幼い頃の記憶には、ときに奇怪なイメージが紛れ込んでいる。
幼児の私は、毎晩寝るのが怖くてしかたがなかった。
顔を横にして枕に耳を埋め、目を閉じると、ザッザッザッという音が規則正しく聞こえてくる。
今から考えると、おそらく耳のあたりの脈拍が、枕のソバガラで増幅された音だったと思う。
しかしそれは、幼児の私にとっては、不可解で無気味きわまりない音に聞こえた。
暗い寝床でその音に耳を澄ませていると、頭の中で奇怪な空想が湧き起こってくる。
薄暗い山道、白い布をかけられた棺桶を担いで進む、数人の黒い影。
棺桶を運ぶその足音が、耳元で響くザッザッザッという音と重なっていつまでも続き、怖くて眠れなくなる。
私はかなり長い間、その奇怪な空想に怯えていた。
枕に耳をつけて眠ると、そのまま自分も棺桶に入れられて山奥に運ばれてしまい、二度と目が覚めなくなるような気がした。
何がきっかけでそんな突飛な空想を始めたのか記憶は定かではないが、「もしかしたら」と思い当たることもある。
空想の中のイメージと直接重なる経験では無いのだが、母方の曾祖母の思い出がそれだ。
私が幼い頃にはまだ母方の曾祖母、ひいおばあちゃんが存命で、祖父母宅から斜面を下った家の奥の方の一室で、96才まで寝起きしていた。
私の出生時には「わたしが抱いたら長生きするで」と言って抱っこしてくれたそうだ。
幼児の私が家内を探検し、たまたま奥の部屋に入っていくと、ニィと笑いながら駄菓子をくれたりしたのを覚えている。
やがてそのひいおばあちゃんの容態が悪くなった。
私は小さかったので病床には連れて行かれなかったが、孫達(つまり私の母や叔父叔母)は、様子を見てきては悲しげに話し合っていた。
「おばあちゃん顔が黄色ぉなって……」
「言葉もファファ何を言うとるかわからんように……」
傍らでそんな会話を聞いている私の頭の中では、好き勝手な空想が繰り広げられている。
想像の中で、ひいおばあちゃんの顔の「黄色」は「金色」に置き換えられ、白い布団の中に金色のひいおばあちゃんが横たわり、だんだん言葉も通じなくなる情景が浮んでくる。
大人達の言う「仏様になる」という言葉は、そういう意味なのかと一人で勝手に納得していた。
当時、私達幼児は仏壇のことを「まんまんちゃん」と呼んでいたのだが、「まんまんちゃん」の金箔や、仏像・仏画の金色から連想したのかもしれない。
私の記憶は唐突に葬儀のシーンに切り替わる。
家の周りには大勢の黒い服を着た大人達が集まっている。
拡声器で何かガァガァ言っている声が聞こえてくる。
亡くなったひいおばあちゃんの曾孫、私と弟と従兄弟の三人には、それぞれ色紙で飾り付けられたカサ、ミノ、ツエが持たされている。
従兄弟はツエをつきながら、ふざけて老人の真似をしている。私もカサを被って見せながら「ツエの方が面白そうやな」などと考えている……
このあたりになると現実と空想の境目がかなり怪しくなってくる。
何しろ田舎で、わりと近年まで土葬が残っていた土地のことである。
幼児にカサ、ミノ、ツエを持たせるような、何らかの葬送の風習があったのかもしれないが、定かではない。
ただ単に幼児らしい思い込みで、他の行事の記憶が混入していたり、空想や夢を現実の記憶として捉えているだけなのかもしれない。
今からでも親類に確かめてみれば、あるいは真相が判明するのかもしれないが、なんとなく曖昧なままにしておきたい気分がある。
おそらく現実か空想かということよりも「このように記憶している」ということが私にとって重要なのだ。
夢か現かウソかマコトか分からないけれども、このような「記憶の底」を抱えていることが、今の人格の元になっていると感じる。
2019年05月18日
2019年05月19日
70年代、記憶の底6
寝る前の空想、妄想は他にもある。
寝床から見上げる天井には、電灯が吊り下げられている。
70年代のことなので、灯籠を模した外枠の中に円型の蛍光灯が二段重ねになっており、夜間はぼんやりオレンジの豆球だけが点されていた。
幼児の私は光の無い円型蛍光灯に重なって、バチバチと細かな火花が弾けているような幻を見ていた。
火花はやがて勢いを失い、豆球のオレンジに集まって、ボタッと落ちてくるだろう。
もし落ちてきたら、もう何もかもお終しまいになってしまうのだ。
私は絶望的な気分になりながら、身動きできずにじっと上を見つめている……
これなども、今から考えると線香花火が燃え尽きる情景あたりから連想していたのではないかとも思うのだが、我がことながらはっきり断言はできない。
幼児期を過ぎ、就学年齢に入った私は、枕に耳をつける恐怖や、蛍光灯を見上げる恐怖を徐々に忘れ、今度は奇妙な空想で入眠するようになった。
夜になって蛍光灯を消し、布団に入り、目を閉じると、そこから毎晩のようにその空想は始まる。
掛け布団と敷布団の間に自分の体が横たわっている。
体と布団の隙間は、頭部から足元へとまるで深い洞窟のように続いている。
枕元に立った「小さな自分」が、自分の頭部をすり抜けて「布団の洞窟」へと分け入る。
小さな自分は、一歩、また一歩と洞窟の中を進んでいく。
奥へ入り込んで行くにつれ、「横たわる自分」は眠りに落ちていき、遂には夢の世界へ入り込んでいく……
迷い込んだ小さな自分が、その先がどうなってしまうのか、いつも見届けることが出来ないままに、私は眠りに落ちていた。
だからだろうか「洞窟」や「トンネル」というイメージは、私の心の奥底ではいつも怖さと憧れが入り混じった特殊なものになった。
大人になった現在の私が、やや閉所恐怖症気味ながら、各地の「胎内潜り」に心惹かれてさまよってしまうのは、どうやらこのような奇妙な影響もあるのかもしれない。
このように、私の遠い記憶の底には、夢とも現実とも判然としない、奇怪なイメージがいくつも残留している。
睡眠時の夢についても、幼児期からずっと興味があり、自分なりにこだわりを持って探究してきた。
奇妙なことだが、私はごく幼少の頃から、夢について誰に教わるともなく、かなり自覚的に探究し、採集してきた。
夢にまつわる最古層の記憶の一つに、保育園に通園するバスの中の情景がある。
保護者に連れられて路線バスに乗っているとき、突然「ずっと前にこの場面を見た」と、はっきり感じた。
当時の私はまだ幼児なので、「既視感」という語彙は無い。
幼い私は、その生まれて初めてのデジャヴ体験と同時に、自分が数カ月に一度、いくつかの同じ夢を繰り返し見ていることに気付いた。
そして前回記事で紹介したような入眠時の幻想と相まって、「眠り」や「夢」について、強い興味を抱くようになった。
以来、ずっと夢についての考察を緩やかに続けている。
緩やかに、と但し書きをつけているのは、夢について深刻に思いつめたり、何か物凄く価値のある探究をしていると勘違いすることなく、という意味だ。
読書したり散歩したりという行為と同様、日常的な趣味、楽しみとして、私は夢と関わり続けてきた。
なんとなく、あまり他人に話すようなことではないとわかっていたので、一人ひっそりと考え続けていた。
繰り返し見ていた夢の中で、記憶する限り最古のものが、こんな夢だ。
「塊」
体育館のような板張りの広間。
屋内は薄暗いが、外の光が差し込んでいて、逆光の中にたくさんの人影が浮かんでいる。
幼児の私は「ああ、この場面は何度も見た」と思っている。
周囲の人々は、大人も子供も楽しげに運動したり遊んだりしている。
私は何か大きな塊を押している。
運動会の大玉転がしのように、「それ」を一人で転がしている。
塊は黒くてゴツゴツしており、金属のようだ。
無数にひび割れが走るその塊を転がしながら、私は「それ」が何か非常に危険なものであることを悟る。
毒物のような、爆発物のようなもので、とにかくこのまま転がし続けると大変なことになってしまうとわかっている。
周りの人はその危険に全く気付いていない。
幼児の私は恐ろしさに震えながら、それでも止めることができずに塊を転がし続けている。
塊はだんだん大きくなってくる。
この夢はかなり長期にわたって見ていた。
数か月に一度ほどの頻度だったが、幼児の頃から小学校高学年くらいまでは見ていたと思う。
かなりの悪夢なので印象深く、「ああ、またあの夢を見た」と記憶に刻み込まれていた。
この夢に関連していると思われるのが、小学生の頃に見た夢だ。
「毒ガス毛布」
恐ろしいことになった。
広い道路には人間がばたばたと倒れて死んでいる。
死体以外に見当たらず、停まっている車の中でも人が死んでいる。
毒ガスのせいだとわかる。
このままでは私も危ないが、子供の私は非難所から出てきたばかりなので毛布一枚しか羽織っていない。
再び毒ガスが出てくれば防ぐ手立てはない。
不意に、体に巻きつけた毛布から、黄色い気体が噴き出してくる。
非難所で配給され、安全だとばかり思い込んでいた毛布が、化学反応を起こして毒ガスを噴き出したのだ。
絶望的な気分で毛布を捨て、その場から逃げる。
この分では人工合成物は何一つ信用できない。
しかし合成物はどこにでもあるので、逃げる場所は残されていない。
無駄だと思いながらも、走るしかない。
今度こそ死ぬな、と思っている。
私が記憶している中でも、一番恐ろしかった悪夢の一つである。
夜半に目覚めた小学生の私は、それが夢だとわかっていても、恐怖にがたがた震え続けていた。
当時は70年代の終盤で、小学校の教科書でも公害の惨禍が取り上げられ、子供向けのTV番組では「文明の暴走」をテーマにした作品が毎日のように放映されていた。
そんな世相が子供の無意識の領域にも反映されていたのかもしれない。
それから時は流れた90年代、カルト教団の起こした毒ガステロや、化学物質過敏症を扱ったニュースを見るとき、私はいつもこの夢のことを思い出していた。
2010年代の今もよく思い出す。
寝床から見上げる天井には、電灯が吊り下げられている。
70年代のことなので、灯籠を模した外枠の中に円型の蛍光灯が二段重ねになっており、夜間はぼんやりオレンジの豆球だけが点されていた。
幼児の私は光の無い円型蛍光灯に重なって、バチバチと細かな火花が弾けているような幻を見ていた。
火花はやがて勢いを失い、豆球のオレンジに集まって、ボタッと落ちてくるだろう。
もし落ちてきたら、もう何もかもお終しまいになってしまうのだ。
私は絶望的な気分になりながら、身動きできずにじっと上を見つめている……
これなども、今から考えると線香花火が燃え尽きる情景あたりから連想していたのではないかとも思うのだが、我がことながらはっきり断言はできない。
幼児期を過ぎ、就学年齢に入った私は、枕に耳をつける恐怖や、蛍光灯を見上げる恐怖を徐々に忘れ、今度は奇妙な空想で入眠するようになった。
夜になって蛍光灯を消し、布団に入り、目を閉じると、そこから毎晩のようにその空想は始まる。
掛け布団と敷布団の間に自分の体が横たわっている。
体と布団の隙間は、頭部から足元へとまるで深い洞窟のように続いている。
枕元に立った「小さな自分」が、自分の頭部をすり抜けて「布団の洞窟」へと分け入る。
小さな自分は、一歩、また一歩と洞窟の中を進んでいく。
奥へ入り込んで行くにつれ、「横たわる自分」は眠りに落ちていき、遂には夢の世界へ入り込んでいく……
迷い込んだ小さな自分が、その先がどうなってしまうのか、いつも見届けることが出来ないままに、私は眠りに落ちていた。
だからだろうか「洞窟」や「トンネル」というイメージは、私の心の奥底ではいつも怖さと憧れが入り混じった特殊なものになった。
大人になった現在の私が、やや閉所恐怖症気味ながら、各地の「胎内潜り」に心惹かれてさまよってしまうのは、どうやらこのような奇妙な影響もあるのかもしれない。
このように、私の遠い記憶の底には、夢とも現実とも判然としない、奇怪なイメージがいくつも残留している。
睡眠時の夢についても、幼児期からずっと興味があり、自分なりにこだわりを持って探究してきた。
奇妙なことだが、私はごく幼少の頃から、夢について誰に教わるともなく、かなり自覚的に探究し、採集してきた。
夢にまつわる最古層の記憶の一つに、保育園に通園するバスの中の情景がある。
保護者に連れられて路線バスに乗っているとき、突然「ずっと前にこの場面を見た」と、はっきり感じた。
当時の私はまだ幼児なので、「既視感」という語彙は無い。
幼い私は、その生まれて初めてのデジャヴ体験と同時に、自分が数カ月に一度、いくつかの同じ夢を繰り返し見ていることに気付いた。
そして前回記事で紹介したような入眠時の幻想と相まって、「眠り」や「夢」について、強い興味を抱くようになった。
以来、ずっと夢についての考察を緩やかに続けている。
緩やかに、と但し書きをつけているのは、夢について深刻に思いつめたり、何か物凄く価値のある探究をしていると勘違いすることなく、という意味だ。
読書したり散歩したりという行為と同様、日常的な趣味、楽しみとして、私は夢と関わり続けてきた。
なんとなく、あまり他人に話すようなことではないとわかっていたので、一人ひっそりと考え続けていた。
繰り返し見ていた夢の中で、記憶する限り最古のものが、こんな夢だ。
「塊」
体育館のような板張りの広間。
屋内は薄暗いが、外の光が差し込んでいて、逆光の中にたくさんの人影が浮かんでいる。
幼児の私は「ああ、この場面は何度も見た」と思っている。
周囲の人々は、大人も子供も楽しげに運動したり遊んだりしている。
私は何か大きな塊を押している。
運動会の大玉転がしのように、「それ」を一人で転がしている。
塊は黒くてゴツゴツしており、金属のようだ。
無数にひび割れが走るその塊を転がしながら、私は「それ」が何か非常に危険なものであることを悟る。
毒物のような、爆発物のようなもので、とにかくこのまま転がし続けると大変なことになってしまうとわかっている。
周りの人はその危険に全く気付いていない。
幼児の私は恐ろしさに震えながら、それでも止めることができずに塊を転がし続けている。
塊はだんだん大きくなってくる。
この夢はかなり長期にわたって見ていた。
数か月に一度ほどの頻度だったが、幼児の頃から小学校高学年くらいまでは見ていたと思う。
かなりの悪夢なので印象深く、「ああ、またあの夢を見た」と記憶に刻み込まれていた。
この夢に関連していると思われるのが、小学生の頃に見た夢だ。
「毒ガス毛布」
恐ろしいことになった。
広い道路には人間がばたばたと倒れて死んでいる。
死体以外に見当たらず、停まっている車の中でも人が死んでいる。
毒ガスのせいだとわかる。
このままでは私も危ないが、子供の私は非難所から出てきたばかりなので毛布一枚しか羽織っていない。
再び毒ガスが出てくれば防ぐ手立てはない。
不意に、体に巻きつけた毛布から、黄色い気体が噴き出してくる。
非難所で配給され、安全だとばかり思い込んでいた毛布が、化学反応を起こして毒ガスを噴き出したのだ。
絶望的な気分で毛布を捨て、その場から逃げる。
この分では人工合成物は何一つ信用できない。
しかし合成物はどこにでもあるので、逃げる場所は残されていない。
無駄だと思いながらも、走るしかない。
今度こそ死ぬな、と思っている。
私が記憶している中でも、一番恐ろしかった悪夢の一つである。
夜半に目覚めた小学生の私は、それが夢だとわかっていても、恐怖にがたがた震え続けていた。
当時は70年代の終盤で、小学校の教科書でも公害の惨禍が取り上げられ、子供向けのTV番組では「文明の暴走」をテーマにした作品が毎日のように放映されていた。
そんな世相が子供の無意識の領域にも反映されていたのかもしれない。
それから時は流れた90年代、カルト教団の起こした毒ガステロや、化学物質過敏症を扱ったニュースを見るとき、私はいつもこの夢のことを思い出していた。
2010年代の今もよく思い出す。
2019年05月20日
70年代、記憶の底7
私が子供の頃、公害の問題は既にサブカルチャー作品の中にも取り上げられていて、むしろそれが主流だったと言っても良い。
社会科の教科書にも掲載されていおり、学校教材以外にも、様々な場面で公害を扱った文章や写真、映像に触れる機会があった。
その中で、子供心にとても印象的だった写真の記憶がある。
いつ、どこでその写真を目にしたのか、はっきりとは覚えていない。
もしかしたら、同じような写真を見た複数回の記憶をごっちゃにしている可能性もある。
白っぽい着物の人たちが、黒い旗を林立させている。
白黒写真なので、もしかしたら本当は違う色なのかもしれなかったが、見慣れない装束の白と、幟旗の黒の対比が強烈だ。
そして黒旗には異様な漢字一文字が白く染め抜かれている。
「怨」
幼い私はまだその漢字の読みと意味を知らない。
もう少し後に、マンガ「はだしのゲン」で被爆者の白骨死体の額部分に同じ文字が描きこまれるシーンを読み、ようやく私は「怨」という文字の読みと意味を知った。
さらにずっと後になって、私はその写真が水俣病患者の皆さんを写したものだということを知った。
1970年、水俣病の加害企業であるチッソが大阪で株主総会を開いた時、はるばる水俣から株主としての患者の皆さんが乗りこんできたワンシーンだったのだ。
お遍路に使用する白装束に「怨」の黒旗、そして総会の場で死者を鎮魂するための御詠歌を朗々と合唱する姿。
それは一方的に虐殺され、何の武器も持たされないままに闘わざるを得なかった庶民が、国と巨大企業に向けて突き刺した精一杯の哀しい刃だっただろう。
経済の最先端の場で、被害者のやり場のない感情を、祖先より伝来された習俗に乗せて真正面から叩きつける。
それは物質次元においてはまったく無力な抵抗だったかもしれないが、心の次元においては凄まじい威力を発揮したに違いない。
この「怨」の幟旗による抗議を発案したのが「苦海浄土」の石牟礼道子であったらしいことを、さらにずっと後になってから知った。
石牟礼道子追悼記事:しゅうりりえんえん
そして長らく子供の頃見た「怨」の写真と見分けがついておらず、混同していた写真がもう一種あることも、後に知った。
その写真には笠を被った黒装束のお坊さんたちと、お坊さんたちが掲げた黒旗が写っていた。
その黒旗にも、白い文字が染め抜かれていた。
「呪殺」
文字は確かにそう読めた。
「公害企業主呪殺祈祷僧団」
その異様な名を持つ一団のことを、私が改めて認識したのは90年代半ば頃のこと。
ぼちぼち神仏関連の書籍などを、やや真面目に読み始めていた頃のことだった。
何冊かの書籍の中に、その名と、行動の概略が記載されていた。
高度経済成長の暗黒面である公害が深刻さを増す70年代、ごく短い期間ながら、その一団は確かに実在したという。
名の通り「公害加害企業主」に対し、呪殺祈祷を執り行うことを目的とする。
僧侶4人、在家4人。
宗派としては、真言宗と日蓮宗の混成部隊。
主要メンバーは、真言宗東寺派の松下隆洪、日蓮宗身延山派の丸山照雄、在家の梅原正紀。
墨染めの衣に笠という雲水スタイル。
行脚は日蓮宗方式で題目と太鼓、そして呪殺祈祷は真言宗の儀軌にのっとって行われたという。
イタイイタイ病、新潟水俣病などの、当時リアルタイムで公害が発生していた各地をめぐり、公害企業を前にして護摩壇を築き、実際に呪殺祈祷を執り行った。
「呪殺」
そう大書した黒旗をなびかせる一団は、傍目には不気味で物騒極まりないものだったが、「不能犯」ということで、警察の取り締まり対象にはならなかったという。
法的には「呪っても人を殺すことはできない」し、呪殺祈祷の対象も「公害企業主」という表現なので個人を特定しておらず、名誉棄損にすらならないのだ。
その上、行脚や祈祷もデモではなく宗教行為ということで取り締まりの対象にできない。
このように転戦した僧団は、現地の民衆からは共感を持って迎えられ、警察は面くらい、祈祷対象の公害企業からは冷笑と困惑で迎えられた。
当然ながら、仏教サイドからは「慈悲を根本にする仏教が、呪殺とはなんたることか」という批判が上がり、祈祷僧団に参加した僧が宗派から処分を受けたりもした。
ただ、真言宗は「教義的に問題無し」と、お咎めは無かったという。
どうしても気になるのは、呪殺祈祷の「成果」だ。
色々調べてみたが、今一つはっきりしない。
はっきりとはしないのだが、どうやら対象になった「公害企業主」関係者の中に、この祈祷との関連を思わせる時期に、何らかの不幸はあったようだ。
しかし、大企業の「企業主」ともなれば、ある程度年配の人間が多いことだろうから、一定期間中に何事かが生じたとしても、不思議は無いとも言える。
これは、まさに「表現」の領域の事象だと思う。
公害企業によって生み出された地獄が現にそこに存在し、多くの罪無き民衆が虐殺されている。
そこに権威ある修法で呪殺祈祷ができる僧がおり、民衆の「怨」を背負って実際に儀式を執り行った。
そして、法的な意味での「証拠」は存在しないが、祈祷との関連を思わせるタイミングで、企業側に何らかの不幸が生じた(という伝聞情報がある)。
表現がなされ、あとは受け手に解釈が委ねられたのだ。
こうした事象を、一笑にふす人もいるだろうし、一種の「救い」を感じる人もいるだろう。
私はと言えば、あえて率直に述べるならば、悲惨な公害の現場にあって、このような一団が存在してくれたことに共感せざるを得ない。
これが武器・凶器や毒ガスなどを使用したテロであれば断固否定するが、大聖不動明王から借り受けた法の力による「慈悲行」であるならば、なんら問題は無いと考える。
何よりも、密教というものが、理不尽極まりない文明の暗黒面に対抗できる「表現手段」を持っていたことに、豊かな文化的蓄積の凄みを感じる。
この特異な僧団については、以下の書籍に当事者の梅原正紀の手で、詳細な記録が残されている。
興味のある人は一読されたし。
●「終末期の密教―人間の全体的回復と解放の論理」稲垣足穂 梅原正紀(編)
これらの事実関係は、90年代以降にようやく知った。
しかしそれは、幼い頃に受けた強烈な印象、記憶の底に刻まれた画像に導かれてのことであったことは、間違いない。
社会科の教科書にも掲載されていおり、学校教材以外にも、様々な場面で公害を扱った文章や写真、映像に触れる機会があった。
その中で、子供心にとても印象的だった写真の記憶がある。
いつ、どこでその写真を目にしたのか、はっきりとは覚えていない。
もしかしたら、同じような写真を見た複数回の記憶をごっちゃにしている可能性もある。
白っぽい着物の人たちが、黒い旗を林立させている。
白黒写真なので、もしかしたら本当は違う色なのかもしれなかったが、見慣れない装束の白と、幟旗の黒の対比が強烈だ。
そして黒旗には異様な漢字一文字が白く染め抜かれている。
「怨」
幼い私はまだその漢字の読みと意味を知らない。
もう少し後に、マンガ「はだしのゲン」で被爆者の白骨死体の額部分に同じ文字が描きこまれるシーンを読み、ようやく私は「怨」という文字の読みと意味を知った。
さらにずっと後になって、私はその写真が水俣病患者の皆さんを写したものだということを知った。
1970年、水俣病の加害企業であるチッソが大阪で株主総会を開いた時、はるばる水俣から株主としての患者の皆さんが乗りこんできたワンシーンだったのだ。
お遍路に使用する白装束に「怨」の黒旗、そして総会の場で死者を鎮魂するための御詠歌を朗々と合唱する姿。
それは一方的に虐殺され、何の武器も持たされないままに闘わざるを得なかった庶民が、国と巨大企業に向けて突き刺した精一杯の哀しい刃だっただろう。
経済の最先端の場で、被害者のやり場のない感情を、祖先より伝来された習俗に乗せて真正面から叩きつける。
それは物質次元においてはまったく無力な抵抗だったかもしれないが、心の次元においては凄まじい威力を発揮したに違いない。
この「怨」の幟旗による抗議を発案したのが「苦海浄土」の石牟礼道子であったらしいことを、さらにずっと後になってから知った。
石牟礼道子追悼記事:しゅうりりえんえん
そして長らく子供の頃見た「怨」の写真と見分けがついておらず、混同していた写真がもう一種あることも、後に知った。
その写真には笠を被った黒装束のお坊さんたちと、お坊さんたちが掲げた黒旗が写っていた。
その黒旗にも、白い文字が染め抜かれていた。
「呪殺」
文字は確かにそう読めた。
「公害企業主呪殺祈祷僧団」
その異様な名を持つ一団のことを、私が改めて認識したのは90年代半ば頃のこと。
ぼちぼち神仏関連の書籍などを、やや真面目に読み始めていた頃のことだった。
何冊かの書籍の中に、その名と、行動の概略が記載されていた。
高度経済成長の暗黒面である公害が深刻さを増す70年代、ごく短い期間ながら、その一団は確かに実在したという。
名の通り「公害加害企業主」に対し、呪殺祈祷を執り行うことを目的とする。
僧侶4人、在家4人。
宗派としては、真言宗と日蓮宗の混成部隊。
主要メンバーは、真言宗東寺派の松下隆洪、日蓮宗身延山派の丸山照雄、在家の梅原正紀。
墨染めの衣に笠という雲水スタイル。
行脚は日蓮宗方式で題目と太鼓、そして呪殺祈祷は真言宗の儀軌にのっとって行われたという。
イタイイタイ病、新潟水俣病などの、当時リアルタイムで公害が発生していた各地をめぐり、公害企業を前にして護摩壇を築き、実際に呪殺祈祷を執り行った。
「呪殺」
そう大書した黒旗をなびかせる一団は、傍目には不気味で物騒極まりないものだったが、「不能犯」ということで、警察の取り締まり対象にはならなかったという。
法的には「呪っても人を殺すことはできない」し、呪殺祈祷の対象も「公害企業主」という表現なので個人を特定しておらず、名誉棄損にすらならないのだ。
その上、行脚や祈祷もデモではなく宗教行為ということで取り締まりの対象にできない。
このように転戦した僧団は、現地の民衆からは共感を持って迎えられ、警察は面くらい、祈祷対象の公害企業からは冷笑と困惑で迎えられた。
当然ながら、仏教サイドからは「慈悲を根本にする仏教が、呪殺とはなんたることか」という批判が上がり、祈祷僧団に参加した僧が宗派から処分を受けたりもした。
ただ、真言宗は「教義的に問題無し」と、お咎めは無かったという。
どうしても気になるのは、呪殺祈祷の「成果」だ。
色々調べてみたが、今一つはっきりしない。
はっきりとはしないのだが、どうやら対象になった「公害企業主」関係者の中に、この祈祷との関連を思わせる時期に、何らかの不幸はあったようだ。
しかし、大企業の「企業主」ともなれば、ある程度年配の人間が多いことだろうから、一定期間中に何事かが生じたとしても、不思議は無いとも言える。
これは、まさに「表現」の領域の事象だと思う。
公害企業によって生み出された地獄が現にそこに存在し、多くの罪無き民衆が虐殺されている。
そこに権威ある修法で呪殺祈祷ができる僧がおり、民衆の「怨」を背負って実際に儀式を執り行った。
そして、法的な意味での「証拠」は存在しないが、祈祷との関連を思わせるタイミングで、企業側に何らかの不幸が生じた(という伝聞情報がある)。
表現がなされ、あとは受け手に解釈が委ねられたのだ。
こうした事象を、一笑にふす人もいるだろうし、一種の「救い」を感じる人もいるだろう。
私はと言えば、あえて率直に述べるならば、悲惨な公害の現場にあって、このような一団が存在してくれたことに共感せざるを得ない。
これが武器・凶器や毒ガスなどを使用したテロであれば断固否定するが、大聖不動明王から借り受けた法の力による「慈悲行」であるならば、なんら問題は無いと考える。
何よりも、密教というものが、理不尽極まりない文明の暗黒面に対抗できる「表現手段」を持っていたことに、豊かな文化的蓄積の凄みを感じる。
この特異な僧団については、以下の書籍に当事者の梅原正紀の手で、詳細な記録が残されている。
興味のある人は一読されたし。
●「終末期の密教―人間の全体的回復と解放の論理」稲垣足穂 梅原正紀(編)
これらの事実関係は、90年代以降にようやく知った。
しかしそれは、幼い頃に受けた強烈な印象、記憶の底に刻まれた画像に導かれてのことであったことは、間違いない。
2019年05月21日
70年代、記憶の底8
幼児の頃、私は昼間の時間帯を祖父母の家で過ごしていた。
当時気になって仕方がなかったのが、祖父母宅の裏に控える、古墳のような小山のことだった。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
ある時期から、そんなことを考えるようになっていた。
山の周囲のことはよく知っていた。
いつも遊んでいたし、子供なので大人の通らない「隙間」も通路として利用できた。
だからある意味では周囲の大人たち以上に、場所と場所のつながりについて、詳しく知っていたと言える。
しかし小山そのものは、子供が勝手に登ることは禁じられていたので、幼い私の中では巨大な空白地帯として、好奇心を刺激されていた。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
時間の経過とともに、子供の空想は着々と蓄積されていく。
祖父の作った木彫りの妖怪たちも、その空想の格好の材料となった。
蓄積された空想は噴出口を求めてマグマのようにエネルギーをためこんで行く。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
「山の向こうには何があるのだろう?」
ある日、幼い私は決然として裏山に登り始めたのだった……
祖父母宅のあった地域は、広々とした平野に位置していた。
あちこちに溜池や小山が散在しており、幼児の私が登り始めた裏山も、そんな中の一つだった。
岩が多く、樹木はまばらで、植物相はさほど深くない。
その裏山も、子供が登れないことは無かったが、幼児であれば安全とは言いがたい。
それでも私は登らなければならなかった。
その時をおいて「山の向こう」に辿り着くことはないと確信しきっていた。
今となっては自分自身にも意味不明の、幼児特有の頑固さでそう思い定めていた。
家の裏に迫った岩と岩の隙間の、子供の目には道らしく見える所を「ここが入り口か」と勝手に判断して、私は登り始めた。
潅木の枝の下をくぐり、草のにおいをかぎながら、どんどん先へと進んでいく。
木や草や岩のトンネルを抜ける道行きは、最初は少し怖かったが、すぐに面白さの方が上回った。
登れば登るほどトンネルは延びていくようで、また少し怖くなり、後悔し始めていたが、もはや後には引けない。
怖いのと同時に、この状況をドキドキしながら面白がっている自分もいて、とことん進まなければ気がすまなくなっていた。
それからどれぐらい登ったことだろう、時間にして見れば十数分、あるいはほんの数分のことだったかもしれないが、幼児にとっての主観的な時間経過はとてつもなく長かった。
茂みのトンネルを抜け、視界が急に開けてきた。
そこは静かな木立の中だった。
しんと白っぽく時間が止まり、足元の下草を踏む音が、カサカサと耳に響いてきた。
一体ここはどこなのかと、魅入られたようにトコトコと前進する幼児の私。
自分はついに「山の向こう」へ辿り着いたのか?
そんな期待とともに歩を進めてみると、意外な風景が目の中に飛び込んできた。
そこは墓地だった。
観音さんの御堂の上にあり、私もよく遊びに行っていた村のお墓だったのだ。
大人になった今考えてみれば、不思議なことは一つもない。
私は祖父母の家から小山の反対側にある墓地まで、山頂を経由して辿り着いたに過ぎない。
しかし子供心には、それは異様な出来事に感じられた。
山はどこまでも続き、見知らぬ世界につながっているはずなのに、まっすぐ登った結果が自分の知っている場所になるのは不思議でならなかった。
子供なりの世界観では、とても納得のいかない現象に思えたのだ。
納得はいかなかったけれども、私は自分の身に超常現象が起こったような気がして興奮した。
何かこの世の大切な秘密事項の一端に触れたつもりになり、大変満足だった。
そして自分の「大冒険」を噛み締めながら、観音さんから帰るいつもの道を通って、祖父母宅へ急いだのだった。
このようにして、私はおそらく人生初の「入峰修行」を経験した。
今から考えるとあぶない話だ。
山が小さかったから良かったものの、もし普通の山に勝手に入り込んでいたら、立派な神隠し事件になっていたかもしれない。
しかし私は幸運にも無事生還し、それで味をしめてしまった。
思い定めて山を登るときの酩酊感覚、登りきって新しい展望が開けたときの興奮は忘れがたく、以後の私は登山に関心を持ち続けることになる。
登山部などに所属し、本格的に学ぶことは無かったが、中高生の頃の学校の裏山から始まり、近場の登山コース、果ては熊野の山々まで、時間を作っては歩き回るようになった。
大人になるに従って山の標高や日程はハードなものになっていったが、登る途中の興奮は幼い頃の「小さな冒険」とあまり変わっていないような気がする。
山の向こうには何がある?
その空想の答えも、まだ出ていない。
この稿を書くにあたって、私は祖父母宅周辺の様子をGoogle Earthの航空写真で確認してみた。
あの懐かしい家はもう無いのだが、幼い頃の記憶とそれほど違わない、相変わらずの村の風景があった。
記憶と違っているのは、昔よりお墓の部分が広がって、茂みが少なくなっている所ぐらいか。
確かめてみれば、幼児の頃の「冒険」の舞台は、本当に小さな小さな、山と呼べるかどうかもわからない平野の「ふくらみ」に過ぎなかった……
当時気になって仕方がなかったのが、祖父母宅の裏に控える、古墳のような小山のことだった。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
ある時期から、そんなことを考えるようになっていた。
山の周囲のことはよく知っていた。
いつも遊んでいたし、子供なので大人の通らない「隙間」も通路として利用できた。
だからある意味では周囲の大人たち以上に、場所と場所のつながりについて、詳しく知っていたと言える。
しかし小山そのものは、子供が勝手に登ることは禁じられていたので、幼い私の中では巨大な空白地帯として、好奇心を刺激されていた。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
時間の経過とともに、子供の空想は着々と蓄積されていく。
祖父の作った木彫りの妖怪たちも、その空想の格好の材料となった。
蓄積された空想は噴出口を求めてマグマのようにエネルギーをためこんで行く。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
「山の向こうには何があるのだろう?」
ある日、幼い私は決然として裏山に登り始めたのだった……
祖父母宅のあった地域は、広々とした平野に位置していた。
あちこちに溜池や小山が散在しており、幼児の私が登り始めた裏山も、そんな中の一つだった。
岩が多く、樹木はまばらで、植物相はさほど深くない。
その裏山も、子供が登れないことは無かったが、幼児であれば安全とは言いがたい。
それでも私は登らなければならなかった。
その時をおいて「山の向こう」に辿り着くことはないと確信しきっていた。
今となっては自分自身にも意味不明の、幼児特有の頑固さでそう思い定めていた。
家の裏に迫った岩と岩の隙間の、子供の目には道らしく見える所を「ここが入り口か」と勝手に判断して、私は登り始めた。
潅木の枝の下をくぐり、草のにおいをかぎながら、どんどん先へと進んでいく。
木や草や岩のトンネルを抜ける道行きは、最初は少し怖かったが、すぐに面白さの方が上回った。
登れば登るほどトンネルは延びていくようで、また少し怖くなり、後悔し始めていたが、もはや後には引けない。
怖いのと同時に、この状況をドキドキしながら面白がっている自分もいて、とことん進まなければ気がすまなくなっていた。
それからどれぐらい登ったことだろう、時間にして見れば十数分、あるいはほんの数分のことだったかもしれないが、幼児にとっての主観的な時間経過はとてつもなく長かった。
茂みのトンネルを抜け、視界が急に開けてきた。
そこは静かな木立の中だった。
しんと白っぽく時間が止まり、足元の下草を踏む音が、カサカサと耳に響いてきた。
一体ここはどこなのかと、魅入られたようにトコトコと前進する幼児の私。
自分はついに「山の向こう」へ辿り着いたのか?
そんな期待とともに歩を進めてみると、意外な風景が目の中に飛び込んできた。
そこは墓地だった。
観音さんの御堂の上にあり、私もよく遊びに行っていた村のお墓だったのだ。
大人になった今考えてみれば、不思議なことは一つもない。
私は祖父母の家から小山の反対側にある墓地まで、山頂を経由して辿り着いたに過ぎない。
しかし子供心には、それは異様な出来事に感じられた。
山はどこまでも続き、見知らぬ世界につながっているはずなのに、まっすぐ登った結果が自分の知っている場所になるのは不思議でならなかった。
子供なりの世界観では、とても納得のいかない現象に思えたのだ。
納得はいかなかったけれども、私は自分の身に超常現象が起こったような気がして興奮した。
何かこの世の大切な秘密事項の一端に触れたつもりになり、大変満足だった。
そして自分の「大冒険」を噛み締めながら、観音さんから帰るいつもの道を通って、祖父母宅へ急いだのだった。
このようにして、私はおそらく人生初の「入峰修行」を経験した。
今から考えるとあぶない話だ。
山が小さかったから良かったものの、もし普通の山に勝手に入り込んでいたら、立派な神隠し事件になっていたかもしれない。
しかし私は幸運にも無事生還し、それで味をしめてしまった。
思い定めて山を登るときの酩酊感覚、登りきって新しい展望が開けたときの興奮は忘れがたく、以後の私は登山に関心を持ち続けることになる。
登山部などに所属し、本格的に学ぶことは無かったが、中高生の頃の学校の裏山から始まり、近場の登山コース、果ては熊野の山々まで、時間を作っては歩き回るようになった。
大人になるに従って山の標高や日程はハードなものになっていったが、登る途中の興奮は幼い頃の「小さな冒険」とあまり変わっていないような気がする。
山の向こうには何がある?
その空想の答えも、まだ出ていない。
この稿を書くにあたって、私は祖父母宅周辺の様子をGoogle Earthの航空写真で確認してみた。
あの懐かしい家はもう無いのだが、幼い頃の記憶とそれほど違わない、相変わらずの村の風景があった。
記憶と違っているのは、昔よりお墓の部分が広がって、茂みが少なくなっている所ぐらいか。
確かめてみれば、幼児の頃の「冒険」の舞台は、本当に小さな小さな、山と呼べるかどうかもわからない平野の「ふくらみ」に過ぎなかった……
2019年05月22日
70年代、記憶の底9
私が弱視であることが判明したのは三歳の頃。
おそらく生まれつきの低視力だったはずだ。
記憶の中に、母親が異常に気付いた時の情景が残っている。
* * *
自宅の居間である。
私は一人、背もたれにカエルの顔のついた幼児用のイスに座り、低めのタンスの上のテレビを見上げている。
番組は「仮面ライダー」か何かだったのではないかと思う。
家事をしていた母が、ふとテレビを見上げる私の視線に違和感を持つ。
顔を斜めにして見ていることに気付いたのだ。
その時、何らかの会話があったと思うのだが、内容までは覚えていない。
* * *
事実関係として正確かどうかはわからない。
全く別のシーンが混入しているかもしれないが、ともかく私の記憶の中では「そういううこと」になっている。
その後、眼科を受診した結果、低視力の遠視で、右眼が左眼の半分程度しか視えていないことがわかった。
比較的視えている左ばかり使う癖が出来ていたのだ。
さっそく眼鏡を作ることになった。
眼鏡をかけ始めた頃、食事時に私が言ったセリフを、母親から何度も聞かされた。
「ごはんのつぶつぶが見えるわ!」
それまで視えていなかったのだ。
子供の弱視は、数としてはけっこう多いという。
生まれつきそれが常態の幼児にとっては、「あまり視えていない」ということ自体が認識できない。
なるべく発達の初期段階で発見し、治療を行うのが望ましいが、全く視えていないわけではないので、年齢が低いほど周囲に気付かれにくい傾向がある。
時代と共に幼児向けの検査方法が発達し、認識も広まってはいるが、見過ごされるケースもまだまだ多い。
私の場合、幸運は二つあった。
一つは、親が早い段階で気付いて眼科に連れて行ってくれたこと。
目の前の茶碗のごはんつぶが視えないくらいの弱視でも、眼鏡をかければそれが視える。
この「実際に視える」という体験が、発達の初期段階であるほど視力回復を促すのだ。
そしてもう一つの幸運は、視力矯正の良い先生に巡り合えたことだ。
三歳で眼鏡をかけることになった私は、訓練のため頻繁に眼科に通うことになった。
長じてはあまり医者にかからなくなったので、これまでの人生で受診回数をカウントすると、眼科がダントツで多いだろう。
幼児のことなので、検査する方も大変だったと思う。
何しろ左右の区別もあやうい年齢である。
視力検査票の輪っかマークの欠けている方向は、一々手に持ったマークで再現させなければならない。
今は幼児向けの検査方法も進歩して、あの欠けた輪っかマークをドーナツに見立て、周囲に動物などのキャラクターを配して「ドーナツたべたのだあれ?」という質問形式になっているようだ。
しかし、四十年以上前にはまだそんな工夫はなかった。
小さい子の集中力はそんなに長く続かないので、うまくおだてながら進めなければならないのは、今も昔も変わらない。
大人になった今の私は、幼児向けのお絵かき指導の機会があるたびに、小さい頃対応してくれた眼科の先生方のことを思い出すのだ。
検査と訓練の過程で、幼い私はある「技」を習得していった。
視力検査表を、実際に見えている以上に読み取ることができるようになったのだ。
度重なる検査に飽き飽きしていた幼い私は、さっさと段取りを終わらせたいという思いや、少しでも現状を楽しもうという思い、「いい結果が出ると周りの大人たちが喜ぶ」という観察から、鮮明には見えていない検査表のマークを推測で読み取る技術を、なんの悪気もなく密かに磨き続けていた。
具体的には、鮮明に見えているマークを焦点をぼかすことによって「ぼんやりとしたシルエット」に変換し、その印象と比較検討することによって小さくて見えにくいマークを読み取り、また検査表全体のマークの配置具合などからも総合的に判断する、というものである。
言葉で説明するとものすごく難しそうに感じるかもしれないが、幼い子供はこのような「ゲーム」には驚くべき能力を発揮することがあるものだ。
視力検査というのはあくまで「視力の実態」を知るためのものだというような大人の常識は、幼児には通用しない。
当時の私にとっての視力検査は、完全に「高得点を上げるためのゲーム」と化しており、頭を高速回転させながら、実際より少しずつカサ上げされた検査結果を生み出していたのではないだろうか。
幼い頃身につけたこの「技」は、けっこう習い性になってしまっている。
数年前、久々の視力検査を受けたとき、無意識のうちに「技」を使ってしまっている自分に気づき、内心で苦笑した。
(あかんあかん! ゲームと違うんやから普通にせなあかんがな!)
以後は普通に見えるものは見えるといい、見えないものは見えないと答えた。
受診時の検査は眼科の皆さんの手練でなんとかクリアできるとして、日常的な矯正訓練にはもう少し「本人が積極的にとりくむ」要素が必要になる。
とくに幼児の場合は「楽しさ」が無いとなかなか続かない。
私の場合、どうやらこの子はお絵かきが好きらしいということで、そうした要素が取り入れられた。
今でも覚えているのは、塗り絵などの線画にトレシングペーパーをかぶせ、上からなぞっていくというもの。
今考えると、お手本の上に半紙をかぶせてお経や仏画を書き写す「写経」「写仏」の稽古そのものだ(笑)
がんばって描くとほめてもらえるのがうれしくて、この訓練はわりと好きだった。
単なる「なぞり書き」と侮るなかれ、あらゆる表現はモノマネから始まる。
お手本をトレスして完成された線を体感するのは、絶好のスタートダッシュになるのだ。
幼児の頃の「得意」は、要するに「自分で好きでやっている」回数とイコールだ。
私は四才から保育園に通っていたが、同年代の中では(実際大した差はないのだが)「絵がじょうず」ということになり、その体験が、はるかに時が流れた現在につながっている。
卵と鶏のように因果関係は微妙だが、弱視であったことが「絵描き」の私を作ったということもできるのだ。
左右の視力にアンバランスがあり、とくに右目の訓練が必要だったので、視える方の左眼に「アイパッチ」を貼ることを勧められた。
しかしさすがに幼児にとってはストレスが大きく、嫌がってあまり貼らなかったと記憶している。
このアイパッチによる矯正訓練は今でも行われているようだ。
子供向けの絵画指導をしていると、たまに片目に貼っている子を担当する機会がある。
(無理のない程度にがんばれ!)
そんな風に心の中でエールを送っている。
視力矯正が始まった幼児の頃から、母親はよく駅前市場で鶏の肝焼きを買ってくるようになった。
これを食べると目にいいからと勧められるうちに、あの香ばしくほろ苦い味が好きになった。
肝が目に良いというのは民間療法で昔から言われてきたことだと思う。
数年前、雑賀衆に関する本を色々漁っている時、神坂次郎の小説の中に「雑賀衆が夜目遠目を効かせるために、地元の魚の肝を食べている」という描写を見つけたことがある。
「へ〜、やっぱり肝って眼にいいのか?」と、昔を思い出したものだ。
ビタミン類の補給などで、それなりに科学的根拠はあるのだろう。
当時、眼鏡をかけている子は非常に少なかった。
通っていた保育園、幼稚園では他に見かけなかったし、もっと同級生の増えた小学校でも、入学当初は学年に何人もいなかったと記憶している。
今のようにスマホは無かったが、TVもマンガもゲームも、視力を消耗するホビーは既に人気で、さらに学年が進んで学習時間が増えるとともに、徐々に近視で眼鏡をかける子は増えていったが、幼児の頃から弱視が原因で眼鏡をかける子は、今よりもっと少なかったはずだ。
これは「時代と共に弱視の子が増えている」というより、検査法の発達により、早期発見のケースが増えたためではないかと思う。
全ての年齢層で眼鏡をかけている人が増え、日常生活の中で接する機会が多くなると、眼鏡は「数ある個性の中の一つ」としいう認識が定着する。
今はもう、大人も子供も眼鏡をかけているからと言って特別視されることは少ないだろう。
しかし私が幼い頃は、まだ認識がそこまで至っておらず、大人にも子供にも珍しがられることが多かった。
もっとはっきり書くと、好奇の目で見られ、バカにされることがけっこうあった。
就学前の段階では、好奇の目はさほどでもなかった。
保育園や幼稚園の子供同士では、「見慣れない容姿」を素朴に珍しがることはあっても、それが侮蔑につながることは少ない。
むしろ、大人の好奇に満ちた視線に違和感を持っていた記憶がある。
小学生になってからは、眼鏡をかけていることを理由にバカにされるケースが出てきた。
眼鏡がなぜ侮蔑の対象になるのか、改めて考えると不思議だが、今ならわりと冷静に分析できる。
さほど深い理由などなく、マンガなどの眼鏡キャラの類型を勝手に当てはめ、「がり勉」とか「運動音痴」とかのイメージを重ねることがきっかけになったのではないかと思う。
とくに「メガネザル」と呼ばれるのが悔しかった。
ずっと長くその名詞を耳にすると構えてしまうところがあったが、ある時期から「それはメガネザルに対して失礼だ」と気付き、こだわりは解消された。
ただ、「バカにされる」と言っても単発で、継続的、集団的ないじめに発展することが無かったのは幸運だった。
それもせいぜい3〜4年くらいまでのことで、5〜6年になって眼鏡をかける人数が増えてくると、反比例するようにからかいの対象になることは減っていった。
結局私は、幼児の頃から中学にかけて、ずっと眼鏡をかけていた。
訓練の甲斐もあって徐々に視力は回復し、中二ぐらいで眼鏡をはずした。
左右の視力のアンバランスは残しつつも、高校生の頃には裸眼で右1.5、左2.0ほどになり、むしろ眼はよく見える方になった。
高校以降の知り合いは、私に対して「眼鏡をかけている」というイメージは持っていないだろう。
元は遠視だったこともあり、老眼になるのは早いだろうと、ずっと言われてきた。
実際四十を過ぎたあたりから、そろそろ老眼鏡の世話になり始めている。
これから私は、ゆっくり「視えない」という原風景に還っていくのだろう。
別に何かを失うわけではない。
元いた所へ戻るだけだ。
色々あったが、今はもう、幼い頃眼鏡をかけていたことが原因で色々言われたことについて、痛みも怒りもほとんど感じない。
無知無理解がそれをさせたのだということで、一応受け止められている。
むしろ、子供の頃からマイノリティの気持ちを理解し得る立場にありながら、自分自身がやらかしてしまった差別の数々に、心の痛みを感じる。
やってしまった当時は悪気が無く、それが差別であると思いもしなかった行為の数々が、どれだけ残酷であったかということに、ずっとあとになってから気付き、愕然としている。
気付かないだけで他にもまだまだやってしまっているのだろうと思うと、後悔に身悶えしたくなる。
そんなことが度々ある。
なんのことはない、私も「やっている側」だったと気付いた時、幼少時の痛みの大半は消えた。
差別やいじめは、人間の原始的な感情の領域に根差しているので、そうした衝動が心の中に生じること自体は止め難い。
それを実際の発言や行動に移す前に自省、自制することは可能なはずで、なにより大切なのは知識、正しい認識だ。
眼鏡をかけた児童が、以前ほど好奇の目で見られなくなったように、様々な差異が少しずつ「当り前の風景」の中に入っていけるよう、まずは知ることだ。
今後の人生でも、私は無知無理解から繰り返しやらかしてしまうだろうけれども、それを減らす努力はしなければならない。
記憶の奥底に今も確かに存在する弱視児童の自分に対し、せめて恥ずかしくないふるまいを。
おそらく生まれつきの低視力だったはずだ。
記憶の中に、母親が異常に気付いた時の情景が残っている。
* * *
自宅の居間である。
私は一人、背もたれにカエルの顔のついた幼児用のイスに座り、低めのタンスの上のテレビを見上げている。
番組は「仮面ライダー」か何かだったのではないかと思う。
家事をしていた母が、ふとテレビを見上げる私の視線に違和感を持つ。
顔を斜めにして見ていることに気付いたのだ。
その時、何らかの会話があったと思うのだが、内容までは覚えていない。
* * *
事実関係として正確かどうかはわからない。
全く別のシーンが混入しているかもしれないが、ともかく私の記憶の中では「そういううこと」になっている。
その後、眼科を受診した結果、低視力の遠視で、右眼が左眼の半分程度しか視えていないことがわかった。
比較的視えている左ばかり使う癖が出来ていたのだ。
さっそく眼鏡を作ることになった。
眼鏡をかけ始めた頃、食事時に私が言ったセリフを、母親から何度も聞かされた。
「ごはんのつぶつぶが見えるわ!」
それまで視えていなかったのだ。
子供の弱視は、数としてはけっこう多いという。
生まれつきそれが常態の幼児にとっては、「あまり視えていない」ということ自体が認識できない。
なるべく発達の初期段階で発見し、治療を行うのが望ましいが、全く視えていないわけではないので、年齢が低いほど周囲に気付かれにくい傾向がある。
時代と共に幼児向けの検査方法が発達し、認識も広まってはいるが、見過ごされるケースもまだまだ多い。
私の場合、幸運は二つあった。
一つは、親が早い段階で気付いて眼科に連れて行ってくれたこと。
目の前の茶碗のごはんつぶが視えないくらいの弱視でも、眼鏡をかければそれが視える。
この「実際に視える」という体験が、発達の初期段階であるほど視力回復を促すのだ。
そしてもう一つの幸運は、視力矯正の良い先生に巡り合えたことだ。
三歳で眼鏡をかけることになった私は、訓練のため頻繁に眼科に通うことになった。
長じてはあまり医者にかからなくなったので、これまでの人生で受診回数をカウントすると、眼科がダントツで多いだろう。
幼児のことなので、検査する方も大変だったと思う。
何しろ左右の区別もあやうい年齢である。
視力検査票の輪っかマークの欠けている方向は、一々手に持ったマークで再現させなければならない。
今は幼児向けの検査方法も進歩して、あの欠けた輪っかマークをドーナツに見立て、周囲に動物などのキャラクターを配して「ドーナツたべたのだあれ?」という質問形式になっているようだ。
しかし、四十年以上前にはまだそんな工夫はなかった。
小さい子の集中力はそんなに長く続かないので、うまくおだてながら進めなければならないのは、今も昔も変わらない。
大人になった今の私は、幼児向けのお絵かき指導の機会があるたびに、小さい頃対応してくれた眼科の先生方のことを思い出すのだ。
検査と訓練の過程で、幼い私はある「技」を習得していった。
視力検査表を、実際に見えている以上に読み取ることができるようになったのだ。
度重なる検査に飽き飽きしていた幼い私は、さっさと段取りを終わらせたいという思いや、少しでも現状を楽しもうという思い、「いい結果が出ると周りの大人たちが喜ぶ」という観察から、鮮明には見えていない検査表のマークを推測で読み取る技術を、なんの悪気もなく密かに磨き続けていた。
具体的には、鮮明に見えているマークを焦点をぼかすことによって「ぼんやりとしたシルエット」に変換し、その印象と比較検討することによって小さくて見えにくいマークを読み取り、また検査表全体のマークの配置具合などからも総合的に判断する、というものである。
言葉で説明するとものすごく難しそうに感じるかもしれないが、幼い子供はこのような「ゲーム」には驚くべき能力を発揮することがあるものだ。
視力検査というのはあくまで「視力の実態」を知るためのものだというような大人の常識は、幼児には通用しない。
当時の私にとっての視力検査は、完全に「高得点を上げるためのゲーム」と化しており、頭を高速回転させながら、実際より少しずつカサ上げされた検査結果を生み出していたのではないだろうか。
幼い頃身につけたこの「技」は、けっこう習い性になってしまっている。
数年前、久々の視力検査を受けたとき、無意識のうちに「技」を使ってしまっている自分に気づき、内心で苦笑した。
(あかんあかん! ゲームと違うんやから普通にせなあかんがな!)
以後は普通に見えるものは見えるといい、見えないものは見えないと答えた。
受診時の検査は眼科の皆さんの手練でなんとかクリアできるとして、日常的な矯正訓練にはもう少し「本人が積極的にとりくむ」要素が必要になる。
とくに幼児の場合は「楽しさ」が無いとなかなか続かない。
私の場合、どうやらこの子はお絵かきが好きらしいということで、そうした要素が取り入れられた。
今でも覚えているのは、塗り絵などの線画にトレシングペーパーをかぶせ、上からなぞっていくというもの。
今考えると、お手本の上に半紙をかぶせてお経や仏画を書き写す「写経」「写仏」の稽古そのものだ(笑)
がんばって描くとほめてもらえるのがうれしくて、この訓練はわりと好きだった。
単なる「なぞり書き」と侮るなかれ、あらゆる表現はモノマネから始まる。
お手本をトレスして完成された線を体感するのは、絶好のスタートダッシュになるのだ。
幼児の頃の「得意」は、要するに「自分で好きでやっている」回数とイコールだ。
私は四才から保育園に通っていたが、同年代の中では(実際大した差はないのだが)「絵がじょうず」ということになり、その体験が、はるかに時が流れた現在につながっている。
卵と鶏のように因果関係は微妙だが、弱視であったことが「絵描き」の私を作ったということもできるのだ。
左右の視力にアンバランスがあり、とくに右目の訓練が必要だったので、視える方の左眼に「アイパッチ」を貼ることを勧められた。
しかしさすがに幼児にとってはストレスが大きく、嫌がってあまり貼らなかったと記憶している。
このアイパッチによる矯正訓練は今でも行われているようだ。
子供向けの絵画指導をしていると、たまに片目に貼っている子を担当する機会がある。
(無理のない程度にがんばれ!)
そんな風に心の中でエールを送っている。
視力矯正が始まった幼児の頃から、母親はよく駅前市場で鶏の肝焼きを買ってくるようになった。
これを食べると目にいいからと勧められるうちに、あの香ばしくほろ苦い味が好きになった。
肝が目に良いというのは民間療法で昔から言われてきたことだと思う。
数年前、雑賀衆に関する本を色々漁っている時、神坂次郎の小説の中に「雑賀衆が夜目遠目を効かせるために、地元の魚の肝を食べている」という描写を見つけたことがある。
「へ〜、やっぱり肝って眼にいいのか?」と、昔を思い出したものだ。
ビタミン類の補給などで、それなりに科学的根拠はあるのだろう。
当時、眼鏡をかけている子は非常に少なかった。
通っていた保育園、幼稚園では他に見かけなかったし、もっと同級生の増えた小学校でも、入学当初は学年に何人もいなかったと記憶している。
今のようにスマホは無かったが、TVもマンガもゲームも、視力を消耗するホビーは既に人気で、さらに学年が進んで学習時間が増えるとともに、徐々に近視で眼鏡をかける子は増えていったが、幼児の頃から弱視が原因で眼鏡をかける子は、今よりもっと少なかったはずだ。
これは「時代と共に弱視の子が増えている」というより、検査法の発達により、早期発見のケースが増えたためではないかと思う。
全ての年齢層で眼鏡をかけている人が増え、日常生活の中で接する機会が多くなると、眼鏡は「数ある個性の中の一つ」としいう認識が定着する。
今はもう、大人も子供も眼鏡をかけているからと言って特別視されることは少ないだろう。
しかし私が幼い頃は、まだ認識がそこまで至っておらず、大人にも子供にも珍しがられることが多かった。
もっとはっきり書くと、好奇の目で見られ、バカにされることがけっこうあった。
就学前の段階では、好奇の目はさほどでもなかった。
保育園や幼稚園の子供同士では、「見慣れない容姿」を素朴に珍しがることはあっても、それが侮蔑につながることは少ない。
むしろ、大人の好奇に満ちた視線に違和感を持っていた記憶がある。
小学生になってからは、眼鏡をかけていることを理由にバカにされるケースが出てきた。
眼鏡がなぜ侮蔑の対象になるのか、改めて考えると不思議だが、今ならわりと冷静に分析できる。
さほど深い理由などなく、マンガなどの眼鏡キャラの類型を勝手に当てはめ、「がり勉」とか「運動音痴」とかのイメージを重ねることがきっかけになったのではないかと思う。
とくに「メガネザル」と呼ばれるのが悔しかった。
ずっと長くその名詞を耳にすると構えてしまうところがあったが、ある時期から「それはメガネザルに対して失礼だ」と気付き、こだわりは解消された。
ただ、「バカにされる」と言っても単発で、継続的、集団的ないじめに発展することが無かったのは幸運だった。
それもせいぜい3〜4年くらいまでのことで、5〜6年になって眼鏡をかける人数が増えてくると、反比例するようにからかいの対象になることは減っていった。
結局私は、幼児の頃から中学にかけて、ずっと眼鏡をかけていた。
訓練の甲斐もあって徐々に視力は回復し、中二ぐらいで眼鏡をはずした。
左右の視力のアンバランスは残しつつも、高校生の頃には裸眼で右1.5、左2.0ほどになり、むしろ眼はよく見える方になった。
高校以降の知り合いは、私に対して「眼鏡をかけている」というイメージは持っていないだろう。
元は遠視だったこともあり、老眼になるのは早いだろうと、ずっと言われてきた。
実際四十を過ぎたあたりから、そろそろ老眼鏡の世話になり始めている。
これから私は、ゆっくり「視えない」という原風景に還っていくのだろう。
別に何かを失うわけではない。
元いた所へ戻るだけだ。
色々あったが、今はもう、幼い頃眼鏡をかけていたことが原因で色々言われたことについて、痛みも怒りもほとんど感じない。
無知無理解がそれをさせたのだということで、一応受け止められている。
むしろ、子供の頃からマイノリティの気持ちを理解し得る立場にありながら、自分自身がやらかしてしまった差別の数々に、心の痛みを感じる。
やってしまった当時は悪気が無く、それが差別であると思いもしなかった行為の数々が、どれだけ残酷であったかということに、ずっとあとになってから気付き、愕然としている。
気付かないだけで他にもまだまだやってしまっているのだろうと思うと、後悔に身悶えしたくなる。
そんなことが度々ある。
なんのことはない、私も「やっている側」だったと気付いた時、幼少時の痛みの大半は消えた。
差別やいじめは、人間の原始的な感情の領域に根差しているので、そうした衝動が心の中に生じること自体は止め難い。
それを実際の発言や行動に移す前に自省、自制することは可能なはずで、なにより大切なのは知識、正しい認識だ。
眼鏡をかけた児童が、以前ほど好奇の目で見られなくなったように、様々な差異が少しずつ「当り前の風景」の中に入っていけるよう、まずは知ることだ。
今後の人生でも、私は無知無理解から繰り返しやらかしてしまうだろうけれども、それを減らす努力はしなければならない。
記憶の奥底に今も確かに存在する弱視児童の自分に対し、せめて恥ずかしくないふるまいを。