辺作品の流れを、前史としてまとめてみよう。

【前史】
74年、TVアニメ「宇宙戦艦ヤマト」放映(後に打ち切り)
  「ウルトラマンレオ」「仮面ライダーストロンガー」放映
   ウルトラマン、仮面ライダー両シリーズ一旦終了
75年、TV特撮「秘密戦隊ゴレンジャー」放映
   スーパー戦隊シリーズ誕生
77年、劇場版「宇宙戦艦ヤマト」公開
   映画「スター・ウォーズ」第一作公開
78年、劇場版「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」公開
   TVアニメ「宇宙戦艦ヤマト2」放映
79年、TVアニメ「機動戦士ガンダム」放映開始
   TVアニメ「宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち」放映
   TVアニメ「ザ☆ウルトラマン」放映
   TV特撮「仮面ライダー(スカイライダー)」放映
   映画「エイリアン」公開

 スーパーロボットの始祖「マジンガーZ」で創出された「搭乗型巨大ロボット」の流れ、そして「宇宙戦艦ヤマト」に始まったリアルなSF描写やストーリー重視の流れを受け、70年代メカアニメの最終ランナーとして登場したのが「機動戦士ガンダム」だった。
 この作品以降リアルロボットアニメという新しい世界が生まれたのだが、皮肉なことに80年代最初のトピックは、当の「ガンダム」の打ち切り終了だった。
 以下に主な(私の視界に入っていた)作品を制昨年順に並べてみる。
 全部ちゃんと観ていたわけではないが、概要くらいは知っていたり、プラモだけは作っていたりした作品も全て含めているので、それなりの精度で網羅できているのではないかと思う。
 ★はリアルロボットアニメそのもの、●はリアルロボット作品やプラモデル関連事項、〇はロボットアニメではないがリアルなSF描写のある作品や、関連するサブカル時代背景を意味している。

【80年】
★TVアニメ「機動戦士ガンダム」打ち切りにより放映終了
★TVアニメ「伝説巨神イデオン」放映開始

ガンプラ販売開始

〇TVアニメ「宇宙戦艦ヤマトV」放映開始
〇劇場版「ヤマトよ永遠に」公開
〇TV特撮「ウルトラマン80」「仮面ライダースーパー1」放映
〇マンガ「Dr.スランプ」連載開始
〇映画「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」公開
〇任天堂「ゲーム&ウォッチ」発売、大ヒット

【81年】
★劇場版「機動戦士ガンダム」公開
★劇場版「機動戦士ガンダムU 哀戦士」公開
★TVアニメ「太陽の牙ダグラム」放映開始

●月刊OUT増刊「宇宙翔ける戦士達 GUNDAM CENTURY」刊行
●ホビージャパン別冊「HOW TO BUILD GUNDAM」刊行
●講談社「コミックボンボン」創刊
●小説版「機動戦士ガンダム1〜3」完結

〇劇場版「宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち」公開

(社会現象としてのガンプラブームがあったのが、この81年から二年間ほどだったと記憶している)

【82年】
★劇場版「機動戦士ガンダムV めぐりあい宇宙」公開
★TVアニメ「戦闘メカ ザブングル」放映開始
★TVアニメ「超時空要塞マクロス」放映開始
★劇場版「THE IDEON 接触篇 A CONTACT」
 新作映画「THE IDEON 発動篇 Be INVOKED」同時公開

●コミックボンボン誌上でマンガ「プラモ狂四郎」(やまと虹一)連載開始
●ホビージャパン別冊「HOW TO BUILD GUNDAM 2」刊行

〇TV特撮「宇宙刑事ギャバン」でメタルヒーローシリーズ開始
〇マンガ「AKIRA」「風の谷のナウシカ」連載開始
〇映画「ブレードランナー」公開

【83年】
★TVアニメ「聖戦士ダンバイン」放映開始
★TVアニメ「装甲騎兵ボトムズ」放映開始
★TVアニメ「超時空世紀オーガス」放映開始
★TVアニメ「機甲創世記モスピーダ」放映開始
★TVアニメ「銀河漂流バイファム」放映開始
★劇場版「ザブングルグラフィティ」
    「ドキュメント 太陽の牙ダグラム」
    「チョロQダグラム」同時上映

●ガンプラ「MSV」シリーズ販売開始
●バンダイ模型情報別冊「MSVハンドブック」刊行開始

〇劇場版「宇宙戦艦ヤマト 完結編」公開
〇角川劇場アニメ第1作「幻魔大戦」公開
〇劇場版「うる星やつら オンリー・ユー」公開
〇マンガ「北斗の拳」連載開始
〇映画「スター・ウォーズ ジェダイの帰還」公開
〇任天堂「ファミリーコンピュータ」発売

【84年】
★TVアニメ「重戦機エルガイム」放映開始
★TVアニメ「機甲界ガリアン」放映開始
★TVアニメ「巨神ゴーグ」放映開始
★TVアニメ「超時空騎団サザンクロス」放映開始
★劇場版「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」公開

●コミックボンボン別冊「スーパーモデリング」刊行
●ボンボン誌上で「MS戦記」(作画:近藤和久)連載開始
●講談社「MSVテクニカル&ヒストリー」全三冊
●月刊模型誌「モデルグラフィックス」創刊
●バンダイ模型情報B5へ判型変更、雑誌化が進む

〇劇場版「風の谷のナウシカ」公開
〇劇場版「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」公開
〇マンガ「ドラゴンボール」連載開始
〇ラジコンブーム、ファミコンブーム盛り上がり始める


【85年】
★TVアニメ「機動戦士ゼータガンダム」放映開始
★TVアニメ「蒼き流星SPTレイズナー」放映開始
★OVA「メガゾーン23」発売(以後第三作までシリーズ化)

●月刊アニメ誌「ニュータイプ」創刊
●バンダイ「B-CLUB」創刊
●ザ・テレビジョン・アニメシリーズ「重戦機エルガイム(2)」刊行
●小説「青の騎士ベルゼルガ物語」(はままさのり)シリーズ刊行開始

〇ファミコンソフト「スーパーマリオブラザーズ」大ヒット

【86年】
★TVアニメ「機動戦士ガンダムダブルゼータ」放映開始

●マンガ「The Five Star Stories」(永野護)連載開始
●「プラモ狂四郎」連載終了

〇マンガ「ジョジョの奇妙な冒険」連載開始
〇映画「エイリアン2」公開

【87年】
★TVアニメ「機甲戦機ドラグナー」放映開始

●モデルグラフィックス誌で新世代MSV企画「ガンダム・センチネル」連載開始(のちにバンダイからキット化)

〇TV特撮「仮面ライダーBlack」放映開始

【88年】
★劇場版「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」公開
★OVA「機動警察パトレイバー」発売

●マンガ「機動警察パトレイバー」連載開始

〇劇場版「AKIRA」公開
〇TV特撮「仮面ライダーBlack RX」放映開始

【89年】
★TVアニメ「機動警察パトレイバー」放映
★劇場版「機動警察パトレイバー the Movie」公開
★劇場版「ファイブスター物語」公開
★OVA「機動戦士ガンダム0080」発売

 こうして並べてみると、80年〜82年の劇場版「ガンダム」公開と共にガンプラブームが勃発し、その余波の残る83年〜84年くらいまでが、質・量ともに全盛期だったのだなと感じる。
 その後は徐々に作品数が減少し、80年代終盤の「逆襲のシャア」で「アムロとシャアの物語」が完結すると共に、リアルロボットアニメの過剰な「熱」は収束したとみて良いのではないだろうか。
 もちろんリアルロボットという素材は、80年代の終りと共に滅び去ったわけではなく、以後も継続してアニメは制作されている。
 リアルロボット自体を主題とする作品は減ったが、作品内のアイテムの一つとして登場するシーンは、今もジャンルを問わずよく見かける。
 必ずしもアニメ限定ではない魅力的なアイテムとして、定着、一般化したということだと思う。
(この記事は適宜加筆修正します)
posted by 九郎 at 16:18| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2017年03月05日

リアルロボットアニメの対象年齢

 80年代初頭のガンプラブームのとき、主に盛り上がっていたのは小学校高学年男子が中心で、上はせいぜい中学生くらいまでだったのではないだろうか。
 幼児から小学校低学年くらいだと、ガンプラもアニメの内容もちょっとハードルが高かったのではないかと思う。
 あとは模型誌でリアルな作例を発表していたモデラーの皆さんと同じ、大学生くらいの年代が考えられるが、この年代は小学校高学年〜中学生男子のように「みんなハマっている」という状況ではなかっただろう。
 おそらく「宇宙戦艦ヤマト」を中学生くらいで体験し、ミリタリーモデルも経験しながら、そのままアニメファンを続けていたマニア層限定のブームだったはずだ。
 ガンプラブーム当時の高校生は、ガンダムに対して意外に「薄い」ことが多い。
 スーパーロボットやヤマト、スター・ウォーズにはけっこう思い入れがあり、タイプとしてはいかにもガンダムにハマりそうな人が、話してみると実はファーストガンダムを一度も観ていなかったりする。
 ふり返ってみると確かに自分も高校生の頃、あれほど熱くハマっていたリアルロボットアニメに、一時的に関心を失っていた。
 理由は色々挙げられる。
 私個人に限定して言えば、自分で創作することが楽しくなったり、小説やマンガをがっちり読み込むことが楽しくなったり、外に出るのが楽しくなったり、あとはまあ勉強が忙しくなったりして、アニメに割くリソースが無くなったのだった。
 個別にはそれぞれ違う理由があり、もちろんずっと継続してアニメが好きなマニア層もいるだろうけれども、「子供時代の感覚が高校生くらいで一度リセットされる」という傾向はあるのではないか。
 今思うと、TVアニメの中のリアルロボットものというジャンルは、子供向けの単純明快な作品世界から、一歩踏み込んだ表現の世界への入り口として出会ったときに、最も効果を発揮するのではないかと思う。
 それ以前、「リアルな表現」がない時代は、もっと早く「子供番組離れ」は訪れた。
 それこそ、ガンプラブームで熱狂したような年代は、本来であればアニメなどの子供向け番組から卒業する発達段階であったはずだ。
 それが幸か不幸か、日本のTVアニメが成熟し、「次の段階」の作品が登場する時期に居合わせてしまったのがガンプラ世代だったのではないだろうか。
 その世代は団塊ジュニアとも半分くらいは重なっていて、商業的なヒットが生まれると「産業」として成り立ってしまうボリュームゾーンでもあった。
 様々な要因が重なって、前回記事の年表で見たような、80年〜81年あたりのガンプラブーム、82年〜84年あたりの「TVはリアルロボットアニメだらけ」という狂騒が発生したのだろう。
 ガンダムをはじめとするリアルロボットアニメには様々なSF的趣向が盛り込まれていて、十分にハマった後であれば、ハードなSF小説、映画等を鑑賞する素養が身についてしまうところがあった。
 子供から大人への作品鑑賞スタイルは、小学校高学年から高校生の間に徐々に変化していく。
 リアルロボットアニメを熱狂的に支持した世代は、他ならぬその作品の内容によって素養を育てられ、他に興味の対象を拡散させていったのかもしれない。
 その様が、前回記事の年表に見える80年代リアルロボットアニメの消長に、端的に表れているのではないかと思う。

 大人になると一周してもう一度味わえる質をもったリアルロボットアニメの作品群、それがビッグバンのように大量に生産される数年間に、適度な年齢層で居合わせることができたのは、本当に幸運だったと思う。
posted by 九郎 at 15:35| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2017年03月06日

リアルな表現の危うさ

 日本のTVアニメにおいては、1974年放映の「宇宙戦艦ヤマト」あたりからよりリアルなSF描写、戦争描写が導入され始めた。
 それまでの子供(主に男の子向け)番組の主人公は、単独または少数精鋭のチームで「善玉」を担当し、「悪玉」にあたる敵役は、見た目から明らかに人間離れしたモンスターであることが基本だった。
 ストーリーはわかりやすい「勧善懲悪」であり、30分枠の一話完結で、過不足なく見せ場を繋げる定型を持っていた。
 こうした低年齢向けの番組スタイルは、時代を超えて一定の需要が見込めるので、アップデートを繰り返しながら連綿と今に続いている。
 マジンガーZを始祖とするスーパーロボットものも、単独のアニメ番組としては下火になっているものの、男の子向け番組の中の一アイテムとして、たとえば特撮のスーパー戦隊シリーズの中では健在なのだ。

 低年齢向けの定型は温存されながら、観る側と作る側の成熟により、TVアニメの表現は「次なる段階」への進化も模索された。
 小学校高学年から中学生にかけて、本来なら子供番組から「卒業」する年代の鑑賞にも堪える要素として導入されたのが「よりリアルな表現」であり、その嚆矢が「宇宙戦艦ヤマト」だったのだ。
 ストーリー構成は一話完結方式から一歩踏み出し、放映一回分は「目的を持った長い宇宙航海」のエピソードの中の一つであることが、毎回強調された。
 何よりも大きな変化は、敵役が(異星人ではあるが)あくまで「人間」であったことだろう。
 ガミラス星人は肌の色が薄いブルーであることを除けば、外見も体格も能力も地球人と大差はなく、宇宙戦艦や宇宙戦闘機、各種火器で戦闘を行い、地球人と同じような感情を持ち、同じように死傷する。
 科学力の優位で地球側を圧倒しているけれども、ほとんど人間にと同じに見える異星文明との戦争であるという点が、低年齢向けの「わかりやすいモンスターをやっつける」定型とは一線を画した「リアル」を醸し出したのだ。
 ここで重大な問題が生ずる。
 TVアニメで「人間同士の戦争」を「リアルに」「カッコよく」描くことは、一歩間違うと「戦争賛美」「戦意高揚」のプロパガンダになりかねないのだ。
 この点については、「ヤマト」制作に大きな役割を果たした漫画家・松本零士が、そうしたリスクを避けるために細心の注意を払った経緯を、後年繰り返し語っている。
 地球側の艦隊の描写では極力「軍国主義」に見える意匠を避け、あくまで侵略に対する自衛であるという表現を徹底させた。
 敵方であるガミラス星にはガミラス星なりの「大儀」があったことも描かれ、敵も味方も死傷する戦争の「痛み」の部分も強調された。
 生粋のミリタリーマニアである松本零士が、その持てる素養を全て駆使したからこそ、「面白く、カッコよく、それでも戦争賛美にさせない」という離れ業を成立できたのだろう。

 こうした配慮は「ヤマト」以後の作り手側も常に意識していたようで、後発の「機動戦士ガンダム」では、より注意深く「戦争賛美」化しないよう留意されている。
 ガンダムの世界では戦争は「異星人の侵略からの自衛」ですらなく、一方から見れば「搾取された宇宙コロニーの独立戦争」であり、もう一方から見れば「独裁体制の打倒」であった。
 主人公を含む少年少女達は、ともに大義を掲げる両勢力間の戦争に巻き込まれた難民で、見かけ上の敵(ジオン)味方(連邦)はあるけれども、それは必ずしも「善悪」を意味せず、本質的には「極限状態からのサバイバル物語」だった。
 生き残るために仕方なく目の前の戦闘行為に参戦するうちに、主人公アムロは優秀なパイロットとしての才能を開花させていくのだが、本来戦争向きではない内向的な少年が否応なく殺傷を重ねさせられる痛ましさも繰り返し描かれていた。
 こうした分析はもちろん大人になって初めて可能になるのだが、子供であっても完全に理解できないなりに「あれはどういうことだったのか?」という問いが心の中に残る。
 その後の様々な経験や学習を通して、徐々に疑問が解け、納得できてくるのである。

 低年齢向きの、明らかに絵空事とわかる勧善懲悪の作品では必要なかった微妙なバランス感覚が、より高い年齢層を対象にしたリアルな表現の作品では必須になってくる。
 ガンダムを嚆矢とする歴代のリアルロボットアニメでも、この点は常に注意深く継承されていったようで、私の知る限りの80年代作品は、新たな趣向を求めて手を変え品を変えながら、いずれも「危うい均衡」を保持していいたと記憶している。
 男の子向け番組を作って関連商品を売るというビジネスモデルは、どのように言いつくろっても男の子が本能的に持っている「戦争ごっこ好き」の性質を煽って飯のタネにするという側面を持つ。
 ウケてなんぼ、ウケなきゃゼロの厳しい世界だが、そんな制約の中でも作り手のギリギリの良心というものが光る瞬間があるのだ。
posted by 九郎 at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする