私は70年代初頭に生を受け、80年代に少年期を過ごした。
そして続く青年期、時は二十世紀末の90年代、まさに「世も末」を思わせる世相や天変地異の中、関西サブカル界隈の片隅に生息していた私も、まともにその荒波にもまれることになった。
とても消化しきれぬあれこれを抱えたまま、年を重ねた2010年代。
再び来訪する天変地異やカルト事象に、かつて棚上げにしてきた「心の宿題」が、雪崩を打ってのしかかる。
おりしも私は不惑を越えて、身体のトラブル散発し、果ては生涯初の開腹手術まで受ける羽目に!
所謂「中年の危機」の、非常に分かりやすいサンプル状態になり果てた(笑)
かくなる上は覚悟を決めて、心に抱えた「90年代のおとしまえ」と真正面から切り結び、死中に活を求めんと、ひたすら書き続けたのが2017年。
カテゴリ「90年代」と関連記事を、内容と時系列で整理してみると以下のようになる。
●93〜94年、小劇場の舞台美術を担当していた頃
祭をさがして-1
祭をさがして-2
●同時期の94年、古い友人に誘われ、不思議な祭に参加
月物語
●そして95年、阪神淡路大震災被災
震災記GUREN-1
震災記GUREN-2
震災記GUREN-3
●震災と、それに続くカルト教団のテロ事件に衝撃を受けた顛末
祭の影-1
祭の影-2
●生来の孤独癖をこじらせ、一人に戻った顛末
本をさがして-1
本をさがして-2
本をさがして-3
本をさがして-4
へんろみち-1
へんろみち-2
へんろみち-3
へんろみち-4
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黒い本棚(70〜80年代オカルトサブカルチャー)
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へんろみち 90年代熊野-2
●カテゴリ「90年代」最終章へ
青春ハルマゲドン-1
青春ハルマゲドン-2
関連記事も含めると、書きも書いたり一年におそらく400字詰め換算で1000枚以上。
久々に「完全燃焼」を味わいつ、最後の最後に引きずり出したのが「青春ハルマゲドン」というおバカな言霊。
そう、私の90年代は、私自身の心の中に起こった一種の「ハルマゲドン」だったのだと総括し、ひとまず自己治癒は成ったのであった。
しかしながら、あくまで自分の気の病をなんとかすべく書き散らした代物ゆえ、あまり他人様が読めるよう整理された順序にはなっていない自覚はあった。
2010年代ももうおしまいの今年、なんとか読み易い形に集成し直したいと考え、この度新カテゴリをスタートさせたいと思う。
膨大な分量の関連記事を順序立てて抜粋、または加筆し、できることなら9月の文学フリマ大阪に、一冊の本の形で出品できればと目論んでいる!
70〜90年代サブカル最終戦争
「青春ハルマゲドン」開幕!
2019年04月20日
2019年04月21日
70年代、記憶の底1
私が生を受けたのは70年代初頭。
当時は高度経済成長の終盤で、いわゆる「新三種の神器」であるカラーテレビ・クーラー・自家用車の広まりと共に、地方の生活道路にアスファルト舗装がいきわたりつつある年代だった。
急速に現代文明化されると同時に、まだ昔ながらの民俗・土俗が十分残されていた時代である。
古い記憶を探ってみる。
幼い頃の思い込みや記憶違い、あるいは何らかの理由で改変された記憶があるかもしれないが、なんとなく今の自分の元になったのではないかと思える、いくつかの原風景がある。
父方の祖父は浄土真宗の僧侶だった。
祖父母宅は寺ではなかったが、法事のおりの集会所を兼ねていて「おみど」(漢字で書くと「御御堂」か?)と呼ばれる広い座敷があった。
むしろ「おみど」が主で、居住スペースが従であったかもしれない。
父方の祖父母宅は城下町の外れにあり、その周辺は昔の町屋風の、間口が狭く奥に長く伸びた建物がいくらか残っていた。
表門を入ると正面に「おみど」の入り口がある。
障子を開けて入ると、畳敷きの広い座敷があり、奥には一段上がって仏具が並べられた祭壇があった。
ちょうど劇場の舞台と客席の構成に似ていて、「舞台ソデ」にあたる板敷きを抜けると、そこが「楽屋」である居住スペースになっていた。
子供の頃、盆暮れに祖父母宅に里帰りした時は、私達家族はこの「おみど」に寝泊りし、朝夕には「おつとめ」として勤行が行われた。
祭壇にはいくつもの燭台やお灯明を模した豆電球があって、勤行の際にはそれらが点灯された。
真っ暗闇だった祭壇スペースが、蝋燭や豆球のオレンジ色の弱い光に照らし出される。
金色の仏壇仏具がキラキラと輝いて、様々な形態がぼうっと浮び上がる。
一部、絵図なども描かれていたはずだ。
私はその中の燭台の一種が気になって仕方がなかった。
耳の尖った亀の上に鶴が乗っていて、その鶴が蝋燭の台を咥えている燭台である。
他の仏具も子供にとっては不可解な形の物ばかりだったが、この燭台のことはとくに印象に残っている。
蝋燭の灯りは、通常の天井からの蛍光灯の照明とは全く異なる。
物を横又は下から照らし、ゆらゆら揺れる弱い光。
物の影は暗く長く、しかも生き物のように揺れ動く。
非日常の照明。
仏具の金色は怪しく輝き、もうすぐ始まる勤行の声を待っている……
お灯明の準備が整い、一同が集まると勤行が始まる。
大人たちは勤行用の冊子を開き、子供たちはオールひらがなの折本を各々開き、真宗開祖・親鸞作の讃歌「正信偈」を唱和する。
哀調を帯びたメロディがついている。
民族音楽として聴くと、アジア的な音階が心地よい。
続いてこちらも親鸞作の「念仏和讃」を唱和する。
こちらは一応和語なので、子供心にもなんとなく意味がとれる所がある。
本文の横には節回しを表現した棒線がついていて、はじめての人でも唱和している内に唱え方がマスター出来るようになっている。
念仏「南無阿弥陀仏」の部分は、「なむあみだぶつ」ではなく「な〜もあ〜みだぁあんぶ〜」という感じになる。
子供のことなので、決して喜んで参加していた訳ではなかったが、縁者一同で声を合わせて唱和するのは、それはそれで楽しかった。
浄土真宗の勤行はかなり昔からカセットテープ販売されていたし、近年ではもちろんCD化されている。
今、私の手元には京都の本願寺売店でゲットしてきた声明のCDがあるが、そのジャケットには「読誦の練習に便利 頭出しを多く設定しました」と表記してある。
いまやお経の読み方もデジタルで練習するのが普通なのだ。
私が子供の頃、祖父の後を受けて父が得度した時にも、よくテープを聴いて練習していた。子供心に、お経を録音したものが売られていること自体に驚愕した覚えがある。
テープやレコードというのは、普通の音楽を聴くものだとばかり思っていたからだ。
もちろん浄土真宗の歴史の中では、このように録音されたものが練習のお手本になった期間はごく短い。
はるかに長い何百年もの期間は、当然ながら師から弟子へ、親から子へと、脈々と口承される以外に伝達方法は無かったはずだ。
そこにはおそらく様々な唱え方の「流派」というか、「地方色」のようなものがあったのではないかと想像してしまう。
例えば我が家の場合、祖父のお経の唱え方に少々独特のものがあったことが判明し、父の代になってから唱え方が修正されたことがあった。
便利な時代なので、本山で管理している「正解」と比較対照されやすかったために起った出来事だ。
これが録音技術や五線譜の無い、移動の不便な昔の時代であれば、祖父のお経の読み方は代々そのまま受け継がれて行った事だろう。
新しい技術によって「正解」が記録され、お坊さんの練習も便利になった反面、おそらく日本中に数限りなく存在したであろう「唱え方のバリエーション」が、消えて行ってしまっている可能性はある。
時代の流れかもしれないが、ちょっともったいない気もする。
念仏和讃のゆったりと哀調を帯びたメロディは、子供だった私の魂の底に刻まれた。
今でもふとした瞬間に、幼い頃から徐々に作り上げられた和讃のイメージが蘇ってくる。
暗い闇夜の海を、のたうつ波に揉まれながら小さな舟が漂っているイメージ……
このイメージがどこから出てきたのか、記憶は定かでは無い。
親鸞は表現として「海」の喩えをよく使っているのでそこから来たのかもしれないし、「補陀洛渡海船」のことをどこかで聞きかじったせいかもしれない。
あるいは単純に、ゆったりしたメロディが「波」っぽかったというだけかもしれない。
私が浄土真宗の勤行に親しみを感じるのには、「子供の頃から唱えてきたから」という以上の理由はないだろう。
それが「御題目」であれ「君が代」であれ、「インターナショナル」であったとしても、同じように幼い頃耳にしていれば親しみを感じたはずだ。
自分の記憶の底に根ざした懐かしいメロディを大切にしつつも、割と機械的な刷り込みで感情が生まれてくる人間の習性の部分も忘れずにいたい。
無所属で自分なりに色々な神仏のことを調べてみて、そう思う。
当時は高度経済成長の終盤で、いわゆる「新三種の神器」であるカラーテレビ・クーラー・自家用車の広まりと共に、地方の生活道路にアスファルト舗装がいきわたりつつある年代だった。
急速に現代文明化されると同時に、まだ昔ながらの民俗・土俗が十分残されていた時代である。
古い記憶を探ってみる。
幼い頃の思い込みや記憶違い、あるいは何らかの理由で改変された記憶があるかもしれないが、なんとなく今の自分の元になったのではないかと思える、いくつかの原風景がある。
父方の祖父は浄土真宗の僧侶だった。
祖父母宅は寺ではなかったが、法事のおりの集会所を兼ねていて「おみど」(漢字で書くと「御御堂」か?)と呼ばれる広い座敷があった。
むしろ「おみど」が主で、居住スペースが従であったかもしれない。
父方の祖父母宅は城下町の外れにあり、その周辺は昔の町屋風の、間口が狭く奥に長く伸びた建物がいくらか残っていた。
表門を入ると正面に「おみど」の入り口がある。
障子を開けて入ると、畳敷きの広い座敷があり、奥には一段上がって仏具が並べられた祭壇があった。
ちょうど劇場の舞台と客席の構成に似ていて、「舞台ソデ」にあたる板敷きを抜けると、そこが「楽屋」である居住スペースになっていた。
子供の頃、盆暮れに祖父母宅に里帰りした時は、私達家族はこの「おみど」に寝泊りし、朝夕には「おつとめ」として勤行が行われた。
祭壇にはいくつもの燭台やお灯明を模した豆電球があって、勤行の際にはそれらが点灯された。
真っ暗闇だった祭壇スペースが、蝋燭や豆球のオレンジ色の弱い光に照らし出される。
金色の仏壇仏具がキラキラと輝いて、様々な形態がぼうっと浮び上がる。
一部、絵図なども描かれていたはずだ。
私はその中の燭台の一種が気になって仕方がなかった。
耳の尖った亀の上に鶴が乗っていて、その鶴が蝋燭の台を咥えている燭台である。
他の仏具も子供にとっては不可解な形の物ばかりだったが、この燭台のことはとくに印象に残っている。
蝋燭の灯りは、通常の天井からの蛍光灯の照明とは全く異なる。
物を横又は下から照らし、ゆらゆら揺れる弱い光。
物の影は暗く長く、しかも生き物のように揺れ動く。
非日常の照明。
仏具の金色は怪しく輝き、もうすぐ始まる勤行の声を待っている……
お灯明の準備が整い、一同が集まると勤行が始まる。
大人たちは勤行用の冊子を開き、子供たちはオールひらがなの折本を各々開き、真宗開祖・親鸞作の讃歌「正信偈」を唱和する。
哀調を帯びたメロディがついている。
民族音楽として聴くと、アジア的な音階が心地よい。
続いてこちらも親鸞作の「念仏和讃」を唱和する。
こちらは一応和語なので、子供心にもなんとなく意味がとれる所がある。
本文の横には節回しを表現した棒線がついていて、はじめての人でも唱和している内に唱え方がマスター出来るようになっている。
念仏「南無阿弥陀仏」の部分は、「なむあみだぶつ」ではなく「な〜もあ〜みだぁあんぶ〜」という感じになる。
子供のことなので、決して喜んで参加していた訳ではなかったが、縁者一同で声を合わせて唱和するのは、それはそれで楽しかった。
浄土真宗の勤行はかなり昔からカセットテープ販売されていたし、近年ではもちろんCD化されている。
今、私の手元には京都の本願寺売店でゲットしてきた声明のCDがあるが、そのジャケットには「読誦の練習に便利 頭出しを多く設定しました」と表記してある。
いまやお経の読み方もデジタルで練習するのが普通なのだ。
私が子供の頃、祖父の後を受けて父が得度した時にも、よくテープを聴いて練習していた。子供心に、お経を録音したものが売られていること自体に驚愕した覚えがある。
テープやレコードというのは、普通の音楽を聴くものだとばかり思っていたからだ。
もちろん浄土真宗の歴史の中では、このように録音されたものが練習のお手本になった期間はごく短い。
はるかに長い何百年もの期間は、当然ながら師から弟子へ、親から子へと、脈々と口承される以外に伝達方法は無かったはずだ。
そこにはおそらく様々な唱え方の「流派」というか、「地方色」のようなものがあったのではないかと想像してしまう。
例えば我が家の場合、祖父のお経の唱え方に少々独特のものがあったことが判明し、父の代になってから唱え方が修正されたことがあった。
便利な時代なので、本山で管理している「正解」と比較対照されやすかったために起った出来事だ。
これが録音技術や五線譜の無い、移動の不便な昔の時代であれば、祖父のお経の読み方は代々そのまま受け継がれて行った事だろう。
新しい技術によって「正解」が記録され、お坊さんの練習も便利になった反面、おそらく日本中に数限りなく存在したであろう「唱え方のバリエーション」が、消えて行ってしまっている可能性はある。
時代の流れかもしれないが、ちょっともったいない気もする。
念仏和讃のゆったりと哀調を帯びたメロディは、子供だった私の魂の底に刻まれた。
今でもふとした瞬間に、幼い頃から徐々に作り上げられた和讃のイメージが蘇ってくる。
暗い闇夜の海を、のたうつ波に揉まれながら小さな舟が漂っているイメージ……
このイメージがどこから出てきたのか、記憶は定かでは無い。
親鸞は表現として「海」の喩えをよく使っているのでそこから来たのかもしれないし、「補陀洛渡海船」のことをどこかで聞きかじったせいかもしれない。
あるいは単純に、ゆったりしたメロディが「波」っぽかったというだけかもしれない。
私が浄土真宗の勤行に親しみを感じるのには、「子供の頃から唱えてきたから」という以上の理由はないだろう。
それが「御題目」であれ「君が代」であれ、「インターナショナル」であったとしても、同じように幼い頃耳にしていれば親しみを感じたはずだ。
自分の記憶の底に根ざした懐かしいメロディを大切にしつつも、割と機械的な刷り込みで感情が生まれてくる人間の習性の部分も忘れずにいたい。
無所属で自分なりに色々な神仏のことを調べてみて、そう思う。
(続く)
2019年04月25日
70年代、記憶の底2
母方の祖父は大工だった。
木彫りを趣味でやっていて、それは片手間というにはあまりに膨大な情熱を注いでいた。
作業場から道具、細かな彫刻刀の類など、ほとんど全てを自作。
祖父宅の玄関を入ると、数えきれないほどの作品群、仏像や天狗や龍などが、所せましと並べられていた。
中にはまるで七福神に仲間入りしそうな雰囲気のサンタクロースもいた。
まだまだ自然豊かな地域だったので、祖父はよく山野に出かけては、気に入った木材などを拾ってきて、それに細工を施したりしていた。
切り出してきた怪しい形状の珍木や木の瘤の類が、祖父の手によって更に得体の知れない妖怪に変身していった。
幼児だった私は、そんな制作現場を眺めるのが好きで、祖父の操るノミが様々な形を削りだしていく様子を、ずっと飽きずに観察していた。
私にとっての祖父は、山に入っては色々な面白いものを持ち帰り、それを自在に操って怪しい妖怪達に改造できる「凄い人」だった。
そして私は、いつか自分も同じことをするのだと心に決めていた。
ある日祖父の彫刻群を色々観察していると、小箱に何かが収納されているのを見つけた。開けてみると、そこには数センチ程の大きさの小さな手、手、手、また手。
様々な表情に指をくねらせた小さな手が、ぎっしり詰まっていた。
もちろん祖父が猟奇事件の犯人だった訳ではない。
生き物の手のコレクションではなく、木彫りの小さな手だったのだが、幼い私は物凄い衝撃を受けた。
興奮した私は、さっそく祖父の真似をして、油粘土で山ほど小さな手を作って箱に詰めた。
当人は大真面目だったのだが、それを発見した親族は思わず失笑したようだ。
仏像の彫り方の教本に、練習として手だけを彫る方法が載っていることを知ったのは、もっと後のことだった。
祖父は彫刻の資料として各種の文献も集めていた。
おそらく「原色日本の美術」だと思うのだが、様々な仏尊が掲載されている大判の図鑑のようなものもあった。
私はそれをパラパラめくっては、一人興奮していた。
特に形相凄まじい「明王」シリーズにハマった。仏様にも色んなキャラクターがいて、色んな姿をしていることを知った。
当時は既に「仮面ライダー」や「ウルトラマン」の全盛期で、「○人ライダー」や「ウルトラ兄弟」という概念も出来上がっていたのだが、幼い私にとっては仏尊図鑑も怪獣怪人図鑑も全く区別は無かった。
宇宙のどこかで戦っているヒーローの一種として、明王の姿に目を輝かせていた。
今から考えると、あながち間違った捉え方でも無かったかもしれない(笑)
ところで、ヌートリアと言う動物がいる。
南米原産、尻尾まで含めると1mぐらいになるげっ歯類。
つまり大ネズミだ。
似たビジュアルの動物にカピバラもいるが、こちらは尻尾が目立たない。
――尻尾の長いのがヌートリア、尻尾の目立たないのがカピバラ。
そのように覚えておけばよい。
この大ネズミ、日本各地で野生化している。
大きな河川などで繁殖していて、山中の温泉につかりに来るニュース映像なども、たまに流れる。
なぜこのようなことをつらつら書いているのかと言うと、祖父の思い出に関わってくるからだ。
大工であった祖父は木彫好きであり、珍しい形の木の根っこなどを蒐集する趣味もあった。
そんな祖父が近所の川沿い散歩していたある日のこと、繁殖していたヌートリアの死骸を見つけてしまった。
怪しいもの好きの血が騒いだのだろうか、祖父はどうしてもヌートリアの骨が欲しくなってしまったらしい。
しかし死骸を家に持って帰ることはできない。
死んだ大ネズミを持ち帰ったりしたら、祖母がどのような反応を示すか想像に難くなかったのだろう。
下手をすれば連れ合いの生死にかかわる。
よって、全ての犯行は、ひそかに河川敷で行われた。
日々何食わぬ顔で、一人河川敷に散歩に出かけた祖父は、断続的に「ヌートリア白骨化ミッション」を完遂したのだ。
大きな空き缶を用意した祖父は、まずヌートリアの頭部を煮立てたらしい。
そして煮あがった頭部からきれいに肉をこそげ落とし、顎骨の部分を白骨化してから持ち帰った。
見事なカーブを描く門歯のついた顎骨は、磨き上げられて紐がつけられ、ちょっとしたストラップのように仕立てられたのだった。
祖父の没後、ヌートリアの顎骨は、大工道具の一部とともに、「自作系」「怪しいもの好き」の血を継いだ私の手元にきた。
祖父がそのように使っていたのかどうか定かではないが、ヌートリアの歯は木彫りの表面を磨くのに具合が良い。
そして引き取った刃物類の中の一本、刃先が緩い曲線を描く小刀は、造形に非常に使い勝手がよく、今も私が愛用している。
(続く)
木彫りを趣味でやっていて、それは片手間というにはあまりに膨大な情熱を注いでいた。
作業場から道具、細かな彫刻刀の類など、ほとんど全てを自作。
祖父宅の玄関を入ると、数えきれないほどの作品群、仏像や天狗や龍などが、所せましと並べられていた。
中にはまるで七福神に仲間入りしそうな雰囲気のサンタクロースもいた。
まだまだ自然豊かな地域だったので、祖父はよく山野に出かけては、気に入った木材などを拾ってきて、それに細工を施したりしていた。
切り出してきた怪しい形状の珍木や木の瘤の類が、祖父の手によって更に得体の知れない妖怪に変身していった。
幼児だった私は、そんな制作現場を眺めるのが好きで、祖父の操るノミが様々な形を削りだしていく様子を、ずっと飽きずに観察していた。
私にとっての祖父は、山に入っては色々な面白いものを持ち帰り、それを自在に操って怪しい妖怪達に改造できる「凄い人」だった。
そして私は、いつか自分も同じことをするのだと心に決めていた。
ある日祖父の彫刻群を色々観察していると、小箱に何かが収納されているのを見つけた。開けてみると、そこには数センチ程の大きさの小さな手、手、手、また手。
様々な表情に指をくねらせた小さな手が、ぎっしり詰まっていた。
もちろん祖父が猟奇事件の犯人だった訳ではない。
生き物の手のコレクションではなく、木彫りの小さな手だったのだが、幼い私は物凄い衝撃を受けた。
興奮した私は、さっそく祖父の真似をして、油粘土で山ほど小さな手を作って箱に詰めた。
当人は大真面目だったのだが、それを発見した親族は思わず失笑したようだ。
仏像の彫り方の教本に、練習として手だけを彫る方法が載っていることを知ったのは、もっと後のことだった。
祖父は彫刻の資料として各種の文献も集めていた。
おそらく「原色日本の美術」だと思うのだが、様々な仏尊が掲載されている大判の図鑑のようなものもあった。
私はそれをパラパラめくっては、一人興奮していた。
特に形相凄まじい「明王」シリーズにハマった。仏様にも色んなキャラクターがいて、色んな姿をしていることを知った。
当時は既に「仮面ライダー」や「ウルトラマン」の全盛期で、「○人ライダー」や「ウルトラ兄弟」という概念も出来上がっていたのだが、幼い私にとっては仏尊図鑑も怪獣怪人図鑑も全く区別は無かった。
宇宙のどこかで戦っているヒーローの一種として、明王の姿に目を輝かせていた。
今から考えると、あながち間違った捉え方でも無かったかもしれない(笑)
ところで、ヌートリアと言う動物がいる。
南米原産、尻尾まで含めると1mぐらいになるげっ歯類。
つまり大ネズミだ。
似たビジュアルの動物にカピバラもいるが、こちらは尻尾が目立たない。
――尻尾の長いのがヌートリア、尻尾の目立たないのがカピバラ。
そのように覚えておけばよい。
この大ネズミ、日本各地で野生化している。
大きな河川などで繁殖していて、山中の温泉につかりに来るニュース映像なども、たまに流れる。
なぜこのようなことをつらつら書いているのかと言うと、祖父の思い出に関わってくるからだ。
大工であった祖父は木彫好きであり、珍しい形の木の根っこなどを蒐集する趣味もあった。
そんな祖父が近所の川沿い散歩していたある日のこと、繁殖していたヌートリアの死骸を見つけてしまった。
怪しいもの好きの血が騒いだのだろうか、祖父はどうしてもヌートリアの骨が欲しくなってしまったらしい。
しかし死骸を家に持って帰ることはできない。
死んだ大ネズミを持ち帰ったりしたら、祖母がどのような反応を示すか想像に難くなかったのだろう。
下手をすれば連れ合いの生死にかかわる。
よって、全ての犯行は、ひそかに河川敷で行われた。
日々何食わぬ顔で、一人河川敷に散歩に出かけた祖父は、断続的に「ヌートリア白骨化ミッション」を完遂したのだ。
大きな空き缶を用意した祖父は、まずヌートリアの頭部を煮立てたらしい。
そして煮あがった頭部からきれいに肉をこそげ落とし、顎骨の部分を白骨化してから持ち帰った。
見事なカーブを描く門歯のついた顎骨は、磨き上げられて紐がつけられ、ちょっとしたストラップのように仕立てられたのだった。
祖父の没後、ヌートリアの顎骨は、大工道具の一部とともに、「自作系」「怪しいもの好き」の血を継いだ私の手元にきた。
祖父がそのように使っていたのかどうか定かではないが、ヌートリアの歯は木彫りの表面を磨くのに具合が良い。
そして引き取った刃物類の中の一本、刃先が緩い曲線を描く小刀は、造形に非常に使い勝手がよく、今も私が愛用している。
(続く)
2019年05月16日
70年代、記憶の底3
幼児の頃の私は、昼間は主に母方の祖父母の家で過ごしていた。
祖父母宅は、古墳のような小山と小川の流れに挟まれた小さな村にあった。
小山の麓には道が三本、上中下段に並行しており、何か所かで縦にもつながっていた。
一番上段の水平移動道の片端、山に向かって右手に祖父母宅があり、反対側の左端には「観音さん」の御堂があった。
御堂から石段をおりると公園があり、山手に登ると村の墓場があった。
小山の麓を流れている小川には欄干のない小さな橋が架かっていて、渡ってしばらく田んぼ道を歩くと二車線のバス道があった。
それを更に超えるとまた川沿いの土手があって、保育園、幼稚園への通園に使っていたのはその土手の上の道だった。
そうしたごく狭い範囲が、幼い頃の私の世界だった。
小さな世界ではあったけれども、祖父母宅周辺は十分に田舎で、草むらや虫たちなど、幼児の遊びのネタが尽きることは無かった。
祖父母は子沢山で、私の母は六人兄弟姉妹の長女だった。
祖父宅は子供の成長とともに増改築が繰り返されていた。
なにせ祖父とその息子二人(私の母の弟たち)が大工であったから、かなり頻繁に家は改造されていったらしい。
このあたりは、大工の家の特殊事情だろう。
私の母など、家具は「買うもの」ではなく「頼んでおけばしばらくすると出来上がってくるもの」だと思っていたそうだ。
他人の注文を請けた「お仕事」としての増改築でなく、あくまで自宅改造の気楽さである。
長女の長子(つまり初孫)である私が生まれる頃には、祖父宅はかなり複雑怪奇な造りになっていた。
もともと敷地が小山のふもとの斜面地だったせいか、各部屋で床の高さが違っており、構造が分かりにくかった。
母の妹のカレシ(後の私の叔父)は「はじめて来た時は忍者屋敷かと思った」そうだ。
私の家族は別の家に住んでいたが、私が小学校に入ると身内で「子供部屋」を増築してくれた。
ここでも身内的なお気楽増築が行われ、窓のある壁面にそのまま子供部屋を接続し、結果として居間と子供部屋が「窓でつながっている」という状態になった。
もちろん子供部屋の入り口ドアは別に存在したのだが、居間から一旦縁側に迂回しなければ到達できないため、私はもっぱら窓から子供部屋へ出入りしていた。
居間側には丸椅子、子供部屋側には二段ベッドを配置して、楽に上り下りできるようにした。
このような原風景を抱えているせいか、今でも地方の旅館などで、無理な増改築をしてフクザツなことになってしまっている建物に入ると、妙な懐かしさを感じてしまうのだ(笑)
観音堂の石段を降りたところにある公園では、毎年盆踊りが行われていた。
祖父母の家を出発して暗い夜道を抜け、夜の公園を訪れてみると、昼間の様子とはまったく違う、子供にとっては「異世界」が現れていた。
高く組まれた櫓を中心に提灯が明るく揺れて、浴衣の人々が太鼓の音に合わせて踊っている。
子供の私は陶然としながらその風景を眺めている。
そして踊りの輪の内側に、小さな子供達の一段が楽しげに駆け回っているのをみつけ、たまらなくなって自分もその中に加わる。
中に一人、少し年齢の高い踊り上手な子がいて、私の目にはとてもカッコよく映った。
見知らぬその「お兄ちゃん」のあとを追い、手振りを真似ながら時を忘れて踊り、巡った……
毎年の盆踊りの時、輪の中に小さな子供たちが混じって楽しそうにしているのを見ると、色々な記憶が巡ってくる。
もう一つ、淡い記憶。
ある夏の宵の時間帯、同じ観音堂へ続く道を、幼児の私が幾人かの友だちと連れ立って歩いている。
屋台みたいな所で蝋燭をもらい、それを持って小さな祠にお参りすると、駄菓子がもらえてとても嬉しかった。
あれは地蔵盆だったのだろうか。
汗ばんだ浴衣の感触と、蝋燭の香りが今も肉体感覚として残っている。
祖父母宅は、古墳のような小山と小川の流れに挟まれた小さな村にあった。
小山の麓には道が三本、上中下段に並行しており、何か所かで縦にもつながっていた。
一番上段の水平移動道の片端、山に向かって右手に祖父母宅があり、反対側の左端には「観音さん」の御堂があった。
御堂から石段をおりると公園があり、山手に登ると村の墓場があった。
小山の麓を流れている小川には欄干のない小さな橋が架かっていて、渡ってしばらく田んぼ道を歩くと二車線のバス道があった。
それを更に超えるとまた川沿いの土手があって、保育園、幼稚園への通園に使っていたのはその土手の上の道だった。
そうしたごく狭い範囲が、幼い頃の私の世界だった。
小さな世界ではあったけれども、祖父母宅周辺は十分に田舎で、草むらや虫たちなど、幼児の遊びのネタが尽きることは無かった。
祖父母は子沢山で、私の母は六人兄弟姉妹の長女だった。
祖父宅は子供の成長とともに増改築が繰り返されていた。
なにせ祖父とその息子二人(私の母の弟たち)が大工であったから、かなり頻繁に家は改造されていったらしい。
このあたりは、大工の家の特殊事情だろう。
私の母など、家具は「買うもの」ではなく「頼んでおけばしばらくすると出来上がってくるもの」だと思っていたそうだ。
他人の注文を請けた「お仕事」としての増改築でなく、あくまで自宅改造の気楽さである。
長女の長子(つまり初孫)である私が生まれる頃には、祖父宅はかなり複雑怪奇な造りになっていた。
もともと敷地が小山のふもとの斜面地だったせいか、各部屋で床の高さが違っており、構造が分かりにくかった。
母の妹のカレシ(後の私の叔父)は「はじめて来た時は忍者屋敷かと思った」そうだ。
私の家族は別の家に住んでいたが、私が小学校に入ると身内で「子供部屋」を増築してくれた。
ここでも身内的なお気楽増築が行われ、窓のある壁面にそのまま子供部屋を接続し、結果として居間と子供部屋が「窓でつながっている」という状態になった。
もちろん子供部屋の入り口ドアは別に存在したのだが、居間から一旦縁側に迂回しなければ到達できないため、私はもっぱら窓から子供部屋へ出入りしていた。
居間側には丸椅子、子供部屋側には二段ベッドを配置して、楽に上り下りできるようにした。
このような原風景を抱えているせいか、今でも地方の旅館などで、無理な増改築をしてフクザツなことになってしまっている建物に入ると、妙な懐かしさを感じてしまうのだ(笑)
観音堂の石段を降りたところにある公園では、毎年盆踊りが行われていた。
祖父母の家を出発して暗い夜道を抜け、夜の公園を訪れてみると、昼間の様子とはまったく違う、子供にとっては「異世界」が現れていた。
高く組まれた櫓を中心に提灯が明るく揺れて、浴衣の人々が太鼓の音に合わせて踊っている。
子供の私は陶然としながらその風景を眺めている。
そして踊りの輪の内側に、小さな子供達の一段が楽しげに駆け回っているのをみつけ、たまらなくなって自分もその中に加わる。
中に一人、少し年齢の高い踊り上手な子がいて、私の目にはとてもカッコよく映った。
見知らぬその「お兄ちゃん」のあとを追い、手振りを真似ながら時を忘れて踊り、巡った……
毎年の盆踊りの時、輪の中に小さな子供たちが混じって楽しそうにしているのを見ると、色々な記憶が巡ってくる。
もう一つ、淡い記憶。
ある夏の宵の時間帯、同じ観音堂へ続く道を、幼児の私が幾人かの友だちと連れ立って歩いている。
屋台みたいな所で蝋燭をもらい、それを持って小さな祠にお参りすると、駄菓子がもらえてとても嬉しかった。
あれは地蔵盆だったのだろうか。
汗ばんだ浴衣の感触と、蝋燭の香りが今も肉体感覚として残っている。
2019年05月17日
70年代、記憶の底4
記憶の古層には、ときに無気味なイメージが混入している。
今でもふとした瞬間に蘇ってくるのは、幼稚園への通園風景だ。
地区の児童を何人か、引率の大人が二人ほどついて、園に送り届けている。
幼児集団の引率は難しい。
一人一人が我侭な王子様、お姫様で、まだ群れの秩序が身に付いていない。
みんなと一緒に歩くというだけのことがけっこう難しかったりするので、しばしば阿鼻叫喚の修羅場になる。
そこで、秘密兵器が登場する。
縄跳びの縄をいくつも編んで、持ち手の部分をたくさん出して作った引率器具だ。
持ち手の部分に幼児を一人ずつつかまらせて、ちょうど「電車ごっこ」のような雰囲気で引っ張って行くわけだ。
うまく子供たちをおだてながら、楽しい雰囲気で騙し騙し園に送り届ける。
こうしてしたためてみると、なんとも珍妙な風景で、どこまで本当にあったことなのかは、私自身にも定かではない。
川沿いの土手を、ロープで繋がりながらみんなと並んで行進した。
土手から見下ろす稲刈りを終えた田んぼには、ビニールシートが風にパタパタなびいていた。
そんな細部の情景まで含めて、夢のように淡く記憶の底に残っている。
それからはるかに時は流れて、私は自分の記憶の中の「電車ごっこ」の通園とよく似た風景を、TV画面の中に発見して「アッ!」と叫ぶことになった。
それは1997年、幼児連続殺傷事件の異様な緊張に包まれた、神戸の街の1コマだった。
近隣の保育園や幼稚園の通園は厳戒態勢となり、引率の保護者の皆さんが、間違いなく全員を送り届けるために、幼児にロープを握らせて行進させている情景がTV画面に映し出されていた。
私の70年代の「記憶の底」が、90年代の無気味な事件とシンクロして蘇ってきたのを覚えている。
そして2010年代も終わりにさしかかった今、引率される幼い子供達という、本来は可愛らしく微笑ましい情景に暗雲がたちこめる、そんな世相を痛ましく感じている。
同時期の通園風景の中、記憶に刻まれた、忘れられない怖い思い出がもう一つある。
二、三人の大人に引率された幼児の集団が、川沿いの土手から降りて集落にさしかかる。
幼稚園の近くなので、他の通園グループも集まってきている。
園児の弟か妹だろうか、小さな乳幼児を抱いた母親が行列を見送っている。
抱かれた子供は「おやつのカール」をしゃぶりながら(まだ噛めない)、お兄さんお姉さんたちの通園風景を熱心に眺めている。
幼児の私を含む「電車ごっこ」の列が、その母子の横を通りすぎようとした時、突然悲鳴が上がった。
「ヒキツケ! ヒキツケや! 誰か梅酒持ってきて!」
異様な光景だった。
それまで「おやつのカール」をしゃぶっていた小さな子供が、母親の腕の中でぐったりしている。
母親は必死の形相で叫んでいる。
どうやら子供が「ヒキツケ」を起こしたので、気付けに梅酒を持ってきてくれと叫んでいるらしい。
当時、そのような民間療法があったのだろうか?
幼児の私は恐怖に凍りつき、その光景は記憶の底に焼き付けられる。
その後、母子がどうなったのかは全く記憶に残っていないが、私の中で「おやつのカール」と「梅酒」は、「ヒキツケ」の不吉なイメージと固く結びついた。
その後、小学校の高学年ぐらいになるまで、私は「おやつのカール」を食べることをひそかに恐れていた。
おやつで出されても一人だけ手をつけず、他の子供が美味そうに食べているのを、怖々眺めていた。
カールおじさんの登場するほのぼのとしたあのテレビCMにも、どこか不気味なものを感じていた。
梅酒に対してもあまりよい印象はなく、大人になってからも、自ら進んで飲むことはなかった。
しかし、どうやら自分の忌避衝動の源泉が、幼時の記憶と結びついた「思い込み」にあるらしいことを自覚してからは、特に嫌うこともなくなった。
おやつのカールと梅酒への苦手意識を克服した時、私は大人になったのかもしれない(笑)
今でもふとした瞬間に蘇ってくるのは、幼稚園への通園風景だ。
地区の児童を何人か、引率の大人が二人ほどついて、園に送り届けている。
幼児集団の引率は難しい。
一人一人が我侭な王子様、お姫様で、まだ群れの秩序が身に付いていない。
みんなと一緒に歩くというだけのことがけっこう難しかったりするので、しばしば阿鼻叫喚の修羅場になる。
そこで、秘密兵器が登場する。
縄跳びの縄をいくつも編んで、持ち手の部分をたくさん出して作った引率器具だ。
持ち手の部分に幼児を一人ずつつかまらせて、ちょうど「電車ごっこ」のような雰囲気で引っ張って行くわけだ。
うまく子供たちをおだてながら、楽しい雰囲気で騙し騙し園に送り届ける。
こうしてしたためてみると、なんとも珍妙な風景で、どこまで本当にあったことなのかは、私自身にも定かではない。
川沿いの土手を、ロープで繋がりながらみんなと並んで行進した。
土手から見下ろす稲刈りを終えた田んぼには、ビニールシートが風にパタパタなびいていた。
そんな細部の情景まで含めて、夢のように淡く記憶の底に残っている。
それからはるかに時は流れて、私は自分の記憶の中の「電車ごっこ」の通園とよく似た風景を、TV画面の中に発見して「アッ!」と叫ぶことになった。
それは1997年、幼児連続殺傷事件の異様な緊張に包まれた、神戸の街の1コマだった。
近隣の保育園や幼稚園の通園は厳戒態勢となり、引率の保護者の皆さんが、間違いなく全員を送り届けるために、幼児にロープを握らせて行進させている情景がTV画面に映し出されていた。
私の70年代の「記憶の底」が、90年代の無気味な事件とシンクロして蘇ってきたのを覚えている。
そして2010年代も終わりにさしかかった今、引率される幼い子供達という、本来は可愛らしく微笑ましい情景に暗雲がたちこめる、そんな世相を痛ましく感じている。
同時期の通園風景の中、記憶に刻まれた、忘れられない怖い思い出がもう一つある。
二、三人の大人に引率された幼児の集団が、川沿いの土手から降りて集落にさしかかる。
幼稚園の近くなので、他の通園グループも集まってきている。
園児の弟か妹だろうか、小さな乳幼児を抱いた母親が行列を見送っている。
抱かれた子供は「おやつのカール」をしゃぶりながら(まだ噛めない)、お兄さんお姉さんたちの通園風景を熱心に眺めている。
幼児の私を含む「電車ごっこ」の列が、その母子の横を通りすぎようとした時、突然悲鳴が上がった。
「ヒキツケ! ヒキツケや! 誰か梅酒持ってきて!」
異様な光景だった。
それまで「おやつのカール」をしゃぶっていた小さな子供が、母親の腕の中でぐったりしている。
母親は必死の形相で叫んでいる。
どうやら子供が「ヒキツケ」を起こしたので、気付けに梅酒を持ってきてくれと叫んでいるらしい。
当時、そのような民間療法があったのだろうか?
幼児の私は恐怖に凍りつき、その光景は記憶の底に焼き付けられる。
その後、母子がどうなったのかは全く記憶に残っていないが、私の中で「おやつのカール」と「梅酒」は、「ヒキツケ」の不吉なイメージと固く結びついた。
その後、小学校の高学年ぐらいになるまで、私は「おやつのカール」を食べることをひそかに恐れていた。
おやつで出されても一人だけ手をつけず、他の子供が美味そうに食べているのを、怖々眺めていた。
カールおじさんの登場するほのぼのとしたあのテレビCMにも、どこか不気味なものを感じていた。
梅酒に対してもあまりよい印象はなく、大人になってからも、自ら進んで飲むことはなかった。
しかし、どうやら自分の忌避衝動の源泉が、幼時の記憶と結びついた「思い込み」にあるらしいことを自覚してからは、特に嫌うこともなくなった。
おやつのカールと梅酒への苦手意識を克服した時、私は大人になったのかもしれない(笑)