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2019年08月23日

川奈まり子「少女奇譚」

 昨年末より、折にふれ実話奇譚の書き手、川奈まり子の著書を読み継いでいる。
 先月末、新刊が二冊刊行された。
 それぞれ少年少女がテーマの「怖い話」である。


●「少女奇譚」「少年奇譚」川奈まり子(晶文社)

 人生半ばを過ぎると、夏は追憶の季節である。
 何かと移動の多い季節の読書にぴったりだと感じ、さっそく購入。
 さてどちらから読もうかと、著者のTwitterアカウントをのぞいて見ると、以下のようなtweetが目にとまった。

「ナメクジの王様を描いてみたけど下手なので上手な絵師様に描いてほしい。『少女奇譚』のナメクジの王様って可愛いすぎる話だと思うんですよ。シャーリーテンプルのスカートはいた双子ちゃんと巨大ナメクジの邂逅。」

 呟きには可愛らしいイラストが添えられており、エピソードへの興味がかき立てられた。
 一応絵描きのハシクレなので、この「ナメクジの王様」が非常に気になり、「少女奇譚」の方から開いてみることにした。
 ゆっくり味読し先ごろ読了したので、いくつかのエピソードを紹介してみよう。

■「ナメクジの王様」
 怖いというより、何か絵本の世界のお話のようだった。
 双子の幼女たちがひらひらした可愛い服を着て、二人ではしゃいで近所の木立を駆け回っているだけでも十分絵本っぽいのだが、そこに妖怪じみた謎の生物まで登場するとなると……

 そう言えば以前、梅雨時のコンクリート壁にナメクジが大量発生しているのを目撃したことがある。
 雨模様の薄暗い歩道脇のコンクリート擁壁に、びっしり張り付いたナメクジの大群には、生理的なショックがあった。
 もしそこに、ナメクジに似た質感の「何か大きな這う生き物」が居合わせたら、それは「ナメクジの王様」に見えたかもしれない。
 ふとそんなことを思い出しながら、スケッチを一枚描いてみた。

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■「階段の花子さん」
 いわゆる「学校の怪談」の無い学校にはいじめがあって風紀が悪く、ある学校にはいじめがなかったと言う記述に、ふと視線が止まる。
 一般化は出来ないだろうけれども、そうした傾向はやっぱりあるのではないかと感じる。
 この日常世界とは違う「異界」の効用、「怖い話」があることでそこにまとめて回収される暗い感情、情念というものは、有りそうだ。

 学校にありがちな「不可解で不気味なスペース」についても、少し思うところはある。
 設計がうまくいってなくて、予期せぬ「意味ありげなスペース」ができてしまうことは、実はよくある。
 はっきり「設計ミス」というほどでなくとも、うまく空気が流れなくて湿気がこもり、異様な雰囲気のする特定の場所ができたりすることは、ままあるのだ。
 古い建物に後からエアコンを後から導入したり、耐震補強することで、かえって「へんなこと」になるケースも、これまたよくある。
 そうした「隙間」に、行き場のない児童生徒たちの情念は滞留し、それをエネルギーとした怪異が呼び込まれる――
 そんな可能性は、十分考えられるのではないか。

■「十字路より」「憑依体質」
 思春期の少女に目覚める「霊能」に関するエピソード。
 身近な友人や地域の「霊能者」のサポートで、予期せぬ能力に目覚めた少女は家族関係や学校生活を大きく破綻させることなく、日常に不時着する。
 弓道部で少女たちが繰り返し弓を引くうち、憑霊現象が起きる描写に、「これは」と思い当たる読者も多いはずだ。

 共同体の中で果たされる「魔女」の役割。
 ある種の少年少女には、魔女やスナフキンの存在が必要なのだ。

 思い返してみれば「アナと雪の女王」は、強力な魔女の資質を持った少女の身近に「先達」となる魔女が存在せず、国ごと滅びかけた世界観であろうか。

【当ブログ「アナと雪の女王」レビュー】
 ダブルミーニングの魔力1
 ダブルミーニングの魔力2
 劇中歌としての「Let it go」は「人間やめます」ソング?


 及ばずながら私も、町外れに住むちょっと頭のおかしい絵描きとして、主流からこぼれ落ちてくる少年少女に幾ばくかの安心を与えられる存在でありたいと思うのだ。


■「教える生首」
 冒頭「皆さんは何歳からの記憶をお持ちだろうか」という問いかけと例示、解説。
 個人差はあるものの「いつ、どこで、何をした」とつなげられるのは三歳以降が多く、それ以前の記憶も消えたわけではなく、「思い出せない」だけ、とのこと。

 私の最初の記憶は、たぶん「ベビーベッドに座り、柵に付属しているプラ製のオモチャを熱心に回している風景」である。
 まさか私自身が赤ちゃんの時ではないだろうから、二つ下の弟がベビーベッドを使用していた時の記憶ではないかと思われる。
 それならば二歳半〜三歳くらいで辻褄は合う。

 作中の「生首」ほど特異なイメージでなくとも、乳幼児たちが「何者か」と独自にコミュニケーションしているケースは多いのではないか。
 私も母親に「赤ちゃんの頃、一人でよく何か言っていた」と聞かされたし、何もない空間を見つめたり、ムニャムニャ一人でしゃべったりする乳幼児はよくいる。
 もしかしたら私もあなたも、今は忘れているだけの、「幼い頃の密かな友だち」がいるのではないか?
 そんな不思議な感覚を抱くエピソードだった。

■「前夜に視たこと」「夢枕に立つ」
 読みながら、90年代にお世話になり、数年前に亡くなった師匠のことを思い出す。
 今でもごくたまに夢枕に立ち、折々的確な示唆を与えてくれている師匠……

 本当のおわかれ

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 夢が介在すると、現実と怪異はスムーズに地続きになり、境界線は朧になってくるのである。

■「呪殺ダイアリー」
 以前ネットで読んで恐ろしさのあまり身震いしたエピソード。
 かなり陰惨で、ちょっと誰にでもお勧めというわけにはいかない感じがするが、強く印象に残ることは間違いない。
 作中でも紹介されている通り、「生と死」「聖と魔」は表裏一体なところがある。
 以前調べた明治期の女性教祖の家系でも、「呪力」の双貌を思わせる怪異譚がたくさんあった。
 大本(教)開祖・出口なおの全生涯を描いた実録小説「大地の母」(出口和明)については、以前ブログで記事にしたことがある。

 ある夏の記憶:出口和明「大地の母」のこと

 魔女と神女は別のものではなく、同じ力の「右手と左手」なのだ。

■「二人のハルキ」
 もう一人のハルキのフェードアウトに涙する。
 幼い日の美しい夢、半ば物質化する「霊」の優しさ。
 ゆっくり時間をかけた、家族ぐるみの悲嘆の受容。

■「蛇を殺すな。触るな。目も合わせるな。」
 民俗信仰、神隠しなど古の世界が「現代」と混交する最終エピソード。
 宇迦之御魂神と蛇神、女神の親和性を思いつつ、余韻に浸りながら、充実した読書体験を閉じる。

 蛇と狐と女神

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 補足として、関連すると思われる図像をご紹介。
 蛇神の姿の宇迦之御魂を頭上に頂いた「荼吉尼天曼荼羅」の中尊、そして「夜叉神」あるいは「三天神」「玉女」と呼ばれるもの。

 笑う三面神

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 今回の川奈作品も、他者の怪異譚を読みながらも、自身の記憶が様々によみがえってくる一冊だった。
 夏休みはそろそろ終わろうとしているが、この切なさの中でもう一冊の「少年奇譚」を開いてみようと思う。
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2020年01月20日

川奈まり子「少年奇譚」

 昨夏、同時刊行された川奈まり子「少女奇譚」「少年奇譚」の二冊。


●「少女奇譚」「少年奇譚」川奈まり子(晶文社)

 そのうち前者については以前レビューを書いた。
 もう一冊の「少年奇譚」の方もぼちぼち読み進め、年明けにようやく読了。
 自分が「かつての少年」であったせいか、「少女奇譚」とは読んだ感触が全く違う。
 怪異譚というより「ご近所冒険」というか、部室で友人の打ち明け話を聞いている感じというか。
 かつての少年の語る奇譚は即ち、「おバカな男子のおバカな失敗談」である傾向が強くなる。
 やっぱり少女よりかなりアホっぽいかなと思った。

 もしかしたらこの作品における作者は、「男子のおバカな話を聞いてくれる女の先輩」的な位置になるのかもしれない。

 前書きで触れられているけれども、男性の怪異体験が成人前に多いというのは、私自身の見聞からも首肯できる。
 もう少し踏み込むなら、「彼女」ができて「友だち」の比重が軽くなるまで、という傾向はあるかもしれない。

 以下に、いくつか語れるエピソードを挙げてみたい。

●「宝ヶ池のハク」
 冒頭エピソードから、完全に心を持っていかれてしまった。
 ふとしたきっかけで、大人になってから急に蘇ってくる古い記憶。
 そこには今はもう会えなくなった友だちがいて、楽しい思い出と共に、切ない別れがあって。
 そして今にして思うと、この世のものならぬ不思議があって。
 私は元来、子供の頃の友だち、心の中の友だちに思い入れの強い人間なので、よけいに心惹かれるのかもしれないが、読後少し涙ぐんでしまった。

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 今回の「少年奇譚」を音楽のアルバムに見立てるならば、シングルカットされるのは「宝ヶ池のハク」、そしてB面は、このあと紹介する「僕の左に」になるだろうか。
 記憶の中の古い友だちに対する郷愁が、そんな昭和のアナログ音楽の有り様を思い出させる。
 最初のエピソードはそれだけ印象深く、この一冊のイメージを代表しており、読み進めるごとにここに立ち戻るような感覚がある。
 
●「僕の左に」
 この本の基調のような「心の中の友だち」にまつわる切ないエピソード。
 幼い子供の友情は、強固であると同時に意外にうつろいやすく、壊れやすい。
 悪気なくやってしまった仕打ちが友だちを「置き去り」にし、取り返しのつかない結果に。
 私はこの手のお話はいつも「置き去りにされた方」に感情移入してしまうのだが、この年になってみるとどちらが「置き去り」なのかは一概には言い切れない、とも思う。

 治療のため、片目の視界が覆われたことで「異界」が見えてくる様も、元弱視児童の私にとって非常に興味深い。
 そう言えば私も、幼児の頃は右目の視力がかなり低く、裸眼では見えていなかった。
 その後のリハビリ中は、悪い方の右目の訓練のために見えている方の左眼をアイパッチで塞いでいた時期もあった。
 色々思い当ってくるのである。

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 最初の修行1
 最初の修行2
 最初の修行3
 最初の修行4

●「上海トンネルのジョシュア」
 児童虐待にまつわる怪異。
 この年になってようやく、昔の経験に理解が追いつくことがある。
 子供の頃の友だちに幾人か、程度の差はあれ「あれは虐待をうけていたのではないか」と思い至ることもある。
 確かめようもないけれども、それぞれの人生を生きていてくれればいいなと、本当にそう思う。

●「玄の島」
 少年の体験する怪異が「おバカな男子のおバカな失敗談」めいてくる典型のようなエピソード。
 男子の失敗談には「オチンチンと糞尿」が付き物なのである(苦笑)

●「悲鳴の灯台」
 和歌浦雑賀崎を舞台にした小編。
 作中で描かれている通り、かつて賑わい、今は忘れられかけた観光地での怪異の断片。

 私はこの場所に程近いある小さなビーチに、特別な思い入れがある。
 私の中の少年と大人、心の中の友だちをつなぐ地である。

 久々に連絡をとった中高生の頃の友だちに誘われ、不思議な祭に参加した90年代の手記。

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 月物語

●「刀奇譚」
 幼少の頃から自宅で不穏な気配や金縛りに遭遇してきた少年が、中高生になって武道を習い、鍛練のための模擬刀を手に入れてから、平穏を得るまでのお話し。

 私にとって、かなり「わかる気がする」エピソードである。
 私も幼少時から金縛りや悪夢、怪夢があり、また中学生の頃に心身の不安定を経験した。

 金縛りと幽体離脱

 これまでにも何度か書いてきたが、私は私立中高出身で、当時ですら時代錯誤の「虐待指導」を受けてきた。
 入学したての中一の頃は、膨大な宿題を全部真面目にやろうとして、できないと殴られるのを避けるために、家の二階の窓から飛び降りて骨折くらいしてやろうかと思ったこともあった。
 正直、かなりストレスで追い込まれていたと思う。

 その時に心の安定に役立ったと思われるのが「剣道」だった。
 それまでごく真面目で大人しい方だったのだけれども、中二くらいで凶暴さというか闘争心が急に強くなって、小学校時代からやっていた剣道が、その格好の捌け口になった。
 ある時期から「ああ、俺はいざとなったら人の頭をカチ割れるのか」とわかってくると、暴力体育教師への恐怖がやや後退した。
 武道で段位をとるというのは、「下手にキレたらヤバいな」という「自分に対する恐怖」が刻まれる一面があると思う。
 相手への恐怖と自分への恐怖で相殺される分、多少は追い詰められなくなると言おうか。
 それがなかったら、中学の時に潰れていたかもしれないし、最悪他者に矛先が向いていたかもしれない。
 あくまで私自身のことではあるけれども、あの頃なんとなく感じていた「不穏な気配」は、自分の中の破壊衝動のようなものが部屋の壁や暗闇等に投影されていたのではないかと、今は思う。
 自分の暴発を恐れる心が、「戈を止める」スキルである武道の鍛練で、ある程度鎮められたのではないかと思うのだ。

●「まあちゃん、行こっか」
●「祖母をすくう」
 少年と祖父母の死にまつわるエピソード。
 孫は祖父母に「死」を教わることが多い。
 そして大好きだったおじいちゃん、おばあちゃんとの別れは、時に「この世のものならぬ」領域に踏み込む。

 私は幼少時、両親が共働きだったので、昼間の時間帯を母方の祖母に見てもらっており、初孫でもあったので、つながりが深かった。
 その祖母が亡くなったのは私に長男が生まれて一年ほど経った頃のこと。
 体調を崩して入院中の祖母が「夢に〇〇と〇〇(私と長男の名)が出てきて、不思議そうな顔でこちらを見ていた」と、語ったという。
 気になった私はその後見舞いに行ったが、もう意識ははっきりせず、話せずじまいになった。
 今思うと、あれはたぶん「お別れの夢」だったのではないかと思う。
 おばあちゃん子の私だったが、自分のことに手いっぱいでとくになんの恩返しもできないままになった。
 亡くなる前年、ひ孫である上の子を抱かせてあげられて本当に良かったと思う。

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【おやまのこもりうた】

(mp3ファイル/約5分30秒/10MB)ヘッドフォン推奨



 川奈まり子 の実話奇譚を読むと、自分の過去の体験が「怪異」という切り口で次々に怪しく掘り返されて来るのを感じる。
 明らかな怪異体験まで行かない紙一重であれば、誰でも日常的に遭遇しているのではないだろうか。

 じわじわと読み進めながら思うところあり、自分の幼児の頃の原風景のスケッチを開始した。

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 原風景スケッチ1
 原風景スケッチ2

 そういう「振り返り」が促される一冊だった。
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2020年12月12日

川奈まり子「一〇八怪談 鬼姫」1

 七月末の新刊、川奈まり子「一〇八怪談 鬼姫」を、先月ようやく読了した。


●「一〇八怪談 鬼姫」 (竹書房怪談文庫)

 長く書くこともできそうな実話怪談の聞き取りを、ストイックに刈り込んで見開き二ページにまとめたものが一〇八編。
 はじめは「なんと贅沢な!」あるいは「ちょっともったいないかな?」と思いながら読み進めるうちに、印象が変わってきた。
 一つ一つのエピソードを時間を置きながらゆっくり味わう内に、元々抑えた筆致の著者の作風に、むしろ合っているのではないかと思い始めたのだ。
 なにしろ一〇八話のボリュームなので、中には過去の自分の記憶と重なるようなエピソードも多々あった。
 怪異譚の話者は日本全国にまたがっているので、よく知る土地柄に親しみを感じることも度々あった。
 少し読んでは本を閉じて反芻する内に、数か月が経ってしまった。
 なんと長く楽しめる文庫本一冊であったことか(笑)
 どのお話も面白いのだが、私が個人的に自分の知見に絡めて語れるエピソードについて、ネタバレにならないよう配慮しつつ紹介してみよう。

 第一、二話は、視覚喪失に関する怪異。
 私は弱視児童であったという生い立ちから、「視えて当り前」という意識は端から持っていない。
 近年は徐々に老眼が進み、再び見えない生活に還っていくことを想定し、日々暮らしている。
 四十歳の時に失明したという話者の方の体験に敬意を払いつつ、内容を受け止めた。

 第七話「白髪」
 私にも覚えがあり、川奈作品でも何度か取り上げられてきた、思春期の金縛りからはじまる怪異体験。
 中学生の頃、いじめ被害から不登校、自殺願望へと進んでしまったというこの話者の遭遇体験も、強力な何者かとの「合体」とか、「守護を得る」と言うような意味合いがあったのではないだろうか。
 怪異を契機とした苦境の克服というケースは、私も思い当たる所があるのだ。

 第一二話「グランドオープン」
 完成間際のショッピングモールでの、「華やかな」怪異。
 このショッピングモールが何の跡地であったかが、やはり気になる。
 盛り場や飲食店の類が、墓場や刑場の跡地に立つと繁盛するとも言われるが、さて。
 このエピソードを読んでいた8月半ば、偶然「繁華街と墓」にまつわるニュースが流れた。
 大阪・梅田で、江戸〜明治時代にあった「梅田墓」についての発掘調査中に、埋葬人骨1500体超が出土したと発表されたのだ。
 折しもお盆の時期、賑やかな霊の集いの風景に思いを馳せた。

 第三五話〜三八話は、難病の入院体験から始まる一連の「騒霊」タイプの怪異。
 読んですぐ「どんぐりと山猫」「セロ弾きのゴーシュ」「月夜のでんしんばしら」等の宮沢賢治の童話を連想した。
 恐怖と言うより、孤独を感じさせる主人公への「にぎやかし」のイメージである。
 怪異は必ずしも、「怖い」ばかりではないと思わせるエピソード。

 第三九話「顔振峠」
 身内にふりかかった突然で理不尽な不幸にまつわる怪異だが、こちらは非常に恐ろしい。
 何が恐ろしいかと言えば、私の身内に同じようなことが起こったら、タイプ的にきっと子細を調べてしまうだろうからだ。
 そして現地に行ってしまい……
 決して現地に近付かなかった話者は、非常に賢明な方だと感じた。

 第四二話「門司の怪A」
 耳鳴り、頭痛と霊聴にまつわる怪異。
 私は数年前から、いわゆる「天気痛」が出るようになった。
 低気圧の接近に伴い、軽い頭痛が起こるのだ。
 経験的には、怪異と気圧や温度湿度は、わりと関連しているのではないかと感じている。
 それらが変化する時、空気は流れて「気配」は動くし、各種素材の伸縮も起こる。
 頭痛や耳鳴りのような身体症状も起こる。
 それらが複合された時、受け手の心の中に何かが「表現」されてしまうことは、あり得ると思っている。

 第四三話「その女の姿」、第四四話「幽霊画の秘密」
 どちらも「姿を見せない」怪異。
 絵描きは日常的に経験することだと思うが、「描きすぎ」は絵の呪力を失わせがちだ。
 描かないことで効果が上がるなら、いっそ描かない方が良い。
 それでも修練を積んだ自分の腕を頼み、ついつい描き過ぎてしまうのが絵描きの習性だ。
 そう言えば幼児の頃、何も描いていない紙を見るのが寂しかったり怖かったりした。
 特に色画用紙が怖くて、そのまま目の前にあることが耐えきれずに、恐怖を埋めるようにお絵描きしていたことを、ふと思い出したエピソードだった。

 第五三〜五六話、および閑話休題
 憑霊、祓い師に関する一連のエピソード。
 普通に生きる分には何も憑いていない方が良いのだろうけれども、「憑いている」と言うか「合体している」感じで、共存しているケースはある。
 件の「しのびちゃんと熱くなる石」の方も、おそらくそのような怪異との付き合いかたではないだろうか。

 第六九話「白い腕」
 大学演劇学科での怪異。
 私は90年代の学生時代から卒業後の数年間、関西の小劇場に参加していた。
 当時から演劇に怪異が付き物であるのは、わりと「常識」だったことを思い出した。
 特に「人が死ぬ芝居」で、それは起こりやすいと言われていた。
 スピーカーに異音が入ったり、照明がふいに点滅したりという機材トラブルは起こりやすく、実際に「何か見る」のは役者が多かった。
 私の場合は屋外で装置を作っている時、ものすごく狙いすましたようなタイミングで突風が吹き、工具や画材を手から奪われるというようなことがあった。
 本番前の神社参拝は、無用のトラブルを避けるための「実用」みたいな感じでとらえられていた。
 付言すると、現在の私はいわゆる「霊現象」を、留保抜きでそのまま信じているわけではない。
 本番に向けてキャスト・スタッフ一丸となって神経を研ぎ澄まし、演技やオペの精度を上げ、場の空気に敏感になることが、何か起こった時の「気づき易さ」に繋がっていた面はあると思っている。
 たぶん、小さな「何か」は日常的に起こっているのだ。

 第七三話「嫁の呪い」
 親族間の怨念は増殖しやすく、延焼すると一族まるごと地獄のようになってしまうことがある。
 どこかで切り離しが必要で、そういう意味では都市化、核家族化の良い面もあるなと考えさせられるエピソード。

 第七九話「喫茶店の観音菩薩」
 観音菩薩像の写真を巡る霊験譚の体裁だが、著書も最後に記している通り、喫茶店のママが主役だ。
 客に写真に手をかざさせて対話し、時に身体的な癒しを与える様は、振り子等を使うダウジングとも似ていると思った。

 第八四〜八五話、貍にまつわる怪異。
 現代の都市生活だと「貍にバカされる」というのは、それこそバカバカしく感じられるが、ほんの一昔二昔前なら、それは普通に語られていた。
 とくに夏の終わりから秋にかけて、食欲旺盛な貍たちが人里に現れやすいこの時期には。
 はっきり「怪異」と言うほどではないけれども、私も昔「ばかされた?」と感じた経験がある。

 過去記事「つ、つ、つきよだ」
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 あれは何年前のことだっただろうか?
 季節は秋、月夜のことだった。
 帰り道に川沿いの公園を通りかかった時のこと、前方にトコトコ動く影が見えた。犬よりは丸く、猫よりはかたい。
 タヌキだ。
 当時住んでいたのは山の麓にある都市部で、住宅地でもたまにこうした野生動物を見かけたものだ。
 私がかまわず前進すると、その分タヌキはトコトコと遠ざかり、こちらを振り向く。また前進すると、またトコトコ遠ざかってから振り向く。
 はじめはそのタヌキをどうこうするつもりはなかったが、そういう態度をとられると、ついついかまいたくなってきてしまう。
 足を速めてタヌキに迫ってみた。
 タヌキはキョロキョロしながら、公園の歩道から外れて緑の中に入り、また振り返る。
 私はすっかり意地悪な気分になって、さらに追い込みをかけた。
 タヌキは慌てて植え込みの中に消えていった。

 軽い遊びに満足した私がふと足元に気付いてみると、そこには犬の糞がゴロゴロ転がっていた。

 もしかして、ばかされた?

(つづく)
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2020年12月13日

川奈まり子「一〇八怪談 鬼姫」2

(川奈まり子「一〇八怪談 鬼姫」レビュー、続き)

 第八六話「仏壇と背中合わせ」
 本書の多くのエピソードを読み進めると、何度か「これ自分のこと?」と思うような怪異譚に出会う。
 そんな中の一つ。
 私の母方の祖父も大工で、元は「田の字」だったはずの家は増築に次ぐ増築で、元より斜面地の家屋だったせいもあり、複雑怪奇な造りになっていた。
 さすがにトイレは外付け。
 泊まって夜中に尿意で目覚めた時には、木彫りが趣味だった祖父の彫った仏像や龍が多数並ぶ玄関を通らねばならず、非常に怖かった。

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 お盆に泊まった折、恐々その玄関を抜けて外に出ると、生まれてはじめて見る綺麗な天の川に茫然としたことなど、今でも覚えている。

 第八九〜九二話、および閑話休題
 蛇「くちなわ」にまつわるエピソード。
 読後、「竜女」という伝承を思い出す。
 竜女については、出口王仁三郎「霊界物語」に簡潔な記述がある。
 霊界物語は大正〜昭和期に口述筆記された新宗教の教典であるが、出口王仁三郎は当時の諸宗教、民俗に極めて博識で、通念としての「竜女」のよくまとまった記述になっていると思う。

(第一巻十七章より一部引用)
 本来竜女なるものは、海に極寒極熱の一千年を苦行し、山中にまた一千年、河にまた一千年を修業して、はじめて人間界に生れ出づるものである。その竜体より人間に転生した最初の一生涯は、尼になるか、神に仕へるか、いづれにしても男女の交りを絶ち、聖浄な生活を送らねばならないのである。もしこの禁断を犯せば、三千年の苦行も水の沫となつて再び竜体に堕落する。従つて竜女といふものは男子との交りを喜ばず、かつ美人であり、眼鋭く、身体のどこかに鱗の数片の痕跡を止めてゐるものも偶にはある。かかる竜女に対して種々の人間界の情実、義理、人情等によつて、強て竜女を犯し、また犯さしめるならば、それらの人は竜神よりの恨をうけ、その復讐に会はずにはゐられない。通例竜女を犯す場合は、その夫婦の縁は決して安全に永続するものではなく、夫は大抵は夭死し、女は幾度縁をかゆるとも、同じやうな悲劇を繰返し、犯したものは子孫末代まで、竜神の祟りを受けて苦しまねばならぬ。
(以下略)


 現代の社会通念ではもちろん違和感があるが、克服しがたい病や生い立ちの困難の、ぎりぎりの受け入れ方の一つとして、昔はこのような伝承が機能していたのではないだろうか。
 これを現代社会で但し書き無しにそのまま読めば、当然それは「迷信」「因習」「差別」になり、「呪い」にすらなり得る。
 医療や福祉、社会基盤の整備、人権意識の啓発で救済することを目指すのが、「近代」というものであろうと思う。

 閑話休題「いっぱい憑いてる」
 ある研究者から「おもしろいものがいっぱい憑いている」と評された著者。
 その憑き物は、著者に波長の合う者には「良い影響」を与えると言う。

 一読者として、私も「良い影響」のおすそわけをいただけているかもしれない。

 第九八話「三途の川の渡し舟」
 子供の頃からなんとなく脳裏に浮かび、夜寝る前に思い出しては怖くなる、そんな仄暗いイメージがいくつかある。
 その中の一つに「夜間、虚空を漕いでくる死人の舟」というものがあり、このエピソードを読んですぐ思い出した。
 なんでそんなおかしな空想をしていたのか、自分でもよくわからなかったのだが、イメージソースの一つはTVアニメ「ドロロンえん魔くん」に登場した「まどろ眠」という妖怪ではないかと、今気付いた。
 作中の創作妖怪「まどろ眠」は、船頭になった琵琶法師のような姿で、人間を深い眠りに誘う白い霧の中を小舟で漕いでくる。
 霧の中には巨大な鮫の妖怪も泳いでくる。
 子供の頃、その映像がものすごく恐ろしく、夜眠れなかったことがあったのだ。
 何か深層意識に刺さるものがあったのだろう。
 後に描いたマンガの中に、「死人の舟」の奇怪なイメージを使ったこともある。

 投稿マヴォ「夜鳴き」より

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 その後もずっと気になっていて、折にふれ、類するものは調べたり作ったり描いたりしてきた。

友ヶ島年代記6 中世淡嶋願人
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補陀落
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補陀落渡海船
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「船出」MBM紙 木炭 パステル
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 今回「三途の川の渡し舟」エピソードで、「病院に漕ぎいる幻の舟」「定員三人」という、気になるモチーフに出会った。
 いずれまた、何か描くことになるかもしれない。

 第一〇三話「仁王像と猫」
 危機的状況を猫に救われた少女のエピソード。
 屋外で見かける猫やカラス等の高知能の生き物は、注意を向けていると、向こうから色々サインを送って来ているかに思えることがある。
 もしかしたら自分の思考が生き物の表情に反映されているだけなのかもしれないが、ともかくそのように感じることはある。
 このエピソードの猫は「そんな気がする」と言う水準ではなく、明らかに意思疎通しているように感じられ、不思議である。

 川奈作品の多くのエピソードを読み、それに引き出されるように自分の(はっきり「怪」と言うほどではない)体験を思い出してみると、怪異現象は全般に「偶発的な自然現象」と似た所があると感じる。
 そちらにチューニングを合わせていなければ出会う頻度は低くなるし、普段から注意を払っていればよく出会う。
 感覚的には「虹をよく見る人は怪異もよく見る」という傾向がありそうに思う。

 そして最終話「鬼姫」へ。
 著者自身の怪異譚から歴史上のエピソードへと広がり、一〇八つの物語の幕は閉じる。
 多くの聞き取りの集積でありながら、著者の怪異がそれをやんわり包み込み、歴史へと繋がるこの感覚は、川奈作品の醍醐味でもある。


 コロナ禍が猛威を振るい、今現在も感染拡大が留まるところを知らない2020年末。
 仕事は在宅に、子供たちは休校になった今年前半からの流れで、自分の置かれた現在の状況、そしてこれまでの半生を振り返ることの多い一年だった。
 夏以降も続く思うに任せぬ日々の中、子供らと学び、遊び、淡々とスケッチを続け、色々ともの想うかたわらにこの本があったことは、良い巡り合わせだったと思う。
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2020年12月14日

疫病と暴虐とマスク

 コロナ禍で三月から休校が始まり、四〜五月の自粛期間中、奇妙な夢を見た。
 短いストーリーからキャラクターデザイン、名称まで一通り揃っており、夢を見てから時間を置かず「夢マンガ」に変換した。

 投稿マヴォ「飛沫監視員」

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 その後、以下のような関連する夢を見た。(こちらは作品化していない)

 気が付くと中高の頃に通っていた虐待指導の学校に、もう一度戻ってしまっていた。
 地獄の極卒のような教師が、他の生徒に暴力をふるっている。
 教室内は静まり返り、殴りつける音だけが響いている。
 俺はいつ自分の番が回ってくるかと恐怖に震えている。

 昔と違うところもあった。
 意識も能力も、中身は今の俺なのだ。

「今度はやられっぱなしちゃうぞ。見とけよこら!」

 そんな風に反撃の機会をうかがっていたのだ……



 間違いなくコロナ禍の現実が反映された夢である。
 危険な感染症に対し、当時の安倍政権はあまりに無策、場当たりであり、「補給も無しに前線に玉砕を強いる」という、旧日本軍の愚昧をそのまま再現していた。(これは現在の菅政権でも同様)
 戦前回帰的な虐待を強制される心象が、夢の中で過去の記憶を呼び覚ましたのだろう。

 今度の敵は昔よりはるかに強力になっているけれども、潜在意識で気合負けしてないことが確認されて、満足な夢見でもあった。


 中高生の頃、よく奇怪な夢を見た。
 二十歳代半ばの頃、よく奇怪な夢を見た。
 それらの夢の多くは、カテゴリで紹介してきた。

 中高生の頃は虐待指導を受けていた時期であり、二十歳代半ばは阪神淡路大震災で被災していた前後だった。
 どちらも現実が過酷な時期だった。

 昨年から継続して読み、このカテゴリ怪異でも紹介してきた川奈まり子作品には、こうした年代の怪異体験が多く収録されていた。
 何かと抑圧の多い人生の一時期であり、私の場合はそれが「夢」の形をとって現れていたのかもしれない。
 私が実際の犯罪や心の病に至らなかったのにはいくつかの要素が考えられ、「創作」「夢」「剣道」あたりに安全弁があったのではないかと言う自己分析は、これまでにも何度か書いてきた。
 
 そしてこれはコロナ禍以前からのことであるが、私もその上限あたりに引っかかっている「団塊ジュニア」「ロスジェネ世代」が、自身の人生を振り返る中で、怪異体験を語り始める流れがあるらしいことは、過去記事で紹介した。

 怪異とロスジェネ

 私にとってのコロナ禍は、もちろん減収要因であったと同時に、自分の持てる能力を全開にして戦える契機でもあった。
 絵や工作の指導経験は、子供たちの休校中の外出自粛生活を乗り切るために、もちろん役に立った。
 中高生の頃、虐待指導で叩き込まれた受験技術ですら、子供たちの家庭学習に役立てることができた。
 SNSで交流のある皆さんとのやりとりにも大いに啓発され、励まされた。

 一年前には想像もできなかった生活の変化が起こった。
 家庭の外ではマスクを着用することが日常になるなど、誰一人想像していなかったのではないだろうか?
 不自由を感じる一方で、根っこの部分で孤独癖のある私は、普段から顔の半分を隠せることに、「安楽」を感じている部分もある。
 通常の学校生活になじめない児童生徒の中には、休校やマスク常時着用に救いを感じる子らも多いことだろう。
 仮面で素顔を半分隠すことは、素顔で何かを演じ続けるより、はるかに「楽」なのだ。

 コロナ禍はまだまだこれからが本番になるのだろうけれども、この一年、考え、描き、感じたことを武器に、乗り切って行きたいと思う。

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posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | 怪異 | 更新情報をチェックする