昨年末から川奈まり子の著書を読み続けている。
ジャンルは「実話怪談」で、ごく簡単に言えば「本当にあった怖い話」に分類されるだろう。
そのジャンル自体に強い関心があったわけではないのだが、昨年から始めたTwitterでふと目に留まった著者アカウントを追ううちに、興味をひかれて本を手に取るようになった。
川奈まり子の実話怪談は、以下の三段階から構成される。
・怪異の実体験
・体験者本人の語り
・聴き取った川奈まり子の文章
この三段階の微妙な距離感が、実にスリリングなのだ。
ことさらに恐怖を煽ることのない淡々とした筆致は、「現代の民俗学」のようにも感じられる。
怪異体験と自己同一化の強い、「怖い」語り手と対する時、聴き取りは川奈まり子自身の怪異体験の様相を帯びてくる。
本の要所要所に、著者自身の(現在進行形のものも含めた)体験談が挿入されており、実話怪談の蒐集の体裁を取りながらも、大きな流れとして「川奈まり子の物語」になっているのも凄い。
読み進めるうちに、読者である私の側にも怪異が呼び覚まされてくる。
怪異はある意味「過去の記憶との対面」で、他者の実話語りの中に自分の過去を見るような読書体験になってくる。
ここまでくると「怪異」の浸食は、体験者から川奈まり子を通じ、読者である私自身にまで及ぶのだ。
すっかりハマって二冊三冊と作品を追い、気付いたことをメモ代わりにTwitterで呟いていて、頭の中で次々に触発されてくるものがあった。
当ブログ「縁日草子」の各カテゴリで別々に追い続けてきたテーマを、横断的につないでいける可能性を感じた。
関連して読み返しておきたい本、新しく読みたい本が何冊か出てきた。
良い機会なのでカテゴリ「怪異」を新設、ぼちぼち記事を書いていくことにした。
まずは川奈まり子の作品紹介から始めてみたいと思う。
2019年03月04日
2019年03月05日
川奈まり子「実話奇譚 奈落」
川奈まり子「実話奇譚 奈落」読了。
●「実話奇譚 奈落」川奈まり子 (竹書房文庫)
最初の「写真の顔 〜まえがきに代えて〜」からいきなり引き込まれ、ぞくぞくしながら読む。
スマホ写真で度々異様な写り方をするという著者の顔。
ラストで「正常に」写った際の小さな落胆。
それは裏を返すと、異常な写り方に対する親近感か。
顔の写り方は、しょせん顔の写り方「ぐらいのこと」なのだ。
もっと恐ろしいことは日常の中にいくらもある、とまで著者は書いていないけれど、怪異に対する距離感が伝わってくる、そんなラストシーンだった。
怪異だけでは「語り」にならない。
そこに語り手の視点、書籍であれば文体がなければならない。
これは絵でも同じ。
著者自身の体験の後も、短い、ぶつ切りとも言える小さな怪異の実録が続く。
すっきり謎解きされることのないぼんやりした不安が、ひとつ、またひとつと降り積もる感覚。
殊更に恐怖を煽ることのない淡々とした筆致が刻む、静かな恐さ。
マンガでいえば、線は少ないがリアルな絵柄のような雰囲気か。
日常と怪異の間にある何らかの「境界線」を、手探りで確かめるように積み重ねられていくエピソードを、間を置きながらじっくり読み進める。
終盤に差し掛かったエピソード「姉」で、暫し余韻にひたる。
中学生で劇的変身を遂げたこのお姉さん、妹さんが不安に感じるような「別人になった」ケースではなく、たぶん「合体」ではなかろうかと、勝手な想像をしてしまう。
というのは、この奇譚のように劇的ではないものの、私も中学の頃、自分の人格が少し変貌するのを感じた記憶があるからだ。
元々の私は真面目で大人しい性格だったのだが、ある時期からしぶとく気性の激しい部分が強く出てきた気がするのだ。
当時の私はかなり厳しい、今なら虐待と言って良い指導をする私立校に通っていて、精神的にかなり追い詰められていた。
もし生真面目なままであれば潰されていたかもしれないし、下手にカルトな校風に適応できていたとしたら、卒業後本物のカルトに走っていた可能性もあった。(実際、そうした先輩方もいた)
青春ハルマゲドン4
当時大好きだったマンガデビルマンになぞらえて、「ああ、俺は悪魔と合体したんだな」と、まさに中二病丸出しで考えていたのだが、それで虐待指導からサバイバルでき、正気を保つことができたのだから、まずは自分を褒めてあげなければならない(笑)
そう言えば同じ中高生の頃、よく金縛りにあっていた。
金縛りと幽体離脱
上掲記事にも詳述した通り、今の私はそれを必ずしも「霊現象」だとは思っていないが、「思春期と怪異」というのは、かなり関連が深いように感じる。
思春期の強いストレスは、怪異(と一般に呼ばれる現象)を呼び込み、ある種の「変身」を促すことがある。
それは対処次第で毒にもなり、薬にもなるのではないだろうか。
現実が地獄であるなら、怪異は一種の救いになり、地獄を棲家とする力を得ることもできるのだ。
さらに読み進めて「羅生門と彼岸花」へ。
私の母方の田舎も百年くらい前まで土葬が残っていた地域で、秋のお彼岸の時期、お墓へ続く道には彼岸花が咲き乱れていた。
そんな懐かしくも怪しい原風景を思い出すお話。
今でも彼岸花は大好きで、秋分の時期になると絵に描きたくなる。
そして最終盤「人形」へ。
球体関節人形にまつわる怪異。
私はガンプラブーム世代なので、ボールジョイントやフィギュア表現の発達をリアルタイムで見てきて、自分でも色々作ってきた。
ただ、メカや怪獣はたくさん作ったのだが、「ひとがた」のフィギュアはちょっと敬遠していた。
中高生の頃、少しだけ作りかけてみて、ほんの入り口で引き返したのだ。
たとえば顔の部分をリアルに塗ろうとすると、絵で描くのとはまた違った生々しさが感じられ、「これはちょっとまずいのではないか」と感じた。
のめり込んで「ひとがた」を作ることの難しさと、その引き換えに得られる怪しい悦楽に、当時の私はびびってしまったのだと思う。
奇譚中の「女優さん」への心当たりとともに、思春期の頃の創作への危うい思いがよみがえってくるエピソードだった。
間を置きながら読み進め、一冊分、とても良い時間を過ごせたと思う。
怪異は過去の記憶との対面で、他者の実話語りの中に自分の過去を見るような読書体験だった。
中高生の頃のつらさや金縛り、物を作ることへのおそれの感情なども懐かしく、「地獄は一定すみかぞかし」という我が家の宗派の言葉も浮かんできた。
怪異というものは、虹や野生生物の出没などの自然現象に似たところがある。
そちらに注意を向け、観ようとしない者の眼には映らない。
夢もそうだ。
広く実話奇譚を蒐集する川奈まり子の眼に、今後どんな視野が広がっていくのか。
これからも追ってみたい。
●「実話奇譚 奈落」川奈まり子 (竹書房文庫)
最初の「写真の顔 〜まえがきに代えて〜」からいきなり引き込まれ、ぞくぞくしながら読む。
スマホ写真で度々異様な写り方をするという著者の顔。
ラストで「正常に」写った際の小さな落胆。
それは裏を返すと、異常な写り方に対する親近感か。
顔の写り方は、しょせん顔の写り方「ぐらいのこと」なのだ。
もっと恐ろしいことは日常の中にいくらもある、とまで著者は書いていないけれど、怪異に対する距離感が伝わってくる、そんなラストシーンだった。
怪異だけでは「語り」にならない。
そこに語り手の視点、書籍であれば文体がなければならない。
これは絵でも同じ。
著者自身の体験の後も、短い、ぶつ切りとも言える小さな怪異の実録が続く。
すっきり謎解きされることのないぼんやりした不安が、ひとつ、またひとつと降り積もる感覚。
殊更に恐怖を煽ることのない淡々とした筆致が刻む、静かな恐さ。
マンガでいえば、線は少ないがリアルな絵柄のような雰囲気か。
日常と怪異の間にある何らかの「境界線」を、手探りで確かめるように積み重ねられていくエピソードを、間を置きながらじっくり読み進める。
終盤に差し掛かったエピソード「姉」で、暫し余韻にひたる。
中学生で劇的変身を遂げたこのお姉さん、妹さんが不安に感じるような「別人になった」ケースではなく、たぶん「合体」ではなかろうかと、勝手な想像をしてしまう。
というのは、この奇譚のように劇的ではないものの、私も中学の頃、自分の人格が少し変貌するのを感じた記憶があるからだ。
元々の私は真面目で大人しい性格だったのだが、ある時期からしぶとく気性の激しい部分が強く出てきた気がするのだ。
当時の私はかなり厳しい、今なら虐待と言って良い指導をする私立校に通っていて、精神的にかなり追い詰められていた。
もし生真面目なままであれば潰されていたかもしれないし、下手にカルトな校風に適応できていたとしたら、卒業後本物のカルトに走っていた可能性もあった。(実際、そうした先輩方もいた)
青春ハルマゲドン4
当時大好きだったマンガデビルマンになぞらえて、「ああ、俺は悪魔と合体したんだな」と、まさに中二病丸出しで考えていたのだが、それで虐待指導からサバイバルでき、正気を保つことができたのだから、まずは自分を褒めてあげなければならない(笑)
そう言えば同じ中高生の頃、よく金縛りにあっていた。
金縛りと幽体離脱
上掲記事にも詳述した通り、今の私はそれを必ずしも「霊現象」だとは思っていないが、「思春期と怪異」というのは、かなり関連が深いように感じる。
思春期の強いストレスは、怪異(と一般に呼ばれる現象)を呼び込み、ある種の「変身」を促すことがある。
それは対処次第で毒にもなり、薬にもなるのではないだろうか。
現実が地獄であるなら、怪異は一種の救いになり、地獄を棲家とする力を得ることもできるのだ。
さらに読み進めて「羅生門と彼岸花」へ。
私の母方の田舎も百年くらい前まで土葬が残っていた地域で、秋のお彼岸の時期、お墓へ続く道には彼岸花が咲き乱れていた。
そんな懐かしくも怪しい原風景を思い出すお話。
今でも彼岸花は大好きで、秋分の時期になると絵に描きたくなる。
そして最終盤「人形」へ。
球体関節人形にまつわる怪異。
私はガンプラブーム世代なので、ボールジョイントやフィギュア表現の発達をリアルタイムで見てきて、自分でも色々作ってきた。
ただ、メカや怪獣はたくさん作ったのだが、「ひとがた」のフィギュアはちょっと敬遠していた。
中高生の頃、少しだけ作りかけてみて、ほんの入り口で引き返したのだ。
たとえば顔の部分をリアルに塗ろうとすると、絵で描くのとはまた違った生々しさが感じられ、「これはちょっとまずいのではないか」と感じた。
のめり込んで「ひとがた」を作ることの難しさと、その引き換えに得られる怪しい悦楽に、当時の私はびびってしまったのだと思う。
奇譚中の「女優さん」への心当たりとともに、思春期の頃の創作への危うい思いがよみがえってくるエピソードだった。
間を置きながら読み進め、一冊分、とても良い時間を過ごせたと思う。
怪異は過去の記憶との対面で、他者の実話語りの中に自分の過去を見るような読書体験だった。
中高生の頃のつらさや金縛り、物を作ることへのおそれの感情なども懐かしく、「地獄は一定すみかぞかし」という我が家の宗派の言葉も浮かんできた。
怪異というものは、虹や野生生物の出没などの自然現象に似たところがある。
そちらに注意を向け、観ようとしない者の眼には映らない。
夢もそうだ。
広く実話奇譚を蒐集する川奈まり子の眼に、今後どんな視野が広がっていくのか。
これからも追ってみたい。
2019年03月06日
川奈まり子「実話怪談 出没地帯」
昨年末、川奈まり子の新刊「実話奇譚 奈落」を味わいつつ読んだ。
●「実話奇譚 奈落」川奈まり子(竹書房文庫)
二冊目、次はどの作品を読もうかと書店で探し、以下の本を手にとった。
●「実話怪談 出没地帯」川奈まり子(河出書房新社)
序章「怖い私」が、本書を選ぶ決め手になった。
著者が実話怪談を蒐集、執筆するようになった発端についての「エピソード0」であり、そういうことだったのかと、昨年来のあれこれに納得できたのだ。
以下、掲載順とは異なるが、印象に残ったエピソードについての覚書を残しておきたい。
●「空き家じゃなかった」「辻に建つ家」
本書にはタイトル通り「場所」「物件」に関するエピソードが多く収録されている。
人や、あるいは「霊」のふるまいが、ある特定の場所の影響を受けることの不可解。
理由が不明確であることがよけいに不気味さを呼び、恐怖を掻き立てる。
地勢や家の造りが人に与える影響ついては、古来「風水」「家相」というものの考え方で、一定の説明がなされてきた。
拙ブログで言えば、以下の記事。
家相、風水
沖縄、石敢當
現代にも通じる合理性は、不可解な奇現象に対する疑問や恐怖の何割かは解消するが、全て打ち消すことはもちろん不可能だ。
●正月異聞「オミダマさま」
身内に受け入れ難い不幸があると、受容の一つの在り方、プロセスとして、伝統習俗が機能することがある。
それまで「葬式など要らない」と思っていた人が、近親者の死にあたって葬送儀礼の流れに身を委ねているうちに、悲しみの幾許かが癒されたという話はよく聞く。
ただ、その不幸が習俗のキャパを超えた場合、時に「怪異」という顕れ方になるのかもしれない。
――普通でない死には、何か普通でないことがあってほしい。
――何かあってくれた方が、かえって納得できる。
そんな一種の「倒錯」も、人の心には潜んでいるのではないだろうか。
怪異の原因となった「若年者の急死」は、小さな騒動の内に、なんとなく鎮魂されっていたようにも読める。
このエピソードでは結局「オミダマさま」という習俗は途絶してしまうのだが、またいつの日か親族中に何らかの「受け入れ難い不幸」があった折りには、ホコリを払って御用をつとめる日が来るかもしれない。
●「まいどの顔」「瓶詰めの胎児」
子供の意外な観察眼、発想に感心する「まいどの顔」のエピソードに、古い記憶が呼び覚まされる。
むかし「口裂け女」騒動があって、私たち小学生はビビッていたのだが、もう一つ地味に恐れられていたのが「コトリ」だった。
遅くまで外で遊んだり、勝手に遠くへ行ったりすると、大人たちに「コトリに攫われるぞ」と脅されたものだった。
コトリは「子盗り」、つまり「人攫い」のことで、子供の頃は名前の響きからなんとなく「鳥の妖怪」みたいなイメージを持っていた。
攫われた子供がどうなるのか明確ではない所が、また怖かった。
そんな子供の頃の思い出を元に、昨年造形したのが怪人コトリ。
イメージを結晶させるために柳田国男「妖怪談義」を読み、コトリやそれに類する妖怪が「攫った子供の脂をしぼって南京皿を焼く」という伝承があることを知った。
エピソード「瓶詰めの胎児」作中の「コトリバコ」と、あるいは関連するのかもしれない。
●「けいこちゃん」
子供の頃、盆暮れに祖父母の家で皆集まって、親戚や近所の子たちと遊んで、別れて、そんなサイクルが何度もあって……
記憶の中の郷愁が、怪しく、哀しく、ゆらぎはじめるエピソード。
読み進めるうちに、いつの間にか「けいこちゃん」に感情移入してしまっている自分に気付く。
何の疑問もなく楽しく遊んでいた「おともだち」が、ある時期からふっと自分から離れていってしまう寂しさ。
私もまた一人の「けいこちゃん」でないと、なぜいえようか。
子供は、可愛くて不気味、懐かしくて残酷、未来であり追憶でもある。
弘法大師が詠む、次のような一節を思い出す。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
●「その肌、ちょうだい。」
怪異は怪異でも、誰の身にも起こり得て、実際起こっているであろうレベルのエピソード。
しかしそのレベルでも、感じようとしない者には永遠に感じられない。
思春期、悪意なくやってしまった友への仕打ちが、心に痛く蘇る。
●「母校の怪談」「連れて逝く人」
二十代前半というのは、幼年時代、ローティーン時代に次いで、怪異と出会う時期なのかもしれない。
私な場合は「夢」だったけれども、その時期多くの悪夢、怪夢を見、金縛りや幽体離脱の類に遭遇した。
学生時代、根をつめて卒業制作中にうつらうつらしていた時、その夢を見た。
遊園地の鏡の間のような場所。
自分の周りに無数の自分が映る。
ふつう「合わせ鏡」の状態では、鏡像は正面と背面を交互に繰り返すはずなのに、映った自分全員がこちらを見ているのに気付き、ゾッとして我にかえる。
そんな夢を思い出した。
社会に出る前後、改めて「自分」と直面する危うい時期なのだろうか。
同じ頃見た、地味に恐ろしい夢をもう一つ。
発車時刻
自分が生きるこの現実と、近似しながらも少しずつ違う世界をいくつも横滑りしていく夢。
醒めてから、果たしてここは本当に自分がいるべき場所なのかと、足元がぐらりと揺れるような不安に襲われた。
そして、自分がフェイクでないとどうして言えるのかという疑問も湧いてきた。
●終章「分身」
序章「怖い私」、途中の「タクシーの夜」等の作者自身の実話と響き合い、円環して一冊を締めるエピソード。
この構成により、以後の川奈作品にも全て「怖い私」の物語が二重写しになって読めてくる。
川奈作品二冊目にこの本を選んだのは正解だった。
終章「分身」は、「表現者とドッペルゲンガー」というテーマに連なる物語だと思うが、作家が個人的な体験として「もう一人の自分と出会う」という範囲を、かなり踏み越えているようにも見える。
赤の他人にまで頻繁に目撃され、会話まで交わされる「もう一人」の存在は、極めて不可解だ。
著者が「映像メディアで姿を知られた人」であるという点に、何らかの鍵が隠されているかもしれないが、もちろんそれで全てがすっきり説明される訳でもない。
不思議な「分身」が存在して、どうやらそれは著者の執筆活動と微妙に連動しているらしいことが、川奈作品を低音域で支えている。
今も川奈まり子によって続けられている奇譚蒐集の先にどんな展開が待っているのか、今後もさらに追ってみたい。
●「実話奇譚 奈落」川奈まり子(竹書房文庫)
二冊目、次はどの作品を読もうかと書店で探し、以下の本を手にとった。
●「実話怪談 出没地帯」川奈まり子(河出書房新社)
序章「怖い私」が、本書を選ぶ決め手になった。
著者が実話怪談を蒐集、執筆するようになった発端についての「エピソード0」であり、そういうことだったのかと、昨年来のあれこれに納得できたのだ。
以下、掲載順とは異なるが、印象に残ったエピソードについての覚書を残しておきたい。
●「空き家じゃなかった」「辻に建つ家」
本書にはタイトル通り「場所」「物件」に関するエピソードが多く収録されている。
人や、あるいは「霊」のふるまいが、ある特定の場所の影響を受けることの不可解。
理由が不明確であることがよけいに不気味さを呼び、恐怖を掻き立てる。
地勢や家の造りが人に与える影響ついては、古来「風水」「家相」というものの考え方で、一定の説明がなされてきた。
拙ブログで言えば、以下の記事。
家相、風水
沖縄、石敢當
現代にも通じる合理性は、不可解な奇現象に対する疑問や恐怖の何割かは解消するが、全て打ち消すことはもちろん不可能だ。
●正月異聞「オミダマさま」
身内に受け入れ難い不幸があると、受容の一つの在り方、プロセスとして、伝統習俗が機能することがある。
それまで「葬式など要らない」と思っていた人が、近親者の死にあたって葬送儀礼の流れに身を委ねているうちに、悲しみの幾許かが癒されたという話はよく聞く。
ただ、その不幸が習俗のキャパを超えた場合、時に「怪異」という顕れ方になるのかもしれない。
――普通でない死には、何か普通でないことがあってほしい。
――何かあってくれた方が、かえって納得できる。
そんな一種の「倒錯」も、人の心には潜んでいるのではないだろうか。
怪異の原因となった「若年者の急死」は、小さな騒動の内に、なんとなく鎮魂されっていたようにも読める。
このエピソードでは結局「オミダマさま」という習俗は途絶してしまうのだが、またいつの日か親族中に何らかの「受け入れ難い不幸」があった折りには、ホコリを払って御用をつとめる日が来るかもしれない。
●「まいどの顔」「瓶詰めの胎児」
子供の意外な観察眼、発想に感心する「まいどの顔」のエピソードに、古い記憶が呼び覚まされる。
むかし「口裂け女」騒動があって、私たち小学生はビビッていたのだが、もう一つ地味に恐れられていたのが「コトリ」だった。
遅くまで外で遊んだり、勝手に遠くへ行ったりすると、大人たちに「コトリに攫われるぞ」と脅されたものだった。
コトリは「子盗り」、つまり「人攫い」のことで、子供の頃は名前の響きからなんとなく「鳥の妖怪」みたいなイメージを持っていた。
攫われた子供がどうなるのか明確ではない所が、また怖かった。
そんな子供の頃の思い出を元に、昨年造形したのが怪人コトリ。
イメージを結晶させるために柳田国男「妖怪談義」を読み、コトリやそれに類する妖怪が「攫った子供の脂をしぼって南京皿を焼く」という伝承があることを知った。
エピソード「瓶詰めの胎児」作中の「コトリバコ」と、あるいは関連するのかもしれない。
●「けいこちゃん」
子供の頃、盆暮れに祖父母の家で皆集まって、親戚や近所の子たちと遊んで、別れて、そんなサイクルが何度もあって……
記憶の中の郷愁が、怪しく、哀しく、ゆらぎはじめるエピソード。
読み進めるうちに、いつの間にか「けいこちゃん」に感情移入してしまっている自分に気付く。
何の疑問もなく楽しく遊んでいた「おともだち」が、ある時期からふっと自分から離れていってしまう寂しさ。
私もまた一人の「けいこちゃん」でないと、なぜいえようか。
子供は、可愛くて不気味、懐かしくて残酷、未来であり追憶でもある。
弘法大師が詠む、次のような一節を思い出す。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
●「その肌、ちょうだい。」
怪異は怪異でも、誰の身にも起こり得て、実際起こっているであろうレベルのエピソード。
しかしそのレベルでも、感じようとしない者には永遠に感じられない。
思春期、悪意なくやってしまった友への仕打ちが、心に痛く蘇る。
●「母校の怪談」「連れて逝く人」
二十代前半というのは、幼年時代、ローティーン時代に次いで、怪異と出会う時期なのかもしれない。
私な場合は「夢」だったけれども、その時期多くの悪夢、怪夢を見、金縛りや幽体離脱の類に遭遇した。
学生時代、根をつめて卒業制作中にうつらうつらしていた時、その夢を見た。
遊園地の鏡の間のような場所。
自分の周りに無数の自分が映る。
ふつう「合わせ鏡」の状態では、鏡像は正面と背面を交互に繰り返すはずなのに、映った自分全員がこちらを見ているのに気付き、ゾッとして我にかえる。
そんな夢を思い出した。
社会に出る前後、改めて「自分」と直面する危うい時期なのだろうか。
同じ頃見た、地味に恐ろしい夢をもう一つ。
発車時刻
自分が生きるこの現実と、近似しながらも少しずつ違う世界をいくつも横滑りしていく夢。
醒めてから、果たしてここは本当に自分がいるべき場所なのかと、足元がぐらりと揺れるような不安に襲われた。
そして、自分がフェイクでないとどうして言えるのかという疑問も湧いてきた。
●終章「分身」
序章「怖い私」、途中の「タクシーの夜」等の作者自身の実話と響き合い、円環して一冊を締めるエピソード。
この構成により、以後の川奈作品にも全て「怖い私」の物語が二重写しになって読めてくる。
川奈作品二冊目にこの本を選んだのは正解だった。
終章「分身」は、「表現者とドッペルゲンガー」というテーマに連なる物語だと思うが、作家が個人的な体験として「もう一人の自分と出会う」という範囲を、かなり踏み越えているようにも見える。
赤の他人にまで頻繁に目撃され、会話まで交わされる「もう一人」の存在は、極めて不可解だ。
著者が「映像メディアで姿を知られた人」であるという点に、何らかの鍵が隠されているかもしれないが、もちろんそれで全てがすっきり説明される訳でもない。
不思議な「分身」が存在して、どうやらそれは著者の執筆活動と微妙に連動しているらしいことが、川奈作品を低音域で支えている。
今も川奈まり子によって続けられている奇譚蒐集の先にどんな展開が待っているのか、今後もさらに追ってみたい。
2019年03月07日
川奈まり子「迷家奇譚」
昨年末から川奈まり子の作品にハマり、読み進めている。
当ブログでもこれまで二冊のレビュー記事を書いた。
実話奇譚 奈落
実話怪談 出没地帯
そして今回手に取った三冊目は、以下の本。
●「迷家奇譚」川奈まり子(晶文社)
決定的なネタバレにならぬよう配慮しつつ、各エピソードを紹介してみよう。
●第一章「追憶の遠野紀行」
先に読んだ「出没地帯」は、著者が実話怪談を蒐集、執筆するきっかけとなった「分身」体験から語り起こされた。
本書ではさらに遡り、思春期の著者のフィールドワーク体験から始まる。
学者である父親と現地に足を踏み入れ、語りを聴きとり、文字に定着する。
そうしたプロセスは、誰かに導いてもらわなければ独力ではたどり着き難い。
その時理解出来なくても、体を一度通しておくことで、いつの日かふと甦る感覚というものが確かにあるのだ。
昨年「奈落」で初めて川奈作品を開いた時、怪異体験を聴き取り、エピソードを綴る抑えた筆致に「現代の民俗学のようだ」という印象を持った。
今回「追憶の遠野紀行」を読み、「ああ、そういうことだったのか」と腑に落ちた。
遠野を連れ立って歩く、すこしぎこちない父娘の後ろ姿がせつなく浮かんでくるようなエピソード。
●「廃墟半島にて」
●「彼岸トンネル」
廃墟、トンネル等は、いずれも近代的な巨大構造物。
その圧倒的な質量は、関わった人々の記憶や欲望を膨大に溜め込むダムであるかのようだ。
とくに80年代の物質的繁栄、欲望の記憶の残骸に、ある種の敏感さを持った者が不用意に迷い込み、それにアクセスしてしまったら……
90年代は、まだ万事アナログの時代だった。
デジタルへの切り替えが急速に進んだのが2000年代初頭で、その頃一気に普及したデジカメは時代変化の象徴だったと思う。
当時まず思ったのは、「心霊写真はもう無くなるんだろうか?」ということ。
霊現象とデジタルはいかにも相性が悪そうに思えたものだったのだが、結果としては、近代の構造物も、現代のデジタル技術も、ネットの普及も、怪異を駆逐することはなかった。
むしろ巨大なアンプとスピーカーとして機能し、その拡散を押し進めた感すらあるのだ。
●「熊取七人七日目七曲り」
一口に「怪異」と言っても、確固とした現実から超常現象まで、グラデーションがある。
第四章「熊取七人〜」は、起こった怪異自体はかなり現実的で、薬物による妄想、そして実際に手を下した人間のいる犯罪の匂いすら感じられる。
しかしそこに、土地の歴史や呪的な数字の要素が被さることで、「実体験」から「物語」への変換が起こる。
現代ではネットの伝達力もあり、物語化、神話化は昔よりずっと早く進行しているのではないだろうか。
●「鍵付きの時代箪笥」
●「いちまさん」
●「人形心中」
思い入れの念の籠った器物、人形の物語たち。
作りの精巧な人形には、やはり特別な感情が宿る。
それはたぶん、人間側の濃い感情が「ひとがた」に反映されているものなのだが。
特にサイズが数十センチから等身大になると、映し出される感情の質量は危険水域に達してくる。
人形趣味も、小サイズで、ある程度デフォルメされたフィギュアくらいにとどめておくのが程よいのかもしれない。
そう言えば以前登山していた時、いわゆる「ラブドール」が谷間に打ち捨てられていて、かなりリアルな造形だったので物凄く驚いたことがあった。
すぐに事態は把握でき、事件に巻き込まれたわけではないと一安心したのだが、それはたいそう無残な捨てられ方で、反射的に思ったのが「可哀そうやろ!」だった。
あの時の感情は、今でも整理できないでいる。
●「堀田坂今昔」
●「神隠し」
日常の徒歩移動の際、ふと別の経路を辿ったり、そのまま行き先変更してしまいたくなる時がある。
人によって、あまりそういう衝動に駆られないタイプもあろうけれども、概して「散歩好き」は、そのような小さなアクシデント、即興性を好む。
川奈まり子の著作には、自身の散歩や、それにまつわる怪異のシーンがよく出てくる。
先月「出没地帯」収録の「散在ガ池」「ブランコが揺れる」を読んだ時、ふと思った。
「もしかしたらこの人は、神隠しにあうタイプでは?」
そんな直観が裏付けられた思いがしたエピソードである。
衝動に駆られての散歩と神隠しは紙一重、無事帰って来られるかどうかの違いしかない。
特に年少者の衝動には気を付けてあげなければ……
そんなことを、自分の幼時の危うく小さな「冒険」の思い出と共に味読した。
あの日幼い私は、祖父母宅の裏山へ決然と登って行ったのだった……
山の向こうへ1
山の向こうへ2
山の向こうへ3
山の向こうへ4
●「犬の首」
●「禁をやぶると」
70年代は、まだあちこちに(今の目で見ると怪しげな)土俗や、その担い手の人々が残っていたことを思い出す。
日常と違う「変わったこと」「変わった人」に出会う機会が、今よりずっと多かった気がする。
怖さと懐かしさが入り混じった感情をかき立てられるエピソード。
現在、特に都市部では、かつてのような「怪しさ」を目にすることは少なくなった。
しかしそれは表面上のこと。
普通の見た目の普通の人の普通の生活の中に、怪異は偽装されて潜んでいるのかもしれない。
「まさかあの人が」
この一言が日々のニュースに頻出する昨今である。
●「まれびとの顔」
●「海霊の人魚」
若い頃バイトで入っていた環境設計の事務所が沖縄の仕事をしていた関係で、何度か現地調査に入り、旅行でも何度か行くようになった。
旅人として物珍しげにあちこちのぞいて回るうち、「あ、そうか! ウチナーの皆さんも、こちらを見物してるのか!」と気付く瞬間がやってくる。
よく引用されるニーチェの言葉「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の「深淵」の箇所は様々に置き換えが出来る。
果たして「まれびと」はどちらか?
●「蛭男」
暗く湿気ていながら、どこか優しく包み込むような怪異のエピソード。
●「生霊返し」
本書「迷家奇譚」中、私が最も恐ろしかったエピソードである。
前半後半で怖さの質が変わる。
前半は極めてリアルで凄惨なDVの怖さ、後半は現代に蘇った呪術のオカルティックな怖さである。
どちらも恐ろしいのだが、私は読んでいて前半がより辛く怖かった。
DVの描写を辛く感じるのは、私が中高生の頃、虐待まがいの指導を受けており、そして更に言うならその被虐経験から、一歩間違えれば自分も虐待をやってしまいかねない危うさを自覚しているからだ。
年を忘れつ師を想う
描かれているDV加害者(体験者の夫)も、成育歴の中で虐待指導を受けているのは間違いないと思う。
虐待の多くは「善意の指導」として行われるものなのだ。
それは古来の「呪い」と同様に機能し、人の心を縛り上げ、連鎖していく。
後半のオカルティックな呪いの攻防は、むしろDV等の「現代の呪い」を収束させる方向に機能していると見ることもできる。
不動尊にシンボライズされる「生霊返し」の呪力はいかにもおどろおどろしく映るけれども、命のやり取りまでエスカレートした毒念のぶつかり合いは、生半可なことでは浄化されない。
外科手術で患部周辺まで切除するように、延焼を防ぐために火災現場の周囲を破壊するように、緊急事態にあって不動尊の呪力はばっさりと発揮される。
それを執り行った術者も依頼主も、報いは覚悟の上のことだ。
当ブログでは不動尊の祈祷の実例として、「公害企業主呪殺祈祷僧団」について記事にしたことがある。
呪と怨1
呪と怨2
不動尊を祈りの対象としたお経や祭文は様々にある。
中にはかなりおどろおどろしいものも含まれる。
当ブログで以前紹介したのは不動尊祈り経。
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
【真言〜不動尊祈り経】(4分20秒/mp3ファイル/8MB)
作中には「いざなぎ流」という名称もでてきた。
以前読んだ関連書籍の中に、確か「いざなぎ流の太夫は死後『浄土の地獄』へ行く」という一節があったはずだ。
断片的な情報ながら、感覚的に「あ、そういうことか!」と分かった気がして、ずんと心に堪えた記憶がある。
●「鬼婆の子守唄」
このエピソードには、オカルト的な意味での怪異は存在しない。
表面上は極めて常識的な人が、偶発的に条件が揃いすぎていたことにも後押しされ、静かに淡々と「鬼」に成り果てる怖さがある。
いわば「凡庸な狂気」が、大量殺戮を生み出してしまう怖さ。
これと似た怖さを、私はかつて「愛犬家連続殺人事件」の関根元に感じたことを思い出す。
この世の地獄のノンフィクション
凡庸な俗人も、条件さえ揃えばこの世に地獄を作ることができる。
あなたも私も、例外ではない。
以上、「迷家奇譚」読了。
川奈作品の中でも、とくに好きな一冊になった。
当ブログでもこれまで二冊のレビュー記事を書いた。
実話奇譚 奈落
実話怪談 出没地帯
そして今回手に取った三冊目は、以下の本。
●「迷家奇譚」川奈まり子(晶文社)
決定的なネタバレにならぬよう配慮しつつ、各エピソードを紹介してみよう。
●第一章「追憶の遠野紀行」
先に読んだ「出没地帯」は、著者が実話怪談を蒐集、執筆するきっかけとなった「分身」体験から語り起こされた。
本書ではさらに遡り、思春期の著者のフィールドワーク体験から始まる。
学者である父親と現地に足を踏み入れ、語りを聴きとり、文字に定着する。
そうしたプロセスは、誰かに導いてもらわなければ独力ではたどり着き難い。
その時理解出来なくても、体を一度通しておくことで、いつの日かふと甦る感覚というものが確かにあるのだ。
昨年「奈落」で初めて川奈作品を開いた時、怪異体験を聴き取り、エピソードを綴る抑えた筆致に「現代の民俗学のようだ」という印象を持った。
今回「追憶の遠野紀行」を読み、「ああ、そういうことだったのか」と腑に落ちた。
遠野を連れ立って歩く、すこしぎこちない父娘の後ろ姿がせつなく浮かんでくるようなエピソード。
●「廃墟半島にて」
●「彼岸トンネル」
廃墟、トンネル等は、いずれも近代的な巨大構造物。
その圧倒的な質量は、関わった人々の記憶や欲望を膨大に溜め込むダムであるかのようだ。
とくに80年代の物質的繁栄、欲望の記憶の残骸に、ある種の敏感さを持った者が不用意に迷い込み、それにアクセスしてしまったら……
90年代は、まだ万事アナログの時代だった。
デジタルへの切り替えが急速に進んだのが2000年代初頭で、その頃一気に普及したデジカメは時代変化の象徴だったと思う。
当時まず思ったのは、「心霊写真はもう無くなるんだろうか?」ということ。
霊現象とデジタルはいかにも相性が悪そうに思えたものだったのだが、結果としては、近代の構造物も、現代のデジタル技術も、ネットの普及も、怪異を駆逐することはなかった。
むしろ巨大なアンプとスピーカーとして機能し、その拡散を押し進めた感すらあるのだ。
●「熊取七人七日目七曲り」
一口に「怪異」と言っても、確固とした現実から超常現象まで、グラデーションがある。
第四章「熊取七人〜」は、起こった怪異自体はかなり現実的で、薬物による妄想、そして実際に手を下した人間のいる犯罪の匂いすら感じられる。
しかしそこに、土地の歴史や呪的な数字の要素が被さることで、「実体験」から「物語」への変換が起こる。
現代ではネットの伝達力もあり、物語化、神話化は昔よりずっと早く進行しているのではないだろうか。
●「鍵付きの時代箪笥」
●「いちまさん」
●「人形心中」
思い入れの念の籠った器物、人形の物語たち。
作りの精巧な人形には、やはり特別な感情が宿る。
それはたぶん、人間側の濃い感情が「ひとがた」に反映されているものなのだが。
特にサイズが数十センチから等身大になると、映し出される感情の質量は危険水域に達してくる。
人形趣味も、小サイズで、ある程度デフォルメされたフィギュアくらいにとどめておくのが程よいのかもしれない。
そう言えば以前登山していた時、いわゆる「ラブドール」が谷間に打ち捨てられていて、かなりリアルな造形だったので物凄く驚いたことがあった。
すぐに事態は把握でき、事件に巻き込まれたわけではないと一安心したのだが、それはたいそう無残な捨てられ方で、反射的に思ったのが「可哀そうやろ!」だった。
あの時の感情は、今でも整理できないでいる。
●「堀田坂今昔」
●「神隠し」
日常の徒歩移動の際、ふと別の経路を辿ったり、そのまま行き先変更してしまいたくなる時がある。
人によって、あまりそういう衝動に駆られないタイプもあろうけれども、概して「散歩好き」は、そのような小さなアクシデント、即興性を好む。
川奈まり子の著作には、自身の散歩や、それにまつわる怪異のシーンがよく出てくる。
先月「出没地帯」収録の「散在ガ池」「ブランコが揺れる」を読んだ時、ふと思った。
「もしかしたらこの人は、神隠しにあうタイプでは?」
そんな直観が裏付けられた思いがしたエピソードである。
衝動に駆られての散歩と神隠しは紙一重、無事帰って来られるかどうかの違いしかない。
特に年少者の衝動には気を付けてあげなければ……
そんなことを、自分の幼時の危うく小さな「冒険」の思い出と共に味読した。
あの日幼い私は、祖父母宅の裏山へ決然と登って行ったのだった……
山の向こうへ1
山の向こうへ2
山の向こうへ3
山の向こうへ4
●「犬の首」
●「禁をやぶると」
70年代は、まだあちこちに(今の目で見ると怪しげな)土俗や、その担い手の人々が残っていたことを思い出す。
日常と違う「変わったこと」「変わった人」に出会う機会が、今よりずっと多かった気がする。
怖さと懐かしさが入り混じった感情をかき立てられるエピソード。
現在、特に都市部では、かつてのような「怪しさ」を目にすることは少なくなった。
しかしそれは表面上のこと。
普通の見た目の普通の人の普通の生活の中に、怪異は偽装されて潜んでいるのかもしれない。
「まさかあの人が」
この一言が日々のニュースに頻出する昨今である。
●「まれびとの顔」
●「海霊の人魚」
若い頃バイトで入っていた環境設計の事務所が沖縄の仕事をしていた関係で、何度か現地調査に入り、旅行でも何度か行くようになった。
旅人として物珍しげにあちこちのぞいて回るうち、「あ、そうか! ウチナーの皆さんも、こちらを見物してるのか!」と気付く瞬間がやってくる。
よく引用されるニーチェの言葉「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の「深淵」の箇所は様々に置き換えが出来る。
果たして「まれびと」はどちらか?
●「蛭男」
暗く湿気ていながら、どこか優しく包み込むような怪異のエピソード。
●「生霊返し」
本書「迷家奇譚」中、私が最も恐ろしかったエピソードである。
前半後半で怖さの質が変わる。
前半は極めてリアルで凄惨なDVの怖さ、後半は現代に蘇った呪術のオカルティックな怖さである。
どちらも恐ろしいのだが、私は読んでいて前半がより辛く怖かった。
DVの描写を辛く感じるのは、私が中高生の頃、虐待まがいの指導を受けており、そして更に言うならその被虐経験から、一歩間違えれば自分も虐待をやってしまいかねない危うさを自覚しているからだ。
年を忘れつ師を想う
描かれているDV加害者(体験者の夫)も、成育歴の中で虐待指導を受けているのは間違いないと思う。
虐待の多くは「善意の指導」として行われるものなのだ。
それは古来の「呪い」と同様に機能し、人の心を縛り上げ、連鎖していく。
後半のオカルティックな呪いの攻防は、むしろDV等の「現代の呪い」を収束させる方向に機能していると見ることもできる。
不動尊にシンボライズされる「生霊返し」の呪力はいかにもおどろおどろしく映るけれども、命のやり取りまでエスカレートした毒念のぶつかり合いは、生半可なことでは浄化されない。
外科手術で患部周辺まで切除するように、延焼を防ぐために火災現場の周囲を破壊するように、緊急事態にあって不動尊の呪力はばっさりと発揮される。
それを執り行った術者も依頼主も、報いは覚悟の上のことだ。
当ブログでは不動尊の祈祷の実例として、「公害企業主呪殺祈祷僧団」について記事にしたことがある。
呪と怨1
呪と怨2
不動尊を祈りの対象としたお経や祭文は様々にある。
中にはかなりおどろおどろしいものも含まれる。
当ブログで以前紹介したのは不動尊祈り経。
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
【真言〜不動尊祈り経】(4分20秒/mp3ファイル/8MB)
作中には「いざなぎ流」という名称もでてきた。
以前読んだ関連書籍の中に、確か「いざなぎ流の太夫は死後『浄土の地獄』へ行く」という一節があったはずだ。
断片的な情報ながら、感覚的に「あ、そういうことか!」と分かった気がして、ずんと心に堪えた記憶がある。
●「鬼婆の子守唄」
このエピソードには、オカルト的な意味での怪異は存在しない。
表面上は極めて常識的な人が、偶発的に条件が揃いすぎていたことにも後押しされ、静かに淡々と「鬼」に成り果てる怖さがある。
いわば「凡庸な狂気」が、大量殺戮を生み出してしまう怖さ。
これと似た怖さを、私はかつて「愛犬家連続殺人事件」の関根元に感じたことを思い出す。
この世の地獄のノンフィクション
凡庸な俗人も、条件さえ揃えばこの世に地獄を作ることができる。
あなたも私も、例外ではない。
以上、「迷家奇譚」読了。
川奈作品の中でも、とくに好きな一冊になった。
2019年03月31日
怪異とロスジェネ
先ごろ、このカテゴリでも紹介してきた実話怪談の書き手・川奈まり子さんが、Twitterで呟いておられたことが気になった。
怪異体験の聴き取り対象の年齢層が、「ロスジェネ」と呼ばれている層とかなり重なっているのではないかという主旨の呟きである。
ロスジェネとは、いわゆるバブル世代の直後、就職氷河期を経験した、年齢で言うと三十代後半から四十代後半にかけての年齢層を指す。
別の分類では「団塊ジュニア」とも重なっており、同年代の人口が多いので受験や就職で過酷な競争にさらされたにも関わらず、政策的には放置されてきた世代でもある。
実は私も、この世代に引っかかっている(苦笑)
現在の少子化の流れは、この世代が家庭を持ち、子育てに入ることが困難だったために事態が悪化したともいえる。
民主党政権で実施された「子ども手当」は、極めて不十分ながらも、団塊ジュニアに現ナマが撒かれた希少な政策であった。
年代別の人口を考えると、このタイミングが少子化に抗するラストチャンスであったかもしれないのだが、政権交代によりあっさり撤回され、少子化対策は既に手遅れになった。
本来もっともっと手厚く支援されるべきであった団塊ジュニアにろくな補給を与えず、無意味な精神論で玉砕を強いてロスジェネ化させたこの国は、旧日本軍の愚策「インパール作戦」から何一つ変わっていないようだ。
日常生活や体調の不安定、強いストレスは、おそらく怪異と親和性が高い。
これまでの成育歴をふり返ると、私自身ははっきりと「怪異」の領域まで入ってしまうことは少なかったのだが、それに近い「夢がやや現実に浸入してくる」体験はあった。
いわゆる「金縛り」や「幽体離脱」などである。
金縛りと幽体離脱
幼児期、思春期、社会に出る前後、あとは「中年の危機」の年代に、それは出やすかったと記憶している。
ロスジェネが今現在、怪異の体験を語るケースが多いというのは、「さもありなん」と感じた。
四十路を越えると、それまでの自分をあれこれ振り返ることも多いだろう。
今現在だけでなく「過去がぶり返して現在の体験化する」というのもありそうだ。
怪異の効用というか、怪異を心と体の治癒の契機とするノウハウというものもあるはずで、昔はそれを宗教や民俗が担っていたのだろう。
先に挙げたような怪異に会いやすいそれぞれの年代で、節目として民俗行事は用意されている。
怪異現象には一応「科学的説明」がつくものも多く、私がよく体験してきた金縛りや幽体離脱はその典型だ。
しかしながら「科学的な説明」の欠点は、実際体験している最中の恐怖感に対し、屁のツッパリにもならないところだ(笑)
不動真言なんかの方が「現場」では有効だったりすることを、私自身これまで度々実感してきた。
経済的にも人との縁からも疎外されがちだったロスジェネは、伝統的な宗教や民俗からも切り離された年代である。
心身の不安定から怪異に遭遇してしまった際のセーフティーネットが何もない、いわば「怪異難民」になってしまっているのかもしれない。
そしてそこに口を開けて待っているのがスピリチュアル系カルトだったりする。
そう言えばロスジェネは子供時代から青年期にかけて、メディアがオカルト漬けだった世代でもあり、オウム世代とも一部重なっている。
このカテゴリ「怪異」で考えるべきことが、少しずつ焦点を結んできたようだ。
怪異体験の聴き取り対象の年齢層が、「ロスジェネ」と呼ばれている層とかなり重なっているのではないかという主旨の呟きである。
ロスジェネとは、いわゆるバブル世代の直後、就職氷河期を経験した、年齢で言うと三十代後半から四十代後半にかけての年齢層を指す。
別の分類では「団塊ジュニア」とも重なっており、同年代の人口が多いので受験や就職で過酷な競争にさらされたにも関わらず、政策的には放置されてきた世代でもある。
実は私も、この世代に引っかかっている(苦笑)
現在の少子化の流れは、この世代が家庭を持ち、子育てに入ることが困難だったために事態が悪化したともいえる。
民主党政権で実施された「子ども手当」は、極めて不十分ながらも、団塊ジュニアに現ナマが撒かれた希少な政策であった。
年代別の人口を考えると、このタイミングが少子化に抗するラストチャンスであったかもしれないのだが、政権交代によりあっさり撤回され、少子化対策は既に手遅れになった。
本来もっともっと手厚く支援されるべきであった団塊ジュニアにろくな補給を与えず、無意味な精神論で玉砕を強いてロスジェネ化させたこの国は、旧日本軍の愚策「インパール作戦」から何一つ変わっていないようだ。
日常生活や体調の不安定、強いストレスは、おそらく怪異と親和性が高い。
これまでの成育歴をふり返ると、私自身ははっきりと「怪異」の領域まで入ってしまうことは少なかったのだが、それに近い「夢がやや現実に浸入してくる」体験はあった。
いわゆる「金縛り」や「幽体離脱」などである。
金縛りと幽体離脱
幼児期、思春期、社会に出る前後、あとは「中年の危機」の年代に、それは出やすかったと記憶している。
ロスジェネが今現在、怪異の体験を語るケースが多いというのは、「さもありなん」と感じた。
四十路を越えると、それまでの自分をあれこれ振り返ることも多いだろう。
今現在だけでなく「過去がぶり返して現在の体験化する」というのもありそうだ。
怪異の効用というか、怪異を心と体の治癒の契機とするノウハウというものもあるはずで、昔はそれを宗教や民俗が担っていたのだろう。
先に挙げたような怪異に会いやすいそれぞれの年代で、節目として民俗行事は用意されている。
怪異現象には一応「科学的説明」がつくものも多く、私がよく体験してきた金縛りや幽体離脱はその典型だ。
しかしながら「科学的な説明」の欠点は、実際体験している最中の恐怖感に対し、屁のツッパリにもならないところだ(笑)
不動真言なんかの方が「現場」では有効だったりすることを、私自身これまで度々実感してきた。
経済的にも人との縁からも疎外されがちだったロスジェネは、伝統的な宗教や民俗からも切り離された年代である。
心身の不安定から怪異に遭遇してしまった際のセーフティーネットが何もない、いわば「怪異難民」になってしまっているのかもしれない。
そしてそこに口を開けて待っているのがスピリチュアル系カルトだったりする。
そう言えばロスジェネは子供時代から青年期にかけて、メディアがオカルト漬けだった世代でもあり、オウム世代とも一部重なっている。
このカテゴリ「怪異」で考えるべきことが、少しずつ焦点を結んできたようだ。