子供の頃から本が好きだった。
もっぱらエンタメ中心の読書だったが、二十代半ばあたりから仏教をはじめとする宗教関連の本や、絵を描くための資料を集積するようになった。
当時も今も狭い部屋は本でいっぱいなのだが、少しずつ整理を始めたのが2年前の年明け。
本の処分を思い立ったことにはいくつか理由がある。
思い付くままに列挙してみる。
・必要不可欠な資料はほぼ揃え終わり、取捨選択の時期に来ていること。
・ごく単純に、部屋の容量を超えてしまっていること。
・蔵書に記憶が追い付かず、同じ本を複数所持し始めていること。
・ネットの画像検索が充実してきて、アナログの写真や画像資料の必要性が薄れたこと。
・有名どころの著作権切れ作品は、ネットでも無料電子本でも読める環境になったこと。
まあ、要するに「そろそろ潮時」だったということだ。
概算で4000冊を超えていたであろう本を分別し、処分すべきは処分する。
整理を始めてから500冊ぐらいは、迷うことなくガンガン減らせた。
よほど偏愛する作家でない限り、エンタメ作品は基本的に処分。
とくに売れ筋の作品は、自分で所持しなくても世から消えることはない。
宗教や芸術、文化等についての本も、評価の定まったスタンダードな本はどこの図書館でも借りられるので処分。
とくに著作権の切れているものはネットや無料本でも読めるものが多いので、ばっさり処分してさしつかえない。
中には「ありがとう、そしてさようなら」という本もある。
自分なりに学び始めた当初、その分野の入り口の解説として楽しみつつ多くを得たが、そろそろ卒業すべしと判断した著者の本である。
梅原猛さん、中沢新一さん、荒俣宏さんの本は箱詰めにするほどいっぱいあったが、この十年ほど手に取っていない。
厳選した一部を残し、感謝と共に処分。
さようなら、また誰かの学びに役立ってください。
700冊減を超えたあたりで、処分のペースがガクンと落ちた。
いつか読もうと思っていてまだ読んでいなかった本を、順に読み始めたからだ。
一念発起してみると、今まさに読むべきだと感じる本が意外に多い。
十年前、二十年前だと、背伸びして無理に読んでも価値が分からなかっただろう。
過去の自分の目利きを誉めたい。
始めてからそろそろ二年半、本の整理ばかりしてはいられないのでスローペースながら、これまでに1200冊ほど減らした。
この分ならあと300冊分くらいはいけそうか。
このカテゴリ「積ん読崩し」では、整理の過程で積ん読を解消した本のレビューや、そこまでは行かなくとも基本情報についての覚書を残しておくことにする。
2017年05月06日
2017年05月07日
この世の地獄のノンフィクション
(この記事は「積ん読本」ではなく、以前読んだ本の再読だが、せっかくなのでレビュー)
3月末、ヘッドラインニュースの一つに目が留まった。
そのニュースに注目した人は少なかったかもしれないが、私にとってはチクリと刺さってくるものがあった。
ある死刑囚が、刑の執行を待たず、拘置所で病死したという一報である。
死刑囚の名は関根元。
94年に話題になった「愛犬家連続殺人事件」の主犯と言えば、いくらか記憶のよみがえってくる人もあるかもしれない。
ただ、この事件は極めて異常な犯罪であったにもかかわらず、犯人逮捕の直後の阪神淡路大震災、そしてカルト教団のテロ事件によって引き起こされた報道の奔流に押し流され、続報が人目を引くことはなかったと記憶している。
この事件、何よりもまず主犯の関根元の強烈なキャラクターが異彩を放つ。
本人の社会的地位だけで言えば「極悪人」と呼べるほどの大物ではない。
本職のやくざに対しては(少なくとも表面上は)這いつくばり、自分より弱い立場の物には横暴に振る舞う、半端な「小悪党」にすぎない。
学はないけれども悪知恵がはたらき、脂っこいバイタリティを持ち、ホラ話を聞き流している分には面白いタイプで、本業の「悪徳ペット業者」で満足していれば、まずは世間にありふれた常習軽犯罪者の一人で済んでいただろう。
そうした小悪党の顔を利用しながら、あるいは小悪党でしかなかったからこそ、様々な巡りあわせによって関根の狡知は育て上げられ、身柄を拘束されないままに稀代の連続殺人者に成長した。
関根の殺人の動機の多くは「都合が悪くなったから」とか「小金が手に入るから」というもので、普通それだけでは殺しにまで結びつかない。
発覚のリスクを考えればどう考えても割に合わない動機で、いとも簡単に多数の人間を殺している。
本人の言によれば、その数三十人以上。
長期間にわたってそれだけの連続殺人が可能であったのは、これも本人の表現を借りれば「ボディーを透明にする」という死体損壊・遺棄の手法による。
気分が悪くなるので詳しくは書かないが、独特の言い回しからだけでも不気味な印象は伝わってくると思う。
殺人が発覚するのは死体を残すからであり、死体を埋めたりせずに完全に消滅させれば「行方不明」に過ぎず、罪には問われない――
そんな一見バカバカしくも思える関根の「信念」は、実際にはかなり有効で、捜査当局をさんざん手こずらせた。
共犯者の自供からようやく逮捕に至ったが、本当のところ何人殺してきたのかは明らかではない。
関根は「自分はいつでも人を殺せ、決して捕まることはない」という強烈な自信を持っており、「透明にする」という恫喝で周囲の徐々に馴らして共犯者に仕立て上げた。
その中の一人が、今回紹介するノンフィクション・ノベルの著者である。
●「共犯者」山崎永幸(新潮社)
●改題文庫版「愛犬家連続殺人事件」志麻永幸(角川文庫)
著者は元々、関根と同業のペット業者だったが、仕事上の成り行きから関りを持つようになり、やがて蟻地獄に引きずり込まれるように死体損壊・遺棄の共犯者にされてしまった人物である。
満期三年の実刑を受けた後、自らの見聞きした事件の全貌を書き綴ったのが本書である。
私は発売当時にこの本を読み、物凄い衝撃を受けていたので、今回の関根元死亡のニュースで「心に刺さるもの」を感じたのだ。
世の中の犯罪には、決して捜査や裁判だけでは明らかにならないものがある。
そこに居合わせた当事者が「語る」からこそ、怪物・関根元の闇の一端が、白日の下に引きずり出されることになったのだ。
著者は実刑を受けた共犯者ではあるけれども、事件当時、他の選択肢があったかどうかについて、他人がとやかく言うことははばかられる。
「人間の死は、生まれた時から決まっていると思っている奴もいるが、違う。それはこの関根元が決めるんだ」
「お前もこうなりたいか」
「子供は元気か」
「元気が何より」
このような言葉を口にし、平然と実行して見せる怪物と対面した時、どれほどの人間が犯罪に引きずり込まれずにいられるだろうか。
もっと深みにはまり、さらに重大な犯罪に手を染めさせられたり、「透明」にされてしまう危険性も十分にあったのだ。
著者が生還しただけでなく、警察に関根の身柄を拘束させるよう立ち回ることができたのも、「語ること」ができるだけの視線を持っていたせいではないかと感じる。
もしそこに著者がいなかったとしたら、関根はその後も長く野放しになり、犠牲者は増えていただろうし、事件の全貌が書き残されることもなかっただろう。
本書は関根元という「人間の形をした地獄」を詳述する一冊であるとともに、自分や家族を守り切りながらその地獄を潜り抜けた男の、サバイバル・ノンフィクションでもあるのだ。
本物の地獄を垣間見る覚悟のある者にだけ勧められる、凄まじい一冊である。
3月末、ヘッドラインニュースの一つに目が留まった。
そのニュースに注目した人は少なかったかもしれないが、私にとってはチクリと刺さってくるものがあった。
ある死刑囚が、刑の執行を待たず、拘置所で病死したという一報である。
死刑囚の名は関根元。
94年に話題になった「愛犬家連続殺人事件」の主犯と言えば、いくらか記憶のよみがえってくる人もあるかもしれない。
ただ、この事件は極めて異常な犯罪であったにもかかわらず、犯人逮捕の直後の阪神淡路大震災、そしてカルト教団のテロ事件によって引き起こされた報道の奔流に押し流され、続報が人目を引くことはなかったと記憶している。
この事件、何よりもまず主犯の関根元の強烈なキャラクターが異彩を放つ。
本人の社会的地位だけで言えば「極悪人」と呼べるほどの大物ではない。
本職のやくざに対しては(少なくとも表面上は)這いつくばり、自分より弱い立場の物には横暴に振る舞う、半端な「小悪党」にすぎない。
学はないけれども悪知恵がはたらき、脂っこいバイタリティを持ち、ホラ話を聞き流している分には面白いタイプで、本業の「悪徳ペット業者」で満足していれば、まずは世間にありふれた常習軽犯罪者の一人で済んでいただろう。
そうした小悪党の顔を利用しながら、あるいは小悪党でしかなかったからこそ、様々な巡りあわせによって関根の狡知は育て上げられ、身柄を拘束されないままに稀代の連続殺人者に成長した。
関根の殺人の動機の多くは「都合が悪くなったから」とか「小金が手に入るから」というもので、普通それだけでは殺しにまで結びつかない。
発覚のリスクを考えればどう考えても割に合わない動機で、いとも簡単に多数の人間を殺している。
本人の言によれば、その数三十人以上。
長期間にわたってそれだけの連続殺人が可能であったのは、これも本人の表現を借りれば「ボディーを透明にする」という死体損壊・遺棄の手法による。
気分が悪くなるので詳しくは書かないが、独特の言い回しからだけでも不気味な印象は伝わってくると思う。
殺人が発覚するのは死体を残すからであり、死体を埋めたりせずに完全に消滅させれば「行方不明」に過ぎず、罪には問われない――
そんな一見バカバカしくも思える関根の「信念」は、実際にはかなり有効で、捜査当局をさんざん手こずらせた。
共犯者の自供からようやく逮捕に至ったが、本当のところ何人殺してきたのかは明らかではない。
関根は「自分はいつでも人を殺せ、決して捕まることはない」という強烈な自信を持っており、「透明にする」という恫喝で周囲の徐々に馴らして共犯者に仕立て上げた。
その中の一人が、今回紹介するノンフィクション・ノベルの著者である。
●「共犯者」山崎永幸(新潮社)
●改題文庫版「愛犬家連続殺人事件」志麻永幸(角川文庫)
著者は元々、関根と同業のペット業者だったが、仕事上の成り行きから関りを持つようになり、やがて蟻地獄に引きずり込まれるように死体損壊・遺棄の共犯者にされてしまった人物である。
満期三年の実刑を受けた後、自らの見聞きした事件の全貌を書き綴ったのが本書である。
私は発売当時にこの本を読み、物凄い衝撃を受けていたので、今回の関根元死亡のニュースで「心に刺さるもの」を感じたのだ。
世の中の犯罪には、決して捜査や裁判だけでは明らかにならないものがある。
そこに居合わせた当事者が「語る」からこそ、怪物・関根元の闇の一端が、白日の下に引きずり出されることになったのだ。
著者は実刑を受けた共犯者ではあるけれども、事件当時、他の選択肢があったかどうかについて、他人がとやかく言うことははばかられる。
「人間の死は、生まれた時から決まっていると思っている奴もいるが、違う。それはこの関根元が決めるんだ」
「お前もこうなりたいか」
「子供は元気か」
「元気が何より」
このような言葉を口にし、平然と実行して見せる怪物と対面した時、どれほどの人間が犯罪に引きずり込まれずにいられるだろうか。
もっと深みにはまり、さらに重大な犯罪に手を染めさせられたり、「透明」にされてしまう危険性も十分にあったのだ。
著者が生還しただけでなく、警察に関根の身柄を拘束させるよう立ち回ることができたのも、「語ること」ができるだけの視線を持っていたせいではないかと感じる。
もしそこに著者がいなかったとしたら、関根はその後も長く野放しになり、犠牲者は増えていただろうし、事件の全貌が書き残されることもなかっただろう。
本書は関根元という「人間の形をした地獄」を詳述する一冊であるとともに、自分や家族を守り切りながらその地獄を潜り抜けた男の、サバイバル・ノンフィクションでもあるのだ。
本物の地獄を垣間見る覚悟のある者にだけ勧められる、凄まじい一冊である。
2017年05月08日
「落人伝説の里」松永伍一(基本情報のみの覚書)
●「落人伝説の里」松永伍一(角川選書139)
昭和五十七年十月十日 初版発行
【表紙紹介文】
伝説の多くは、文字で記録されなかった事象が、時の経過のなかでかたちを変え、「事実」として言いつがれ、変生したもの、でもあろう。筆者は、そういう「変生した歴史」としての伝説を生み、今なおそれを息づかせる土地を各々に訪ね、時間を遡り、土地人の祈願と意識、さらに長い幻想の本源をたどっていく―― 有形無形の「日本」が失われつつあるなかで試みられた、貴重な歴史探訪というべき一冊である。
【目次】
序章 人はなぜ貴種を伝説化するか
一の章 義経北上譚
二の章 硫黄島の老帝
三の章 高麗郷の若光
四の章 現夢童子の谷 檜枝岐
五の章 落折の洞窟
六の章 秋山郷の野仏
七の章 祖谷の赤旗
八の章 み吉野の鮎
九の章 能登の揚げ羽蝶
十の章 湯西川の平家観光
十一の章 椎葉の山唄
十二の章 近江山中の皇子 君ヶ畑など
十三の章 哀韻の麦屋節 五箇山
十四の章 椿と墓の幻想 五木村
十五の章 変わりゆく秘境・五家荘
十六の章 平維盛の流亡 熊野
十七の章 伊那の宗良親王
【著者:松永伍一】
昭和五年、福岡県生まれ。同二四年、八女高等学校を卒業。
農業に携り、教師をつとめつつ、同人誌「母音」に、主として詩を発表。
三二年、上京。「割礼」「ムッソリーニの脳」等の詩集のほか、「日本農民詩史」全五巻、毎日出版文化賞特別賞受賞。「底辺の美学」「一揆論」、さらに「松永伍一著作集」全六巻など、多くの著書がある。
2017年06月02日
97A
先月末、ある事件から二十年経ったとの報道があった。
二十年前と言えば90年代後半、震災やカルト教団によるテロ事件で騒然とした世相が、いまだ冷めやらぬ頃のことだ。
あの事件と言うのは、年若い少年による、連続児童殺傷事件のことである。
私は事件現場から小一時間ほどの地域に住んでいたので、「地元民」とまでは言えないまでも、かなり当事者意識はあった。
当時の感じていたことは、以前一度記事にしたことがある。
それ以前の震災やカルト教団のテロ事件も衝撃だったけれども、今回報道のあった事件もまた別の意味で「心に刺さる」ものがあった。
目を背けたい思いと同時に強い関心も抱いていて、関連書籍を一通り確保しながら、中々開けずにいた。
実際に本を開くことができたのは事件から何年も経った後のことだった。
その中から二冊だけ手元に残していた信頼できる語り手の本を、久々に再読した。
綿密な取材から浮かび上がるのは、必ずしも周囲の環境や少年自身の「異常性」ではない。
事件周辺に散らばる様々な要素は、一つ一つをバラバラに見てみれば、どれも飛び抜けて「異常」というほどのものではないのだ。
ニュータウンという環境は日本中どこにでもある。
この程度の学校や捜査当局の対応の不味さは、日常茶飯事である。
この程度のエキセントリックは、子育て中の母親の多くが抱えている。
この程度の家庭での存在感の薄さは、仕事熱心な父親の多くが抱えている。
そして、この程度の「心の闇」は、思春期の少年少女の多くが抱えている。
おそらく日本中で毎日大量に発生しているであろう小さな「ノイズ」の断片が、不可解なタイミングでこの少年に集中し、凄惨な事件に結晶したように見える。
だからと言って少年の罪が免罪されるわけではない。
とっくの昔に成人した元・少年には、生涯かけて被害者遺族の皆さんに償う義務がある。
ただ、やはり認識しておくべきなのは、事件の因はかの少年の異常性「だけ」には限定できないということだ。
今回二冊を再読し、過去の自分をふり返ってみる。
学校に馴染めず、周囲とあまり話が合わず、本を読み、絵を描き、文章を書き、近所の裏山や、訪れる者もない奥池で孤独に浸る少年の姿は、やはり痛く心に突き刺さる。
程度の違いこそあれ、少年時代の私も同じようなことをしていた。
書き出してみると、我がことのようだ。
はっきりした違いもある。
私は小学校低学年の頃に、幼児特有の「虫を殺す遊び」に嫌気がさすことができたが、少年はその時期を過ぎても小動物の殺傷を止められなかったことだ。
その分岐点に、何らかの鍵はあるのかもしれない。
二十年前と言えば90年代後半、震災やカルト教団によるテロ事件で騒然とした世相が、いまだ冷めやらぬ頃のことだ。
あの事件と言うのは、年若い少年による、連続児童殺傷事件のことである。
私は事件現場から小一時間ほどの地域に住んでいたので、「地元民」とまでは言えないまでも、かなり当事者意識はあった。
当時の感じていたことは、以前一度記事にしたことがある。
それ以前の震災やカルト教団のテロ事件も衝撃だったけれども、今回報道のあった事件もまた別の意味で「心に刺さる」ものがあった。
目を背けたい思いと同時に強い関心も抱いていて、関連書籍を一通り確保しながら、中々開けずにいた。
実際に本を開くことができたのは事件から何年も経った後のことだった。
その中から二冊だけ手元に残していた信頼できる語り手の本を、久々に再読した。
綿密な取材から浮かび上がるのは、必ずしも周囲の環境や少年自身の「異常性」ではない。
事件周辺に散らばる様々な要素は、一つ一つをバラバラに見てみれば、どれも飛び抜けて「異常」というほどのものではないのだ。
ニュータウンという環境は日本中どこにでもある。
この程度の学校や捜査当局の対応の不味さは、日常茶飯事である。
この程度のエキセントリックは、子育て中の母親の多くが抱えている。
この程度の家庭での存在感の薄さは、仕事熱心な父親の多くが抱えている。
そして、この程度の「心の闇」は、思春期の少年少女の多くが抱えている。
おそらく日本中で毎日大量に発生しているであろう小さな「ノイズ」の断片が、不可解なタイミングでこの少年に集中し、凄惨な事件に結晶したように見える。
だからと言って少年の罪が免罪されるわけではない。
とっくの昔に成人した元・少年には、生涯かけて被害者遺族の皆さんに償う義務がある。
ただ、やはり認識しておくべきなのは、事件の因はかの少年の異常性「だけ」には限定できないということだ。
今回二冊を再読し、過去の自分をふり返ってみる。
学校に馴染めず、周囲とあまり話が合わず、本を読み、絵を描き、文章を書き、近所の裏山や、訪れる者もない奥池で孤独に浸る少年の姿は、やはり痛く心に突き刺さる。
程度の違いこそあれ、少年時代の私も同じようなことをしていた。
書き出してみると、我がことのようだ。
はっきりした違いもある。
私は小学校低学年の頃に、幼児特有の「虫を殺す遊び」に嫌気がさすことができたが、少年はその時期を過ぎても小動物の殺傷を止められなかったことだ。
その分岐点に、何らかの鍵はあるのかもしれない。
2017年11月19日
いくつもの貌
2015年刊の本を一冊、このカテゴリ「積ん読崩し」で紹介。
ずっと関心のあるテーマの本だったので刊行間もなく確保していたが、当時は他に優先的に考えなければならないことが多くて、積みっぱなしになっていた。
私の個人的な機が熟し、最近ようやく読み通した。
90年代、テロ事件を起こしたカルト教祖の三女による、二十年越しの手記である。
●「止まった時計」松本麗華(講談社)
一応確認しておくと、著者は事件当時12歳。
教祖の娘でホーリーネームを持ち、教団内のステージが高かったとは言え、事件にいかなる関与もしえない立場にあった。
事件後も、基本的には教団組織から距離を置くことに努めており、経済的な支援も受けずに成人している。
父である教祖から一方的に与えられた「宗教的権威」のせいで、彼女は教団外からは徹底的に疎外され、教団内では常に権力争いに巻き込まれ続けてきた。
私は、事件の実行犯や指導的立場にあった者については、徹底的に法で裁くことに異論はない。
しかし、とりわけ「カルトの子」である事件当時の年少者については、しかるべき受け入れ態勢を社会の側が整えるべきだったのではないかと考える。
実際には、著者は公安当局やマスコミの厳重な監視下に置かれ、ことあるごとに教団内の内紛に利用され、どこにも居場所を与えられないままだった。
幾重にも取り囲むハードルの中で、一生徒として普通に学校生活を送りたいというささやかな願いすら、大学入学までかなえられることは無かったのだ。
彼女の目には、教団内も、そしてこの日本という国も、等しく理不尽で荒れ果てた世界として映ったのではないだろうか。
著者の目からみた教祖像にも、痛々しいものを感じた。
当り前のことであるが、かの教祖も娘にとっては「大好きな父」であったのだ。
カルト教祖とは言え、常時狂った犯罪者で在り続けるわけではない。
普段の生活の中で、演技などではなく、子どもに対しては慈父であり、弟子に対しては頼れる師であった時間も、間違いなくあったのだ。
そうでなければ、一万人を超える規模で人を集め、熱狂に駆り立てることは逆に不可能だ。
教祖の視覚障害が進行し、熱狂的な弟子を経由した情報しか入らなくなる過程の描写は、教団暴走の重要な鍵になると思われるのである。
かの教祖には多面性があったことは間違いないが、著者はとくに「善意」の部分に多く接してきたのだろう。
併せて読むことでより立体的な教祖像が浮き彫りになると思われるのが、2006年刊の以下の一冊。
●「麻原彰晃の誕生」高山文彦(文春新書)
後に教祖となる一人の男。
ハンディキャップを抱えた少年期から青年期にかけて、そして教団を率いるようになって以後の彼を直接知る、主に教団外の人々からの丹念な聞き取りを集積した一冊。
盲学校時代の教師、薬事法違反の際取り調べに当たった刑事、近所の寿司屋店主の証言は、ほぼ等身大の教祖を描き出している。
とくに、戸籍名ではない教祖名の「名づけ親」とも言える人物について、触れてある書籍は少ないのではないだろうか。
近代日本で創作された偽史の副産物「ヒヒイロカネ」にまつわる異聞も、80年代オカルトを楽しんできた者としては大変興味深かった。
先に紹介した三女による手記ではエキセントリックな印象ばかりが強い教祖の妻についても、そこに至るまでの境遇を想えば、別角度の捉え方があり得ると感じる。
背負ったハンデと戦う「しぶとい俗物」としての教祖像は、同じ俗物の身として、ふと共感してしまう部分もある。
単純な異物排除と、単純な帰依。
その両方が、一人の男の中で起こったハルマゲドンを、社会に拡大投射する様が視えてくる。
ずっと関心のあるテーマの本だったので刊行間もなく確保していたが、当時は他に優先的に考えなければならないことが多くて、積みっぱなしになっていた。
私の個人的な機が熟し、最近ようやく読み通した。
90年代、テロ事件を起こしたカルト教祖の三女による、二十年越しの手記である。
●「止まった時計」松本麗華(講談社)
一応確認しておくと、著者は事件当時12歳。
教祖の娘でホーリーネームを持ち、教団内のステージが高かったとは言え、事件にいかなる関与もしえない立場にあった。
事件後も、基本的には教団組織から距離を置くことに努めており、経済的な支援も受けずに成人している。
父である教祖から一方的に与えられた「宗教的権威」のせいで、彼女は教団外からは徹底的に疎外され、教団内では常に権力争いに巻き込まれ続けてきた。
私は、事件の実行犯や指導的立場にあった者については、徹底的に法で裁くことに異論はない。
しかし、とりわけ「カルトの子」である事件当時の年少者については、しかるべき受け入れ態勢を社会の側が整えるべきだったのではないかと考える。
実際には、著者は公安当局やマスコミの厳重な監視下に置かれ、ことあるごとに教団内の内紛に利用され、どこにも居場所を与えられないままだった。
幾重にも取り囲むハードルの中で、一生徒として普通に学校生活を送りたいというささやかな願いすら、大学入学までかなえられることは無かったのだ。
彼女の目には、教団内も、そしてこの日本という国も、等しく理不尽で荒れ果てた世界として映ったのではないだろうか。
著者の目からみた教祖像にも、痛々しいものを感じた。
当り前のことであるが、かの教祖も娘にとっては「大好きな父」であったのだ。
カルト教祖とは言え、常時狂った犯罪者で在り続けるわけではない。
普段の生活の中で、演技などではなく、子どもに対しては慈父であり、弟子に対しては頼れる師であった時間も、間違いなくあったのだ。
そうでなければ、一万人を超える規模で人を集め、熱狂に駆り立てることは逆に不可能だ。
教祖の視覚障害が進行し、熱狂的な弟子を経由した情報しか入らなくなる過程の描写は、教団暴走の重要な鍵になると思われるのである。
かの教祖には多面性があったことは間違いないが、著者はとくに「善意」の部分に多く接してきたのだろう。
併せて読むことでより立体的な教祖像が浮き彫りになると思われるのが、2006年刊の以下の一冊。
●「麻原彰晃の誕生」高山文彦(文春新書)
後に教祖となる一人の男。
ハンディキャップを抱えた少年期から青年期にかけて、そして教団を率いるようになって以後の彼を直接知る、主に教団外の人々からの丹念な聞き取りを集積した一冊。
盲学校時代の教師、薬事法違反の際取り調べに当たった刑事、近所の寿司屋店主の証言は、ほぼ等身大の教祖を描き出している。
とくに、戸籍名ではない教祖名の「名づけ親」とも言える人物について、触れてある書籍は少ないのではないだろうか。
近代日本で創作された偽史の副産物「ヒヒイロカネ」にまつわる異聞も、80年代オカルトを楽しんできた者としては大変興味深かった。
先に紹介した三女による手記ではエキセントリックな印象ばかりが強い教祖の妻についても、そこに至るまでの境遇を想えば、別角度の捉え方があり得ると感じる。
背負ったハンデと戦う「しぶとい俗物」としての教祖像は、同じ俗物の身として、ふと共感してしまう部分もある。
単純な異物排除と、単純な帰依。
その両方が、一人の男の中で起こったハルマゲドンを、社会に拡大投射する様が視えてくる。